夕礼拝

姦淫してはならない

「姦淫してはならない」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 出エジプト記 第20章14節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第5章27-32節
・ 讃美歌 : 300、503

姦淫は罪
 私が夕礼拝の説教を担当する日には今、出エジプト記第20章にある「十戒」を一つずつ取り上げてみ言葉に聞いています。本日は第七の戒め「姦淫してはならない」です。私たちは先ず、この戒めが、主なる神様がご自分の民にお与えになった十戒の中に位置づけられているということを真剣に受け止めなければなりません。先月読んだ第六の戒めは「殺してはならない」でした。また来月読む予定の第八の戒めは「盗んではならない」です。殺人と盗みを禁じる戒めと並んで、しかも盗みを禁じるよりも前に、姦淫を禁じるこの戒めが置かれているのです。つまり姦淫ということが、殺人や盗みと並ぶ罪として、しかも殺人の次に、盗みよりも前に禁じられるべき罪とされているのです。これは、私たちが生きている現代の社会においては驚くべきことです。殺人や盗みはこの社会においても犯罪であり、法によって禁じられていますが、姦淫についてはどうでしょうか。昔は「姦通罪」というのがありましたが、今ではそれは特に女性に対する封建的な抑圧として廃止されており、姦淫は法によって禁じられるどころか、倫理的な罪として意識されることすらなくなってきています。聖書において姦淫と言われているのは、自分の夫あるいは妻以外の人と、あるいは他人の夫あるいは妻である人と性的な関係を持つことですが、それはそもそも男女の性的関係が基本的には結婚した夫婦の間においてのみ行われる、という前提の上に成り立っていることでした。ところが今日の私たちの社会においては、結婚と男女の性的関係は全く独立した事柄になっています。そのことを象徴的に現しているあるポスターの言葉に出会いました。これはエイズウイルスへの感染に注意を促すポスターですが、そこにこう書いてあったのです。「カレシの元カノの元カレを知っていますか」。私のようなオジサン世代の者には最初意味が分からなかったのですが、そういう人のために念のため説明しておきますと、これは女性に対する語りかけですが、「あなたと今付き合っている彼氏との間には当然肉体関係がありますね。でもその彼氏があなたと付き合う前に付き合っていた女性がいるでしょう。その人と彼との間にも肉体関係があったはずです。そして、その女性があなたの今の彼氏と付き合う前に別の男性と付き合っていたなら、その人と肉体関係があったわけで、もしもその人がエイズウイルスの感染者だったら、今の経路をたどってあなたにもそれが感染するかもしれませんよ」ということです。つまりこの文章は、男女が付き合うということは即肉体関係を持つことだ、ということを当然の前提としているのです。今はそういう時代なのであって、肉体関係は結婚してから、などという感覚はもはや全く時代遅れのものになっているのです。それゆえに私たちは、「姦淫」ということの意味を、聖書が語っているよりも広く、結婚という秩序の外での男女の肉体的関係という意味で受け止めることが必要だと思います。今の時代において、この戒めが教えていることをきちんと受け止め、行なっていくためにはそうすることが必要なのです。
 また今の時代、結婚という秩序を前提としない肉体関係の方がより純粋な愛の現れであるかのように美化されてドラマなどで描かれています。妻子ある男性と関係を持つようになった女性が、「私は結婚なんかしなくてもいいんです。ただあなたと一緒にいられればそれでいい」などと言うと、「ああこの人は純粋にこの男を愛しているんだ」などと思ってしまう、そこでは既に、姦淫の罪に対する感覚が失われていると言わなければなりません。実際に不倫をするかどうかという以前に、そういう意識がそもそもこの戒めによって問われているのです。
 聖書は、姦淫は罪であるとはっきりと語っています。それが罪であるのは、自分の夫や妻を裏切ることであり、あるいは相手に、その人の夫や妻を裏切らせることだからです。そのようにして、自分のまた相手の、夫婦の関係を破壊することだからです。裏切りによる関係の破壊こそが姦淫の本質です。そこには純粋な愛などは決してありません。それゆえに聖書は姦淫を罪であるとはっきり語っているのです。

聖書の結婚理解
 しかしこのことを本当に理解するためには、聖書が結婚についてどのように語っているのかを知らなければなりません。結婚の基本的な意味を語っているのは、旧約聖書創世記の第2章18節以下です。ここには、神様が人間を男と女としてお造りになり、その男と女とが結婚して一体となる、夫婦となることの意味が語られています。神様は人間を男と女という性別を持った者としてお造りになりました。それはどのようなみ心によってなのでしょうか。創世記2章18節に「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」とあります。これが、人間が男と女であることの根本にある神様のみ心です。人間は、一人で生きるべきものではない、「彼に合う助ける者」と共に生きるべきものだ、ということです。「助ける者」というと、「補助者、助手」のように感じられてしまうかもしれませんが、これはそういう意味ではありません。「彼に合う」という言葉が大事で、これは「向かい合って共に生きる」ということです。ですから「彼に合う助ける者」とは、互いに向かい合い、助け合って生きる相手、パートナーという意味です。男にとって女は、また女にとって男は、そういうパートナーなのです。
 しかしこのみ言葉によって直ちに女が造られたのではありませんでした。神様は先ず野の獣や空の鳥を造り、人つまり男のところに連れて来られたのです。しかしその獣や鳥の中には、彼に合う助ける者、共に生きるパートナーは見出せませんでした。そこで神様は、男の体の一部、あばら骨と言われていますが、それを取ってそれで女をお造りになりました。これは、女は他の動物たちとは違って男の体の一部から、つまり同じ素材によって、根本的に同じ者、同等な者として造られたということを言い表しています。その女を見た時、男は「ついに、これこそわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。これをこそ女(イシャー)と呼ぼう、まさに、男(イシュ)から取られたものだから」と言いました。23節です。これは、ついに自分が本当に向かい合い、共に助け合って生きていける相手が見つかった、という感動の叫びです。獣や鳥たちの間には見つけ出せなかったパートナーがついに与えられたのです。「男」は聖書の言葉ヘブライ語で「イシュ」です。「女」は「イシャー」です。これは同じ言葉の語尾が変化した形です。イシュから取られたものだからイシャーと名付ける、そこには、女は男と同じ人間でありつつ、しかし男とは違う者である、という思いが込められています。そういう男と女が、向かい合って助け合いながら共に生きていく、神様はそのために人間を男と女とにお造りになったのです。
 次の24節には、結婚の意味が示されています。「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」。男と女は、両親から独立して、一人の自立した人間となり、その自立した男女が向かい合って共に生きる相手との新しい交わりを築いていくのです。それが結婚です。つまり結婚は、神様が人間を男と女として造って下さったことの目的である、向かい合って助け合うパートナーとしての交わりに生きることが実現する場なのです。これが、聖書の語る結婚の意味です。それゆえに聖書において結婚、夫婦は、動物の雄と雌がつがいになることとは全く意味が違うのです。動物のつがいの意味、目的は種の保存、子孫を残すことですが、人間の結婚、夫婦の意味、目的は、子供を生むことではなくて、「向かい合って助け合う関係に生きること」です。もともと他者である一人の男と一人の女が、神様によって結び合わされて一体となり、向かい合って共に生きる交わりを築いていくのです。そのことを神様は祝福して下さっています。そしてその夫婦の交わりの一環として、肉体的な関係も神様によって祝福されているのです。そこに子供が与えられるなら、それも神様の祝福です。聖書はこのように、結婚を夫婦が向かい合って共に生きる関係として捉え、その関係を神様が祝福して下さっている、と語っているのです。それゆえに、自分の夫や妻以外の人と性的関係を持ってしまうなら、それは、向かい合って共に生きるべき相手を裏切り、向かい合うことをやめてしまうことになります。それは相手に対する裏切りであるだけでなく、人間を男と女として造り、「自分に合う助ける者」と向かい合って共に生きることを祝福して下さっている神様のみ心を踏みにじる罪なのです。姦淫は、人間どうしの間での、人間に対する罪であるだけでなく、神様に対する罪でもあるのです。

関係の破壊
 姦淫とはこのように、神様のみ心に反する重大な罪です。殺人や盗みと並ぶ、しかも殺人の次に位置づけられる罪なのです。「殺してはならない」という戒めも、単に人間の間の道徳として語られていたのではありません。神様の前での人間の交わりのあり方を教えていたのです。この戒めが語っていたのは、隣人の命を大切にすること、それを損なうような思いを捨てることでした。具体的には、嫉妬や憎しみや怒りの思いを捨てることでした。つまり具体的に人殺しをしなくても、嫉妬や怒りや悪意から出る言葉や行いによって交わりを破壊し、人を殺すということがあるのです。そういうことを禁じている第六の戒めに続いて、今度は、神様によって造られた人間の交わりの基本である男女、夫婦の関係のことが取り上げられているのです。姦淫は、裏切りによってその夫婦の関係を破壊し、それによって相手を殺すことです。「殺してはならない」という第六の戒めを夫婦の関係にあてはめるなら、「姦淫してはならない」という第七の戒めになるのです。それゆえにこれは殺人を禁じる戒めの次に、盗みを禁じる戒めよりも前に置かれているのです。つまり、姦淫は殺人とつながる罪だということです。このことは、人間を男と女として造って下さり、結婚を祝福して下さっている神様のみ心を聖書を通して示されている信仰者だけが理解することができることです。神様のみ心を抜きにして、人間の都合だけで考えるなら、姦淫を殺人や盗みは罪と並ぶ罪と考えることはあり得ないでしょう。

心の中で
 しかし私たちは、姦淫が罪である、ということをわきまえてさえいればよい、というものではありません。この戒めが与えられているのは、姦淫をする人は罪人だ、結婚の秩序の外で性的関係を持つことは罪だ、と人を非難するためではありません。本日共に読まれた新約聖書の箇所、マタイによる福音書第5章27節以下に、この戒めをめぐって主イエスがお語りになったことが記されています。主イエスはこうおっしゃいました。「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」。主イエスは、姦淫の罪を、実際に他人の妻や夫と性的関係を持つことに限定するのではなくて、もっと内面的な、心の中のことにまで広げておられます。心の中で姦淫をするということがあるのだ、と言っておられるのです。それは、聖書に基づく姦淫の罪についての深い理解から来ていることです。姦淫とは、夫婦が向かい合って共に生きていく交わりを裏切ることです。つまりそれは単に肉体の問題ではなくて、交わり、関係の破壊あるいは放棄なのです。殺人が私たちの嫉妬や怒りや憎しみから生まれるように、姦淫も、心の中での裏切り、結婚における誓約への不誠実から生まれます。殺人と同様姦淫も、心の中から生まれるのです。主イエスはそのことを私たちに見つめさせようとしておられます。そうすることによって主イエスは、この姦淫の罪が、実際に不倫を行う人たちだけのことではなくて、私たち一人一人の問題であることを教え示そうとしておられるのです。このみ言葉によって私たちは、まさに自分が姦淫の罪を犯している者であることを示されます。つまり、今の世間の性道徳の乱れを嘆き憂えているだけで事はすまないのです。
 今読んだ所の続きの31節以下には、離縁状を書いて妻を離縁する人のことが語られていますが、これは当時律法において認められていたことでした。夫は、妻に何か不都合なことがあれば離縁状を渡して離縁できたのです。それは法律的には罪ではありませんでした。律法学者たちは、その「不都合なこと」とは何か、どこからが離縁できる不都合なことに当たるか、と議論していたのです。しかし主イエスは、気に入らないことがあると言って妻を離縁するというのは、自分の妻としっかりと向かい合わず、関係を築くのではなくて放棄してしまうことであって、それは姦淫の罪を犯すことだとおっしゃいます。当時は、夫の側からしか離縁はできませんでしたからこれは夫に対する言葉になっていますが、今日ではこれは、妻もしっかりと聞かなければならないみ言葉です。夫も妻もお互いに、相手としっかり向かい合って生きることをやめてしまうなら、それは姦淫の罪を犯すことになるのです。このような主イエスのみ言葉によって私たちは、自分の心の中にまさに姦淫の罪の根が潜んでいることを示されるのではないでしょうか。

わたしもあなたを罪に定めない
 私たちの心の中にはそのように、姦淫の罪の根があり、それが時として芽を出し、実際の行為にまで至ってしまうこともあります。そのような私たちに対して主イエスはどうなさるのでしょうか。このことに関して、主イエスの印象的なお姿を描いているのが、ヨハネによる福音書の第8章1~11節です。姦通の場で捕えられた女が主イエスの所に連れて来られました。律法には、そういう者は石で打ち殺せと書かれている、あなたはどう考えるか、と問われた主イエスは、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」とおっしゃいました。すると、そこにいた人々は、年長者から始まって、一人また一人と立ち去ってしまい、ついに誰もいなくなったのです。このことは、人を裁いて石で打ち殺そうとしているあなたがたも同じような罪を犯しているのではないか、という主イエスの問いかけであり、考えさせられる場面ですが、姦淫の罪を犯した女に対して主イエスがどうなさったのかを語っているのはその後のところです。主イエスは彼女に、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」とおっしゃいました。私たちはこのお言葉の重さをしっかりと受け止めなければなりません。「わたしもあなたを罪に定めない」というのは、私も罪人だからあなたを罪に定める資格などない、ということではありません。主イエスだけは、この女に石を投げる資格のある、つまり罪のないただ一人の方なのです。またこれは、姦淫の罪など大した問題ではない、もうこのことは忘れて新しくやり直しなさい、ということでもありません。主イエスは、姦淫がいかに重い罪であるかを知っておられるのです。この女は、自分の夫を裏切り、あるいは妻子ある男性にその妻を裏切らせ、自分の夫との関係を放棄したか、あるいは相手の人の妻との関係を破壊したのです。いずれにしても、神様が、向かい合って共に生きよと結び合わせて下さった交わりをぶちこわしたのです。それは神様と隣人とに対する大きな罪です。彼女はまさに石で打ち殺されなければならないような罪人なのです。そのことをよく知った上で主イエスは、「わたしもあなたを罪に定めない」とおっしゃったのです。それは、「私が、あなたのその姦淫の罪を、裏切りの罪を、神様によって結ばれた夫婦の関係を破壊した罪を、この身に負って十字架にかかって死ぬ。だからあなたは赦された者として新しく生きなさい」ということなのです。姦淫の罪を犯した者に石を投げることができるただ一人の方である主イエスが、その罪を背負って十字架の死への道を歩んで下さり、それによって罪の赦しを与え、私たちが赦されて新しく生きることができるようにして下さったのです。

神との関係における姦淫
 イスラエルの民の歴史を振り返って見れば、旧約聖書以来、主なる神様とその民の関係は、夫と妻の関係、結婚の関係になぞらえられてきました。神様が民と結んで下さった契約が、結婚における夫と妻の誓約になぞらえられてきたのです。そしてイスラエルの民の神様への不信仰、主なる神様を捨てて他の神々、偶像の神々に心を向けてしまう罪の姿は、姦淫の罪を犯す妻の姿そのものです。預言者ホセアも、エレミヤも、そのことを指摘して民の悔い改めを求めました。つまり姦淫は、主なる神様によって救われて神の民とされた者たちが、主が彼らと結んで下さった契約を捨てて、他の神々に心を向けていくという罪の根本を言い表しています。主なる神様に対する節操を貫くことができずに、他のいろいろなものに心を奪われてしまい、主なる神様との関係を損ねてばかりいる私たちが、人間どうしの交わりにおいてだけは正常な関係を保つことができるわけはありません。人間の夫婦関係における姦淫の罪は、主なる神様と私たちの関係における姦淫の罪にその根源があるのです。主イエス・キリストは、この主なる神様に対する私たちの姦淫の罪をご自分の身に背負って十字架にかかって死んで下さることによって、私たちの罪を赦して下さったのです。そのことによって、「わたしもあなたを罪に定めない」という恵みのみ言葉が私たちにも語られているのです。

姦淫してはならない
 「わたしもあなたを罪に定めない」この重い恵みのみ言葉は、「行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と続きます。これからはもう「姦淫してはならない」、と主イエスはこの女におっしゃったのです。私たちは、この女性と共に、「姦淫してはならない」という十戒の第七の戒めを、主イエスのみ言葉として聞きます。なぜならば私たちは今、モーセと共にシナイ山にいるのではなくて、主イエス・キリストの十字架の死による罪の赦しと、復活による新しい命の恵みにあずかる洗礼を受け、キリストの体である教会の一員として礼拝を守っているからです。十戒は、キリストによる救いにあずかった私たちが、その救いに感謝して生きるための道しるべです。私たちは罪人であって、神様が造り与えて下さった男と女の関係、特に夫と妻が向かい合って助け合いつつ共に生きる関係をしっかり築くことができずに、それを破壊してしまったり、放棄してしまったりする姦淫の罪を犯してしまう者です。しかしその私たちに主イエスは今、この礼拝において、「私があなたのその姦淫の罪を全て背負って十字架にかかって死んだ。それによってあなたの罪はもう赦されている。だから私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、罪を赦され、新しくされた者として、自分の、また他の人の、結婚の関係、夫婦の関係を大切にして歩みなさい」と語りかけて下さっているのです。主イエスによるこの罪の赦しの恵みの中で、私たちの人間関係、特に男と女の関係、中でもさらにとりわけ、夫と妻の関係が、本当に互いに向かい合って、助け合いつつ共に生きるものとなっていくのです。

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