夕礼拝

共に自由を祝おう

「共に自由を祝おう」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:申命記 第5章12-15節
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第5章12-15節
・ 讃美歌: 11、529

安息日を聖別するとは
 月に一度、私が夕礼拝の説教を担当する日は、旧約聖書申命記からみ言葉に聞いておりまして、今その第5章の、いわゆるモーセの十戒を読んでいます。先月、1月18日にも、本日の箇所と同じ12?15節を読みました。十戒の第四の戒めです。本日も、先月に続いてこの第四の戒めを読み、み言葉に聞きたいと思います。
 第四の戒めは「安息日」に関するものです。一週間の七日目を安息日として守り、これを聖別せよ、と命じられています。聖別するというのは、聖なるものとして他のものと区別する、ということです。「聖なるもの」とは「神のもの」ということです。神のものとしてその他の人間のものとは区別し、神のものに相応しく用いる、それが「聖別する」ということです。ですから「安息日を聖別せよ」とは、この日を神の日としてそれに相応しく過せ、ということで、具体的には、この日には「いかなる仕事もしてはならない」ということです。この日には、人間の営み、自分たちのための業をやめて、目を神に向け、神との交わりのために過す、それが、この日を聖別することなのです。先月にも申しましたがこの戒めは、一週間の内の一日だけを神のものとして過せば、後の六日間は自分のものとして好きなように用いてよい、ということではありません。週に一日を神のものとして聖別して生きることによって、私たちは、自分の一週間の歩みの全てが、つまり自分に与えられている時の全体が、もともと神のものであり、神が与えて下さったものであることを確認するのです。私たちの命も、人生も、私たちが自分で造り出したり獲得したものではなくて、神が私たちに与えて下さったものです。人生の全ての日々は神のみ手に内にあり、その始まりと終わりを決めておられるのは神なのです。神は全てご自分のものであるその日々の中の、一週間七日の内の六日を、私たちが自分たち人間の業をしていく日として下さいました。私たちが働いて自分や家族の生活を整え、維持していくという営みを、神はこのようにして祝福し、支えて下さっているのです。週の六日間働いて自立した生活をし、人々と共にこの社会を築いていくことは、神のみ心に適う、大切なことなのです。聖書は、自分で働いて生活の糧を得ることが人間として大事なことだと教えています。「働かざる者食うべからず」というのはテサロニケの信徒への手紙二の3章10節にある教えです。今の訳では「働きたくない者は、食べてはならない」となっています。また、エフェソの信徒への手紙の4章28節には、「盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい」とあります。ここには、働いて生活の糧を得ることの目的は、ただ自分と家族の生活を維持することや、自分の喜びや楽しみを得ることではなくて、困っている人々を支え助けることができるようになることだということが示されています。神はそのように、私たちが働いて自分や家族の生活を維持し、また互いに支え合い助け合って社会を築いていくために、週の六日間を、人間の業のための日として与えて下さっているのです。そして週の一日、安息日だけは、人間の業、働きのための日として与えるのでなくて、神のために用いるべき日として残しておられるのです。この日を神のために用いるとは、神のために労働力を提供するとか、神のためにお金を稼ぐということではありません。神の方にしっかり顔を向けて、神との交わりに生きること、神がこの世界と私たち人間を造り、祝福して下さっている、その恵みを見つめて喜び感謝し、神を礼拝し、そのみ言葉を聞き、賛美し祈り、神こそが自分の主であることを確認し、そのみ心に従って生きようという思いを新たにすることです。一週間の七日目をそのようなことのために用いることによって、その日を神のための日としなさい、というのが第四の戒めなのです。

神の戒めによる生活のリズム
 一週間七日の内の一日は安息日であり、その日には仕事を休み休日とするということは、今でこそ私たちの社会においても定着していますが、それは昔からそうだったわけではありません。我が国においてそうなったのは明治になって西洋の暦が採用されてからです。それまでは、休みは基本的に盆と正月しかなかったのです。七日に一日が休日ということは日本人の生活のリズムとしてもともとあったわけではありません。それは西洋から入ってきたことであり、その根底には聖書の教えがあるのです。ですから明治の初期にそれが入ってきた時には抵抗もありました。日曜日に仕事を休みとする習慣がない中で、日曜日に休むための戦いがあったのです。当時のキリスト者たちは、他の日に人一倍働くことによって日曜日を休みの日、礼拝の日として確保する、という厳しい戦いをしていったのです。信仰の先達たちのそのような戦いを私たちは忘れてはならないのですが、ここで見つめておきたい大事なことは、一週間は七日でありその内の一日は休みの日である、という今では当たり前に感じられる生活のリズムが、決して自然に生まれてきたことではないということです。放っておけば人間の生活には自然にそういうリズムが生まれる、ということはないのです。これは、聖書の教え、中でも十戒の第四の戒めにおける神のご命令から来ているのです。この第四の戒めこそが、一週間に一日は休日という私たちの生活のリズムの源なのです。

安息日の根拠―天地創造
 この第四の戒めには、週の七日目を安息日として聖別し、その日には人間の仕事を休め、という主のご命令が語られていますが、それだけでなく、週の七日目がなぜ安息日なのか、何のためにその日に仕事を休まなければならないのかという理由、根拠もここに語られています。そして興味深いことに、その理由、根拠は二種類あるのです。十戒はこの申命記第5章と、もう一カ所、出エジプト記の第20章とに語られています。出エジプト記20章の方がむしろ十戒の代表的な箇所として読まれています。両者の十戒は、戒めの順序や内容は同じです。しかし、この第四の戒めにおける、安息日を守るべき理由、根拠の部分が違っているのです。つまり申命記の本日の箇所における安息日の根拠とは違うもう一つの根拠が、出エジプト記に語られているのです。そこを読んでみたいと思います。出エジプト記20章8?11節です。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」。このように、出エジプト記20章において安息日の戒めの根拠とされているのは、神が六日の間に天地の全てをお造りになり、七日目に休まれたという、創世記第1章の天地創造の記述です。この神の七日目の休みに人間もあずかることが安息日の根拠あるいは目的とされているのです。天地創造のみ業が六日間でなされ、七日目に神が休んだということこそが安息日の基本的な根拠です。それなしには、一週が七日でありその七日目が安息日であることの説明がつきません。従ってこの出エジプト記20章の記述は安息日の意味を考える上での基礎となります。つまり安息日は、神が天地創造の七日目にお休みになり、お造りになった世界と人間とをご覧になってそれを喜ばれたように、人間も自分の働きをやめて、神の創造のみ業であるこの世界と自分自身を見つめ、それらに祝福を与えて下さっている神の恵みを感謝して神を礼拝するための日なのです。

安息日の根拠―エジプトからの解放
 しかし今私たちが読んでいる申命記第5章の十戒は、安息日の根拠ないし目的として、天地創造とは別のことを語っています。本日の12?15節をもう一度読んでみます。「安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである」。ここで安息日の根拠とされているのは、天地創造のみ業ではなくて、エジプトの奴隷状態からの解放のみ業です。主なる神が、エジプトで奴隷とされ苦しめられていたイスラエルの民を解放し、脱出させて下さった、「出エジプト記」に語られていたその救いのみ業を思い起こすために安息日は定められているのだと言われているのです。エジプトでの奴隷状態からの解放と安息日とはどう結びつくのでしょうか。両者を結びつけているのは「安息」です。エジプトで奴隷とされていたイスラエルの民は、自分の望まない労働に休みなしにこき使われ、しかもその働きの実りは全く自分たちのものにならない、という苦しみの中にありました。そこには肉体においても魂においても、安息、平安はなかったのです。主は彼らの苦しみの叫びを聞いて、モーセを遣わして力ある業を行なわせ、イスラエルの民をエジプトから解放して下さいました。エジプトの奴隷状態からの解放、脱出は、抑圧、圧迫からの自由と共に、平安、安息をもたらしたのです。申命記は安息日を、このエジプトからの解放による安息を記念する日としています。出エジプト記は安息日を、天地創造において神が七日目に休まれたことを見つめ、その神の休み、安息にあずかる日としていたのに対して、申命記は、出エジプトの出来事において神がイスラエルの民を奴隷の苦しみから解放し、自由を、そして安息を与えて下さったことを見つめ、その安息にあずかる日としているのです。言い換えれば、出エジプト記では神が休んだことが安息日の根拠であるのに対して、申命記では人間に休みが与えられたことが根拠となっているのです。両者の違いは決して矛盾ではありません。出エジプト記において安息日は、神の休みにあずかって人間が休みを与えられる日であり、申命記において安息日は、神が人間に与えて下さった解放、安息の記念日なのです。どちらにおいても、人間の本当の安息、休みは、神によってこそ与えられている、ということを覚える日として安息日があるのです。そして申命記の特徴は、その神が与えて下さる安息を、エジプトの奴隷状態からの解放、救いと結びつけて捉えているということなのです。

主イエスの教え
 神が与えて下さる安息を、このように奴隷状態の苦しみからの解放と結びつけて捉え、安息日をその解放の記念日として守る、という申命記の捉え方は、主イエス・キリストの安息日についての捉え方の土台となっています。本日共に読まれた新約聖書の箇所であるマルコによる福音書第3章1節以下には、主イエスが安息日に、ある会堂で、片手の萎えた人をお癒しになった、という奇跡の場面ですが、その会堂にいた多くのユダヤ人たち、特にファリサイ派の人々は、主イエスが安息日に病人を癒すという仕事をするかどうかを注目しており、それをするならイエスを律法違反、十戒の第四の戒めへの違反によって訴えようとしていたのです。そのような悪意ある目で注目している人々に対して主イエスは、「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」とおっしゃいました。善を行い、命を救う、それは苦しみに支配されており、脱出することが出来ずにいる人をそこから解放し、安息を、安らぎや平安を与えてあげることです。安息日は、神がご自分の民をエジプトの奴隷状態から解放して、苦しみから救い出し、安息を与えて下さった、その恵みを記念するための日ではないのか、だからこの日に、神がして下さった恵みのみ業に倣って、苦しみに捕われている人を救い、安息を与えてあげることはむしろ相応しいこと、なすべきことではないのか、と主イエスは言っておられるのです。それはまさにこの申命記第5章に語られている安息日の根拠と目的を土台とした言葉なのです。

主イエスによる解放の記念日
 このように安息日は、神が与えて下さった解放、自由、安息を祝うための日であると言うことができます。イスラエルの民は、エジプトの奴隷状態からの解放によってその自由、安息を与えられ、それを記念する日として安息日を守ってきたのです。神が私たちに与えて下さっている救いも、この解放、自由、安息です。私たちも、イスラエルの民と同じように奴隷状態に置かれていました。私たちを奴隷として縛りつけていたのは罪の力です。私たちの命も人生も、神が造り与えて下さり、祝福して下さったものですが、そのことを受け入れようとせず、神に感謝しようとせず、神に従うのではなくて自分の思い通りに生きようとしていることが聖書の語る人間の罪であり、私たちは神から自由になろうとするその罪のために、結局は罪の奴隷となり、罪によってがんじがらめに縛られてしまっていたのです。それが私たちの生まれつきの姿です。この罪の支配は、エジプトでの奴隷状態のように目に見えるものではないために、より始末に悪いものです。つまり私たちは自分が罪の奴隷になっていることになかなか気がつかないのです。しかし実際には罪に支配されてしまっているために、神との良い関係を失い、同時に隣人との関係においても、人を愛し受け入れることができずに、傷つけ合い、裁き合っていくようなことに陥っているのです。しかし神は、そのようにご自分に背き逆らい、神を神として敬おうとしない私たち罪人を罪の奴隷状態から解放して下さるために、独り子イエス・キリストを遣わして下さったのです。そして主イエスが、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったことによって、私たちを罪の奴隷状態から解放して下さり、神の子として、神の恵みを受けて生きるという安息を与えて下さったのです。イスラエルの民のエジプトからの解放において決定的な出来事は、過越の小羊が犠牲として殺され、その血がイスラエルの民の家の戸口に塗られたという「過越の出来事」ですした。過越の小羊が犠牲となることによって、イスラエルの民はエジプトの奴隷状態から解放され、安息を与えられたのです。それと同じことが、いやそれ以上のことが、神の独り子イエス・キリストの十字架の死と、復活とにおいて、私たちのためになされました。神の子である主イエスが私たちを罪の支配から解放し、神の子として新しく生かすために、十字架にかかって死んで下さり、復活して下さったのです。このキリストの十字架の死と復活とにあずかることによって私たちは、生まれつきの、罪に支配された古い自分が死んで罪から解放され、復活なさった主イエスと共に生きる新しい命を与えられて、その安息、平安、喜びの内に神に従い仕えていく者とされているのです。この主イエスによる解放、安息を祝い、喜び、感謝するために与えられているのが、私たちの安息日である主の日、日曜日です。それは週の七日目ではなくて最初の日、主イエス・キリストの復活の日です。イスラエルの民のエジプトからの解放の記念日である土曜日の安息日に代って、主イエス・キリストの復活による私たちの罪からの解放の記念日として、主の日が与えられているのです。私たちは、主の日、日曜日の礼拝において、主イエス・キリストによる救い、解放、自由を共に祝うのです。安息日を、天地創造における神の七日目の休み、ということにのみ基づいて見つめていると、キリスト教会においてそれが日曜日、週の始めの日に移されたことは疑問にも思えてきますが、申命記に語られているように、これを神による解放の記念日として見つめるならば、それが日曜日に移されたことはむしろ当然のことであると分かるのです。

共に自由を祝おう
 こういうわけで、今や私たちにとって日曜日、主の日が安息日であり、この日に、神が主イエス・キリストによって与えて下さった解放と自由を私たちは喜び祝うのです。しかし申命記におけるこの第四の戒めが教えているのはそれだけではありません。私たちは、神が与えて下さっている解放、自由、安息を、私たちの周囲の人々にも分け与えていく者となることへと、この戒めによって招かれているのです。そのことは14節に示されています。「七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる」とあります。安息日に仕事を休むのは、私たちが安息を得るためだけではないのです。息子、娘、男女の奴隷、牛やろばなどの家畜、そして寄留している人々、つまり、私たちと共に生きており、私たちの影響下にある人々、家族であったり、部下であったり、何らかの形でお世話をしている人々、また寄留している人々というのは、外国人で今この国に暮らしている人たちです。それらの人々は、私たちよりも立場が弱かったり、偏見や差別を受けていたりすることもあります。そのような、自分の周囲にいる様々な人々に思いを向け、それらの人々が休むことができるように、安息にあずかることができるように配慮することを、この戒めは求めているのです。私たちはこの社会において、様々な人々と関わりを持って生きています。その中で私たちが、主イエス・キリストによって与えられた解放、自由、まことの安息にあずかって生きる者となるならば、その安息は私たちの周囲の人々にも必ず及んでいくし、またそうでなくてはならないのです。「あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない」と言われています。奴隷だった時の苦しみをあなたは知っているはずだ、だから今奴隷である人々の苦しみを思いやり、その苦しみの中にある人々に解放と安息を与えていくことができるはずだ、と言っているのです。奴隷状態から解放され、自由に生きる者となるとは、このような思いやりをもって生きることができるようになることです。主イエス・キリストの十字架と復活によって与えられている罪からの解放、自由、安息は、私たちに、そのように自分の周囲の人々の苦しみを感じ取り、思いやることができる感受性を与えるのです。私たちはしばしば、自由とは自分の好きなことができることで、人の気持ちなど考えずに歩むことができることだと勘違いしてしまいます。それが「ありのままに」生きることで、それが解放だと思ってしまうのです。しかしそれは実は本当の自由ではなくて、罪の奴隷、自分の思いや欲望の奴隷になっている姿です。生まれつきの私たちの「ありのまま」はそのように罪に支配されてしまっているのです。本当に自由な者、解放され、安息を得ている者とは、周囲の人々にも解放と自由を与えることができ、その自由を人々と共に喜び祝うことができる者です。そのような者でありたいと心から願います。その本当の解放、自由は、主イエス・キリストの十字架と復活によって与えられた罪の赦しと、神の子としての新しい命にあずかって生きる所にこそ与えられます。そのために、主イエスの復活の日であるこの主の日が、礼拝の日として与えられているのです。私たちはこの日に神を礼拝し、主イエスによる救いのみ言葉を聞きつつ歩みます。それによってこの日は私たちにとってまことの安息日となり、その安息は周囲の人々にも及んでいきます。私たちの安息日である主の日は、人々と共に解放と自由を祝う喜びの日となっていくのです。

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