2025年9月の聖句についての奨励(9月3日 昼の聖書研究祈祷会) 牧師 藤掛順一
「夕べは涙のうちに過ごしても 朝には喜びの歌がある。」(6節 聖書協会共同訳)
詩篇 第30編5ー6節
朝になれば悲しみも薄らぐ?
詩編第30編6節後半を9月の聖句としました。同じ箇所は新共同訳では「泣きながら夜を過ごす人にも 喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる」となっています。その前の口語訳聖書では「夜はよもすがら泣きかなしんでも、朝と共に喜びが来る」でした(口語訳は「表題」を節に数えていないので5節)。私はこの口語訳の言葉でこの聖句を覚え、親しんできました。そして、悲しみの時にはこの聖句をいつも思い浮かべていた、と言うより、悲しみの時にこの聖句が自然に浮かんで来たのです。「夜はよもすがら泣きかなしんでも…」。人生には、「よもすがら泣きななしむ」ようなことが時としてあります。悲しみのあまり眠れないと感じることがあります。でもそのうちに気がついたら眠っていて、朝目覚めた時には悲しみも少し薄らいでいる、ということがあります。眠りというのは偉大なもので、体だけでなく心をも元気にしてくれるのです。もちろん眠ったからといって悲しみの原因がなくなるわけではありませんが、それを抱えている自分が、眠ることによって少し元気になって、悲しみを背負っていくことができるようになる。「夜はよもすがら泣きかなしんでも、朝と共に喜びが来る」という言葉を私はそんなふうに感じ取り、またそういうことを体験してきました。それは私が、本当に深刻な悲しみ、絶望を体験していない、ということなのかもしれません。悲しみのために一晩中眠ることができず、涙を流しながら果てしなく続く夜をすごし、ようやく空が白みはじめ、夜明けを迎えた、という人もいるでしょう。その場合には、「朝と共に喜びが来る」などと言うことはできない。夜はよもすがら泣き悲しみ、朝になっても悲しみは変わらず続き、喜びはいつまでたっても得られない、そういう体験をした方もおられるでしょう。そういう人からすれば、「泣きながら眠ってしまった」などというのは本当に深刻な悲しみではない、ということになるのかもしれません。
喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださるのは主なる神
この聖句についての私の捉え方は、「朝と共に喜びが来る」という口語訳の言葉から来ていると思います。この訳は、「夜はよもすがら泣きかなしんでも、朝と共に(どこからか)喜びが来る」と読めます。悲しみの夜を過ごしても、眠って目覚めることによって自然に喜びが訪れる。私はこの聖句をそのように捉えていたと思うのです。しかし、新共同訳の訳文は、そういう捉え方は違うことを示しています。「喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる」というのは、自然にそうなるのではなくて、そのようにして下さる方がおられる、ということです。朝と共に来る喜びは、どこからか来るのではなくて、主なる神が与えて下さるのです。眠れば元気になる、などということではないのです。新共同訳は、朝と共に来る喜びを与えて下さるのは主なる神なのだ、ということを明確にしているという点で良い訳だと思います。
原文を見てみると
けれども、この詩の原文にあたってみると、違うことが見えてきます。詩編の文章は説明の文とは違って「詩文」です。詩文は、書かれていない行間を読まなければなりません。だから単語を訳して繋げただけでは訳したことになりません。行間を読んで、つまり「解釈」をして、言葉を補って文章にすることが求められるのです。だから翻訳にはいろいろな違いが生じます。この6節も、単語を訳して並べると、「一晩中泣き続けても、朝には喜び」となります。ということは、「夜はよもすがら泣きかなしんでも、朝と共に喜びが来る」という口語訳の方が、あるいは「夕べは涙のうちに過ごしても 朝には喜びの歌がある」という聖書協会共同訳の方が、原文により近いのです。「喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる」という新共同訳は、書かれていない行間を補っている分、原文からは離れた訳になっているのです。そこには、新共同訳と聖書協会共同訳の翻訳のコンセプトの違いが現れています。新共同訳は、意味をより理解しやすくするために、解釈によって言葉を補うことを積極的にしています。それに対して聖書協会共同訳は、できるだけ原文の言葉を生かして、原文の雰囲気を現そうとしているのです。
神の怒りと恵みのみ心とのコントラスト
このように、原文により近いのは聖書協会共同訳と口語訳ですが、しかし新共同訳がこの箇所においてしている補い(つまり解釈)は、十分に根拠のあることです。そのことは、ここに語られている「夕べは涙のうちに過ごす」という悲しみと、「朝には喜びの歌がある」という喜びにおいて、具体的に何が見つめられているのか、その悲しみが喜びに変わるとはどういうことなのか、を捉えることによって見えてきます。そのことは6節前半に語られているのです。そこには、「主の怒りは一時。しかし、生涯は御旨の内にある」とあります。新共同訳では「ひととき、お怒りになっても/命を得させることを御旨としてくださる」、口語訳では「その怒りはただつかのまで、その恵みはいのちのかぎり長いからである」です。この6節前半では、主なる神の怒りと、恵みの御旨(み心)が見つめられています。ここも単語を訳して並べると、「なぜなら、彼の怒りは一時、命、彼の恵みは」となります。後半の「命、彼の恵みは」の「命」を、「生涯」ととり、「生涯は(恵みの)御旨の内にある」と訳したのが聖書協会共同訳です。「恵みはいのちのかぎり長い」という口語訳も同じ理解です。それに対して「命」を「命を得させる」という恵みの御旨の内容と解釈したのが新共同訳です。「得させる」という言葉は原文にないけれども、「怒り」と対照的な主の「御旨」は「命を得させてくださる」ことだ、という解釈によって言葉を補って分かりやすくしているのです。いずれにせよこの6節前半には、神の怒りと恵みのみ心とのコントラストが語られています。これに続いて後半の「夕べは涙のうちに過ごしても 朝には喜びの歌がある」が語られているわけですから、ここでの「涙、悲しみ」は、神の怒りによる涙、悲しみであり、「喜び」は、神の恵みのみ心による喜びであると言えます。ですからこの6節は全体としては以下のように語っているのだと言うことができるでしょう。
「主の怒りによる悲しみは、眠れない夜のように永遠に続くように感じられ、もう自分は滅びるしかないと思うかもしれない。しかし、明けない夜はないように、その悲しみには終わりがある。主は夜明けと共に恵みのみ心を示し、喜びを与えて新しく生かして下さる。そのみ心は、命の限り、つまり生涯続く。主の怒りは一時であるのに対して、恵みのみ心は生涯のすべてにわたるのだ。」
主を賛美し、そのみ名を呼びつつ生きる
そして6節の冒頭には、先ほどの直訳でも示したように「なぜなら」という言葉があります。つまり6節は5節の理由を語っているのです。5節には「主に忠実な者たちよ、主をほめ歌え/聖なる御名に感謝せよ」とあります。主に忠実な者たち、つまり主なる神を信じ、従っていく神の民は、主をほめ歌い、その聖なる御名に感謝して生きるのです。なぜそれができるかというと、主の怒りは一時であるのに対して、恵みのみ心は生涯にわたるものだからです。一晩中主の怒りによる涙のうちに過ごしても、朝にはその恵みのみ心による喜びの歌が与えられるからです。この主なる神の民とされているがゆえに、主を賛美しつつ、そのみ名を呼びつつ生きていく、それが私たちの信仰なのです。
悲しみと罪との結びつき
「夜はよもすがら泣きかなしんでも」という私たちの悲しみの根本には、主なる神の怒りがある、ということをこの6節は語っています。主なる神の怒り、それは私たちの罪に対する怒りです。私たちの悲しみの根本には罪があり、それに対する神の怒りがあるのです。罪というのは、私たちが神との正しい良い関係をもって生きていないことです。神との正しい良い関係とは、私たちが、造り主である神を敬い、神のみ心を常に求め、それに従って、神と共に生きることです。神は私たち人間を、ご自分とそのような良い関係をもって生きるべき者として、そのことを期待して造って下さいました。しかし最初の人間アダムとエバ以来、私たちは造り主である神のもとで生きることをやめ、自分が主人となって、自分の思い通りに生きています。神のみ心を求めてそれに従うのではなく、自分の思いや願いをかなえることばかりを求めています。要するに神を無視し、ないがしろにすることによって、神との正しい良い関係を失っているのです。それは命を与えて下さった神の恵みに私たちが応えておらず、恩知らずに生きている、ということです。神はその私たちの罪に対して怒っておられます。まあいいや、と見過ごしにはなさらずに、正しい関係を回復しようとしておられるのです。また神との正しい関係を失っている罪は、私たち自身に悲しみをもたらしています。私たちは、自分自身の罪のゆえによもすがら泣き悲しむこともあるし、他の人の罪によって傷つけられて、泣きながら夜を過ごすこともあります。ということは、他の人も自分の罪によって泣きながら夜を過ごしているのです。神を無視して自分が主人となろうとする罪は、神の怒りを引き起こすだけでなく、それによって自分も悲しみに陥り、他の人をも悲しませるのです。悲しみと罪とのこの結びつきを私たちはしっかり見つめなければなりません。つまり悲しみをただ悲しんでいるだけでなく、自分の罪とそれに対する神の怒りをそこに見つめ、神を恐れなければならないのです。そうでないと、悲しみにおいて私たちは自分が「被害者」であるとしか思うことができなくなり、他者を責めることばかりに陥ります。悲しみを誰かのせいにして、自分は被害者だと思ってしまうのです。そこには恨みや憎しみが募るばかりで、積極的なことは何も生まれないし、いつまでたってもその悲しみから解放されることはないのです。
神の怒りは一時
悲しみの根本に私たちの罪があり、それに対する主なる神の怒りがあることを見つめることは簡単ではありません。とてもしんどいことです。誰かのせいにして被害者でいた方が楽なのです。けれども、悲しみと罪との結びつきを見つめ、自分の罪に対する神の怒りを見つめていくなら、その歩みの中で私たちは、主なる神の怒りは「一時」であるということを示されるのです。私たちは日々神に対して罪を犯し続けていますから、その罪に対する神の怒りを日々積み上げています。それは恐ろしいことです。罪に対する神の怒りによる悲しみはとてつもなく大きくて、いつまでも続き、私たちはとてもそれに耐えることはできないと感じます。しかし聖書は、主の怒りは「一時」であり、終わりがある、と告げているのです。夜はよもすがら泣き悲しんでも、その夜は必ず明ける、そして朝と共に喜びが来るのだ、と告げているのです。その喜びとは、何かいいことがある、というような、「どこからか」来る喜びではなくて、私たちの罪を主なる神が赦して下さることによる喜びです。私たちは罪を重ねていくことしかできず、神の怒りを積み上げていくことしかできない中で、主なる神が、怒りを乗り越えて私たちの罪を赦し、私たちとの本来の正しい良い関係を回復して下さるのです。罪を赦されて神との本来の正しい良い関係を回復されることこそが、主が与えて下さる喜びです。この喜びの朝を主が迎えさせてくださるのです。
主イエスの十字架と復活によって実現した夜明け
そのために、主なる神は独り子イエス・キリストをこの世に遣わして下さいました。そしてその十字架の死と復活によって、私たちの罪を赦し、私たちとの正しい良い関係を回復して下さったのです。神の独り子主イエスが、十字架にかかって死ぬことによって、私たちの罪に対する神の怒りを全て背負って、その償いをしてくださったのです。主イエスの十字架の死のゆえに、私たちは、なお罪を重ね続けている者でありながら、赦された者として神のみ前に出ることができるのです。ですから、「主の怒りは一時」と本当に言うことができるのは、主イエスの十字架による赦しがあってこそです。この詩は、主イエスの十字架による救いを前もって指し示しているのです。そして父なる神は、十字架にかかって死んだ主イエスを復活させて下さいました。それは主イエスをこの世に遣わして下さった神の恵みが、死の力に勝利して、主イエスを死の支配から解放し、もはや死ぬことのない、永遠の命を生きる者として下さった、ということです。神の恵みのみ心は、主イエスの十字架の死によって私たちの罪を赦して下さるだけでなく、主イエスの復活による死への勝利と永遠の命に、私たちをもあずからせて下さることにまで及んでいるのです。神と私たちとの正しい良い関係が回復されるところには、罪の赦しだけでなく、私たちが復活と永遠の命を与えられて新しく生き始めることが起こるのです。それは洗礼を受けて主イエス・キリストと一つにされることによって私たちに実現することです。洗礼において私たちは、主イエスの十字架の死による罪の赦しにあずかり、そして同時に、主イエスの復活にあずかって新しい命を生き始めています。「夕べは涙のうちに過ごしても/朝には喜びの歌がある」、「夜はよもすがら泣きかなしんでも、朝と共に喜びが来る」の「朝」は、洗礼を受けて主イエス・キリストによる罪の赦しと、新しい命の恵みにあずかることによってこそ明けているのです。そして私たちは主イエスによって与えられたこの夜明けの光の中で、主をほめたたえる喜びの歌を歌いつつ、その聖なる御名に感謝をささげて生きるのです。
