主日礼拝

神の御心を行う人

「命を保つ者」  伝道師 長尾ハンナ

・ 旧約聖書: ゼファニヤ記 第3章16-20節
・ 新約聖書: マルコによる福音書 第3章31-35節
・ 讃美歌:7、280、447

主イエスがこの世に来られた
 本日は共にマルコによる福音書第3章31節から35節の御言葉を聞きたいと思います。本日の聖書の箇所の小見出しには「イエスの母、兄弟」となっています。主イエスには母と兄弟がいました。主イエスには家族がいました。父ヨセフは早くに亡くなったと言われております。ここでは、「母上と兄弟姉妹」とあります。主イエスにも肉親がいたということです。主イエスは私たちと同じ人間であられました。人間であると言うのは単に肉体を魂と共に持つと言うことを意味するだけではありません。人間が人間であるためには、人間関係が必要です。人間の存在とは、親と子、兄弟姉妹、友人、夫婦という関係において存在するのです。神の御子である救い主イエスは人間の関係の中に入って来られたのです。私たちは日々の歩みの中で人間の汚れ、忌まわしさという人間の罪そのもの、それに伴う痛みと悲しみを知っております。特に、甚大な被害により、人間の弱さ、それだけではなく心の弱さを見せつけられております。どんな人間関係も人を根本から救うことは出来ません。もちろん私たちは与えられた人間関係、隣人との関係において励まされた、力づけられることもあります。けれども、この関係は時に人間の自由を拘束、互いを拘束し、躓きを与え、関係を壊してしまうことがあります。そして、何よりも死が関係を引き裂きます。そのような悲しい人間関係の中に主イエス・キリストは入って来られました。神の独り子である主イエスが、人々を罪から救うために人となられたと言うことは、単に肉体を取って受肉したということだけではありません。そのような人間の現実に来られたということです。主イエスは父ヨセフと母マリアの息子として、ヤコブたちの兄として、ナザレの村の一人としてお生まれになりました。主イエスがこの悲しみの人間関係の中に入って来られたのは、このように虚無的な人間関係を救済するためでした。死によっても断ち切れない新しい関係を築き上げるためでした。

家族を連れ戻す
 もう一度、31節から見てまいりたいと思います。31節では「イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。」とあります。主イエスの母と兄弟たちは主イエスの元にやって来ました。主イエスは伝道をしておられました。主イエスは神の国の福音を宣べ伝えていました。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」と伝道をしておられました。四人の漁師を弟子にされ、癒しの業をされました。寝食を忘れるほどに伝道をされていたのです。そして、主イエスの家族、身内の者たちは主イエスが忙しく伝道しておられるという噂を聞きました。心配をして、主イエスを連れ戻そうとしたのです。主イエスが忙しく伝道をするので、体調を崩さないか心配になったので消化、それかもしれませんが、それだけではありません。主イエスの人気がますます高まるにつれて、主イエスに敵対する人が多くなりました。ファリサイ派の人々によって殺されるのではないか、という噂も聞こえて来ました。母マリアも兄弟達も主イエスのことが心配になったのでしょう。主イエスが「『神の国は近づいた』」などと伝道する主イエスのことが心配だったのです。身内の者としては主イエスにもういい加減にしてもらいたいというのが本音だったのでしょう。主イエスの身内の者はナザレの村からカファルナウムまで、一家総出ではるばる主イエスを連れ戻しに来たのです。主イエスがいる家の戸口まで来ましたが、大勢の人が中にいましたので入ることが出来ません。取り次ぐ人が奥へ入って言いました。「御覧なさい。あなたの母上とご兄姉が外でお待ちしております」(32節)。すると主イエスは一見突き放すように冷たい言葉を語られました。「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」(33節)それから周囲の、熱心に話しを聞いている人々を見回して、先ほどの御言葉を語られました。「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」(34節)33節の「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」また、34節の「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」という主のお言葉は主イエスとその身内、家族の断絶と見ることが出来ると思います。

家族の絆
 この主イエスのお言葉を聞きますと、一体家族とは何であろうかと思わせられます。私たち人間は、一人では孤独です。けれども幸いにも、様々な絆でお互いに結ばれております。家族の絆、友情の絆、故郷が同じという絆、様々なものがあります。その中でも恐らく、身内、家族という絆は、最も強いものでありましょう。暖かい家庭の交わりが生きるエネルギーとなる、とよく言われます。実際、親子・兄弟の間には血の繋がりというものがあります。しかし、それでは家族や家庭が与えられたらみんな幸福であり、そうでない人はみんな不幸だ、と言えるかと言えば、必ずしもそうではありません。実際、血を分かち合った兄弟でさえ、「兄弟は他人の始まり」と言われます。聖書を読みますと、神は人間に家庭を与え、夫婦や子どもを与えられたのですが、この肉による家庭が、人間の罪によって崩壊し、「ホーム」というものを形成できないことが語られております。そもそも、人類最初の家族であるアダムとエバの場合がそうでした。最初の子カインは弟アベルを殺し、人類最初の兄弟殺しが描かれております。その結果、カインは神によって追放されてしまいました。聖書に登場する最初の家庭は、兄弟を殺し、家庭崩壊だったの。ようやくアダムから7代を経て、ノア(慰め)が生まれるに及んで、家庭に平安と慰めが戻ったと言うのです。
 神様は人間に家庭の喜びや家族の絆をお与えになりました。けれども、それにも関わらず人間は、最初の人アダム以来、肉の絆によって結ばれる家庭の中には、真の慰めがなくなっておりました。絆は完全に壊されたとは言えないまでも、非常に弱くて脆いものとなったのです。これは人間が家族や家庭よりも、最後には自分が中心で、いつも自分のことしか考えなくなってしまう存在だからです。その結果、全ての人が、本当の意味でのホームを失い、孤独な存在となったのです。 主イエスの身内、家族は総出で主イエスを連れ戻しに来ました。しかし、主イエスが家族の説得を受け、帰ったとは記されていません。33節で「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」という主のお言葉は、一見突きはなしたような、冷たい響きを持っています。けれどもこれは主イエスが身内、家族というものを完全に否定なさったのではありません。身内、家族とは人間の関係の「肉による関係」と言うことができます。主イエスはこのお言葉を通して、信仰において血筋、身内、家族などは問題にはならないということを示しているのではありません。

新しい関係
 むしろ、「肉による関係」ではない、それ以上の、関係が、絆があると言うのです。人間の身内、家族による関係とは、肉による関係です。しかし、主イエスは言われました。「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」繰り返しますが、主イエスは肉親に対して冷酷不人情であったのでは決してありません。主イエスが十字架にかけられた苦痛の中から、息子を奪われる母マリアのために配慮したことが聖書に記されております。ヨハネによる福音書第19章26節と27節にはこうあります。「イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、『婦人よ、御覧なさい。あなたの子です』と言われた。それから弟子に言われた。『見なさい。あなたの母です。』そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。」主イエスは御自分の代わりにマリアを「母」と呼ぶ代理人をお立てになったのです。主イエスはここで、母に淋しい思いをさせてはいけないと、考えられたのではありません。もっと深い主イエスの思いがそこにはあります。主イエスはここで、新しい関係をお示しになったのです。主イエスはここで、私たちに対しても新しい関係を示されたのです。母であろうと誰であろうと、関係、新しい関係を持とうとされたのです。主イエスは「周りに座っている人々を見回して言われた。」(34節)「見回して」とは周りに座っている人々をぐるっと見まして、そして「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。」(35節)と言われたのです。そこには誰がいたのでしょうか。幼い子どもがいたかもしれません。あるいは、主イエスに癒されることを願って、ようやく担ぎ込まれた、病んでいる者もいたかもしれません。主イエスが周りに座っている人々を全て見回されたのです。主イエスの周りに座り、主の言葉を聞く者たちが主イエスの眼差しの中に捕らえられたのです。主イエスはこの後すぐに35節にありますように「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と言われました。主イエスが「わたしの兄弟、姉妹、また母」と呼ばれる「身内」の人とは母マリアを含めた「肉親」「肉による家族」ではなく、「神の御心を行う人」であるとおっしゃいます。肉の家族、身内以上の交わりを示されたのです。

人間の絆
 主イエスは元々30才になるまでは、ひたすら両親に仕え、弟たちの面倒も見てこられました。主イエスのすぐ下の弟である次男のヤコブは「主の兄弟ヤコブ」と呼ばれた人です。やがてエルサレム教会の重鎮となります。紀元62年に殉教の死を遂げたことが分かっています。殉教するぐらい、熱心に主を信じるに至ったということは、主イエスがどんな時にも母や兄弟姉妹のために祈ることを忘れていなかったからであると推測することが出来ます。主イエスは決して、「自分の親兄弟など、信仰にとってはどうでも良い」とはおっしゃっていません。しかし、この横の関係、肉の関係がどんなに強いものであっても、それが神の言葉を聴くという縦の関係、つまり、それは神様と人間との縦の関係、肉の絆ではない、霊的な絆を越えることは出来ないのです。また、それに優先したり、それを否定したりするときには、それは真理に逆らい、神に逆らう関係となってしまいます。その時、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」という主イエスの厳しいお言葉が発せられます。主イエスは決して肉による絆を否定しているわけではありません。むしろ、本日の35節の、「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」という御言葉の中に、その真意が示されているのです。ルカによる福音書の11章27節以下に、こういう御言葉が書かれています。「イエスがこれらのことを話しておられると、ある女が群衆の中から声高らかに言った。『何と幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。』しかし、イエスは言われた。『むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。』」
 つまり、普通で言えば、親子水入らずの関係は、他人がどんなに割り込もうとしても割り込むことが出来ないほど親密なものです。カトリック教会で聖母子像を描くときには、そのように描かれています。母マリアがイエスを愛し、イエスが母マリアの懐に休らっている姿が描かれています。主は「あなたが吸った乳房は何と幸いでしょう」という肉の絆の幸いを、決して否定はしていないのです。それは確かにそうだろうけれども、「むしろ」それ以上に幸いな関係が、「神の御心を行う人」とあるように神の言葉を聞き、その神様を信じるという霊の絆だ、と教えておられるのです。そこへと、私たちの家族関係を高めようとしておられるのです。それは私たちが主イエスと信仰によって結ばれる霊の絆というものが大変強いものであるということです。それは母と子の絆よりも、この世のどんな絆よりも強く、どんな幸いよりも大きいものであるということです。

霊の絆
 霊の絆は、もちろん、血縁や地縁やお金の縁による絆ではありません。その絆は主イエスが無条件で愛してくださることを信じる絆です。主イエスの父なる神の御心を行うという、信仰による結びつき、絆です。この世のどんな交わりでも、たとえ家族の交わりであっても大変脆く、弱いものです。私たちの肉の人間の関係というのは非常に親しそうに関係であっても常に断絶や崩壊の危機はあります。互いを信じられなくなる出来事が起こります。そして、いつかは死に別れなければなりません。それに較べ、主イエスが御自分の命を掛けて私たちを愛し、提供してくださる交わりや絆は、どんなこの世の交わりや絆よりも強いのです。この強く、深い絆は私たちの肉体の死を越えて永遠に続くものです。

神の家族
 教会の交わりもまた、この主イエスと私たちとの絆によって成り立っています。「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」とあります。ここには、「神の御心を行う人」と書いてありますが、ルカによる福音書では、「神の言葉を聞いて行う人」とあり(8・21)、こちらの方が分かりやすいかも知れません。この時主イエスの周囲には、大勢の人々が集まって熱心に御言葉を聴いておりました。霊の絆があるのです。教会の交わりと言うのは、神の家族としての交わりです。一人一人が主イエスと固く一つに結ばれている交わりです。AさんもBさんもCさんも主と結ばれていることによって、AさんもBさんもCさんもお互いに結ばれています。時に人間の関係は色々なことで切れてしまうことがあります。けれども主と結ばれていることによって、横の関係も結ばれるのです。そのような神の家族、ホームなのです。どんな人でも、主イエスの御言葉を聴き、その御心を行う人は、主イエスによって大切にされます。主イエスはここにいる私たちと関係を結び、主イエスの周りに座る私たち一人ひとりを見回して「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。」と言われるのです。イエス・キリストを中心とした家族の関係が新しく創られるのです。この世のどんな境遇の人であろうと、主イエスの家族とされることによって、世の中の荒波や艱難にも耐えられるような支えと励ましを与えられます。その説明は35節に述べられます。「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」(35節)神の御心を行う者は、神の家族だと言われます。

神を父として
 主イエスはいつも父なる神に向かい、「アッバ、父よ」と祈りました。「アッバ」というのは、主イエスが日常使っていたアラム語で、「父」という意味です。本当に幼い子が自分の父親を深い親愛の情を込めて呼ぶときに、この「アッバ」、「お父さん」という言葉を使います。主はいつも父なる神を「アッバ」「お父さん」「天の父よ」と呼びました。主イエスが十字架にお掛かりになる前の夜のゲッセマネの祈りにおいても、「アッバ、父よ」と祈り続けました。そして、主イエスは父なる神の御心を行いました。「神の御心を行う人」という言葉は、ただ何かよいことをする人という意味ではありません。「アッバ」「アッバ」と、そのアッバ、父なる神の御言葉に聞き、「アッバの御心」に信頼をして生きてゆく人です。そのような人々の間に、自ずから家族としての結束と一致と愛が生まれてきます。父なる神が私たちにとってのただ一人の「霊の父」であらます。そして、そこから私たちは互いに兄弟、姉妹、また母となるのです。礼拝で神の御言葉を聞き、神を讃美し、共に聖餐に与ることには、神の家族、教会を創り出す力があるのです。私たちは一人一人がそれぞれ皆、同じただお一人の神を父と仰ぐ神の家族として育てられたいと思います。神様から与えられる確かで途切れることのない永遠の絆、霊の絆があって、初めて、私たちの弱くて脆い人間の絆、肉の絆が支えられているのです。この箇所は主イエスの家族伝道の場であると言えます。御自分を訪ねて来た肉親に、その肉の絆以上に、霊の絆で結ばれ、神の御心を行う者となってほしい、という招きの言葉であったのです。その行いとは何でしょうか。それは神の独り子である主イエス・キリストが私たちの中に、兄弟として入ってこられ、救いの業、即ち十字架の御業が現実となっているということです。神の御心を行うとは、この出来事を信じることであり、神の御心とは十字架による救いの出来事です。主イエスは言われました。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」(ヨハネに福音書第6章29節)「ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。」

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