【2023年6月奨励】力を捨てよ、知れ わたしは神。

  • 詩編 第46編11節
今月の奨励

「力を捨てよ、知れ わたしは神。」牧師 藤掛順一

・詩編 46編1-12節

私たちの切なる祈り
 詩編46編は、今この時、私たちが切に願い、祈り求めていることを語っています。10節に「地の果てまで、戦いを断ち、弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる」とあります。ロシアのウクライナ侵攻は既に一年以上続いており、毎日のように、戦いによって人が死に、傷つき、町が破壊されて廃墟となっている様子が報道されています。戦いは益々激しくなりそうで、どうしたらこの戦争を終わらせることができるのか、皆目見当がつかない状況です。ウクライナに一方的に侵攻したロシアに問題があることは確かであり、自分たちの国を守っているウクライナを応援したいという思いがあります。欧米諸国がそのために武器を提供しています。つまり、弓や槍や盾を送り込んでいるのです。日本も、直接武器の援助は出来ないけれども、その他の面でウクライナの戦いを支えています。それは当然なすべきこととも思われますが、それによって平和が近づいているわけではなくて、戦いはますます激しくなり、人々が傷ついていきます。またこの戦いは世界中にいろいろな影響を及ぼしており、7節にあるように「すべての民は騒ぎ、国々は揺らぐ」という事態になっています。そういう現実の中で私たちが切に願い、祈り求めているのは、10節に語られているように、主なる神が、戦いを断って下さること、弓を砕き槍を折り、盾を焼き払って下さることです。つまり武力による戦いを終わらせて下さることです。9節には「主はこの地を圧倒される」とあります。人間の知恵や力によってはどうにも戦いを止めることができない中で、主が圧倒的な力によって、この地に平和をもたらして下さることを私たちは祈り願っているのです。

聖書協会共同訳
 その詩編46編ですが、お手もとに「聖書協会共同訳」のプリントをお配りしました。この新しい翻訳をも味わっていきたいと思います。どちらかというと、この新しい訳の方が優れていると思っています。例えば、新共同訳では2節に「わたしたちの砦」とあり、8、12節にも「わたしたちの砦の塔」という言葉があって、「砦とその塔の関係は?」という疑問が生じますが、「砦」という言葉は8、12節のみにあるのであって、2節は全く別の言葉であることが聖書協会共同訳では明らかです。この8、12節の「ヤコブの神は我らの砦」という繰り返しの句が、「神はわが櫓(やぐら)」というルターの讃美歌の元になったのです。それから9節の「主の成し遂げられることを仰ぎ見よう」ですが、聖書協会共同訳は「来て、主の業を仰ぎ見よ」という命令文です。ここは「仰ぎ見よう」という人間の「お勧め」ではなくて、「仰ぎ見よ」という強い命令の方が訳として相応しいと思います。

混沌の力が世界を飲み込もうとしている
 さてこの詩編46編は、弓や槍や盾(聖書協会共同訳では「戦車」)による激しい戦いがあって「すべての民は騒ぎ、国々は揺らぐ」という「苦難のとき」(2節)のことを、3、4節において「地が姿を変え、山々が揺らいで海の中に移る」とか「海の水が騒ぎ、沸き返り、その高ぶるさまに山々が震える」と言い表しています。山が海に飲み込まれてしまうという、大津波をも想像させる恐しい様が描かれているのです。この「海」や「水」は、創世記第1章で、地を覆っていた水を意識しています。主なる神の天地創造のみ業とは、地を覆っていた水を集めて(それが「海」)、乾いた所を築くというみ業でした。その乾いた所(それが「地」)こそ、人間や動物、植物が生きることができる場です。この水(海)は聖書において「混沌」の象徴であり、主なる神がその混沌の力を制御して、人間が生きることができる秩序ある世界を築いて下さったというのが、天地創造のみ業の根本です。この世界は、私たちを生かして下さる神の恵みのみ心によって、混沌の力から守られ、支えられているのです。ですから、「地が姿を変え、山々が揺らいで海の中に移る」とか「海の水が騒ぎ、沸き返り、その高ぶるさまに山々が震える」というのは、主なる神が私たちのために築いて下さった秩序ある世界を、混沌の力が再び飲み込もうとしている、ということです。天地創造のみ業を破壊し、ご破算にしようとする混沌の力が見つめられているのです。詩編46編は、戦いによって「すべての民は騒ぎ、国々は揺らぐ」という「苦難のとき」を、人間の行為によって引き起こされている苦しみの時としてのみではなくて、神の天地創造のみ業を否定し、神が人間のために恵みによって築いて下さったこの世界を破壊し、滅ぼそうとしている混沌の力の現れとして捉えているのです。今この世界に働いているのもまさにそのような力だと言えるでしょう。ロシアとウクライナの対立は、同じスラブ民族の間の、また東方教会(正教)の信仰を共有してきた人々の間の、1000年に及ぶ長い歴史の中で生まれた複雑な事情によって生じたものです。その対立に今、ロシア対NATOという図式が乗っかり、NATOの中心にはアメリカがおり、そのアメリカとの対立によってロシアと中国が手を組み、両陣営に世界の各国を巻き込んで、まさに「すべての民は騒ぎ、国々は揺らぐ」という状況を作り出しています。単純にどちらが正義でどちらが悪などとは言えない対立の中で、戦いによって人々が傷つき、死んでいっているのです。それはまさに、人間の思惑や思想信条の対立よりももっと深い、混沌の力がこの世界を飲み込もうとしているような事態です。私たちが今直面している「苦難のとき」とはまさにそのような時なのです。

主の驚くべきみ業
 詩編46編の詩人も、具体的な事情ははっきりしませんが、そのような「苦難のとき」を生きていました。人間の力に余る、恐しい混沌の力が迫って来ていることを感じていたのです。その中で彼は、「神は我らの逃れ場、我らの力。苦難の時の傍らの助け。それゆえ私たちは恐れない」(2、3節、聖書協会共同訳)と歌いました。混沌の力が世界を飲み込もうとしている中でも、神が逃れ場(避けどころ)となって下さるがゆえに、私たちは恐れない、と歌うことができたのです。それは、5、6節「川とその流れは神の都に、いと高き方の聖なる住まいに喜びを与える。神はその中におられ、都が揺らぐことはない。夜明けとともに、神は助けをお与えになる」からです。「川とその流れ」はやはり「水」です。しかしそれは世界を飲み込もうとする大津波のような水ではなくて、神によって制御され、そのご支配の下で、この世界に潤いを与え、人々を生かし、喜びを与える水です。つまりこの5、6節に見つめられているのは、3、4節の混沌の力としての水に神が勝利して、それが世界を飲み込むことをお許しにならず、ご自分の支配下に置いて、むしろこの世界と私たちを生かし、喜びを与えるものとして用いて下さる、ということです。「国々は揺らぐ」(7節)けれども、神の「都は揺らぐことがない」(6節)のです。その主なる神のみ業を、来て仰ぎ見よ、とこの詩は語りかけています。「来て、主の業を仰ぎ見よ。主は驚くべきことをこの地に行われる」(9節)。「主はこの地を圧倒される」も、主なる神が勝利なさる、というニュアンスを表していますが、この9節は基本的に、主の驚くべきみ業を見よ、と語っているのです。その驚くべきみ業が10節の、「地の果てまで、戦いをやめさせ、弓を砕き、槍を折り、戦車を焼き払われる」です。主なる神が混沌の力に勝利して下さることによって戦いが止む、いやむしろ、戦いをやめようとしない人間から、主が武器を取り上げ、破壊して、戦えなくして下さる、そのようにして平和が訪れるのです。主なる神のその驚くべきみ業によって、それによってのみ、混沌の支配によって滅びてしまいそうになているこの世界は守られ、平和が実現するのです。

力を捨てよ、知れ、わたしは神
 その主の驚くべきみ業を、「来て、仰ぎ見よ」と言われているわけですが、この驚くべきみ業を見るために私たちに求められていることが11節です。「力を捨てよ、知れ、わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる」。聖書協会共同訳では「静まれ、私こそが神であると知れ。国々に崇められ、全地において崇められる」です。「静まれ」と訳されることが圧倒的に多いですが、この言葉は「やめよ」「捨てよ」という意味でもあります。自分の思いや言葉を語ることをやめて黙れ、というのが「静まれ」ですが、力をもって相手を打ち負かそうと戦うのをやめよ、という意味で「力を捨てよ」というのも意味のある訳です。いずれにしても、私たちが主の驚くべきみ業を仰ぎ見るために必要なことは、自分たちの思いや言葉や力による営みをやめること、「私こそが神である」と宣言しておられる主なる神の前に静まること、その神のみ前にひざまずいて礼拝することです。主なる神の前に静まって、主を礼拝することによってこそ、私たちは主の驚くべきみ業を仰ぎ見ることができるのです。混沌の力がこの世界を飲み込もうとしている恐ろしい現実の中で、主なる神がその力に勝利しておられ、主の都は揺らぐことがないことを、そしてその主が、力によって敵を滅ぼそうと戦っている人間からその武器を取り上げ、もはや戦えなくして下さることを、そのようにしてこの世界に平和をもたらして下さることを、私たちが知り、そのみ業を見ることができるのは、主のもとに来て、静まって礼拝をすることにおいてなのです。戦争が起り、「すべての民は騒ぎ、国々は揺らぐ」という現実の中で、私たちはともすれば、礼拝などしていても何にもならない、平和のためにもっと直接的に何かをするべきだ、と思いがちです。勿論、平和を築くためのいろいろな活動や、それを支援することは大切なことであり意味のあることです。しかし、礼拝をしていることが無意味な、何にもならないことだと思ってしまうことは大きな間違いです。私たちは、戦いのさ中に置かれて苦しんでおり、混沌の力にまさに現実に脅かされている人々にある意味で代って、その人々のために、主のもとに集められて、そのみ前に静まって礼拝をささげ、主の驚くべきみ業を仰ぎ見る者とされているのです。混沌の力がこの世界を飲み込んでしまうことはない、主なる神こそが勝利して下さるのだ、ということを私たちが信じて、苦しみの中にいる人々のためにとりなし祈ることは、混沌の力に脅かされているこの世界の希望のしるしとなるのです。礼拝において主の驚くべきみ業を仰ぎ見ている者たちがこの世界に存在している、ということには大きな意味があるのです。

万軍の主は私たちと共に
 静まって、主こそが神であることを知ることによって私たちは、「万軍の主は私たちと共に。ヤコブの神は我らの砦」と歌う者とされています。この世の、人間のどのような力をも圧倒される力強い主が、私たちと共にいて下さり、私たちを、というだけでなく、お造りになったこの世界を、混沌の力から守り、支えて下さっているのです。主のみ前に静まって礼拝をする者こそが、「主は私たちと共に」という信頼に生きることができます。この「私たちと共に」は原語において「インマーヌー」という言葉です。それに「エル(神)」という言葉が結びついたら「インマヌエル」(神は我々と共におられる)となります。「万軍の主はわたしたちと共にいます」というこの詩のリフレインは、インマヌエル(神は我々と共におられる)と同じことを歌っているのです。主イエス・キリストの誕生においてそのことが実現した、とマタイによる福音書は語っています。「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」(マタイによる福音書第1章23節)。主イエス・キリストがこの世に生まれて下さり、人間となって下さったことによって、「神は我々と共におられる」という救いが実現したのです。それは単に、困った時に神が共にいて支え、助けて下さる、ということではありません。神の独り子である主イエスが、人間となってこの世を歩み、そして私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったのです。神はご自分をそのように徹底的に低くして私たちと共にいて下さっています。そしてそれと同時に神は、死の力に勝利して主イエスを復活させ、永遠の命を与えて下さいました。その主イエスの復活によってこそ、この世界と私たちとを飲み込もうとしている混沌の力に対する主なる神の勝利が実現しています。私たちと共にいて下さる主が、この世界と私たちを滅びから守って下さっている方でもあることが、主イエス・キリストによって示されているのです。そしてこの主イエスこそが、終わりの日にもう一度来て下さり、驚くべきみ業によってこの地を圧倒し、「地の果てまで、戦いをやめさせ、弓を砕き、槍を折り、戦車を焼き払われる」方です。主イエスのみ前に静まって、人間の力による営みを捨てて、礼拝をすることによって、私たちは、主が成し遂げて下さるみ業を希望をもって待ち望み、主イエスこそ私たちの砦、と歌いつつ生きることができるのです。

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