夕礼拝

聖霊による洗礼

「聖霊による洗礼」 伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書; イザヤ書 第42章1-7節
・ 新約聖書; マルコによる福音書 第1章9-11節
・ 讃美歌 ; 309、411

 
はじめに

 「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。」 天から声が聞こえてきます。慰めに満ちた言葉です。この言葉を聞くだけで、たとえ私達がどんな状態にあっても新たに立ち上がることが出来るような言葉です。主イエスが洗礼を受けられ、聖霊が鳩のように降った時に、聞こえてきた言葉です。
  私達も、この声を聞きます。私達の歩みの中に「洗礼」が授けられる時、確かにこの声を聞くのです。
  教会に集められている方々の中には、もう既に、洗礼を受けられている方がいます。そのような方は、「洗礼」という一つの出来事において、この声を聞いています。主イエス・キリストと共に、この声を聞いています。まだ、洗礼を受けられていない方もいます。そのような方は、この声へと招かれています。主イエス・キリストによって招かれています。私達の歩みの中に、「洗礼」が与えられる。それは、聖霊によって、この声を聞いているということなのです。
「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。」

主イエスの登場

 マルコによる福音書を読み始めました。「神の子、イエス・キリストの福音の初め」という言葉で始まる福音書。私達の間で起こっている福音の初めが記されたものです。 今日お読みした箇所は、この福音書において最初に主イエスが登場する場面です。どのような物語であれ、主役の登場場面は重要です。マタイによる福音書において、主イエスの登場は、主イエスが聖霊によって身ごもったマリアから生まれたという場面です。ルカによる福音書においては、住民登録のためマリアとヨセフがベツレヘムにいるときに主イエスが生まれ、飼い葉桶に寝かされたという場面です。しかし、マルコは、主イエスが洗礼を受けるというところから、イエス・キリストの歩みを描き始めるのです。「誕生」から書き記されていない。「洗礼」から記されている。確かに「誕生」は、この世の生の「始まり」として大切なことです。しかしそれにもまして、注目すべき「始まり」として「洗礼」がある。マルコは、主イエスの歩みを「洗礼」から記すことで、そのことを伝えようとしているのです。
 しかし、ここで、主イエスが洗礼を受けられたという事実を知らされる時に、私達は少なからず困惑します。  マルコによる福音書は最初に洗礼者ヨハネを描きました。彼は、悔い改めの洗礼を宣べ伝えて、こう伝えます。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」。自分は、主イエスに遥かに劣るものだ。この方の奴隷にも値しない。私は水で洗礼を授けるが、主イエスは聖霊によって洗礼を授ける方だと語るのです。もし素直にヨハネが語ったこの言葉を聞けば、主イエスは洗礼を授ける方であると思うのが普通です。 又、ヨハネが授けた「洗礼」は、「悔い改めの洗礼」であると言われています。「悔い改める」という言葉は「かえる」とか「もどる」という意味合いの言葉です。「立ち返る」といっても良いでしょう。間違った方向に進んでしまった。そのことに気がついて、道を振り返り、元の場所に戻ってくる。それが悔い改めです。果たして罪のない主イエスはそのような洗礼を必要とされたのだろうかと思うのです。 しかし、実際の主イエスは洗礼を授けられるのではなく、受けられている。時に、主イエスは宣教されました。病人を癒されました。悪霊を追い出されました。しかし、主イエス自身が直接洗礼を授けられたという記事は福音書のどこにも出てこないのです。福音書は、そのことに注目していないのです。むしろヨハネから洗礼を受けられたことを記すのです。ヨハネに洗礼を授けてもらおうとして、やってくる大勢の群衆に混じって、ヨハネの下へとやってくる。そして、人々と同じように洗礼を受けられたのです。主イエスは私達が並ぶ列と同じ列に並び洗礼を受けられた。主イエスは何よりも先に、洗礼を受けられた方なのです。ここに計り知れない恵みがあります。罪人がなすべき悔い改めの洗礼を何よりもまず、主イエスが受けて下さった。私達の悔い改めを、主イエスが共に負って下さっている。このことを覚えたいと思います。

聖霊による洗礼

 主イエスはこの時、人々に混じって私達と同じ洗礼を受けられました。けれどもこの洗礼は、全く新しい出来事であったということも事実です。この主イエスの洗礼からヨハネの洗礼とは異なるものが始まっているといってもいいでしょう。 「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて、霊が鳩のように降るのをご覧になった」。そして、天から声がする。主イエスが洗礼を受けられたときに、霊が鳩のように降ったのです。  ここには、三位一体が記されていると言われることがあります。父と子と聖霊が一度に出てきています。「三位一体」。私達が教会の信仰として告白している、最も中心的な事柄です。しかし、この教理が理解できないというのが私達の率直な思いではないでしょうか。確かに私達にはわかりにくい。何度も、何度も、繰り返し、考えさせられる。決して理解しつくしてしまうことが出来ません。 しかし、この主イエスの洗礼の場面に三位一体が記されていると言われるのです。天から父が語られている、地にはその声を聞いている子がいる、そして、それらの天と子を結ぶようにして、聖霊が降っているのです。 聖霊によって結ばれて、主イエスは御父の声を聞いています。 「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。ここにはっきりと、主イエスがまぎれもなく、神の一人子であることが示されています。 主イエスが受けられた「洗礼」によっての主イエスが神の子ということが示されているのです。  そして、私達の受ける洗礼も、この主イエスの受けられた「洗礼」を共に受けることなのです。

洗礼についての誤解

 私達が洗礼と聞いて思い描きやすいイメージがあります。 自分自身の歩みを顧みて、そこに罪と穢れに満ちている姿を発見する。そして、その罪を清めるための手段のように洗礼を考えてしまう。 私が今まで教会生活を送ってきた中で、何度か聞いたことのある話があります。「私はかつて洗礼を受けた。しかし、もう一度受けたい。」。そのような話です。私達は、二度洗礼を受けるということはありませんが、そのような方の気持ちが分かる気がします。日常生活の中で何か大きな過ちを犯してしまった。その時の罪悪感に苛まれて、何とかそこから解放されたい。かつて熱心に教会に通っていたが、しばらく教会生活から離れてしまった。又再び、教会の礼拝に参加したい。そのような時、「もう一度洗礼を」という思いになるのかもしれません。 自分の歩みを振り返り、自分で「悔い改め」、その罪から清められたい。又、再び神の前に出るために、洗礼を受けたい。そのように思うのです。禊や祓いのように、穢れた体を清めるものとして洗礼を捉えてしまうことがあるのです。 もちろん、洗礼には、私達の罪を癒すことです。しかし、それは、私達がしてしまった悪事をきれいさっぱり流してしまうといったことではないのです。洗礼とはそのようなこととは異なっているのです。 水の中から上がる。それは一度死んだものが、再び新たに生きるということです。それは、存在が根底から返られるということです。神のものとされたものとなるということです。主イエスがそうであったように神の子とされることです。

主イエスの苦難 死の洗礼

 今日から私達は主の受難を覚える受難週に入ります。主イエスが受けられた洗礼は、主イエスの受難と深く結びついています。マルコによる福音書の中で、主イエスが、ご自身の受けられる苦難を「洗礼」と言っている箇所があります。主イエスが三度目に、十字架の死と復活を予告された後、自分たちの息子の栄光を求めた弟子の母親に対して次のように言われています。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」。神の一人子であると言われている主イエスが、神から見捨てられ、十字架で死なれる。そのことを、イエスご自身が「わたしが受ける洗礼」と言っているのです。主イエスの洗礼は、ご自身を、十字架での苦難、死へと導くものだったのです。私達の罪のための苦難を受けることが主イエスにとっての洗礼なのです ここで、はっきりと洗礼が、罪を単純に水で洗い流すように、私達をきれいにするものではないことが示されます。私達のために、必要な犠牲が払われているのです。私達にとって必要なことだから、主イエスは十字架の死という洗礼を受けられたのです。 主イエスの十字架。愛する一人子が、本来私達の受けるべき裁きを受けられ、このことによって私達の罪が赦される。そこにおいて、主イエスが、私達の代わりとなって下さっている。私達の罪がこの方が引き受けてくださるのです。そのことによって、この方による赦しが私達のものとなるのです。

真の悔い改め

 この事実を知らされる時、私達は、自らの罪を悔い改めるのです。 私達は自分で自分の罪を悔い改めるのではありません。確かに、私達は自己の歩みを振り返って、自分の過ちを反省し、悔い改めるでしょう。けれども、どんなに、私達が自分で悔い改めようとも、私達が、自分でなす悔い改めなどは知れているのです。悔い改めるべきことを忘れ去ってしまうこともあるでしょう。どこかで自分を正当化していることもあるのです。いや、むしろ、私達は、自分の罪を悔い改めきれないということに、私達の罪があるといっても良いと思います。自分の罪を罪とも分からずに、ふるまってしまう。そういうところに人間の罪があるのです。 ただ、一つ、私達が悔い改めることが出来るとしたら、それは、他でもなく主イエスの洗礼、十字架の苦しみを示される時です。神の愛する一人子、イエス・キリストが十字架にお掛かりにならなければならない程までに、私達は罪人であった。この方の十字架の洗礼の前で、真の悔い改めが起こります。私達は自分で自分を振り返るのではなく、主イエスの洗礼から自分振り返る。その時に真の悔い改めが起こるのです。そして、そこから主イエスと共に新たな命に生き始めるのです。 マルコによる福音書の15章において、イエスが十字架上で息を引き取られた時、神殿の垂れ幕が避けたということが書かれています。それを見ていた百人隊長が「本当にこの人は神の子だった」と告白するのです。この箇所はマルコによる福音書の最後にあって、今日お読みした箇所と呼応するかのように主イエスを神の子との告白がなされている箇所です。今日お読みした、主イエスの歩みの始め、ヨハネからの洗礼の箇所では、天から、主イエスが神の子であるということが言われている。そして、主イエスの地上の歩みの最後、死の洗礼の場面では、百人隊長という一人の人間によってこのことの告白がされるのです。 主イエスの十字架の前で、私達もこのイエス・キリストが神の子であったと言いうるのです。

洗礼の根拠

 洗礼を受けるとは、このキリストと結ばれることです。先ず主イエスが、その洗礼を受けていて下さっている。そして、この主イエスの洗礼に連なることによって、私達も、主イエスと「神の子」とさせられている。神と主イエスが共にいるように、私達も神と共にあるものとされるのです。 それは、主イエスが受けられた洗礼に私達も連なるということです。それは、「私達が受ける洗礼を主イエスも受けて下さっている」ということではなく、「主イエスが受けて下さっている洗礼と同じものを、私達も受けている。」ということなのです。主イエスが受けられた洗礼に私達が洗礼の根拠があるのです。 私達には、自分で自分を振り返りつつ悔い改め、罪からの清めを探し求める中で、救いを確信できない時があります。自分自身を否定することしか出来ない時があるかもしれません。しかし、洗礼は、私達自身がいかなる状態にあるのかを関係なしに、私達の唯一つの救いの根拠となっているのです。主イエスの洗礼に私達も連なっているからです。そこにのみ、たった一つの救いのしるしがあります。

おわりに

 天から声が聞こえてきます。慰めに満ちた言葉です。この言葉を聞くだけで、たとえ私達がどんな状態にあっても新たに立ち上がることが出来るような言葉です。主イエスが洗礼を受けられ、聖霊が鳩のように降った時に、聞こえてきた言葉です。 「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。」 洗礼によって、私達もこの言葉を聞いています。

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