夕礼拝

遣わされている者として

「遣わされている者として」 伝道師 岩住賢

・ 旧約聖書:イザヤ書第52章7-10節
・ 新約聖書:マタイによる福音書第10章5-15節
・ 讃美歌:352、402

招かれた者から遣わされる者に
主のもとに招かれた弟子たちは遣わされる者になりました。彼らは、ずっとイエス様と共にいて、側にいて 、どこにも行かなかったのではありませんでした。弟子たちは招かれた者から遣わされる者となりました。彼 らは、イエス様に派遣の言葉が与えられて遣わされていきました。何も携えないで、彼らは出て行きました。し かし神様は、何も持たない彼らに恵みや糧を与え、支え導いてくださいます。彼らは何も持たないからこそ、何 も自分に頼るものがないからこそ、主に頼り、主の恵み、主の支えのみを信じて、旅立つことができました。 主に招かれ救われた者は、遣わされていきます。わたしたちも弟子たちと同様に、主の福音と恵みと平和を携 えて、各々の生活の場に遣わされていきます。遣わされる者には喜びがあります。神様の恵みが増え広がって いる事実を目の当たりにできます。神様が本当に生きて働いてくださっている事実を実感できます。そして、 その生きて働いておられる方の恵みに自分がいつも支えられているということを実感できます。遣わされる者 は、主が共に生きてくださっているようことを実感できる喜びにいきることができるのです。
本日の箇所は、12人の選ばれた弟子たちの派遣に際してのイエス様の教えが書かれています。ここには彼ら 12人が、遣わされていく先々で、何をしたらよいのか、またどういうことに注意すべきかが語られています。 何をしたらよいのか、それは7、8節に語られています。「行って『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。 病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい」、彼らは、 これらのことをするために力を与えられて遣わされて行きました。こんな力を与えられて派遣された彼らは、 すごいなとわたしたちは思うのですが、しかしここに並べられていることは全て、イエス様がこれまでにして こられたことです。「天の国は近づいた」と宣べ伝える、それは4章17節でイエス様が伝道を始められた時に最 初にお語りになったことです。病人を癒し、死者を生き返らせ、重い皮膚病の人を清め、悪霊を追い出す、そ れらも全て、これまで読んできたところに語られていたイエス様のみ業の中にありました。弟子たちが何か独 自に工夫をして、独創的なことをしていったということではありません。彼らは、イエス様のなさったことを その通りにした、そのための力を与えられたのです。そしてそのことによって、先週聞きましたように、9章36 節にあった、「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」 というイエス様の憐れみのみ心が、世の人々に表されていきました。彼らは、このイエス様の憐れみのみ心を より多くの人に表すために「働き手」として遣わされていきました。
招かれ救われたわたしたちも、同じように、イエス様によって選ばれ、イエス様の憐れみのみ業を担う「収 穫のための働き手」となっていきます。招かれた者から、遣わされる者になっていくわたしたちが、これから どのように歩むか、何を注意したらよいかを今日イエス様はわたしたちにも教えてくださっています。
まずわたしたちは、8節の終わりのイエス様の言葉をよく聞きたいと思います。そこには、「ただで受けたの だから、ただで与えなさい」とあります。弟子たちが遣わされて、そこでなしていく働き、それは、「ただで受 けたものをただで与える」ということです。12人は、汚れた霊を従わせるほどの権能をイエス様から与えられ て遣わされました。しかしその力は、ただで与えられたものでした。この「ただで」という言葉は、「贈り物 として、恵みとして」という意味です。彼らは神様からただで贈り物を頂いた者として、見返りを求めず、た だでその贈り物を他者に分け与えていきなさいと、イエス様に教えられたのでした。
彼らは、神様からそのような権能を贈り物として与えられるような、特別に優れた力や才能を持って人々で はありませんでした。立派な人間でもありませんでした。イエス様は彼らから何一つ求めようとせず、ただ恵 みによって、贈り物として、救いと平安を与え、さらに使命を行なっていく力をも与えて下さったのです。だ から弟子たちは、何の能力も相応しさもない自分に、ただ恵みとして与えられたものを、人々にも、ただで、 何の能力も相応しさも求めないで与えていきました。
わたしたちが共通して、ただで主なる神様から与えられている贈り物とは、イエス様を通して与えられた救 いです。そして今も与え続けられている父なる神様の支えや導きです。わたしたちにとって最上のものを、最 も良い時に与えてくださるという父の恵みと支えに委ねられる幸いと、それによって思い煩いから解き放たれ 、平安がわたしたちには与えられています。それらが「神様の支配」による恵みであり、そのイエス様におい て実現した救いと、主からの恵みをただで分け与えていきなさいと、イエス様はわたしたちにいっておられま す。またわたしたち一人ひとりにおいては、それぞれの賜物も、神様からあたえられています。癒やしの賜物 を与えられているもの、教える賜物を与えられているもの、仕える賜物を与えられているもの、祈り続ける賜 物を与えられているもの、他にも無数にありますが、これらの賜物も神様がわたしたちにただで与えてくださ ったものです。その賜物による益、例えば、お医者さんとして賜物を与えられている者は、他者にその賜物を 存分に使っていく。これも、主の恵みを分け与えていくこと、「天の国が近づいた」という福音を宣べ伝えて いくことの一つの形です。しかし、そのような目に見える具体的な賜物が、なかったとしても、先に語ったよ うに、だれもが、共通に与えられている最大のプレゼント、つまり主の救いと恵みと支え、それを喜び、主な る神様の恵みと支えに信頼して委ねて平安に生きることが、一番に「天の国を宣べ伝えていく」ことになるの です。困難や苦しみ、貧しさ中でも、主の恵みと支えを信頼して、それらが得られることを確信している人は 、その生きる場で天の国を宣べ伝えています。貧しさの中で、主からの支えと恵みや糧を与えられたと喜んで 生きるものは、その生きる場で天の国を宣べ伝えています。なくなっても主が必ず与えくださると信頼して、 自分に与えられたもの、惜しまず与えるものは、その所で天の国を宣べ伝えています。主の支えと恵みを信じ 、自分の力や能力、業績、功績、財産などに頼らず、むしろそれを放棄しながら生きているものは、その生活 の場で天の国を宣べ伝えています。死を思う程の絶望を前にしても、最大の絶望を経験された十字架のイエス 様を覚え、さらにその絶望が絶望のままで終わらず、死が命に、絶望が希望に、苦しみや悲しみが喜びと祝い に変えられたとことを覚えて、希望によって苦難と絶望を忍耐するものは、その苦しみの中で、天の国を宣べ 伝えています。わたしたちは、それぞれの生活の場で、救いと恵みに生かされて生きていく時、わたしたちは 、天の国が近づいている、主の救いと完成が近づいていること、神様のご支配の完成が近づいていることをそ れぞれが、説教しているのです。

何も携えないで出て行く恵み
そのようなその恵みを分け与え、宣べ伝えいく上での大切な姿勢、あり方についてを、イエス様は9、10節で 語られております。「帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物 も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である」。ここには、遣わされるものたち が、何も持っていくなということが教えられています。金貨も銀貨も銅貨も、つまりお金は一切持っていくな 、袋や二枚の下着や履物や杖という、旅の最低限の必需品と思われるものすらも持っていくなと教えられてい ます。なぜイエス様は何も持たないことを勧めているのでしょうか。その答えを知るためのヒントが10節にか かれています。「働く者が食べ物を受けるのは当然である」。これはつまり、自分で蓄えを持って用意してい かなくても、神様のための働き手には必ず必要なものが備えられ、与えられるということです。誰がそれを備 え与えてくれるのでしょうか。具体的には、行った先々の人々が、必要なものを献げてくれるということです が、しかしそれは根本的には、神様が与えて下さるということです。これは、山上の説教で、イエス様が教え られた、「父なる神様が、わたしたちの父として、必ず支えや糧、必要なもの与えてくださる」という教えと 関係しています。イエス様に遣わされる弟子たち、つまり信仰者の歩みは、自分の今まで蓄えてきたもの、能 力や財産、功績に寄り頼んで生きるのではなく、ただ神様が恵みとして与えて下さるものに支えられ、生かさ れ、そして神様が与えて下さる力によって使命を果していくことが求められています。実はそのように生きるか らこそ、何も持っていないからこそ、わたしたちは、無い所に与えられ、主の恵みを存分に味わい、主の恵み に生かされている喜びに生きることができるのです。
遣わされる者は、自分に対しての自信であったり、能力は一切必要ない、そのような自分の中の蓄えは全く ない者が、神様の恵みによって、ただで必要なものを全て与えられ、支えられ守られてその使命を果たしてい くことができる、そして、誰よりも神様の恵みを感じ、喜ぶことができる。その喜びと感謝の姿こそが、天の 国を宣べ伝える最大の表現なのです。「何も持っていくな」というイエス様の教えは、その喜びに生きための 勧めを語っているのです。

「平和があるように」というおみやげ
11節以下には、遣わされて行った先で何をするべきかが教えられています。しかし何か特別なことをせよと 言われているわけではありません。することはただ一つ、12節にある「平和があるように」と挨拶することで す。実はこの12節の原文には「平和があるように」という言葉はありません。直訳すれば、「その家に入った ら挨拶をしなさい」という文章です。その挨拶が、ユダヤ人の間では「シャーローム」という言葉であり、そ れは「平和があるように」ということです。その「シャーローム、平和があるように」という挨拶をする、そ れが弟子たちが派遣された先でするべきことなのでした。そしてその一言の挨拶が、大きな意味と効果を持つ のです。彼らは、何も持っておらず、父なる神様が必ず与えてくださるということを信頼して生きていました 。ですから、彼らは、遣わされた家にいっても、何も目に見えるものとしての手土産は何も持っていなかった ということです。お金もないし、下着もない。下着があったとしてもプレゼントされても嬉しくないですが、 とにかく彼らは、わたしたちの考える手土産となるようなものは何も持っていなかったのです。しかし、彼ら は、イエス様から手土産を渡されていました。それは「主の平和」という手土産です。「平和があるように」 という挨拶を通して、彼らはその家の者と知り合いになり、その家の者は弟子たちを知るようになる。その関 係を通して、イエス様から渡された「平和」という手土産が渡されていきます。その主の平和の分かち合いは 、何も持っておらず神様からの支えと恵みにだけ生きている弟子たちが、主に支えられているから思い悩むこ となく平安、平和に生きることができているという驚くべき事実に、その家の人たちが出会うことによって始 まります。彼らが弟子たちと挨拶を通して、知り合いになり、具体的に出会っていくことによって、「主の平 和」の恵みに彼らが触れることなり、その主の恵みを信じたものには、実際に「主の平和」が与えられていく のです。この挨拶ということも、わたしたちにとって本当に大切なことです。これは「おはようございます 」「こんにちは」「さようなら」とちゃんと言いましょうということではありません。この「挨拶しなさい」 ということに示されているのは、「今まで、知らなかった人」「顔は知っているけど知らなかった人」それら の人と、言葉と自分の存在をもって出会っていく、関係していくということをしなさいという、イエス様の求 めが込められているのです。この出会いと、関係が始まることを通して、彼らは主の憐れみと恵みに出会い、 平和が伝えられていくのです。この挨拶からはじまる出会いがなければ、なにもはじまらないのです。
しかし、13節に「家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。 もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる」。とあるように、ふさわしくなければ、そ の出合った人々も、平和はうけられないとイエス様は語っています。この「ふさわしさ」というのは、わたし たちが考えるような、信仰熱心で、清らかな生活を送っていればOKというようなことではありません。そんな ことであれば、イエス様の恵みに与るためには、やっぱりなんらかの能力やふさわしさがなければならないと いうことになってしまいます。当の弟子たちは、この主の憐れみと平和を与ったとき、むしろわたしたちが考 えるところのふさわしさなどありませんでした。人からお金をむしりとることに必死になっていたマタイのよ うな人が、この主の平和に与っていましたから。ここで語られる「ふさわしさ」とは、神様が与えて下さる恵 み、平和を、自分の何らかの資格や相応しさに対する報酬としてではなく、まさに恵みとして受けとるという ことです。つまり自分の中の蓄え、自分が持っているもの、自分にはこれができる、ああいう力があるという 思いを捨てて、ただ神様の恵みを感謝してお受けするという心です。神様の恵みが本当に恵みとして、つまり ただで、何の能力も行いも問われることなく自分に与えられていることを信じ受け入れる人、そしてそれを心 から感謝していただく人、その人こそ「ふさわしい人」なのです。本当にその恵みをただでいただこうとする人 、自分はそのためにどんな代金も支払うことはできない、何の相応しさもないということを知るその人々が、 その恵みと平和、そして喜びを得ることができるのです。
弟子たちは、この主の憐れみと平和を宣べ伝え、与えていく使命のために遣わされていきました。わたした ちもその使命を与えられる一人です。そのわたしたちにとって大事なことは、まずわたしたち自身が、神様の 恵みを、本当にただで受ける者になることです。その恵みは、イエス様による恵みです。イエス様が、わたし たちが陥っている罪の責任を全て背負って十字架にかかって死んで下さった、そして復活して下さった、それ によって、わたしたちを支配している罪と死の力を打ち破って勝利して下さり、神様の下で生きる本当の平和 と希望を与えて下さった、この恵みがまさにただで、わたしたちに与えられています。ただで与えられている この恵みを、わたしたちが信じて受け、感謝していく時に、わたしたちは、神様からの平和を与えられます。 そしてその平和に支えられ、守られ、導かれている者として、自分の中には何の蓄えも、力もないままで、イ エス様の働き手として遣わされていく時に、さらにその恵みと支えを実感することができ、主が生きておられ ること、共にいて支えていてくださることを実感し、感謝し、喜ぶことができるようになっていきます。そし てさらに、そのような何もないわたしたちを通して、イエス様の憐れみのみ心が、わたしたちを通して人々の 間で実現していくことを体験することができるのです。
最後に、イエス様が5節、6節で、弟子たちに「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入 ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」と語られたことを見たいと思 います。この5,6節は、要するに、異邦人の所ではなく、同胞である神の民イスラエルの中へといきなさいと イエス様が言われたということです。それをわたしたちに当てはめてみれば、まずは教会の中で、その兄弟姉 妹の交わりにおいて、互いに、イエス様の憐れみの働き手として、平和をもたらす者として歩みなさいという ことです。わたしたちは、この群れの中でも、互いに傷つけ合い、平和をもたらすどころか争いを引き起こし てしまうようなことがあります。また自分の家庭や、友人関係、恋人との間でも、平和ではなく争いを起こし てしまいます。ですから、わたしたちは、「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」というみ言葉を、今こ そ忘れてはならない時です。わたしたちはただで、何の相応しさも資格もないのに、イエス様から罪の赦しの 父なる神様から、豊かな恵みを受けました。だからそれをわたしたちの隣人にも、ただで、罪を赦し、ただで その恵みを与えていく者でなっていくのです。そしてそのような主にある兄弟姉妹の交わりを、新しい神の民 である教会においてまず築いていくことをイエス様は求められておられるのです。教会の兄弟姉妹との交わりか ら始まり、その恵みと平和に生かされている兄弟姉妹が、個々の家族、親戚、友人、恋人、同僚、隣に住む人、 町の中を行き交いしている人、社会、世界と関係していき、その群れに加えられて、どんどん主の恵みと平和 が広がっていくのです。主に招かれたわたしたちは、次は、この主の支配の実現と平和を目の当たりにしなが ら、その恵みを実感し喜びに生きる、遣わされる者へとなるのです。そのように、主が遣わされたものとして 、わたしたちに生きることを、命じられておられます。感謝して。祈りましょう。

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