「言葉と心と思いを一つに」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書; エレミヤ書 第32編36-40節
・ 新約聖書; コリントの信徒への手紙一 第1章10-17節
・ 讃美歌 ; 337、392、411
問題に満ちた教会
礼拝において、コリントの信徒への手紙一を読み始めていますが、この手紙を読むことは、正直言ってかなりしんどいことです。と言うのは、既に何度か申しておりますように、この手紙には、教会の中に起ってきた様々な問題、トラブル、罪のことが語られ、指摘されているからです。その中には、性的倫理の乱れということもあります。そのようなことが、生まれたばかりのキリスト教会において既にあったということをこの手紙から知らされるのです。これは私たちの信仰にとってつまずきとなることです。私たちは、教会は、少なくとも初期の、主イエスの時代からあまり時を経ていない教会は、信仰が力強く生きづいているすばらしい共同体だった、と考えたいし、そうあって欲しいと思うのです。そして、私たちも、なかなかその最初の頃の教会のようにはいかないが、できるだけそれに近付けるように努力していくのだ、と考えたいのです。ところがこの手紙を読むと、どうも教会は最初から問題をかかえ、罪があり、いろいろなもめごとがあったようだ、ということが分かります。これはちょっと困るなと私たちは思うのです。私たちの間にいろいろなトラブルやもめごとがあるのは、ある程度仕方がない、なにせ私たちは主イエスから二千年も隔たった時代を、また教会が誕生した地から遠く離れた、キリスト教信仰が全くと言っていい程根付いていない日本という国にいるのだから、理想的にいかないのは当然だ。でも、最初の頃の教会までそうであっては困る…。これは皆さんもお気づきのように大変身勝手な理屈ですが、私たちはそんなふうに思っているのではないでしょうか。そしてさらに、信仰の書である聖書の中にこのような教会の問題、トラブルが語られているのはますます困る。せっかく聖書を読んで信仰を学ぼうとしている人にこれでは失望を与えてしまうではないか、とも思うのではないでしょうか。コリントの信徒への手紙は、一も二も、どちらもそういうところがあります。まことに問題に満ちた教会の姿が語られているのです。それゆえに、この手紙を読むことはなかなかしんどいことです。
本当の品格
最初にこのことについて、少し考えてみたいと思います。このような手紙が聖書の中にあることの意味は何か、ということです。このことから分かるのは、聖書は教会を、理想的な、何の問題もないものとして飾り立てるような書き方をしていない、ということです。つまり聖書は、教会の宣伝のための文書ではないのです。普通、人間がある団体を興したり、あるいはある宗教を始めて、その土台となるような文書を書くとしたら、その団体のよい面、優れた所、その教えを信じることによって得られるメリット、ご利益のようなことを書き連ねるでしょう。しかし聖書はそういう性格の本ではないのです。これは旧約聖書から既にそうでした。旧約の時代には、イスラエルの民が神様の民、つまり新約における教会に当たるわけですが、旧約聖書には、そのイスラエルの民の罪が、これでもかこれでもかという程に語られています。そしてその罪のゆえに、彼らが神様の怒りを受け、国を滅ぼされて失ってしまった、という歴史が語られているのです。今私たちの国には、自分の国の歴史をどのように見つめ、記述するか、という歴史認識についての問題があります。「自虐史観」などという言葉があって、自分たちの国の犯した罪や問題を取り上げて見つめることは、自分たちの国への誇りを失わせる、と批判する人々がいるのです。私は最近、今ベストセラーになっている「国家の品格」という本を読みました。この本は逆に、日本とその伝統を徹底的に賛美し、日本的伝統こそが世界を救うのだ、とまで語っています。自虐史観の対極にある考え方と言えるでしょう。そういうものと比べるなら、旧約聖書は徹底的な自虐史観です。自分たちの罪を隠したり、認めずに済ませようというのではなく、それをはっきりと見つめ、問題にしているのです。新約聖書もその流れを受け継いでおり、新しいイスラエル、新しい神の民である教会を、決して美化したり、その問題を隠して取り繕ったりはしないのです。コリントの信徒への手紙は、そのことを最もはっきりと示していると言えます。そしてこのことは、聖書の教える信仰の基本的な姿勢と深く関わっているのです。聖書は、その信仰の基本的姿勢として、自分たちの歩みのよい点だけを見つめ、自分たちの犯した罪や問題からは目を背け、なかったことのように取り繕うのではなく、それをしっかりと見つめ、悔い改めることを教えているのです。私たちはとかく、自分の罪や問題には目をつぶりたい、そんなことを見つめていると誇りを失い、希望を失ってしまう、という思いを持ちます。そして誰だって自分のことを褒めてもらうことは嬉しいし気持ちがよいですから、「国家の品格」のような本がよく売れるのは当然です。しかし私たちは、聖書から、自らの罪をきちんと見つめ、悔い改めるという信仰を、つまりみ言葉によって常に改革されていくという信仰を学んでいきたいと思います。そのような信仰こそが、本当の意味で品格のある歩みを生むのではないでしょうか。コリントの信徒への手紙を読むことにはそういう意味があるのです。
党派争い
さて、本日読む10節から、この手紙は本文に入ります。ということは、パウロが、コリント教会に起っている様々な問題、罪を指摘し、それに対する勧告を語っていく部分に入っていく、ということです。その最初の勧告が10節にこのように語られています。「さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい」。パウロがこのように言うのは、コリント教会に、11節にあるような事態が起っていたからです。「わたしの兄弟たち、実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました」。「クロエの家の人たち」についての詳しいことは分かりませんが、この人たちから、コリント教会の現状についての報告が、おそらくエフェソにいたパウロのもとにもたらされたのでしょう。そこにはそれと共に、コリント教会からのいくつかの質問、信仰に関する問い合わせも述べられていたと考えられます。その質問に答えるような書き方がこの手紙の随所に見られるのです。しかしそれらの質問に答えるよりも先に、パウロが先ず第一に語らずにおれなかったのは、コリント教会の人々の間に争いがある、ということでした。その争いの内容が12節に語られています。「あなたがたはめいめい、『わたしはパウロにつく』『わたしはアポロに』『わたしはケファに』『わたしはキリストに』などと言い合っているとのことです」。つまりこの争いは、教会の中にグループ、党派ができ、お互いが、「我々の方が正しい」と言い争っている、ということです。それぞれの党派は頭と仰ぐ指導者をいただいています。「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」というふうに、パウロ党、アポロ党、ケファ党、キリスト党という四つの党派が生まれていたのです。
パウロ党、アポロ党、ケファ党
パウロ党は、パウロを慕い、その教えを大切にして歩もうとする人々です。この教会はパウロの伝道によって基礎を据えられたのですから、パウロを慕い、信仰の師と仰ぐ人々がいたことは想像に難くありません。パウロ自身がそのような党派を作ったのではなくて、パウロが去った後、他の指導者を頭と仰ぐグループが生まれたのに伴って、このようなグループが生まれたのでしょう。パウロが去った後コリントにやって来た伝道者の代表がアポロです。この人のことは使徒言行録18章24節以下に語られています。アレクサンドリヤ生まれのユダヤ人で、聖書に詳しい雄弁家だったとあります。アレクサンドリヤは今のエジプトのナイル川の河口に発展した町で、当時の文化の中心地の一つでした。七十人訳と呼ばれる旧約聖書のギリシャ語訳もこの町で生れたのです。アポロはそのような文化都市で当時の最高の教養を身に着けた人でした。「雄弁家」とあるように、信仰を論理立てて説明し、人々を導くことに優れた力を発揮したのでしょう。彼のコリントでの活動を、使徒言行録18章27、28節はこのように語っています。「アポロはそこへ着くと、既に恵みによって信じていた人々を大いに助けた。彼が聖書に基づいて、メシアはイエスであると公然と立証し、激しい語調でユダヤ人たちを説き伏せたからである」。このアポロのもとに「アポロ党」が生まれました。アポロ先生の優れた説教、知恵に満ちた教えに敬服し、尊敬する人々が集まってグループを作ったのです。第三の党派は「ケファ党」です。ケファとは、主イエスの弟子の筆頭であったペトロのことです。ペトロがコリントに来て伝道をしたことがあったのかははっきりしませんが、主イエスの直弟子であり、初代教会の柱であったペトロの影響が、コリント教会にも及んでいたことはあり得ることです。そしてパウロの他の手紙を読むと、ペトロとパウロとの間には、信仰のあり方について、ある違いがあったことが分かります。ペトロは、旧約聖書以来のユダヤ人の伝統的な信仰と生活を尊重し、その土台の上で主イエス・キリストを信じて生きるという姿勢を取ったのに対して、パウロは、そのような伝統的儀式などから全く自由になり、主イエス・キリストを信じる信仰によってのみ救われ、神の民に加えられる、と主張しました。それゆえに、ユダヤ人でない異邦人も、割礼を受けてユダヤ人としての生活をすることなしにキリスト信者になれる、と教えていたのです。パウロのこの教えは、自らの信仰の体験に基づくことです。彼はもともとはユダヤ教ファリサイ派の指導者であり、ユダヤ人の宗教的伝統に誰よりも熱心な人だったのです。その熱心さのゆえに彼は、キリストの教会を迫害する者となりました。その彼が主イエス・キリストとの劇的な出会いによって180度の転換を与えられ、キリストの伝道者となったのです。そのような体験をしたパウロにとって、救いの根拠は、ユダヤ的伝統ではなく、あくまでもキリストの十字架の死と復活による罪の赦しを信じることでした。そのことを曖昧にする教えと彼は徹底的に戦ったのです。その後の教会の歴史はこのパウロの信仰によって切り開かれていきました。それゆえにキリスト教は全世界に広まり、私たちも、割礼を受けてユダヤ人として生活することなしに教会に加えられているのです。コリントにおける「ケファ党」がどのような主張をしていたのかは定かではありませんが、おそらくパウロの教えよりもよりユダヤ的伝統を尊重する教えが説かれていたのだろうと想像できるのです。
キリスト党
第四の党派として「キリスト党」というのがありました。ちょっと考えると、「パウロ党」「アポロ党」「ケファ党」というのは問題だが、「キリスト党」ならよいのではないか、むしろみんなが「キリスト党」になることが大事なのではないか、とも思います。しかしここでの「キリスト党」は、人間につくのではなく主イエス・キリストにつく、というものではなかったようです。彼らは確かに、我々はキリストにつく、と言っているのですが、そのキリストは、自分たちが勝手に理解したキリストだったようです。彼らは、自分たちは天からの啓示を直接霊感によって受けてキリストを示された、と言っていたのです。こういうことを言う人は今でもいます。「私はイエス・キリストと直接出会って示しを受けた」と言って新しい教えを開こうとするようなのがそれです。そういう人は聖書を自分勝手に読み、教会が伝えてきた信仰に異を唱えます。こういう、誰かが直接霊感によって示されたキリストというのは、結局人間の思いのために利用される旗印となり、一つの党派の頭になってしまうのです。そのようにならないためには、キリストを人間の勝手にではなく、正しく見つめる必要があります。それはどのようなことなのでしょうか。それについては後で触れたいと思います。
言葉と心と思いを一つに
コリント教会には、このようなグループ、党派が生まれ、お互いが自分の正しさを主張して対立していました。そのような争い、仲違いをパウロは真っ先に問題にしているのです。彼の勧告は、先ほど10節で読んだように、「皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい」ということです。「勝手なことを言わず」というと、わがままを言わず、少しは相手のことを考えなさい、という感じがしますが、ここは以前の口語訳聖書では、「みな語ることを一つにし」となっていました。この方が原文のニュアンスを伝えています。つまりこれは、語ること、言葉において一つになれ、ということなのです。それは「心を一つにし思いを一つにして」というのとつながります。つまりパウロはここで、教会の人々が、言葉と心と思いとにおいて一つとなることを勧めているのです。「仲たがいせず」とも言われています。「仲たがい」という言葉は原語でスキスマと言います。それは「破れ」という意味でもあります。あるいは、高校の世界史で習うことですが、中世のカトリック教会において、一時期、ローマ教皇に対立する教皇がフランスに立てられたことがありました。それを「教会大分裂」と言いますが、それは原語では「シスマ」と言うと習います。そのシスマは、このスキスマを英語風に読んだものです。そのようにこれは、破れ、分裂という意味の言葉です。本来一つであるはずのものが一つでおれなくなることです。パウロは教会がそのような破れ、分裂に陥ることなく、言葉と心と思いにおいて一つとなるように、と勧め教えているのです。
キリストによる一致
それでは、教会は何によって一つになるのでしょうか。教会に連なる信仰者たちの言葉と心と思いを一つにするものは何でしょうか。そのことが13節に語られていきます。「キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか」。一人の方であられるキリストが、幾つにも分けられてしまう、あなたがたの間で起っているのはそういうことだ、とパウロは言うのです。逆に言えば、教会が一つであるのは、キリストが一人であられることによるのです。教会を一つとするもの、信仰者たちの言葉と心と思いを一つにするものは、一人の方であられるイエス・キリストなのです。ですから教会における一致は、私たちがお互いの言葉と心と思いを突き合わせて、よく話し合い、お互いに譲り合い妥協し合うところに生まれるのではありません。求められているのは、人間どうしの間で折り合いをつけることではなくて、一人の方である主イエス・キリストにしっかりと結びつくことなのです。主イエス・キリストの下でこそ、一致が生まれるのです。党派が生まれ争いが起るのは、みんながイエス・キリストにしっかり結びついていないからです。キリストに結びつくのではなくて、パウロとかアポロとかケファという人間に結びつこうとするからです。あるいは自分と同じような考えを持った、気の合う者どうしで結び合おうとするからです。そこに、言葉と心と思いの分裂、不一致が生まれるのです。つまり、キリストによる一致ではなく、人間の考えや好き嫌いの思いによって仲間と一つになろうとするところに、分裂、対立が生じるのです。
十字架につけられたキリスト
しかしさらに考えなければならないのは、主イエス・キリストにしっかり結びつくとはどういうことか、です。キリストに結びつくと言っても、そのキリストが、全く自分勝手に見つめられたキリストでしかない場合もある、というのが先ほどの「キリスト党」の例です。そこでは、キリストに結びつくことも結局一つの党派を結ぶことにしかならないのです。ですから、一人の主イエス・キリストに、「正しく」結びつくことを求めていかなければなりません。キリストとの正しい結びつきとはどのようなものなのでしょうか。それが、先ほど後で触れると申しましたこと、つまり、キリストを人間の勝手にではなく正しく見つめるとはどういうことか、ということと重なるのです。そのことを考えるためのヒントになるのが、今の13節の中の、「パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか」という言葉です。ここでパウロは自分の名前をあげています。それは自分の名による党派「パウロ党」があり、「わたしはパウロにつく」と言っている人たちがいるからです。パウロにつく、と言っている人がいるようだが、いったいそのパウロとやらは、あなたがたのために十字架につけられたのか、あなたがたのために十字架につけられた方にこそ結びつくべきなのであって、そうでないパウロなどに結びついても何にもならない、ということです。つまり、パウロが主イエス・キリストにこそ結びつけ、と言っているのは、この主イエスこそ、あなたがたのために十字架にかかって下さった方だからです。パウロが見つめているイエス・キリストは、十字架につけられたキリストであって、それ以外ではないのです。そこに、イエス・キリストを人間の勝手にではなく正しく見つめるための鍵があります。キリストを正しく見つめ、正しく結びつくとは、私たちのために十字架にかかって下さったキリストを見つめ、そのキリストと結びつくことなのです。霊感によって直接キリストの啓示を受けたと言っている「キリスト党」の人々は、十字架につけられたキリストではなくて、自分たちが示されたと勝手に思っているキリスト、それはたいてい栄光に輝く、つまり自分たちをいい気持ちにさせてくれるキリスト、を見つめているのです。
罪の赦しの恵みによって
十字架につけられたキリストと結び合うことによって、私たちの言葉と心と思いは一つとされます。それは、みんなが同じことを言い、同じことを考え、同じことを思うようになる、ということではありません。なぜなら、キリストの十字架は私たちの罪の赦しのためだったからです。私たちは神様に従うことを嫌い、自分が主人になろうとしている罪人です。その罪のために神様の祝福を失っているだけでなく、隣人に対しても自分が主人となり、自分の思いを通そうとすることによって、隣人とのよい関係も失っているのです。主イエス・キリストはその私たちの罪を全て背負い、身代わりになって十字架の死刑を受けて下さることによって、私たちに赦しを与えて下さいました。十字架のキリストと結び合うときに、私たちは、自分が主人になろうとする罪から解放されるのです。そのことによって一つとされるのです。そこに生まれる群れにおいては、みんなが型にはめられた画一的な者になることなどあり得ません。むしろそこには、隣人の賜物を認め、自分とは違うその賜物を受け入れ、喜ぶということが起っていくはずなのです。そのような思いをお互いが持つところに、真実な一致が生まれます。そして、それぞれに与えられている様々に違った賜物が生かされ、それぞれに違った奉仕が喜ばれ、信仰における強調点の違いはいろいろあっても、十字架にかかって下さった主イエス・キリストに仕えることにおいて一つである交わりが生まれるのです。パウロもアポロもケファも、それぞれ主イエス・キリストを信じ、その十字架の死による救いにあずかり、それぞれに与えられた賜物によって教会に仕えている人々です。それぞれに特徴があり、優れた点があり、それが教会を豊かにしているのです。それらの人々の働きが党派争いを生んでしまうとしたら、それは教会に連なる者たちが、十字架につけられた方である主イエス・キリストにしっかりと結びついていないからです。そしてそこには、自分の罪や問題をしっかり見つめることができない、ということも起ってきます。それらから目を背け、我々は正しい、我々と違う者たちは間違っている、とヒステリックに主張するようになるのです。つまり、悔い改めに生きることができなくなるのです。私たちが、自分の罪や問題をしっかり見つめ、悔い改めつつ歩むことができるようになるのは、十字架につけられた主イエス・キリストと結び合い、主イエスによる罪の赦しの恵みをしっかりと受けることによってなのです。その恵みの中でこそ私たちは、自分の罪や問題を見据えることによっていたずらに自虐的になるのではなくて、悔い改めて、神様から与えられる希望をもって新しく歩み出していくことができます。本当に品格のある歩みが、そこにこそ与えられていくのです。