夕礼拝

二人の目に触り

「二人の目に触り」  伝道師 長尾ハンナ

・ 旧約聖書: イザヤ書 第42章18-25節 
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第9章:27-34節
・ 讃美歌 : 213、433

そこからお出かけになる
 本日共に、マタイによる福音書第9章27節から34節の御言葉に耳を傾けたいと思います。ここでは、2つの癒しの出来事が記されております。ここに出て来る二人の盲人は、主イエスによって目を開かれたのです。そしてこれは、単なる病気の癒しの奇跡ではありません。「イエスがそこからお出かけになると」(27節)と、同じような表現が9節の始めにも記されております。「イエスはそこをたち」(9節)にあります。これは、マタイによる福音書が私たちに伝えようとしている主イエスのお姿であります。その姿は、私たちに先立って前進される主イエスのお姿が描かれています。本日の箇所の直前の箇所では、主イエスは十二年間、出血が続いている女性を癒していた間に手遅れになってもう死んでしまった指導者の娘のところに行きました。つまり、死が支配している世界へと進まれる主イエスのお姿がありました。その前の8章23節では「主イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った。」とあります。マタイによる福音書が示す主イエスのお姿はこのように、誰よりも先に立ち進まれるお姿です。そして、マタイの示す弟子の姿とは、即ち教会の姿とは先立って進まれる主イエスに「従う」姿です。私たちにはまず、すべてに先立って進まれる主イエスのお姿がはっきりと示されております。そして、その主イエスに従っていく決意をすることが求められております。私たちは変化を嫌い、現状にしがみつき、そこに留まっていたいと思いますが、主イエスは「そこからお出かけになる」のです。そこから、先へと進んで行かれるのです。「そこ」に確かに主イエスはおられました。しかし、主イエスはそこには留まってはおられないのです。主イエスに従って未知の世界、未だ知らない新しい世界へと進んで行くのは大きな冒険です。信仰とは単に私たちが決心することではありません。そうではなく、主イエスが誰よりも先立って進んで行かれる、そのお姿に私たちの一切を委ねるということを決断することが信仰なのです。しかし、それは決して主がおられないところに行くのではないのです。主イエスはそのような信仰へと私たちを招いておられます。「あなたがたの信じているとおりになるように」(29節)と主イエスは語りかけます。

憐れんでください
 このようにして、主がそこからお出かけになると「二人の盲人」と出会います。二人の盲人は叫んで、「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と言いながらついて来た、とあります。「盲人」とは目で見える世界にまったく依存できない人のことです。ここで「二人の盲人」とありますが、それは一人の特別な人の話しではないのです。二人とは、事柄の普遍性を示しています。これらの「盲人」が「二人」であったということは、目で見える世界に依存できないことが、決して誰かの人の問題ではなく、私たちすべての問題であることを示しております。「二人の盲人」は「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫びながら主イエスについてきました。「わたしたちを憐れんでください」とはどのような意味でしょうか。ある人がこのように言っております。「あわれみとは、神がその愛によって、人間を苦しみから解き放ち、神とのよい関係に立ちもどらせてくださることである。」この「二人の盲人」の叫びは主イエスがこのような意味で神とのよい関係に立ちもどらせ、神様との関係を回復し、苦しみから解放し、自分たちの生を根本から支えて下さることを心から願い求めていた者の叫びがあったのではないでしょうか。

わたしにできると信じるのか
 28節からお読みします「イエスが家に入ると、盲人たちがそばに寄って来たので、『わたしにできると信じるのか』と言われた。二人は、「はい、主よ」と言った。そこで、イエスが二人の目に触り、「あなたがたの信じているとおりになるように」と言われると、二人は目が見えるようになった。イエスは、「このことは、だれにも知らせてはいけない」と彼らに厳しくお命じになった。」この二人の盲人は、「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫びながら主イエスについて来ました。マタイによる福音書はこれと同じような話を、20章の終わりにも語っております。そこでも二人の盲人が、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだのです。その場面においては、周りの人々が彼らを叱って黙らせようとしたが、ますます大きな声で叫び続けた、と語られています。この9章においても、状況は同じだったでしょう。彼らは、何とか主イエスの耳に届くようにと、必死に、憐れみを求めて叫びながら、手探りで、主イエスの後について来たのです。

ダビデの子
 主イエスは「家」に入りました。「家」に入ったとは、主とこの二人の盲人との出会いが主体的、人格的なものなったことを示しています。外の通りで、他の人々がいるところで、いわばその他大勢の中で叫んだことが、本当に主体的、人格的なものであったのか、ということがここで確かめられます。主イエスがそのことを確かめられたのは、ただ彼らが外で主イエスに呼びかけられたからだけではありません。二人の盲人は、ここで主イエスに「ダビデの子よ」(27節)と呼びかけたからです。「ダビデの子」とはこの時代には政治的解放者といった意味合いの強い称号であり、主イエスはそのような意味でのメシアと誤解されることを警戒されました。それゆえに、30節のようにご自分のことを口止めされたのです。そのような誤解をもって主イエスに近づき、その期待がかなえられないと言って主イエスを十字架につけよ、と叫んだのは群衆でした。この二人もそのような誤解をしていないかどうか確かめられなくてはなりませんでした。また、それは「ダビデの子」は「救い主」という意味があります。ダビデ王の子孫に、神様が救い主を遣わして下さるという預言が旧約聖書にあります。救い主は「ダビデの子」として来ると誰もが信じていたのです。彼らは、主イエスこそその救い主であると信じて、このように呼びかけ、救いを求めたのです。主イエスこそ約束されたダビデの子、救い主であると信じて、その憐れみを求めて叫び、ついて来る、その姿に、彼らの信仰を見ることができるかもしれません。目が見えない苦しみの中で、とにかく自分たちを救ってくれそうな人にわらをも掴む思いですがっただけだったとも言えるでしょう。主イエスはこの二人の盲人にこのように問います。『わたしにできると信じるのか』と問います。主イエスは、主イエスこそ私たちがそれによって立ちも倒れもするような生の根拠であると信じているのかどうか、と問われます。目に見える世界に依存することが出来ない私たちが寄り頼むことの出来る唯一の救い主として信じているのかどうか、当時の人々が期待していた「ダビデの子」以上のお方として、信じているかどうか、主イエスは問われます。この主イエスの問いに、私たちの存在のすべてを賭けて答えることから、私たちの信仰の世界での主イエスに従って行く歩みが始まるのです。ここでの癒しは叫び求めに直接応える形で行われたのではない、ということをも示していると言うことができるのです。
  信仰とは
 ここで「信じる」という言葉が出てきます。主イエスはこの二人の盲人の信仰を問われました。「わたしにできると信じるのか」、「わたしが、あなたの目を開くことができると信じるのか」そう主イエスは問われたのです。この問いこそ、主イエスが、私たち一人一人に向き合って、私たちの目を見つめながら語りかけておられる問いです。「ダビデの子よ、私たちを憐れんでください」と叫ぶことが信仰なのではありません。私たちはそのような叫びに似た思いを持ちます。様々な苦しみや悲しみに直面する時、どうしたらよいか分からない時に、「主よ、神よ、私を憐れんで下さい、イエス様、私を救って下さい」と願います。主イエス・キリストは「わたしにできると信じるのか」と問われるのです。その問いに対して私たちはどう答えるのでしょうか。それがまさに問われているのです。「憐れんでください、助けてください」と願うことと、主イエスにそれができると信じることとは別なのです。

はい、主よ
 この二人の盲人は、その主イエスの問いに対して、「はい、主よ」と短く答えました。この二つの単語が精一杯だったのです。それが彼らの思いだったのではないでしょうか。言葉につまり、絶句するしかない二人に対して、主イエス御自身は「はい」と引き出されたのです。主イエスはこの問いによって、私たちと向かい合い、そして私たちの「はい」という一言を導き出そうとしておられるのです。私たちはこの主の問いかけの前で自分が言葉を失わずにはおれない者であることを示されつつ、なお、主イエスの導きによって、ためらいがちに、「はい」と答えていくのです。「主よ」という言葉がその後に続いているのもそのことを示しています。「はい」と答えることができるのは、ひとえに主イエスの恵みと導きによることです。その主に全てを委ね、「主よ」と呼ぶことの中でこそ、私たちは「はい」と言うことができるのです。
 そして主イエスは、私たちの「はい」を受け止めてられました。そして、その「はい」と言う言葉を私たちの信仰と呼んで下さるのです。「あなたがたの信じているとおりになるように」という御言葉はそういうことを示しています。彼らがようやく一言発した「はい」を受けて、主イエスは、「あなたがたは私を信じている、私があなたがたの目を開くことができることを信じている。あなたがたは信仰者なのだ。そのあなたがたの信仰のとおりになるように」と言って彼らの目を開いて下さったのです。主イエスが、私たちの、本当は信仰とは呼べないような思いを、信仰として受け止めて下さいました。22節で、主イエスの服の房にでも触れれば病気を癒してもらえのではないかと思って、後ろからそっと触れた女性に対して主が語られた「あなたの信仰があなたを救った」と同じ意味のみ言葉なのです。

あなたの信仰
 この二人の盲人が主イエスに目を開かれました。主イエスの「わたしにできると信じるのか」という問いに対して彼らが「はい、主よ」と答えました。主の問いかけに言葉を失ってしまう現実は、彼らも私たちと同じです。 この二人の盲人たちは、主イエスの「わたしにできると信じるのか」という問いかけに対して、「はい、主よ」と答えたことによって、目を開かれていきました。「はい」という答えは、主イエスによって引き出され、神様によって与えられたものです。癒しの根拠とされている信仰は、当人の確信ではないのです。もし、そうであれば、それさえも実に弱いものであり不確かなものです。その信仰さえも主イエスの支えがなければ、信仰として成立はしないのです。主イエスは人間の信仰を要求してはおられません。それは、信仰が人間の力ではなくどこまでも、神様から与えられるものであるからです。人間は自分の小さな信仰を告白するしかないのです。主イエスによって癒されたとはそのようなことです。盲人は目が開かれ、見えなかったものが見えるようになります。神様が私たちを愛し、招いていて下さいます。私たちを恵みのみ業のために用いて下さることが見えてくるのです。私たちの心は元々、神様の愛を頑なに拒もうとする壁があって、それが私たちの目を閉ざしています。その頑なな壁が取り除かれて、神様の愛に目を開かれ、それを受け入れる新しい世界が開けていく、その最初の一歩となるのが、「はい、主よ」という一言なのです。この一言を語ることができたなら、後は主イエスがそれを「あなたの信仰」と呼んで下さるのです。神様が目を開いて下さると、肉体の目に普通には見えないものまでもが見えてくるし、神様が目を閉ざされると、肉体の目は見えていても、ものを正しく見ることができなくなる、そういう意味では盲目と変わらないことになる、ということがこの話において語られているのです。

悪霊に取りつかれた
 もう一つの癒しの記事も見ておきたいと思います。二人の盲人が出て行くと、悪霊に取りつかれて口の利けない人が、イエスのところに連れられて来ました。33節の途中までですが、「悪霊が追い出されると、口の利けない人がものを言い始めた」とあります。「悪霊」とは私たちが自分でありながら、自分ではどうにもならないように、私たちを支配している力のことです。この力に支配されているために自分を正しく表現することの出来ない状態にあることが、ここで「口の利けない人」ということによって示されている状況です。この人の癒しの出来事は、主イエスによって神の支配、つまり、神の国が到来することによって、私たちを支配している力から私たちが解放されて、始めて自分を取り戻して、「ものを言い始め」るようになることを示しております。福音とはこのような神の支配が、主イエスによって到来したことなのです。群衆は驚嘆し、「こんなことは、今までイスラエルで起こったためしがない」と言った。34節 しかし、ファリサイ派の人々は、「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言った。群衆は素直に驚きました。そして、律法の専門家であるファリサイ派の人々は「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と非難したのです。悪霊の頭によって悪霊を追い出しているのだという非難に対して、主イエスはマタイによる12章24節以下において、「しかし、ファリサイ派の人々はこれを聞き、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言った。」主が悪霊を追い出したのは神の霊によるものであって、そのことにより、「神の国はすでにあなたがたのところにきたのである」と説明しております。  私たちはこの対照的な2つの態度から、福音の到来に対して、どっちつかずの中立的な立場はあり得ないことを示されます。この意味で悪霊からの解放という福音の出来事は、あなたがたは一体どちらなのかという明確な態度の決断を私たちに迫っているのです。ここでも「あなたがたの信じているとおりになるように」と言う信仰への招きがあります。
 ここで、主イエスに躓いたのは群衆ではありません。ファリサイ派の人々であったのです。律法の専門家であります。ある固定観念に固まると、このようになるのです。信仰の冒険へと旅立つためには、主イエスのなさる御業に対していつも新しさを覚えることが大事です。
 主イエスは「そこから」先へと進んで行かれます。主イエスは十字架へと歩まれます。「はい、主よ」と一言を振り絞って語ることしかできない私たちであります。罪にまみれた私たちのために十字架へとかかってください。そして、復活されました。そのような主イエスに従いつつ、この週も歩みましょう。

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