主日礼拝

主イエスの弟子となる

「主イエスの弟子となる」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: イザヤ書 第6章1-8節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第5章1-11節
・ 讃美歌:206、113、519

個人的思い出
 珍しく最初に個人的な思い出を語らせていただきたいのですが、私は1984年に神学校を卒業して伝道者となりました。つまり丁度25年前です。その25年前のこの2月第一の主の日、私は、4月から赴任することが決まっていた、当時の富山総曲輪教会で礼拝の説教をしました。教会の皆さんへの顔見せと、前任の牧師との引き継ぎのために招かれたのです。その前任の牧師とは、先週ここで説教をしていただいた大久保照先生です。大久保先生との交代の準備のために富山へ行ったのです。その時日本海側は大雪でした。土曜日に着いた時はまだ晴れ間があり、雪の積った町はきれいだなあと思ったのですが、月曜日から一泊でその地域の牧師会があり、そこにも顔見せで参加してから東京に帰る日には、そんな呑気なことを言っていられない大変な大雪となりました。当時「白山」という特急が上野と富山を6時間で結んでいたのですが、それが新潟県内の雪のために運休となったために、西回りの名古屋行きの特急で米原へ出て東海道新幹線で帰ることになりました。しかしその特急も名古屋からの到着が遅れに遅れ、本来午後1時過ぎぐらいに折り返し富山を発車するはずの特急の出発が夕方になり、米原までの間も遅れが重なり、ようやく東京に着いた時にはもう在来線の終電の時刻を過ぎていました。大変な所に遣わされるのだなあという思いを持ったものです。それが25年前の丁度2月初めのことですが、そのような出会いを経て赴任した富山の教会で、4月の最初の主の日、つまり着任して初めての礼拝で語った説教の聖書箇所が、本日と同じ、ルカによる福音書第5章1~11節でした。つまりこの箇所は、私が伝道者として教会に赴任して最初に説教をした箇所なのです。そういう意味で、私にとってとても思い出の深い箇所です。あれから25年が経とうとしています。25年は自慢できるほど長い期間ではありませんが、それでも「四半世紀」というある区切りではあります。この間教会に仕えてくることができたことを感謝しつつ、私にとって思い出深いこの箇所を本日皆さんとご一緒に読みたいと思います。

準備段階
 ここは、シモン・ペトロを始めとする何人かの漁師たちが、主イエスの最初の弟子となったことを語っている所です。最後の11節に「そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った」とあります。すべてを捨ててイエスに従った「彼ら」とは誰だったのでしょうか。ここに名前が挙げられているのは、シモン・ペトロと、10節にあるゼベダイの子のヤコブとヨハネです。その三人の名前のみをルカは語っているのですが、マルコによる福音書第1章を読むと、最初に主イエスの弟子になったのは、シモンとその兄弟アンデレ、そしてゼベダイの子ヤコブとヨハネという二組の兄弟だったと語られています。「彼ら」とはこの四人だと考えてよいでしょう。本日の話には二艘の舟が出てきますが、シモンの持ち舟である一艘にはシモンとアンデレが、もう一艘にはヤコブとヨハネが乗っていたと考えることができます。
 マルコとマタイにおいては、主イエスが彼らに「わたしについて来なさい」と声をかけると、彼らは直ちに全てを置いて従っていったと語られています。それは非常に唐突な話であり、主イエスに一言声をかけられただけで全てを捨てて従って行くことなどどうしてできるのだろうか、という疑問を誰もが抱きます。その点ルカはここで、彼らが主イエスの弟子となったいきさつを語ってくれています。ペトロたちに何が起ったのか、彼らはどのようにして主イエスの弟子となったのかをここから知ることができるのです。しかもルカは、この出来事には準備段階があったことを語っています。ルカにおいては、シモン・ペトロはこの第5章で初めて主イエスと出会ったのではないのです。シモンが既に主イエスを知っていたことが示されているのは上の段の4章38節です。主イエスはある安息日にカファルナウムの町の会堂での礼拝において教えを語り、悪霊に取りつかれた人を癒されました。その礼拝の後、シモンの家にお入りになったのです。それはシモンが主イエスを家に招いたということです。シモンはカファルナウムの会堂において既に主イエスの教えを何度か聞き、感銘を受けたので、ある安息日の礼拝の後、自分の家に主イエスを招いてさらに教えを聞き、もてなしをしようとしたのです。しかし生憎この日、シモンのしゅうとめが高い熱を出して苦しんでいました。彼の家に来られた主イエスは彼女の病気を癒して下さったのです。このようにルカは既に、シモンが主イエスの教えを聞き、自分の家に招き、身内の病気を癒していただいたことを語ってきたのです。それが、本日の箇所の出来事への備えとなっているのです。

シモンの舟に乗り込むイエス
 さて5章に入り、主イエスはゲネサレト湖畔に立っておられました。これはいわゆる「ガリラヤ湖」のことです。カファルナウムもその湖畔の町です。すると主イエスのもとに、教えを聞こうとして群衆が押し寄せて来ました。そこで主イエスはシモンの舟に乗り込み、岸から少し漕ぎ出させて、舟の中に腰を下ろし、そこから岸辺にいる群衆たちに教えをお語りになったのです。主イエスが舟の中から岸辺にいる人々に語るという場面は、マルコ福音書の3章や4章にもあります。マルコの3章には、それは群衆に押しつぶされないためだったと書かれています。押し寄せる人々から少し距離を取って教えを語るのにこれは丁度よいやり方だったのです。主イエスは二艘の舟をご覧になり、その内のシモンの舟に乗り込まれたとあります。それも、先ほどのことからうなずけます。既に知り合いであり、家に招かれたこともあるシモンの舟を選んで乗り込まれたのです。この時シモンたちは、その後に語られているように、夜通し漁をして引き上げてきた所でした。くたくたに疲れていたと思います。しかし他ならぬ主イエスの頼みなので、喜んでお乗せして、漕ぎ出したのです。主イエスはこうしてシモンの舟から群衆に教えを語られたのです。

神の言葉
 群衆は「神の言葉」を聞こうとして押し寄せて来た、と1節にあります。これはとても大事な言葉です。イエスの語るもの珍しい教えをではなくて、神の言葉を聞こうとして人々は集まったのです。ルカがこのように語るのは、群衆が主イエスの教えをどのように理解していたかを示すためではありません。ここでの主人公はシモン・ペトロです。スポットライトは常にシモンに当てられているのです。ですからルカがここで言おうとしているのは、シモンが、主イエスの語られる言葉を「神の言葉」として聞いたということです。しかもシモンはこの時、その神の言葉を、群衆たちとは違う場所で聞いています。つまり主イエスは彼の舟に乗っておられるのです。群衆は岸で聞いています。しかしシモンは、説教壇として用いられた自分の舟の中で、主イエスのすぐ間近で、言わばかぶりつきの特等席で、神の言葉を聞いたのです。

お言葉ですから
 さて主イエスは話し終えるとシモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」とおっしゃいました。このまま沖へ出て魚を漁れ、というのです。これは非常に唐突な、また常識外れの話です。そのことは、シモンが「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」と言っていることから分かります。ベテランの漁師であるシモンたちは、夜通し苦労して漁をしてきたのです。そのように漁は夜中にするものであって、こんな真っ昼間に網を降ろしたって魚が取れるはずはないというのがプロの漁師であるシモンたちの常識でした。主イエスが言われたことは、プロの目から見たら笑止千万、素人のたわ言なのです。しかしシモンは、主イエスが言われたことを拒もうとしてこう言ったのではありませんでした。「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と彼は言ったのです。ここにシモンの主イエスに対する深い尊敬と、その語られるお言葉の力への信頼あるいは期待が示されています。「他ならぬあなたのお言葉ですから、おっしゃる通りにしてみましょう」と彼は言ったのです。主イエスのお言葉、それは神の言葉です。シモンは主イエスの言葉を神の言葉として聞いてきたのです。その主イエスのお言葉だから、漁は自分の専門分野であり、プロである自分の意見や常識には反することだけれども、主イエスがお語りになる神の言葉に聞き従おうという姿勢をシモンは持っていたのです。

圧倒的な恵み
 彼らが主イエスのお言葉通りに沖へ漕ぎ出して網を降ろしてみると、「おびただしい魚がかかり、網が破れそうに」なりました。そこでもう一艘の舟に助けを求めたところ、二艘の舟に魚がいっぱいになり、その重さで沈みそうになりました。このもう一艘の舟に、ゼベダイの子ヤコブとヨハネが乗っていたものと思われます。プロの漁師である彼らが一晩中苦労して様々な工夫をしても何もとれなかったのに、主イエスのお言葉通りにしたところ、二艘の舟が溢れるほどの大漁になったのです。シモンたちがこの大漁によて体験したことは、第一に、主イエスがお語りになる神の言葉の持つ力です。神の言葉は人間の語るどのような言葉よりもはるかに大きな力を持っており、また人間のあらゆる知識、常識を超えてみ業を行うことのできるということを彼らは体験したのです。そして彼らがこの大漁によって体験したのもう一つのことは、主イエスの言葉に従うところに与えられる神の圧倒的な恵みです。一晩中苦労して漁をしても何もとれなかった彼らは、この朝深い落胆の中にあったでしょう。苦労が報われず、全くの徒労に終ったのです。そういう時の疲労感は、成果が上がった時よりも何倍も大きいものです。そしてこのことは即彼らの収入に響くわけですから、経済的な不安、家族の生活を思っての心配も大きかったでしょう。そのような落胆、疲労、不安を抱えていたシモンが、主イエスの願いを聞いて再び舟を出し、さらにはお言葉に従ってもう一度沖へ出て網を降ろすことまでしたのは驚くべきことです。私たちならばどうしたでしょうか。「私は今大変なんです、苦しみや不安が山ほどあるんです。先生の話を聞いている余裕なんかありません」と断ったとしても不思議はないのです。しかしシモンは、主イエスをお乗せして漕ぎ出し、さらに、「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と言ったのです。その結果、この奇跡的大漁が与えられました。彼らはそこに、主イエスを通して与えられた神様の大いなる恵みを体験したのです。それは、ただ魚が沢山とれてよかった、ラッキーだった、というような薄っぺらいご利益としての恵みではありません。魚の重みで舟が沈みそうになったということが象徴的に示しているように、自分のちっぽけな舟には入り切らないような圧倒的に大きな恵みが押し寄せてきて、その重さで舟が沈みそうになる、そのように自分の人生を揺さぶられるような恵みを彼らは体験したのです。この神様の圧倒的な恵みの体験が、彼らが主イエスの弟子となるための備えとなったのです。

罪深い者
 けれども、ここが肝心な所なのですが、シモンたちは、この恵みの体験によって弟子になったわけではないのです。この奇跡的大漁、神様の圧倒的な恵みの印を見たシモンは、「イエス様ありがとうございます。私はあなたの弟子になります」と言ったのではありませんでした。そうではなくて、彼は主イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と叫んだのです。これは深い恐れの表明です。シモンは、自分が今主イエスと共に舟に乗っていることに深い恐れを覚えたのです。それは、自分が罪深い者だからです。「わたしから離れてください」というのは、「私は罪深い者だから、あなたのみ前に立つことなどできません」ということです。なぜみ前に立つことができないのか、それは相手が神だからです。罪深い者は、生ける神様のみ前に立つことはできないのです。つまりシモンはここで初めて、自分が生けるまことの神のみ前にいることに気付いたのです。そしてそのことが分かると同時に、自分が罪深い者であることに気付いたのです。彼はこの時まで、平気で主イエスの前に立っていました。主イエスを家にお招きし、また自分の舟にお乗せして、間近に座ってみ言葉を聞いていたのです。「他ならぬあなたのお言葉ですからやってみましょう」なんて言っていたのです。それは、主イエスのことを、神の言葉を語ってくれる、立派な、尊敬すべき先生ではあっても、まことの神であられるとは思っていなかったということです。しかし今、この奇跡的大漁によって神様の圧倒的な恵みによって魂を揺さぶられる体験をしたことによって彼は、今自分はまことの神ご自身のみ前にいるのだということに気付かされたのです。そしてそれと同時に、自分は神様の前に平気な顔で立っていられるような者ではない、罪深い者だと気付かされ、ひれ伏さずにはおれなかったのです。

恐れるな
 主イエスはひれ伏したシモンに、「恐れることはない」と語りかけました。「恐れるな」というのは、生けるまことの神様との出会いにおいて深い恐れに陥った罪深い人間に対して、神様が語りかけ、彼らをみ前に立たせて下さる言葉です。クリスマスの物語の中で天使がザカリアや、マリアや、羊飼いたちに対してこれを語りました。今主イエスご自身がシモンにそのように語りかけ、彼をご自分の前に立たせて下さるのです。それは決して、「あなたは罪深い者なんかじゃない、そんなに謙遜しなくていい」という話ではありません。シモンは、そしてシモンのみでなく私たちは、確かに、神様の、主イエスのみ前に立つことに深い恐れを抱かずにはおれない罪深い者なのです。私たちはよく、自分は罪人だと言いますけれども、本当にそう思っていることはあまりないのではないでしょうか。しかし、自分は罪人だと、多少なりとも謙遜な思いで語っている私たちは、自分自身のことが本当には分かっていないのです。シモンも、私たちも、主イエスが「恐れることはない」と語りかけて下さらなければ、み前に立つことはできない罪人なのです。つまりこの「恐れることはない」は、「あなたの罪は赦された」という宣言です。私たちに対する主イエスのお言葉として正確に言い直すならば、「わたしがあなたの罪を全て引き受け、それを背負って十字架にかかって死んだ。それによってあなたの罪は赦された。だから恐れることはない」ということです。主イエスはこのことのためにこの世に来て下さり、十字架の死への道を歩んで下さったのです。

主イエスの招き
 「恐れることはない」と語りかけて下さった主イエスは、それに続けて、「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」とおっしゃいました。これは主イエスの招きの言葉です。「人間をとる」というのが、人間を魚のように獲物として取って食うことでないことは明らかです。彼ら自身が、罪を赦され、生けるまことの神であられる主イエスと共に生きる者とされた、その恵みへと主イエスが人々を招いて下さる、そのみ業のために主が彼らを用いようとしておられるのです。このお言葉によってシモンとその仲間たちは、舟を陸に引き上げ、すべてを捨てて主イエスに従ったのです。主イエスの弟子になったのです。私たちも、これと同じことを体験することによって、主イエスの弟子、つまり信仰者となるのです。そこにおいて決定的なことは、生けるまことの神であられる主イエスと出会い、自分の罪をはっきりと知らされ、その罪の赦しの宣言を聞き、主イエスの招きを受けることです。私たちもそのようにして、主イエス・キリストに従う弟子、信仰者となるのです。

備えとなること
 この決定的なことが起るための備えとなることがあるとルカはここで語っています。シモンは会堂で主イエスの教えを聞き、感銘を受け、尊敬の思いを抱き、家に招きました。そのことによって、身内の病気を癒していただくという恵みを体験しました。そのような出会いがあったから彼は、一晩中働いて徒労に終った疲れと不安の中でも、主イエスのために自分の舟を提供し、それによって、主イエスのお語りになる神の言葉を、かぶりつきの特等席で聞くことができました。そのように神の言葉を聞いていった彼は、自分のプロとしての常識を捨てて主イエスのお言葉に聞き従い、再び網を降ろしたのです。その結果、舟が沈みそうになるほどの奇跡的な大漁になりました。神様の圧倒的な恵みが自分に押し寄せて来て、人生を揺さぶられるような体験をしたのです。これらのことは、私たちが、信仰を求め、聖書に親しみ、教会の礼拝において神の言葉を聞いていく中で、様々な形で体験することです。シモンと同じように私たちも、み言葉を聞いて感銘を受け、恵みを体験し、その中で、他ならぬイエス様の言葉だから、自分の考えや常識よりもそれに従おうという思いをも与えられていくのです。そこには信仰の芽生えがあると言うことができるでしょう。けれどもそれらのことは全て、決定的な出会いへの備えです。決定的なことは、主イエス・キリストにおいて生けるまことの神と出会うことなのです。そしてその出会いが起る時、私たちは、自分が主イエスの前に立つことのできない罪深い者であることを示されるのです。主イエスを尊敬し、恵みを受け、み言葉に従おうとする思いの全てを打ち砕かれて、一人の罪人として主イエスの前にひれ伏すのです。主イエスを敬い、み言葉に従おうとする思いなどの、私たちの中に生じる信仰の芽生えは全て、このことのための備えです。そして私たちが一人の罪人として主イエスの前にひれ伏す所に、主イエスの、「恐れることはない」というみ声が響きます。主イエスの十字架の死と復活によって成し遂げられた罪の赦しの恵みの宣言が与えられるのです。この赦しのみ言葉と共に、主イエスからの招きが与えられます。本当の信仰とは、主イエスの招きに応えていくところに与えられるものです。つまり私たちが主イエスを尊敬し、主イエスを自分のもとに招き、そのみ言葉に従って生きようとする、そういう私たちの思いにおける信仰は、本当の信仰が与えられていくための備えなのです。シモンのことで言うならば、彼が主イエスを心から尊敬して、自分のプロとしての常識を捨ててまでみ言葉に従って網を降ろしたことは、なかなか真似の出来ない見上げた信仰的行いですが、彼はそれによって弟子となったのではなかった。そのような信仰的行いの結果として彼は、神様の圧倒的な恵みを体験し、その中で自分の罪を示され、その罪の赦しのみ言葉を聞いたのです。本当の信仰は、そのように自分の信仰によって生きようとしている私たちが、自分の罪を示され、打ち砕かれて、主イエスのみ前にひれ伏し、そこに主イエスによる罪の赦しの恵みを与えられて、主の招きに従っていくところにこそ与えられるのです。
 誤解をしないでいただきたいのですが、主イエスを敬い、み言葉を熱心に聞き、それに従っていこうとする私たちの信仰的行為に意味がないとか、そんなものはいらないと言っているのではありません。そういうことの中でこそ、神様の大きな恵みを知ることができるのだし、人生を揺さぶられるような体験が与えられていくのです。しかしそのような信仰的行為に生きることが即ち主イエスの弟子となること、信仰者となることなのではないということをルカはここで語っているのです。それらは、主イエスの弟子となることの、まことの信仰に生きる者となることの、備えとして大いに意味があります。しかし信仰の神髄は、生けるまことの神であられる主イエス・キリストとの出会いと、そこで与えられる罪の赦し、そして主イエスによる招きにこそあるのです。私たちは礼拝に集い、神の言葉の説教と聖餐とによってこのことを繰り返し体験しつつ、主イエスの弟子として生きていくのです。

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