主日礼拝

救いの完成

「救いの完成」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編 第98編1-9節
・ 新約聖書:テサロニケの信徒への手紙一 第4章13-18節
・ 讃美歌:

再臨と最後の審判を信じる
 先週に引き続いて、礼拝において毎週告白している「使徒信条」の第二の部分の最後のところ、「かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審きたまはん」について、聖書のみ言葉に聞きたいと思います。使徒信条の第二の部分には、主イエス・キリストを信じる信仰が語られています。主イエス・キリストは、神の独り子であられましたが、処女マリアから生まれて人間となってこの世を生きて下さり、ポンティオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られました。しかし父なる神のみ力によって三日目に復活し、天に昇り、今は全能の父なる神の右に座しておられます。そして将来、そこからもう一度来て下さり、生きている者と死んだ者とをお審きになるのです。主イエスがもう一度来られることを「再臨」と言い、そこでなされる審きが「最後の審判」です。主イエス・キリストを救い主と信じることには、そのご生涯、とりわけ十字架と復活によって過去になされた救いのみ業と、父なる神のもとでの現在のご支配と並んで、将来の再臨と最後の審判を信じることも含まれるのです。この将来のことを抜きにしては、主イエス・キリストによる救いの全体像を捉えることはできないのです。

全ての人が主イエスの再臨を見る
 先程朗読されたテサロニケの信徒への手紙一の第4章の箇所にも、主イエスが将来もう一度来て下さることが語られています。その16節にこうあります。「すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます」。ここは、先週の礼拝において読んだマタイによる福音書第24章30、31節と通じるものがあります。そこには「そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす」とありました。どちらも、人の子つまり主イエスが天から降って来ることを語っています。そしてどちらにおいても、そのことを全ての人々が見るのだということが強調されています。主イエスの再臨が起った時には、「もう一度来たけれども多くの人は気づかなかった」ということはないのです。「天に徴が現れる」とか、「合図の号令がかかる」とか、「大天使の声が聞こえる」とか、「大きなラッパの音が鳴り響く」というのは、全ての人々にはっきりと分かる仕方で主イエスが天から来られ、その栄光とご支配があらわになることを意味しているのです。ですから、時々現れる「わたしこそ再臨のイエスだ、再臨のメシアだ」というのは全部インチキです。主イエスがもう一度来られても人々の普通の日常が続いている、ということはないのです。

主イエスによる審き
 主イエスが「大いなる力と栄光を帯びて」天から再び来られ、そのご支配がはっきりと示される時には「審き」が行われるのです。審きとは、人々を右と左に分けること、救われる者と滅びる者とがはっきりと区別されることです。先週読んだマタイによる福音書第25章31節以下で主イエスはこう語っておられました。「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く」。主イエスの栄光とご支配があらわになる時、このような審きがなされ、主イエスのご支配に従う者は救われ、それに逆らう者は滅ぼされるのです。主イエスが来て審きをなさることを語っているもう一つの箇所として、テサロニケの信徒への手紙二の第1章6節以下を読みたいと思います。「神は正しいことを行われます。あなたがたを苦しめている者には、苦しみをもって報い、また、苦しみを受けているあなたがたには、わたしたちと共に休息をもって報いてくださるのです。主イエスが力強い天使たちを率いて天から来られるとき、神はこの報いを実現なさいます。主イエスは、燃え盛る火の中を来られます。そして神を認めない者や、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者に、罰をお与えになります」。もう一度来られる主イエスは、燃え盛る火をもって審きをなさり、従わない者に罰を与えるのです。

そこにこそ救いの完成がある
 それはとても恐ろしいことです。神がこの世の終わりになさる厳しい審きとして「最後の審判」を恐れるという思いがこれらの箇所から生まれます。そしてそれは大事なことでもある、と先週申しました。神のご支配と審きを恐れることがなければ、神を正しく信じることはできません。信仰から神を恐れることが失われたら、それは神を自分のために利用し、利用価値がなくなったら捨てるという、もはや信仰とは言えないものになります。私たちは主イエスがもう一度来て審きをなさることを恐れなければなりません。しかし今読んだテサロニケの信徒への手紙二の箇所において、主イエスによる審きは、あなたがたを苦しめている者に主が苦しみをもって報いて下さり、苦しみを受けているあなたがたには休息をもって報いて下さる時とされていました。「あなたがたを苦しめている者」とは、「神を認めない者や、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者」です。つまり、神を認めずキリストの福音に聞き従わない者たちが、今、信仰者であるあなたがたを苦しめ、迫害しているのです。しかし将来、キリストがもう一度来て審きをなさる時には、迫害している者たちは滅ぼされ、苦しめられているあなたがた信仰者は救われるのです。つまり主イエスによる審きは、苦しみを受けつつ主イエスを信じ、神に従って生きている者たちにとって、救いの完成の時でもある、ということがここに示されているのです。主イエスがもう一度来て審きをなさることを私たちは一方で恐れなければなりませんが、同時に、そこにこそ救いの完成があることを信じて、希望をもって待ち望むことができるのです。

復活の希望
 本日の箇所であるテサロニケの信徒への手紙一の第4章13節以下はまさに、主イエスの再臨が救いの完成の時であることをはっきりと語っています。先程読んだ16節に、主御自身が天から降って来られると語られていましたが、その時実現することが16節の終わりにこう語られています。「すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し」。「キリストに結ばれて死んだ人たち」とは、キリストを信じる信仰を与えられ、洗礼を受けてキリストと結び合わされ、キリストの体である教会の一員としてこの世を生き、そして死んだ者たちです。キリストが天からもう一度来られる時には、その人々が復活するのです。14節には「イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます」とあります。「イエスを信じて眠りについた人たち」、それが「キリストに結ばれて死んだ人たち」です。その人たちを、神が、「イエスと一緒に導き出してくださる」、つまり主イエスと同じように復活させて下さるのです。神のラッパが鳴り響いて、主イエスが天から降って来られ、そのご支配が完成する時に、神は私たちをも、主イエスと同じように復活させて下さるのです。その根拠は、14節前半の、「イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています」ということです。私たち信仰者は、主イエスの十字架の死と復活を信じているのです。それは父なる神が私たちの救いのためにして下さったみ業です。それを信じているがゆえに、神が私たちをも死者の中から導き出し、復活させて下さると信じることができるのです。主イエスを復活させて下さった父なる神が、私たちをも復活させて下さると私たちは信じているのです。それゆえに13節に、「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい」と語られているのです。既に眠りについた人たちとは、死んでしまった人たちです。その人たちについて、私たち信仰者は希望を与えられています。世の終わりに主イエスがもう一度来られる時、神がその人たちを復活させ、新しい命を与えて下さるという希望です。主イエスの復活を信じている私たちはその希望を持つことができるのです。主イエスの復活を信じていない人々はその希望を持っていません。その人たちにとっては、死んでしまったらもう終わりなのです。死後の世界における魂の平安というのは、死の絶望を紛らわすためのごまかしに過ぎません。天国だろうと極楽だろうと、死んでしまえば終わり、ということに変わりはない、つまりそこには希望はないのです。しかし主イエスの復活を信じている私たちは、死が最後の事柄なのではなくて、その先に、神が復活させて下さるという希望を見つめることができます。その復活が実現するのが、主イエスがもう一度来られる再臨の時なのです。

最後の敵、死が滅ぼされる
 主イエスがもう一度来られ、そのご支配があらわになる再臨の時に、私たちも復活して新しい命と体を与えられる、そのことを語っているもう一つの箇所として、コリントの信徒への手紙一の第15章20節以下を読みたいと思います。「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。最後の敵として、死が滅ぼされます」。キリストの復活は、「眠りについた人たちの初穂」だったのです。初穂とは、その年に収穫された最初の実りです。初穂が与えられたことによって、それに続く豊かな収穫が約束されているのです。つまりキリストの復活に続いて、私たちの死者の中からの復活が約束されているのです。神はキリストに続いて私たちをも復活させて下さるのです。キリストがもう一度来られる時にそのことが実現するのです。その時、「最後の敵として死が滅ぼされます」とあります。キリストがもう一度来て下さり、そのご支配があらわになる時、私たちを支配し、苦しめ、悲しみと絶望に引きずり込もうとしている最後の敵、ラスボスである死の力が滅ぼされるのです。私たちはこのラスボスに勝利することができません。だから私たちのこの世の歩みは必ず死に支配されていくのです。しかしキリストがもう一度来て下さってそのご支配が完成する時、私たちを支配している死は滅ぼされ、新しい、もはや死に支配されることのない永遠の命が与えられるのです。キリストと結び合わされ、キリストに属する者として生きている私たちは、その救いの完成の時として、主の再臨を待ち望むことができるのです。

栄光ある体
 先週の礼拝で読んだ、フィリピの信徒への手紙第3章20節以下もこの救いの完成を語っていました。「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです」。「わたしたちの卑しい体」それは地上を生きている今のこの体です。それは遅かれ早かれ、死んで葬られ、朽ちていく、死に支配されている体です。しかし天から救い主として来て下さる主イエス・キリストは、その私たちの卑しい体を「御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださる」のです。主イエスは今や、父なる神によって復活して栄光ある体を与えられ、永遠の命を生きておられます。その御自分の栄光ある体と同じ、復活して永遠の命を生きる体を、私たちにも与えて下さるのです。主イエスの再臨においてその救いが実現することを、私たちは待っているのです。

生ける者と死ねる者とを
 本日のテサロニケの信徒への手紙一の第4章15節には、「主が来られる日まで生き残るわたしたち」とあります。17節にも「わたしたち生き残っている者が」とあります。この手紙を書いた時、パウロは、自分が生きている間に主イエスの再臨が起こり、救いの完成が与えられると思っていました。しかしそれは実現しませんでした。主イエスが来られる前にパウロは死んだし、それからおよそ二千年の時が経っていますが、主イエスの再臨はまだ起っていません。パウロが書いた通りにはならなかったわけですが、だからといってパウロがここで語っていることが間違いであるということにはなりません。パウロがここで言っているのは、主の再臨の前に死んで眠りについたとしても、それまで生き残ったとしても、与えられる救いは同じだ、ということです。主イエスの再臨の時には、既に死んだ者たちは復活して、生き残っている者たちと共に、天から降って来られる主イエスと出会うために、地上から引き上げられるのです。このことは、使徒信条に「生ける者と死ねる者とを審きたまはん」と語られていることと繋がります。「生ける者」とは、主イエスが来られる時に生きている者のことであり、「死ねる者」とは、それ以前に死んだ者です。生きて主の再臨を迎える者も、それ以前に死んでしまった者も、皆同じように、主イエスのご支配の下に置かれ、主イエスと出会う、それが世の終わりの主イエスの再臨の時に起こることなのです。

いつまでも主と共にいることになる
 主イエスと出会うことによって私たちはどうなるのでしょうか。17節の後半にはこうあります。「このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります」。主イエスが世の終わりにもう一度来て下さるのは、私たちがいつまでも主と共にいる者となるためです。それが救いの完成です。主イエスのご支配があらわになり、完成する時に、私たちは、いつまでも主と共にいる者とされるのです。しかも単に魂が天国で主イエスと共にいるのではなくて、復活した主イエスと共に生きる新しい体を私たちも与えられるのです。最後の敵である死が滅ぼされるのですから、その体はもはや死に支配されることはありません。いつまでも主イエスと共にいることができるのです。それが永遠の命です。永遠の命というのは、私たちが今生きているこの命が終わることなくいつまでも続くことではありません。今のこの命がいつまでも続くのだとしたらそれは、この世を生きることに伴う苦しみ悲しみもいつまでも続くということですから、決して喜ばしいことではないでしょう。永遠の命というのは、時間の長さではないのです。私たちを愛して、私たちに代わって十字架にかかって死んで下さった神の独り子主イエス・キリストと共にいることができる、そこに永遠の命が、本当に祝福された、喜びに満ちた命があるのです。その意味で私たちは、主イエスを信じ、洗礼を受けて主イエスと結び合わされることによって、この地上において既に永遠の命を生き始めています。でもそれはまだ始まったばかりで不十分、未完成です。主イエスがもう一度来て下さることによって私たちは、いつまでも主と共にいる永遠の命を生きる者とされ、救いが完成するのです。

主の忍耐と私たちの使命
 私たちは、主イエスがもう一度来て下さり、最後の敵である死が滅ぼされ、私たちにも主イエスと共に復活と永遠の命が与えられるという神の約束を信じて、その実現を待ち望んでいます。しかし、主イエスが最初に来て下さり、復活して天に昇られてから、もう二千年が経っています。パウロが、自分が生きている間にも起こると思っていた主の再臨はまだ実現していません。そんなことは起こらないのではないか、使徒信条の「かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審きたまはん」はもうはずして、「全能の父なる神の右に坐したまへり」までにした方がよいのではないか、と思ってしまうこともあります。しかし聖書の時代からそういう思いはあったのです。ペトロの手紙二の第3章4節に、こう言っている人たちがいる、と語られています。「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか」。主がもう一度来るなどということは信じられないと思っている者たちがいる。そういう現実の中でこの手紙は8節以下で私たちにこう語りかけています。「愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです」。主イエス・キリストの再臨の約束がまだ果たされていないのは、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、主が私たちのために忍耐して下さっているからなのです。主イエスがもう一度来られる時、全ての者たちが主イエスの前に集められ、右と左とに分けられ、救われる者と滅びる者とがはっきりするのです。しかし父なる神は、本来、滅びる者とされるしかない罪人である私たちのために、独り子イエス・キリストを遣わして下さり、その十字架の死によって私たちの罪を赦し、そして主イエスを私たちの初穂として復活させ、私たちにも復活と永遠の命を約束して下さいました。そのように恵み深い方である父なる神は、私たちを救われる者として下さっただけでなく、一人も滅びないで皆が悔い改めて主イエスによる救いにあずかることを願っておられるのです。そのために私たちは先に選ばれ、召されて信仰を与えられ、主イエス・キリストによる救いの恵みを人々に宣べ伝えていく使命を与えられているのです。主イエスがもう一度来られるまでの時、それは私たちが、教会が主イエスによる神の救いの恵みを宣べ伝えていくべき時として与えられているのです。

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