夕礼拝

重要な掟

「重要な掟」  伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書; ホセア書 第6章1-6節
・ 新約聖書; マルコによる福音書第12章28-34節
・ 讃美歌 ; 235、483

 
待降節
教会の暦では、本日からアドベント(待降節)に入ります。この季節に、私たちは、主イエス・キリストが世に来られたクリスマスを覚えつつ時を過ごします。しかし、ただ、2000年前に主イエス・キリストが世に来られたことに思いを寄せるというだけではありません。キリストが再び来られる世の終わり、救いの完成に思いを向け、待ち望むのです。そして、アドヴェントを通して、私たちの信仰生活の中心にある、望みつつ待つという姿勢を新たにするのです。
キリストが来られるのを待つとはどういうことでしょうか。それは、「神の国」を待ち望むことです。神の国というのは、何か領土と権力がある、具体的な国家を意味しているのではありません。神様の救いの御支配を意味しています。神の国を待ち望むというのは、神様の救いの御支配の完成を待ち望むということです。ですから、キリストが来られるのを待ち望むということは、この世の歴史の中で繰り返し現れる、自分はキリストの再臨だとか、自分は預言者だと主張している人の言葉に耳を傾けるということではありません。それがどのような形で来るのか、私たちには分からなくても、ただ神様が、救いの御意志によってその御支配を完成して下さることを待ち望むのです。
信仰生活が、神の支配を「待つ」ことだという時、決定的に重要なことは、この救いの完成が、最終的には私たち人間の業によって実現されるのではないということです。人間の業によって救いが完成されるのであれば、信仰生活は、「待つ」歩みではなく、そこに到達しようとして、日々近づくために励むだけの歩みになるでしょう。しかし、信仰の歩みはそのような歩みをすることではありません。私たちは、救いの完成に向かって進みつつ、そこには、常に、「待つ」という姿勢がなければならないのです。そのようなことを心に止めつつ、本日与えられましたマタイによる福音書12章28節以下の御言葉に聞いて行きたいと思います。

「律法学者の問い」
 主イエスはエルサレムにお入りになってから、様々な人々と議論を交わしました。マルコによる福音書の11章、12章には、そのような議論が集中して出てきています。主イエスは、「祭司長、律法学者、長老たち」又、「ファリサイ派やヘロデ派」と言った人々と議論を交わして来ました。そして、直前の12章18節以下には、「サドカイ派」と言われている人々と復活を巡って議論をしたのです。そのような議論の締めくくりとでも言えるのが本日の個所に記された議論です。最後の所に、「もはや、あえて質問する者はなかった」とあるように、ここで、人々の質問は終わるのです。28節には次のようにあります。「彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた」。この律法学者は、直前の個所での主イエスとサドカイ派の人々との議論を聞いていたのです。そして、その主イエスの返答があまりに見事だったので、自分も問いかけたのです。この人の態度は、明らかに今まで問いを投げかけて来た人々とは違います。今までの人々は、主イエスをためし、陥れようとして問いかけたのです。しかし、この律法学者は、主イエスの答えに感銘を受け、その上で、真摯な思いから自分が疑問に思っていることを尋ねたのです。
ここで問われた問いは、「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」というものです。律法学者というのは、神の国を求め、そのために神の律法を学び、それを守って歩んでいた人々です。そして、律法の専門家として、民を指導していたのです。彼らは、律法に則した生活をするために、律法を自分たちの生活の中で実践するための掟を細かく定めていました。主イエスの時代、ユダヤ教では、「書かれた律法」、「口伝律法」を含め、613の戒律を定めていました。248の果すべき戒律と365の犯してはならない戒律です。そのように多くの掟が定められる中で、自分たちが日々実践している掟の内どれが第一かということが問題になることもあったのでしょう。そのような普段から人々の心の中にあった疑問を率直に主イエスに問いかけたのです。主イエスの立派な答えを聞いて、主イエスならば、自分たちが論じていることにも明快に答えてくれるだろうと思ったのです。

「第一の掟」
そのような真摯な問いかけに、主イエスはすぐに、お答えになります。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』」。主イエスはここで、申命記第6章4~5節に記されている御言葉を引用します。この個所は、この句の最初の部分を取って「シェマー」と言われており、イスラエルの人々が日々の生活の中で祈り、常に唱えていた言葉です。普段から繰り返し唱えている、この掟こそ、すべての掟の中で第一であることを確認したのです。ここで先ず言われているのは、主なる神が唯一の神であるということです。私たちにとって神が唯一であるとはどういうことでしょうか。それは、真の神のみが神であるということです。私たちは、しばしば、真の神以外のものを神としていることがあります。神以外の様々なものによりたのみ、自分の生活を支えるための何よりも大切なものにする時、私たちは真の神以外のものを神としているのです。自分自身を神としていることもあるでしょう。「自分しか信じない」という態度でいる時、語りかけられている神の言葉に耳を閉ざしてしまうことがあります。唯一の神を神としていない時、私たちは様々な偶像に仕えているのです。その時、私たちにとって神は唯一ではなくなります。そして、もし、神が唯一でなければ、本当に神を愛することは出来ません。主である神を愛するとは、ただお一人の神と向かい合って生きるということなのです。真の神以外の様々なものを神として拝む時、私たちは、神を愛するということをしていません。自分の思いを実現してくれるであろう神々に心を奪われているのです。そのような偶像を拝むことを止めて、ただ真の神を神とし、その方の御顔を仰ぎつつ歩むことこそ、律法が語る第一のことなのです。

「第二の掟」
ここで、主イエスは、第一の掟だけをお語りになったのではありません。更に続けて、次のようにあります。「第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい』」、これは、レビ記第19章18節に記されている掟です。主イエスはこれを、「第二の掟」としてお語りになったのです。律法学者は、掟の中で何が第一かを聞きました。ですから、主イエスは聞かれていないことまで答えているように思います。しかし、ここで主イエスがお語りになった、隣人を自分のように愛するという掟は、第一の掟と密接不可分なのです。神を愛することと隣人を愛することの間には確かに順序があります。神を愛する愛が語られ、それから隣人を愛する愛が語られるのです。けれども両者は分けて考えることは出来ません。 しばしばなされる議論に、神を愛することと隣人を愛することのどちらが大切かということがあります。そのような時、大抵、「神を愛する」ということで礼拝や伝道が見つめられているのに対して、「隣人を愛する」ということで、社会の中で困っている人々を助けることや、社会での奉仕活動が見つめられています。主に従うということにおいて、礼拝や伝道を重んじる人と社会での奉仕活動を重んじる人々の間で意見が対立するのです。片方では、社会活動ばかり行って、神を礼拝することをしないのは駄目だと主張し、他方では礼拝や伝道などしていても世の中は何も変わらないと主張するのです。しかし、そのような議論は愚かなことです。主イエスは、神への愛と隣人への愛を結びつけておられるのです。神を愛するということがない所では、本当に隣人を愛することは出来ません。又、隣人を愛することをしないで、自分は神を愛しているということは出来ません。神を愛するとは、神が自分と同じように愛しておられる隣人を愛するという姿勢において具体的に現れます。真の神を愛するとは、自分だけの神を愛することでも、自分と意見が合うもの同士の神を愛することではありません。そのような神は偶像に過ぎません。すべての人にとっての神を愛することなのです。ですから、私たちは、神を愛する時、神が愛しておられる隣人を見出し、神がその人を愛している故に隣人を愛するのです。又、隣人を愛することは、神への愛なしにはあり得ないことです。真の唯一の神を神とし、愛することによって、その神が愛しておられる隣人を愛することが出来るのです。

自分を愛するように
 ここで、隣人を愛するということについて「自分を愛するように」ということが言われていることにも注目したいと思います。私たちが、この言葉を聞いて、私は、それ程自分のことを愛していないと思う方がおられるかもしれません。私たちは、自分の欠点を嘆き、自分を好きになれないということがあります。しかし、ここで、自分を愛するという時の愛は、自分が、どれだけ自分のことが好きかということではありません。主イエスはここで、私たちが自分自身を好きな度合いに応じて隣人を愛せばよいとおっしゃっているのではありません。私たちは、この世で歩む限り、自分を愛して生きているのです。本来、隣人と同じような罪人であるにも関わらず、自分の罪に目を止めることなく歩んでいるのです。自分の罪はすぐに忘れ、隣人の自分に対する罪は忘れないということがあるのではないかと思います。そのような意味で、私たちは、ことごとく自己愛によって生きていると言って良いでしょう。この御言葉は、隣人を裁くことには熱心な反面、自分の罪を棚上げしている者に、自分を愛し赦しているのと同じように、隣人を赦し、隣人を愛する者となれと語っているのです。

どんな焼き尽くす献げ物より
主イエスの返答に対して、この律法学者は答えます。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛して神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています」。
 この返答から分かることは、この人が、主イエスがお答えになったことを聞いて、愛に生きるということが律法の中心であり、律法はそれを目的としていることを受け入れたということです。ここで、「焼き尽くす献げ物やいけにえ」と言われているのは、人間が、神の怒りをなだめるために、律法の規定に従って献げる献げ物です。しかし、律法の定めに従って犠牲を献げる時、その行い自体が重要なのではありません。祭儀を行うことの中心に、「愛に生きる」ということがなければならないのです。神を愛するということなく、ただ形式的に掟を守ったとしても律法を生きていることにはないのです。
掟やルールというのは、それが定められる目的があります。しかし、ただ掟だけが一人歩きし、本来、その掟が目的としていたことが忘れられてしまうと、ただ、形式的に掟を守っているという事態も起こるのです。そこでは、掟は、掟のための掟になってしまいます。掟ということには、どのようなものであれ、このような側面があると言って良いでしょう。本来ある目的を実現するために定められる掟が、それ自身が目的になってしまう。神の律法も又、愛に生きるという目的に資するものではなくなってしまうのです。ただ掟を守るということにあくせくし、そこで、本来の目的が忘れられてしまうということがあるのです。神の民イスラエルも又、そのようなことと無縁ではありませんでした。本日お読みした旧約聖書ホセア書第6章6節でははっきりと、そのような焼き尽くす献げ物が否定的に語られています。「わたしが喜ぶのは/愛であっていけにえではなく/神を知ることであって/焼き尽くす献げ物ではない」。ここには、目的を忘れて行われる律法が定める祭儀は、主なる神が喜ばれるものではないことがはっきりと記されています。
ここで律法学者の問いかけた、「律法の中でどれが第一でしょうか」という問いかけには、少なからず、律法それ自身を目的とするという態度があるように思います。様々な律法の中で、これだけは、特に重んじなければならないというものを聞こうとしたのです。そのような質問に対して、主イエスは、もう一度、律法の目的をお示しになられたのです。ここで、主イエスは確かに、律法の中に記されている掟を取り上げてお語りになりました。しかし、主イエスは、数ある律法の中に序列があるということを前提としてお語りになっているのではありません。律法には、1番から613番まで順位を付けることが出来るというのではないのです。そうではなくて、すべての律法は、この二つにまとめることが出来る、神を愛し、隣人を愛するという目的のためにある。そして、それこそが、神の国、神様の救いの御支配の実現なのだとおっしゃっているのです。

  「神の国から遠くない」
この律法学者は、主イエスが語られたことを良く理解し、はっきりと主イエスに同意しました。ここにはこの律法学者の信仰が良く現れている言葉であると言って良いでしょう。当時のユダヤ人たちが、律法を守ることを何よりも大切にするあまりに、そこで神の律法があることの目的を見失い、事実愛に生きることが忘れられてしまうということが起こっている中で、主イエスの答えに同意して、愛に生きることこそ、律法の目的であることを受け入れていたのです。
主イエスはこの律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」とおっしゃいます。ここには、まず、この人が「適切な答え」をしたことがはっきりと示されています。その上で、「あなたは神の国から遠くない」とおっしゃったのです。主イエスは、あなたは「神の国にいる」とか、「神の救いを得ている」とおっしゃったのではありません。「遠くない」とおっしゃったのです。この答えには、はっきりと、この人が、神の国の側まで来ているけれども、そこには達していないということが示されています。何故、この律法学者は、「神の国から遠くない」と言われているのでしょうか。それは、この人が、結局、神の国、救いは、自分で到達するものであると考えているからではないでしょうか。どれが大切な掟なのかを問い、「おっしゃる通りです」と応答するこの人の態度には、自分が救いに到達するためにしなくてはならないことを求める姿勢があります。自分の業によって救いが得られるという思いから、何をすれば良いのかということを問い、求めるのです。そして、知識として、神と隣人を愛することが律法の中心であると知っていることで満足しているようにさえ思います。しかし、そこでは、真に神の国、神様の救いの御支配に生きているとは言えないのです。

救いへの招き
しかし、主イエスは、この人を責めているのではありません。ここには、今まで質問をした人々に対する主イエスの態度とは異なり、主イエスのこの人への慈しみすら感じられます。主イエスは、あなたにはまだまだ努力が足りないという意味で、神の国から遠くないとおっしゃっているのではありません。そうではなく、神の国の到来を告げるご自身に目を向けろとおっしゃっているのです。あなたが求めているものは、私の内にあるとおっしゃっているのです。この後、主イエスは十字架につき、その死によって、人間の罪を贖うことになります。主イエスご自身の十字架において、神と隣人を愛さずに歩む人間の罪が赦されている。そこに、真の神の救いの御支配の到来があるのです。そして、この神の救いを実現するキリストに身を委ねることこそ大切なのです。この律法学者にないものは、キリストの前で、神と隣人を愛することが出来ない自らの姿、又、そのような者を贖おうとする主なる神の愛を知らされることです。そして、主なる神の救いの御業に生かされることなしに、神を愛し、隣人を自分のように愛する歩みはなし得ないのです。
神様の救いの御支配は、自分の守るべき掟を求め続けて、掟を目的として歩むことの結果与えられるのではありません。又、掟の目的を理解することによって与えられるのでもありません。神の救いを実現するために、御子が、私たちの下に来て下さっている。その恵みの中で、自らの神と隣人を愛することにおいて不完全な罪による破れを知らされつつ、キリストに依り頼むということこそ大切なのです。そして、そのキリストの愛に生かされつつ、神と隣人を愛する歩みに押し出されていくのです。

救いを待ち望みつつ
「神の国から遠くない」、この答えは非難の言葉ではなく、自分の力で、救いを得ようとするこの人が、尚埋められない神の国との間の距離を、主イエスご自身が埋めて下さる方であることを受け入れ、そこに寄り頼むようにとの招きの御言葉です。掟を守ることによって救いを得ようとする歩みは、待つことをしない歩みです。主なる神から来る救いを求め、それに委ねる歩みにおいて、私たちは真の救いを「待つ」のです。
私たちは、自分の業ではなく、キリストの業により頼むときに、主イエス・キリストの赦しに与り、主イエスの救いの御業に自らを委ねる中で、初めて、神を愛し隣人を愛する歩みに押し出されて行きます。自らの罪を赦してくださった、唯一の神に目を向けつつ、同じように、その愛が及んでいる隣人を愛する者とされる。主イエスによって赦されている者として、互いに赦し会う者とされていくのです。
この世にある限り、私たちの歩みは不完全なものです。しかし、尚、救いを実現する神の救いの御業を待ち望むのです。このアドベントの時、既に、来て下さった主イエス・キリストに目を留めて、そこで示された救いの約束に生かされて、主なる神と隣人をも愛しつつ、救いの御支配が完成する世の終わり到来を待ち望む者でありたいと思います。

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