主日礼拝

主イエスの十字架

「主イエスの十字架」 牧師 藤掛 順一

・ 旧約聖書; イザヤ書、第52章 13節-第53章12節
・ 新約聖書; 使徒言行録、第2章 14節-23節

 
受難週
 本日は棕櫚の主日、今週は受難週です。主イエス・キリストがそのご生涯の最後にエルサレムに来られたことを覚えるのが、本日の棕櫚の主日です。その時に人々が棕櫚の枝、新共同訳では「なつめやしの枝」となっていますが、それを打ち振って歓迎をしたことから、この名がつけられました。そのように歓迎を受けた主イエスでしたが、その週の木曜日には捕えられ、金曜日に十字架につけられて殺されてしまいます。そして三日目の日曜日の朝、復活された、それらのことを特に覚えて歩むのがこの受難週であり、次の主の日はイースター、主の復活の記念日です。この受難週には、水木金と受難週祈祷会、また既に本日から始まっていますが、毎朝、青年会の主催による早朝祈祷会が行われます。これらの祈りの時を覚えて、どれかに出席することをお勧めします。主イエス・キリストが、私たちのために、苦しみを受け、死んで下さった、そのことをただ頭の中で思っているだけでなく、具体的に、体を運んで共に祈って覚えることは、信仰が肉となり血となっていく大切な体験となります。私も、28年前、指路教会に一人の青年として一年間通わせていただいていた時に、早朝祈祷会での奨励を担当したことをよく覚えています。

教会の最初の説教
 さて主イエスのご受難、御苦しみと死とを特に覚えるこの日の礼拝において、特別な聖書箇所を選ぶことをせずに、3月から読み始めました使徒言行録の続き、2章14~23節をご一緒に読むことにしました。ここは、ペンテコステの日に、聖霊を受けたペトロら弟子たちが人々に語った説教です。聖霊が降ったこの日に教会が誕生したわけですから、これは教会が人々に対して最初に語った言葉であると言うことができます。その中に、主イエス・キリストの十字架の死のことが既に語られているのです。教会は、聖霊の働きによって歩み出した、その最初の日から、主イエス・キリストの十字架の苦しみと死のことを、人々に語り伝えました。キリストのご受難、十字架は、教会にとって、宣べ伝えるべきことの中心にある、なくてはならない事柄です。これを語らなければ何も始まらない、そういう事柄です。教会の教えの中心は、神様に従い、隣人を愛しましょう、というような倫理的教訓ではありません。ペトロが語ったこの最初の説教に、そんなことは一言も出てきません。語られているのは、主イエス・キリストの十字架の死と、そして来週、イースターの礼拝において、24節以下を読んでいきますが、そこに述べられている復活です。それのみと言ってもよいでしょう。教会は、主イエス・キリストの十字架と復活を宣べ伝えることによって歩み出したのです。聖霊は弟子たちに、キリストの十字架と復活とを語る力を与えたのです。その最初の説教に語られている、主イエスの受難、十字架の死のことを、この棕櫚の主日の礼拝において読み、味わっていきたいのです。

イスラエルの民に
 ペトロがこの説教において、主イエス・キリストのことを語っているのは、22節以下です。「イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください」と言って、イエス・キリストのことを語り始めています。この「イスラエルの人たち」という呼び掛けには意味があります。14節の、この説教の語り出しにおいては、「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち」となっています。この呼び掛けとは明らかに区別して、「イスラエルの人たち」と語られているのです。それは、語っている相手が違うということではありません。同じ人々なのですが、しかしこの22節からは、彼らが「イスラエルの民」であることをはっきりと意識しつつ、また相手にもそのことを意識させつつ語っているのです。「イスラエルの民」、それは神様に選ばれ、神様の民とされた者たちです。契約の恵みを与えられて、神様との特別な関係に入れられている人々です。そして神様は、そのイスラエルの民に、救い主メシアを遣わすと約束して下さっていたのです。「ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です」という次の言葉は、主イエスこそこの救い主メシアであられることを告げています。それは、主イエスがその地上の歩みにおいてなさった数々の奇跡と不思議な業としるしによって証明されていたことです。そのしるしをあなたがたはしっかり見てきたはずだ、と22節の後半は語っています。主イエスのなさったこれらの奇跡は、神様が、主イエスを通してなさったことであって、主イエスこそ、神が遣わされた救い主であられることを神ご自身がしっかりと示しておられたのです。イスラエルの民は、神様の民として、この主イエスをしっかりと迎え、主イエスに聞き従うべき者たちでした。他の民はいざ知らず、イスラエルの人々だけは、主イエスを受け入れるべきだったし、そのためのしるしは十分に与えられていたのです。しかし彼らは、主イエスを受け入れず、23節の後半にあるように、「律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです」。「律法を知らない者たち」とは、ユダヤ人でない異邦人たち、具体的にはローマ帝国の総督ピラトやその手下たちです。ユダヤ人たちは、主イエスを捕え、神をけがす者として有罪を宣告し、ローマの総督ピラトに引き渡して、ローマに反逆する者として処刑してもらったのです。十字架刑は、ユダヤ人たちの死刑の仕方ではありません。ローマにおいて、奴隷を処刑する時になされたやり方です。神の民イスラエルの人々が、神様から自分たちに遣わされた救い主を、神の民でないと蔑んでいた異邦人の手に引き渡し、彼らのやり方で、しかも最も残酷で屈辱的な仕方で、処刑させたのです。主イエスの十字架の死とはそういう出来事だった、とペトロは語っているのです。つまりここには、神の民イスラエルが自分たちの神様に対して犯したとてつもない罪、自分たちが神の民であることの根底を覆してしまうような罪が指摘され、断罪されているのです。

ユダヤ人の罪?
 このように、教会が主イエス・キリストの十字架の死を語ることは、人間の、しかも神様の民とされた者たちの罪を指摘し、断罪する、ということです。教会は主イエス・キリストの十字架を、歴史上の一つの出来事として客観的に語るのではないのです。そこに人間の罪が、しかも神様に最も近いとされていた人々の罪がはっきりと、徹底的に示されている、そういうこととして十字架を語るのです。しかしそのことを誤解してはなりません。教会が主イエスの十字架を語るのは、それはユダヤ人たちの責任だとして、ユダヤ人の罪を責めるためではありません。最近も、主イエスの最後の一週間、つまり受難週の歩みを描いた「パッション」という映画が公開され、その内容が、ユダヤ人がイエスを殺した、ということを強調しており、反ユダヤ感情を煽ると批判されている、というニュースを聞きました。また私は1990年に、ドイツのオーバーアンマーガウという所で、十年に一度、村全体でキリストの受難を描いた劇を上演する、それを見る機会を得ましたが、その時に、劇の台詞の中で、イエスを十字架につけることをピラトに求めるユダヤ人たちが「イエスの血の責任は我々と子孫とが負う」と言う部分、これはヨハネ福音書に出て来る言葉ですが、それが、反ユダヤ主義に通じるとの批判があり、論争がなされているのを聞きました。十年後の2000年の上演では、結局この言葉はカットされました。これらのことの背景には、キリスト教会が二千年に亘って、主イエスを十字架につけて殺したのはユダヤ人だとして、ユダヤ人を罪人とし、迫害してきた歴史があります。しかしこれは主イエスの十字架の死についての全く間違った捉え方です。ペトロがこの説教において、イスラエルの人々が主イエスを十字架につけて殺したと言っているのは、そういうことを語るためでは全くないのです。何故ならば、そう語っているペトロ自身がユダヤ人であり、イスラエルの民の一員だからです。彼はここで、自分とは違う他の人々の罪を指摘し、断罪しているのではありません。自分もその一人であるイスラエルの民が、神の民であるにもかかわらず、神から遣わされた主イエスを拒み、殺した、その自分たちの罪をペトロは見つめているのです。しかもペトロたち十二人は、主イエスに最も近いところにいた弟子たちでした。しかし彼らは、主イエスが捕えられる時には皆、見捨てて逃げ去り、ペトロはさらに三度、主イエスのことを知らないと言ったのです。彼ら弟子たちは、主イエスを拒んだと言うよりも裏切ったのです。その罪はさらに重いと言わなければならないでしょう。ペトロが、主イエスの十字架の死を語る時に、それは、人の罪を責めることではなく、自分自身の罪、しかも自分が神様の民、神様の救いにあずかる者であることの土台を根底から覆すような重大な罪を覚え、見つめることでしかあり得ないのです。

新しいイスラエル
 しかしここでペトロは、「私たち」とは言わず、「イスラエルの人々」と語り掛け、「あなたがたは」と言っています。それは、自分は罪人ではない、と言うためではなく、この説教を聞く人々の一人一人が、この罪を自分の罪として受け止め、自分が主イエスを拒み、十字架につけて殺したのだ、ということを知るためです。教会が主イエスの十字架を語るのは、それを聞く人々一人一人が、それを自分の罪がもたらしたこととして、自分が、主イエスを受け入れずに十字架につけて殺したのだということを知るためなのです。ペトロはここでイスラエルの人々に対して語っています。神様の民として選ばれ、異邦人とは区別されたイスラエルの民が、神様が遣わされた主イエスを殺したのです。そういう意味では、異邦人である私たちは、自分は関係ない、私たちが主イエスを殺したわけではない、とも言えます。しかし、ここでペトロが呼び掛けている「イスラエルの人々」とは、一つには、自分たちは神様に最も近く、神様に従っていると思っている人々ということです。ですから私たちが、自分は神から遣わされた救い主を十字架につけるような罪人ではない、と思っているとしたら、それこそが私たちがこのイスラエルの民の一員であることを示している、と言わなければなりません。自分は罪人ではない、と思っている者たちの手によって、主イエスは十字架につけられたのです。また、「イスラエルの人々」という呼び掛けにおいて見つめられているもう一つのことは、ペトロたち十二人の弟子が、聖霊によって遣わされる者、使徒となり、その使徒たちを中心に、新しいイスラエル、新しい神様の民、即ち教会が結集されていく、ということです。ペトロはここで、旧いイスラエルであるユダヤ人たちと、新しいイスラエルである教会との両方を視野に置いて語っているのです。私たちは今こうして、新しいイスラエルである教会の礼拝に集っています。新しいイスラエルは、ユダヤ人のみでなく、全ての国の人々がそこに招かれており、私たちもその一員とされているのです。しかしこの新しいイスラエルは、旧いイスラエルと無関係なのではありません。新しいイスラエルである教会は、旧約聖書の時代に神様に選ばれた民として歩んだ旧いイスラエルの歴史を受け継いでいるのです。それは、旧いイスラエルの罪を受け継いでおり、それゆえにこそ、神様が主イエスの復活によってその罪を赦し、乗り越えて下さった、その赦しの恵みをも受け継いでいるということです。私たちは、イスラエルの民が主イエスを受け入れず殺した、その罪を自分の罪として引き継ぎ、それゆえにこそ主イエスの復活による赦しの恵みをも引き継いで、神様の救いにあずかる民として歩むのです。それが、教会に連なるということです。私たちは、主イエスを十字架につけて殺したイスラエルの罪が自分の罪であることを受け入れ、それによって、主イエスの復活による神様の救いの恵みもまた自分に与えられていることを信じて、新しいイスラエルである教会に加えられるのです。

神様のご計画
 ペトロはこのような意味を込めて、あなたがたが主イエスを十字架につけて殺したと語っています。その罪が神様の赦しの恵みによって乗り越えられ、救いが与えられていくのは、24節以下の、来週イースターの礼拝において読むところに語られていく、主イエスの復活においてです。しかし、主イエスの十字架を見つめ語っている本日の箇所においても、神様の恵みは既に見つめられ、語られているのです。それは、23節前半の「このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが」というところです。ここには、神様が、ご自身のご計画によって主イエスをあなたがたに引き渡したとあります。主イエスの十字架の死は、イスラエルの民によることだが、それはもともとは神様ご自身のご計画、ご意志によることであって、父なる神様ご自身が独り子主イエスを人々の手に引き渡されたのだ、と言っているのです。主イエスの十字架は人間の罪によることであり、私たちは、自分が神様の独り子を十字架につけて殺す程の罪人であることをこのことによって知らされるのです。しかし、その人間のとんでもない罪が、父なる神様の、私たちのための救いのみ心、ご計画の中に既に置かれていたのです。神様は私たちの罪を全てご存じの上で、独り子をこの十字架の死へと引き渡して下さったのです。主イエスの十字架は神様のご計画の内に既に定められていたのです。そのことを最もはっきりと示しているのが、本日共に読まれた旧約聖書の箇所、イザヤ書52章の終わりから53章にかけての、「主の僕の歌」と呼ばれる部分です。53章3節に、「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている」とあります。7節には、「苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった」とあります。9節にも「彼は不法を働かず、その口には偽りもなかったのに、その墓は神に逆らう者と共にされ、富める者と共に葬られた」とあります。これらは全て、主イエスのこの受難週の歩み、十字架の死の有り様そのものです。そしてこの「主の僕の歌」は、10節で、「病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ、彼は自らを償いの献げ物とした」と言っているのです。この人がこのように苦しみを受け、殺されるのは、主の望まれたこと、神様のご計画によることだったのです。それは何のためかというと、6節、「わたしたちは羊の群れ。道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた」、このことのためです。この人の苦しみと死は、私たちの罪のためであり、私たちの罪を全て背負って下さった結果だったのです。4節にあるように、「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛み」だったのです。5節にも「彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」とあります。自らは何の罪もない方であるのに、私たちの背きと咎のために苦しみを受け、死んで下さった、その人の苦しみと死によって、私たちの罪が赦され、癒され、平和が与えられるのです。最後の11、12節にこうあります。「彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし、彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで、罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのはこの人であった」。「この人」それは主イエス・キリストです。主イエスの十字架の苦しみと死は、父なる神様のこのご計画、ご意志によることだったのです。私たちはこの受難週、主イエスの御苦しみと死とを覚えて歩みます。その歩みにおいて私たちは、自分の罪を見つめ、自覚すると共に、それ以上にしっかりと、主イエスの十字架の苦しみと死とによって神様が実現して下さったこの救いのご計画を見つめていきたいのです。受難週はその意味では大いなる喜びと感謝の時でもあります。またペトロがここで、あなたがたが主イエスを十字架につけて殺した、とイスラエルの人々の罪を断罪しているのも、その罪が神様のこの救いのご計画の中に置かれていることを示し、同じその恵みによって裏切りの罪を赦されて新しいイスラエルへと結集されている自分たちと共に、主イエスによる赦しの恵みの中で生きようと語りかけるためなのです。

聖霊の働き
 ペトロはその最初の説教において、このように、主イエス・キリストの十字架の死を語りました。彼がこのように語ることができたのは、聖霊の働きによることでした。14節には「すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた」とあります。この説教はペトロ個人の言葉ではありません。他の十一人と共に、つまり十二人の使徒としての、主イエス・キリストの教会としての言葉です。聖霊が彼らに降り、聖霊に満たされることによって、主イエスを信じる者たちの群れである教会は、このような言葉を与えられたのです。それは単に「こう語れ」と示されたとか、臆することなく大胆に語る勇気を与えられたということではありません。主イエス・キリストの十字架において起こったことは何だったのか、そこに、神様のどのような救いのご計画、ご意志があったのか、それは自分たちにとって、また人々にとって、どのような恵みの出来事だったのか、それを彼らは、教会は、聖霊の働きによってはっきりと知ることができたのです。信じることができたのです。その確信と信仰によって、彼らは語ることができました。語ることができるためには、そのことをはっきりと確信していなければなりません。主イエスの十字架の死が、自分の罪のためであり、自分こそ主イエスを十字架につけて殺した者であるということ、しかしその自分の罪が全て神様のご計画の中に置かれており、同時にそこに神様の赦しの恵み、救いが実現しているということ、それをはっきりと知らされ、信じることができる時に、私たちは語ることができるようになるのです。そのように私たちが主イエスによる救いをはっきりと知り、信じることができるのは、聖霊のお働きによります。聖霊が、私たちを信じる者へと新しくして下さり、そして信じていることを語ることができる者として下さるのです。

幻と夢
 ペトロは、聖霊の働きによって彼らに起こったペンテコステの出来事を、預言者ヨエルによって語られていたことの実現であると言っています。17~21節は、旧約聖書ヨエル書3章1節以下の引用です。神様の霊、聖霊が注がれることによって、誰もが、預言をするようになる、と言われています。預言をする、というのは、未来のことを言い当てるという意味ではなく、神様のみ言葉を語る、ということです。神様が、独り子主イエス・キリストによって成し遂げて下さった救いのご計画、ご意志をはっきりと知り、それを語る預言の言葉を与えられていく、それが、聖霊が注がれることによって起こることなのです。しかもその聖霊が、終わりの時には、すべての人に注がれる。ある特定の人にだけ注がれて、預言者という特別の務めを与えられ、その人だけがみ言葉を語っていくというのではなくて、全ての人がこの聖霊の働きを受け、主イエスにおける神様の救いの恵みを語り、証ししていくのです。ペンテコステの出来事によって、聖霊が降り、教会が誕生したことによって、この「終わりの時」が始まっています。今や、私たち一人一人が、皆、聖霊を受け、み言葉を宣べ伝えていく預言者として立てられていくのです。教会には勿論、もっぱらみ言葉を語る務めを与えられている牧師が立てられます。しかしそれは、牧師だけがみ言葉を語るということではありません。牧師が礼拝において、聖霊の働きの中で語るみ言葉によって生かされ、主イエス・キリストによる救いへの確信を与えられていく人々が、同じ聖霊の働きの中で、神様の救いの恵みを語り、証ししていくのです。信仰を語る言葉を与えられていくのです。17節の終わりに、このことによって「若者は幻を見、老人は夢を見る」とあります。聖霊によって信仰を与えられ、信仰の言葉を与えられる時に、こういうことが起こるのです。幻を見る、それは、希望を抱き、目指して行くべき目標を見定めることです。現代は、若者が、幻を失っており、また幻を見難い時代です。そのような中で、聖霊の働きによって信仰を与えられた若者は、真実の希望を見つめて生きることができるのです。老人は夢を見る、老いていく歩み、死が近づいてくるその生活の中で、夢を見る、それは悪夢ではなく、よい夢です。慰めと喜び、平安を与えてくれるような夢です。生きている時も死ぬ時にも、自分を支え導くただ一つの確かな慰めを得ている者だけが見ることのできる夢です。高齢化が進むこの社会、寿命は延びたけれども、このような夢を見ることができる老人はどれほどいるでしょうか。聖霊の働きによって信仰を与えられた老人は、真実の慰めと平安を与えてくれる本当によい夢を見ることができるのです。聖霊の働きの下にある教会は、若者が幻を見、老人が夢を見ることのできる場です。この受難週を、この聖霊の導きを受けつつ歩みたいのです。そのためにも、若者たちがみ言葉によって示された幻を語っていく早朝祈祷会を覚えて、どうぞご参加下さい。

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