夕礼拝

すべての徳に心を留める

「すべての徳に心を留める」  伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書: イザヤ書 第26章7-15節
・ 新約聖書: フィリピの信徒への手紙 第4章8-9節
・ 讃美歌 : 7、402

手紙の結び
 本日朗読された、フィリピの信徒への手紙第4章8節-9節は、先週取り上げた直前の箇所、第4章2-7節と共に、手紙の結びの部分です。これら二つの箇所は、本来は別々の手紙であって、つながっていませんでした。フィリピの信徒への手紙は、3通の別々の手紙が編集されたものです。これまでの箇所にはその内の2通のものが登場しています。フィリピの信徒への手紙第1章1節~3章1節前半までが一つの手紙の内容です(手紙A)。第3章1節後半~4章1節までがもう一つの手紙の内容です(手紙 B)。そして、手紙Aに続く結びが先週取り上げた箇所で、手紙Bの結びが、本日の箇所なのです。つまり、これまで読んで来た箇所には、別々に記された二通の手紙の内容が並べられた後、それらの手紙の結びが並べて記されているのです。それぞれの結びは、それぞれの手紙で語られていた教えを受けて、その教えを具体的な生活の中で実践して行くための勧めが語られているのです。手紙Aには、キリスト者がへりくだって同じ思いを抱き、喜び、感謝、祈りに生きるようにと教えられていました。その結びには、4章2節にあるように、教会内にあった二人の婦人の対立に目を留めつつ、二人が同じ思いとなり、教会員が二人を支えるようにとの勧めが語られていたのです。それと同じように、本日取り扱う箇所には、手紙Bにおいて教えられていたことが実際に生きられるための勧めが語られているのです。手紙AとBは別々の手紙ですが、それらは全く別のことを見つめているのではありません。手紙Aの最後に「そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」とあり、手紙Bの最後に「そうすれば、平和の神があなたがたと共におられます」とあるように、両者は共に、主にある平和が実現されて行くために不可欠なことなのです。本日は、手紙Bで語られていた教えが具体的に生きられて行くためにパウロが語る勧めに聞きつつ、主にある平和の実現への道を示されたいと思います。

手紙の内容
さて、ここで、手紙Bで、どのようなことが見つめられていたのかを簡単に振り返ってみたいと思います。3章の2節には「あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに警戒しなさい」とあります。この手紙が敵対者たちとの対立を前提に語られていることが分かります。具体的には、当時、教会には、ユダヤ教の律法に従って割礼という儀式を受けていたユダヤ人キリスト者と、割礼を受けていない異邦人キリスト者がいたのです。そして、ユダヤ人キリスト者の中には、割礼を根拠にして、自分たちは既に救いにおいて完全な者となっていると主張する人々がいたのです。この人たちは、割礼という自分が所有しているものによって神様の救いを獲得ていると主張し、自らを誇っていたのです。そのような人々に対してパウロは、自分自身も、かつてはユダヤ教の律法を誰よりもしっかりと守っていていたことを語りつつ、「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです」と語ります。それは、本当に人を義とするのは、自分が律法に従っていることによるからではなく、キリストへの信仰によるからに他なりません。つまり、パウロは、信仰とは、自分が持っているもの、獲得したものによってではなく、外から与えられるものによって救いにあずかって行くことなのだと言うのです。だからこそパウロは、3章の12節で「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっている訳ではありません。何とかして捕らえようと努めているのです」と語り、信仰者たちは、救いの完成を未だ得ていないのであり、この世で不完全であるが、終わりの日に神様によって与えられる救いの完成を目指して走っていると語ったのです。そして、最後の所、4章1節には、「このように主によってしっかりと立ちなさい」とあるのです。このしっかりと立つとは、自分の力で良い業を実行して行くようにということではありません。キリストによって与えられる恵みを受けつつ、将来の救いの完成を目指して、信仰者として歩み続けるということです。そして、そのようにして「しっかりと立つ」ためにどのように歩むべきかが本日の箇所には語られているのです。

この世の徳
パウロは、8節で「終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい」とあります。ここには信仰者に限らず、誰もが良く生きて行く時の規準として納得するような徳目が羅列されています。実は、ここに挙げられている徳目の言葉は、どれも聖書に特有のものではありません。むしろ、福音について語られる時には用いられない言葉なのです。「真実なこと」と「気高いこと」と言う言葉は、パウロの記した文書の中ではこの箇所だけに用いられています。「正しいこと」と言う言葉が、徳目として語られるのはここだけです。更に、「愛すべきこと」と「名誉なこと」と訳されている言葉も、ここだけでしか用いられないのです。つまり、ここに羅列されている徳目は、聖書の教えを語る時に用いられる概念ではなく、むしろ、当時のヘレニズム社会における一般的な道徳や哲学における徳目を示す言葉なのです。ここで、どの徳目についても、「すべて~」と言われています。つまり、ここには、教会が建てられている世において一般的に良いとされていることはどんなことでも心を留めるようにと勧められているのです。これは意外なことかもしれません。そもそも、パウロは、この箇所以外では、一般的に用いられる徳目の言葉を用いませんでした。それは、この世の一般的な道徳に適した生き方をすることと信仰の喜びが混同されることを防ぐためと考えられます。世の徳目に生きることが神様の救いと結びつけられると、自分の力でこの世の価値観における良い生き方をすることが即ち信仰者として生きることのように考えられてしまうことがあるのです。そこでは人間の良い行いによる義が主張されることにもなるのです。それは、パウロが伝えようとしたキリストの恵みにあずかって行くことによって与えられる救いではありません。しかし、パウロは、ここで、はっきりとこの世の徳目を語っているのです。つまり、信仰者としてしっかり立とうと思う時に、それらを無視することが出来ないのです。

福音の実行
 もちろん、パウロは、このようなこの世の徳目を列挙することによって、人間の業による義を求めることを勧めているのではありません。そのことは、9節を見れば明らかです。パウロは9節で、「わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい」と語っています。ここでは、直接受けたものであれ間接的に示されたものであれ、パウロが示している信仰者の歩みを実行しなさいと言うのです。つまり、パウロは、3章17節で「わたしに倣う者となりなさい」と語っていたように、自身が示す、福音の生き方に倣うことを勧めているのです。そして、ここで、パウロが示しているキリスト者の生き方、即ち、福音の教えとは、先ほど見つめた、手紙Bの内容からすれば、自分が不完全であることを示されつつ目標を目指して走ることに他なりません。更に、手紙Aで見つめられていたことも含めるのであれば、キリストが私たちのためにへりくだって十字架の死を死んでくださったように、お互いにへりくだることによって同じ思いとなりなさいと言うことです。 ここで、8節にあるこの世の徳目については、「心を留める」とあり、9節にある福音に生かされることについては「実行しなさい」と言われていることに注目したいと思います。「心に留める」という言葉は、心を配る、勘定に入れるといった意味があります。それに対して「実行する」とははっきりとその教えに生きることを意味します。つまり、福音の教えの方がより直接的に、それに生かされるようにと勧められていることが分かります。そして、それを実行して行くことは、この世の徳目を軽視することにはならず、むしろ、それに心を配るようになるのです。この世の徳目は信仰者が一番に求めるべきことではありません。しかし、キリストの救いに与って喜びと感謝をもって歩む中で、これらのことに心を配るようになる。この世の徳目に生きることを、自分の力による義とするのではなく、喜びと感謝の内に、この世の徳目にも心を留めるようになるのです。福音に生かされる中で、この世の倫理が正しく位置づけられるのです。 つまり、信仰者は自分の義を立てるためではなく、福音に生かされて行く中で、この世の徳にも目を留めて行くことが大切なのです。

信仰における誤った態度
パウロがここで、福音の教えに生きて行くことと共に、この世の倫理、道徳に目を留めるようにと語るのには理由があります。この時、自分たちは完全な者となっていると主張していた人々は、この世の倫理、道徳からは解放されていると考えていたのです。それが発展して、この世の徳目など顧みない不道徳な歩みをしていた人々もいたようなのです。このような感覚は、私たちには馴染みがないかもしれません。私たちは、どこかで、信仰生活とは、この世の徳目をしっかり守って行くことだと感じているのではないかと思います。信仰を、清く正しい生活、人々から見て立派な歩みをすることと混同してしまうのです。ですから、信仰者と言えば、信仰をもたないで歩む人々よりもより倫理的な人だと言う考えも生まれます。そして、信仰者の不道徳な側面を見たりすると、あの人は、信仰者なのに何であのようなことをするのかと批判したりします。そのような意味では、私たちは、はるかに、良い行いをしていくことによって、どこかで自分の義を立てようとするという形の信仰における誤った態度に陥ってしまう危険性があると言って良いかもしれません。しかし、フィリピ教会の中には、自分は完全に神様の救いにあずかっているのだから、この世の業は顧みないという別な形での、信仰における誤った態度が支配していたのです。
この世の徳目と信仰に生きることが結びつけられてしまう時にしばしば起こるのは、自分の業を他者と比べ、自分がより神様との良い関係にあるという考えです。しかし、だからと言って、信仰者は、自分は、完全な救いを得ていると考えて、この世の徳目を全く無視して歩むことも、信仰者として正しいものではないことは言うまでもありません。

自分と他者との区別
これら二つの態度の誤った態度の中には共通する姿勢があります。それは、信仰によって自分と他者とを区別し、信仰をもたない人々よりも一段上に立とうとする姿勢です。信仰によって、他の人々よりもより倫理的な生き方をしているのだと言う形であるにせよ、信仰によって自分は神様との関係において特別な境地に達したのだから、この世の徳目は無視して良いのだということであるにせよ、そこでは、自分以外の人々と自分を区別して、自分が一段上に立とうとしているのです。このような姿勢は、信仰者と信仰をもたない者と言うことの間でだけ起こることではありません。信仰者同士の間でも起こることです。事実、フィリピ教会の中の対立は、割礼を受けているかどうかということにおいて自分を誇ると言うことが起こっていたのです。人間は、自分を人よりも良い位置にいたいという思いから高ぶる思いや自分を誇る思いに捕らえられることがあります。ここでは、信仰をも、自分と他者を区別し、自らを完全なものとして誇るための手段として用いようとする態度が見つめられているのです。もちろん、キリスト者、信仰者とされることは、キリストの救いにあずかることであり、信仰の無かった時とは違いがあります。そして、信仰者と信仰をもっていない人々の間には違いがあるのです。しかし、その違いは、人間が、それを自分の徳目のように所有し、自らを他者に対して誇るための手段と出来るようなものではないのです。

  へりくだり、悔い改める歩み
キリストと共にへりくだること、自身の不完全さを見つめつつ救いを求めて走り続けること、この二つが福音にあずかった者に対する大切な教えでした。この二つのことに生かされて行くことが、パウロが語る、キリストの救いにあずかった者の歩みの中心なのです。しかし、私たちの信仰生活は、福音に生かされていながら、これとは異なるものに陥ってしまいやすいのです。そもそも、この二つのことに生かされて行く場合に、自分を誇り高ぶる姿勢は生まれるはずがありません。しかし、信仰生活によって自分を誇り、高ぶるという福音に生きることとはおよそ異なる、それとは正反対の姿勢が生まれて来ることがあるのです。この世の徳目に生きることと信仰生活を混同することにおいても、この世の徳目から自由にされたと主張して歩むことにおいても、信仰を自分と他者とを区別し、自らを誇るために用いてしまうのです。そして、そこでは、信仰の違いを理由にした激しい対立も生まれますし、周囲の信仰を持たない人々との間や、同じ信仰に生かされている人々との間に隔たりを作り出してしまうことがあるのです。
そして、そのような誤った姿勢が生まれる背後にあるのは、人間が自らの力で、しっかり立とうとする思いであると言って良いでしょう。自分で救いを獲得しようとし、人と比べ、自分の完全さを求めるようになるのです。しかし、それは、パウロが言うような意味において、信仰に基づいて、しっかり立っているとは言えないのです。そこでは、人間の目から見て、どれだけ信仰的に熱心な歩みがなされていたとしても、実際は、信仰によって争いや対立が生じるのです。信仰者は絶えず、キリストのへりくだりに自分の罪の赦しがあることを示されて、自らの罪を悔い改めて、キリストによる救いを求めながら、キリストに倣いへりくだって行くことが大切なのです。

主にある平安
パウロは、最後に、「そうすれば、平和の神が共におられます」と語ります。私たちが信仰における誤った姿勢に陥るのではなく、パウロが示す福音に生きる歩みを実行しつつ、世の徳目にも心を留める歩みがなされる所には、神が共にいてくださり、それ故に平和も訪れるのです。根本的に、キリストに倣ってへりくだり、そのことの中で世の徳目が生きられて行く時、つまり、真に自分が置かれている世にあって、そこで、キリストに倣い仕え合うことに生かされて行く時、世の徳目が人間の力による義になることもなく、神の救いを誤った形で主張することによって世の徳目を無視することもなくなるのです。そこでは、人々が自分と他人を区別し、高ぶり、互いに誇り合うこともなくなるでしょう。つまり、ここで、すべての徳に心を留めていくということは、福音に生かされる人が信仰を自らの誇りのためのものとするのではなく、自らの不完全さを示されながら、主の救いを求めつつ、真に自らが置かれた世の人々に仕えて行くということに他ならないのです。そして、それこそ、パウロが語るしっかりと立つということなのです。そこには、真の平和が与えられて行きます。信仰者としての基本、福音が示す生き方を実行しつつ、そこで、尚、この世の徳目に目を留めて行く者でありたいと思います。

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