主日礼拝

和解の言葉を伝える使命

「和解の言葉を伝える使命」 伝道師 岩住賢

・ 旧約聖書:出エジプト記 第4章10-12節
・ 新約聖書:コリントの信徒への手紙二 第5章16-21節
・ 讃美歌: 208、412、512

 今朝はコリントの信徒への手紙二、5章の16節以下を共に聞きましたが、17節のところをもう一度お読みしたいと思います。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」

 「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。」とあります。この「結ばれた」という言葉は、原語に近く訳しますと、「キリストにある」となります。この「キリストにある」いうことが、これは分かったようでなかなか分かりにくい言葉です。「キリストにある」とか「主にある」とかいう言葉は聖書の中にたくさん出てきます。またクリスチャンはメールや手紙の中でよく「主にあって」「在主」というようなことを書きます。しかし、その「キリストにある」ということは、いったいどういうことなのかということを、案外ちゃんと突き詰めて考えるということをしていません。何となしに「キリストにある」という言葉を、形式的に言っているということが多いようです。「キリストにある」と訳されています言葉は、使われているところによっていろいろなニュアンスがあります。たとえば、イエス様との人格的な交わりを表す、そういう場合もたくさんあります。しかし、ここではそうではなくて「キリストの中に置かれる」という意味だと理解したほうがいいでしょう。わたしたちがキリストの中に置かれているならば、わたしたちは新しく造られた者だと意味で理解する時、ではその「キリストの中に置かれる」とはどういうことだろうかということをわたしたちは疑問に思います。この「キリストの中に置かれる」ということを、想像を膨らまして考えたいと思います。

 わたしたちが鹿児島に住んでいたとしましょう。そのわたしたちが急いで東京に行かなければいけないという時にはどうするでしょうか。すぐ、鹿児島空港にいって飛行機に乗るでしょう。しかし、わたしたちが江戸時代に生きていたらどうでしょうか。江戸時代の人にとっては、飛行機に乗るということは、ありえないことです。江戸時代の人は、急いで江戸へ行かなければいけないという時には、まずわらじを履き、家を出て歩いて行くでしょう。歩いて行くか、馬に乗るということが当たり前のことであり、それしかできません。そういう人に「飛行機で行ったらいい」というようなことを言っても、これは全く理解できないことです。「人間が空を飛べるなんてことがあるか」と、きっと言われます。「キリストにある」ということは、江戸時代の人が、飛行機に乗るようなものです。江戸時代の人に思いもかけなかったように、わたしたちが「キリストにある」ということは、聖書で「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された」と書かれていることと一緒なのです。人は歩いて行くことしかできません。空を飛ぶことができない存在です。そのわたしたちが空を飛んで東京へ行けるということは、飛行機に乗るからです。飛行機の中に置かれる、それは人でありながら、全く違う存在になります。キリストにあるとはそういうことです。キリストの中に置かれて、同じ姿なのに、救われているものとなるのです。歩いて東京に行くとしたら、体力と気力が相応に必要となります。体の弱い人はとても歩いていけない。しかし、飛行機に乗って行くのだったら、歩けない赤ちゃんでもちゃんと行けます。キリストの救いというのは、そういうものであります。

 ローマの信徒への手紙の三章にパウロは救いについて「そこには何の差別もありません。 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」と言っています。「何の差別もない」赤ちゃんであろうと、病人であろうと、オリンピック選手であろうと、そんなことは問題にならないのです。これが「キリストの中に置かれる」ということです。そこでは人としては全く同じでありましても、片や地上を歩くしかできないもの。片や空を飛ぶことができるもの。全く違う存在でとなります。そこでわたしたちはそういうキリストの中に置かれたい、そして新しい人になりたいと、そういうことを切に望むわけです。そして、どうしたらいったい、キリストの中に置いていただけるだろうか、このことでいろいろ悩んで人はいろんな努力をいたします。たとえば善行をして徳を積むとか、あるいは断食をして祈るとか、いろんなことをします。そういうふうにして、何とかしてキリストの中に入れていただきたいと考える。それは、人間がまじめで真剣で、そして一生懸命やっておれば、それで救われる、それでキリストのものになることができる、そういう考え方であります。一生懸命やりますと、ある時は、何かキリストと一つになったような感じがすることもあります、心が燃えてくることもあります。しかし、またそれが、がくっとなって、やっぱりわたしは駄目だろうかというような、そういう悩みが起こってきます。わたしたちは、そういうことでいつも、自分はなかなか信仰深くなっていないと悩むのです。

 しかし、ここでわたしたちはもう一度聖書から神様のみ言葉しっかり聞きたいと思います。それは18節でこう言われています。「これらはすべて神から出ることであって、」これは大事なことであります。わたしたちが一生懸命まじめに努力をしてキリストの中に入ることができるかというと、そうではない。キリストの中にあるということは、神様がなさることだと、そういうふうにはっきり書かれています。これがはっきりしないとわたしたちはいつも信仰がはっきりしなくなるわけです。ところで、この18節の言葉ですが、「これらはすべて神から出ることであって、神はキリストを通して──」となっていますが、直接訳すと、「キリストを通して、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった神様から出ている」とになっています。意味は同じだと言えますけれども、ニュアンスが違います。ただ漠然と神様から出ているというのではなくて、わたしたちを御自分に和解させるためにキリストをお遣わしになった神様、その神様からこの救いが出ている、ということをここで言っているのです。今申しましたように、わたしたちはどうやってこのキリストの中にある者になるか、ということでいろいろ悩むのですけれども、実は、これは、神様がわたしたちをキリストの中に置いて下さったのです。神様はわたしたち皆をキリストの中に置くためにキリストをお遣わしになった。イエス様が救い主として来られた、というそのことの中に、わたしたちが皆キリストの中に置かれているということが、すでに起こっているのです。それを真実として受け止める時、わたしたちは真に新しい人にされるのです。それを明らかにしているのは、洗礼です。洗礼式において、「わたしはそのキリストの中に入れられていた」ということを明らかにされるのです。信仰者が今、どうやってキリストの中へ入るかというようなことを、心配しなくても良いのです。わたしたちはすでにキリストの中にある、これが信仰生活の出発点です。

 しかし、聖書はもう一つのことを言っています。その神様は「和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました」これはどういうことでしょうか。わたしたちをキリストの中に置く、そしてそのすべての罪をキリストにおいて贖うということは、すでに神様がなさって下さったことであります。飛行機に乗っていますと、わたしたちが何にもしないでも、空へ上がることができる。もし飛行機が墜落すれば皆死んでしまう。そのように、わたしたちはキリストの中に置かれておりまして、キリストの十字架においてわたしたちはみんな死んだのです。キリストの復活においてわたしたちは新しく生まれたのです。それはすでに起こっております。しかし、わたしたちはどうやってそのことを知るでしょうか。独りで黙想していれば分かるでしょうか。分からないです。しかし、今わたしたちはそれを信じています。どうして信じたでしょうか。これは福音を聞いたからです。神様はわたしたちを救うために独り子を送って下さった。その十字架によってわたしたちの罪を贖い、わたしたちを罪の支配から解き放って下さった。そういう福音を聞いて「ああ、そうだったのか。ありがとうございます」と言って、わたしたちは信じたのです。すなわち、福音を聞くということがなければ、わたしたちは絶対にこの神様の深い救いの真実を知ることができない。その福音を聞くということはどうして起こったかというと、これはイエス様の弟子たちがこの福音を神様から委ねられて「地の果てまでこれを宣べ伝えなさい」と言われ、その務めを与えられたからです。ここに神様の深い恵みがあります。もし神様がそうしようと思われるならば、何も人間の手を借りなくても、人間の心にその福音を知らせることができたかもしれない。しかし、神様は人間にそういう役割を与えて下さいました。人間を神様に和解させるという、その大変な出来事に一つの役割を与えて、これに参加させて下さったのであります。これがここに言われております「和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました」ということであります。今申しましたように、わたしたちは何も知らなくても、すでにキリストの贖いによって罪を赦され、神様の子どもとされております。しかし、知らなければこれを信じることはできない。信じることができなければ、わたしたちは依然として悩みの中にあります。自分の罪に悩みます。自分が神の子になったということも知らない。そのわたしたちに福音を知らされました。そこで、神様の言葉を危機、神様と出会い、神様との交わりに入る、そして神さまの子どもとしての自覚が与えられる。それが福音の働きです。そこで大切なことは、わたしたちがこの福音を聞くということです。

 ところで、ここに不思議な言葉があります。それは20節の言葉です。「ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。」パウロはここで、神様の和解を受けなさい。神様はわたしたちと和解するために、独り子を与えて下さったのだから、その神様の和解を受けなさいと、そのように勧めています。これが、まだ福音を聞いたことのない人、そういう人たちへのパウロの言葉であるのならば、これは自然なことです。まだ、あなたたちは知らないけれども、実は、神様はこういうことをして下さった、だから、神様の和解を受けなさい、そう言えばそれは自然なことです。ところが、御承知の通り、このコリントの信徒への手紙二はコリントの教会に宛てて書いています。コリントの教会の人たちというのは、皆キリストの救いを知っている人たち、今さら言われなくても知っている、なぜパウロはここでわざわざ「神と和解させていただきなさい。」というようなことを言ったでしょうか。コリントの教会の人たちにパウロが言っているということは、現代の教会に連なっているわたしたちにもそれは、当てはまるということになります。

 指路教会の教会員も、コリントの教会の人たちと同じように信仰者です。「キリストの救いを信じている。それなのに、今いちど和解させていただきなさいという言葉を聞かされるということは、いったいどういうことなのか」とわたしたちは思います。聖書の中ではよく「思い起こす」という言葉が出てきて、またそれが大事なこととして扱われています。旧約聖書の中では、たびたび神様がどんなに大きな恵みを与えてくださったか、たとえば、出エジプトの時のこと、救い出されたことを思い起こしなさいと言われています。想起ということ、これが非常に大事なことだと言われております。わたしたちは福音を聞いて、信じて、そして感謝して、洗礼を受けたわけでありますが、その活き活きとした信仰の喜びというものが、いつも同じように燃えているかというとなかなかそうではありません。御言葉を聞いても「ああ、知っている。知っている。分かっている。分かっている」と言って、福音を、小学校の頃に使っていた教科書のように物置の隅に置くようなことをしがちであります。

 「わたしは教会を卒業しました」という人が時々います。長いこと教会へ来ていたが、いつのまにか、信仰生活が途絶えてくる。聖書についての知識、福音についての知識を聞いてみると、一通りのことはちゃんと知っている。しかし、教会に来ることがだんだんすくなって、ついに来なくなる。この人はどこに問題があるかというと、与えられている福音を自分の心の隅に積んでいるということです。そのために、福音がその人の生活の中で生きて働くということがないということです。しかし、これはある特別駄目な人間のことではなくて、実は、わたしたち皆がそういう性質を持っています。あの時は燃えたけれども、もうこの頃はどうもさっぱりということはよく起こってきます。神様はわたしたちがそういう者だということをよく御存じであります。そこで、そういうわたしたちがどのようにして活き活きとした信仰生活を守るか、生命に満ちた信仰を持ち続けることができるか、そのための方法をちゃんと神様は備えて下さいました。それは、思い起こすということです。神様がキリストにおいて与えて下さった救いというものをもう一度思い起こす。思い起こすということはただ、記憶しているということを思い出すだけじゃない。ああ、そんなに神様はわたしを愛して下さっているのか、わたしの救いはそんなに確かなのかということを、また改めて知らされ改めて実感することです。語られることは何遍も聞いたよく知っているキリストの救いです。しかし、それが目を開かれるような思いで、もう一度わたしたちの前に明らかにされる。「わたしは救われている」ということが現実で実感される。救いを現実として受け止めることができる。救いが現実となる。これが思い起こすということであります。パウロはコリントの教会の人々に向かって、その「イエス様にあなたは救われている」ということを現実として再び起こさせようとして、この言葉を語っています。一人で静かに考えて神様の恵みを思い出すということはありますけれども、人は、実は、外から言われて、それでそのことによって自分の内なる信仰が目を覚ます、そういうことが多い

 わたしたちは寒くなってきますと物置に入れていたストーブを出しくるか、エアコンの設定を暖房に切り替えてそれで温まります。いくらエアコンやストーブがあってもスイッチを入れなければ起動しません。それとおなじように、わたしたちの心をもやす、存在そのものを熱くさせる、そのような「福音」をどんなにたくさん持っていても、そこに神様の霊、つまり聖霊が働かなければ、それは動かないもの、死んだものとなってしまいます。聖霊が働かれる時、わたしたちが聞いてきた福音が、本当にわたしたちの魂を揺さぶるような新しい力を持ってわたしたちに救いを確認させ、慰めを語るものとなるのです。教会という、このわたしたちの群れには、ペンテコステの時に弟子たちが与えられたように、聖霊が与えられています。この信仰者の間に、聖霊が働かれ、その時語られる御言葉が力を持つのです。もっと正確に言えば、御言葉が力をもつなにかに変えられるのではなく、受け取るわたしたちが変えられて、御言葉をちゃんと受け取ることのできる新しい存在に変えられていくということです。わたしたちが聖霊に与えられ、御言葉を聞くと、イエス様の救いを再び現実として受け取り、魂を震わせたれ、心を燃やされるのです。これが教会において絶えず福音が語られることの意味であります。そしてそれが教会の使命であり、わたしたちの使命です。

 わたしたちは聖霊の働きというと、何か異様な経験を連想するかもしれません。しかし聖霊の働きとは、イエス・キリストの救いの事実を、神様が人の口を通してわたしたちに語りかけて下さるということ。わたしたちの小さな貧しい働きが、神様の語りかけの言葉として、用いられるようになったということです。そして教会は、その大切な役目を負わせられております。ここにパウロは、自分のことだけを言っているのではないのです。「神がわたしたちを通して勧めておられるので」とあります。このわたしたちとは誰でしょうか。これは教会です。パウロだけではなく、彼と一緒に伝道をしております有名、無名の人たち、そしてその人たちの言葉を聞いて信じた教会の人たちです。パウロはコロサイの教会に、手紙を送っています。しかし実は、パウロはコロサイに行ったことがありませんでした。パウロはエフェソで伝道しておりました。そこへ、コロサイ出身の人がパウロの福音を聞いて、これはわたしの「救いだ」「救いの言葉」だと信じました。信じただけではなくて、彼らは自分の故郷に帰って、そこで伝道をしました。彼らは教職ではなかった。ただ一人の信徒であった。しかし彼らの語る言葉は、パウロと同じように神の言葉でありました。そして、コロサイに教会が生まれました。

 ここで言われています「神がわたしたちを通して勧めておられる」あるいは「和解の務をゆだねられている」ということは、ただパウロやペトロのような使徒だけにいっているのではなくて、あるいは牧師伝道師と呼ばれる人だけではない。和解の福音を聞いて、神様がイエス・キリストにおいてなさって下さった救いを信じた人、すべてにあてはまることです。どんなに小さく貧しい言葉であっても、どんなに弱い人間であっても、本当に自分はイエス・キリストの救いに与った、わたしのような者がキリストの十字架と復活の贖いによって、神の者とせられたというこの和解の言葉を信じた時に、神様は、「あなたは和解の言葉の使者」となると言われます。前に、わたしたちはキリストの手紙であるという話を聴きました。その時の言葉をもう一度聴きたいと思います。  

 わたしたちは手紙です。手紙の差出人は、イエス様です。そして、その内容は、イエス様がこの世で示された喜びの知らせです。その知らせをわたしたちが信じているので、わたしたちの心にそれが刻まれています。刻まれた上に、イエス様の手紙であることを示す確かな印が、聖霊なる神様によって、押されています。では、この手紙の宛先はどこなのでしょうか。それは、大きく言えば、この世です。どうやってこの世にこの手紙を届けるのか。それは、手紙であるわたしたちが、この世に出ていき、それぞれの場所で他者と出会い、その人に届けられるのです。わたしたち一人ひとりが出会う隣人が、わたしたちのそばにいる隣人が、イエス様の手紙の出したい特別な相手です。そのわたしたちの隣人がイエス様が救いと喜びを知らせたい人々です。わたしたち自身は、隣の人にどうやったら、イエス様のことを伝えられるかと思います。なにかと言葉を絞り出そうしますが、わたしたちはイエス様のことをうまく語ることができません。わたしたちが言葉をひねってイエス様を伝えるのではありません、神様が今日わたしたちにいっておられるのは、「わたしのことを信じているあなたが、喜びの知らせを信じているあなたそのものが、わたしとのイエス様を宣べ伝える言葉となり、手紙となっている」ということです。真に無力で、小さくて、何もできなくて、愚かであっても、その救いと福音を信じている。それがわたしたちです。しかし、神様はそのようなわたしたちを、本当によく用いてくださるのです。真に無力だから、神様の力がよくあらわされるのです。わたしたちが愚かであるから、神様の知恵が偉大であることを示されるのです。イエス様の救いの恵みによって、無力なわたしたちを救われました。その時、わたしたちの存在は、イエス様を推薦する、推薦状の入った手紙となるのです。  

 これが、和解の務めを与えられたものの真実の姿です。わたしは言葉が下手だから、口が重いからダメだ。そう思ってしまうのがわたしたちです。しかし語る者は、わたしではなくて神様御自身です。わたしたちは手紙として、隣人と出会い、その人々が教会に招かれ、教会において神様が和解の言葉を告げてくださり、和解させてくださるのです。わたしたちは語るのでなく、語ってくださる人の前に集い、恵みを受け、恵みに生き、また恵みを受けに戻ってこればよいのです。その行程を、主が用いてくださっているのです。わたしたちはすでに新しい存在であります。わたしたちは手紙です。和解の使者です。感謝してこのわたしたちのすべてを神様にお委ねしましょう。

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