2025年1月の聖句についての奨励(1月8日 年頭祈祷会) 牧師 藤掛順一
「神の義は、イエス・キリストの真実によって、信じる者すべてに現されたのです。」(22節、聖書協会共同訳)
ローマの信徒への手紙第3章21〜26節
新しい出発を新しい翻訳で
主の2025年を迎えました。昨年2024年は、私たち横浜指路教会の創立150周年を記念する特別な年でした。様々な記念行事を行い、「横浜指路教会150年史」も発行することができました。主なる神がこれまで私たちの教会に与えて下さった恵みを覚えることができたことを感謝しています。その150周年の記念の年を終えて、新しい年となりました。151年目であるこの2025年を、私たちの教会の新しい出発の年としたいと願っています。4年間続いた「コロナ禍」からもようやくほぼ抜け出すことができました。いろいろな意味で、教会が新しく歩み出していく、その第一歩を踏み出す年としたいのです。
その新しい出発の一環として今長老会が検討していることの一つに、礼拝や集会で使用する聖書を、現在の「新共同訳」から「聖書協会共同訳」に変更することがあります。私たちの教会では、1997年から、それまでの「口語訳」に代えて「新共同訳」聖書を使用してきました。この聖書は、日本で初めてカトリックとプロテスタントが共同で訳したもので、その点で大変意義のあるものでした。「聖書協会共同訳」は、「カトリックとプロテスタントの共同訳」というコンセプトを継承しつつ、日本聖書協会が2018年に新たに翻訳、出版したものです。これまでにもしばしば、説教等の中で紹介をしてきました。教会が151年目を新しく歩み出していくに際して、この新しく翻訳された聖書を用いていくことには意味があると思っています。新しい翻訳に触れることによって、み言葉との新しい出会いが与えられ、新しい発見も与えられます。そのことによって、私たちの信仰も、同じみ言葉に立ちつつ、新しくされていくのです。
イエス・キリストの真実によって
1月の聖句とした箇所は、「聖書協会共同訳」の特徴が最もよく表れているところの一つです。ローマの信徒への手紙第3章22節の前半は、新共同訳ではこうなっていました。「すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です」。ローマの信徒への手紙は、3章20節までのところで、人間の罪について語っています。異邦人のみでなく、神から律法を与えられているユダヤ人もその罪に支配されており、律法によって人は義とされるどころか、むしろ罪の自覚しか生じないのだ、と語られているのです。それを受けて21節からは、「しかし今や神の義が現された」と、新しい展開が始まります。その神の義とはどのようなものか、が22節に語られているのです。新共同訳はそれを「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義」であると訳しました。聖書協会共同訳はそれを「イエス・キリストの真実によって、信じる者すべてに現された」義であると訳したのです。神の義が、「信じる者すべて」に現され、与えられる、ということは共通していますが、それが「イエス・キリストを信じることにより」実現するのか、それとも「イエス・キリストの真実によって」実現するのか、というところにこの二つの訳の違いがあるのです。
イエス・キリストの信仰
「イエス・キリストを信じること」と「イエス・キリストの真実」では大きく違っていますが、原文を直訳すると「イエス・キリストの信仰」です。そしてその「信仰」という言葉は、「私たちの信じる気持ち」と言うよりもむしろ「真実、誠実」という意味です。ですから問題は、「イエス・キリストの信仰」の「の」をどのように理解するか、です。それを「イエス・キリストへの私たちの信仰(真実)」と捉えたのが新共同訳であり、「イエス・キリストの私たちへの真実」と捉えたのが聖書協会共同訳なのです。同じことは26節後半においてもなされています。聖書協会共同訳の26節後半は「イエスの真実に基づく者を義とするためでした」となっていますが、新共同訳ではそこは「イエスを信じる者を義となさるためです」となっています。ここも原文の直訳は「イエスの信仰による者」ですが、それを「イエスの真実に基づく者」と訳すか、「イエスを信じる者」と訳すかという違いがあるのです。訳としてはどちらもあり得ます。問題は、どちらの方が、ここで示された「神の義」に即した訳か、です。
神の義はどのようにして与えられるのか
23節以下に、その「神の義」の内容が語られています。「人は皆、罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっていますが、キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより値なしに義とされるのです」。人間は皆、罪のゆえに神の栄光を受けられなくなっている、つまり自分の力で救いを得ることができなくなっている、その人間が、イエス・キリストによる贖いの業を通して、つまり主イエスの十字架の死によって、神の恵みにより値なしに(新共同訳では「無償で」)義とされるのです。それが「神の義」です。つまり「神の義」は、私たち人間が、良い行いをするなど何らかの手柄を立てることによって獲得することができるものではなくて、神が独り子イエス・キリストによって、その十字架の死によって、与えて下さるものなのです。そういう意味では、神の義は「イエス・キリストの私たちへの真実」によって与えられるという聖書協会共同訳の方が、「イエス・キリストへの私たちの信仰」によってそれが与えられるという新共同訳よりも相応しいと言えるでしょう。私たちの救いは、私たちがイエス・キリストを信じたという私たちの手柄によって獲得されるのではなくて、神の独り子イエス・キリストが十字架の死に至るご生涯を歩んで下さったことにおいて示して下さった私たちへの真実、誠実、言い換えれば愛によって与えられるのであり、またその独り子主イエスを遣わし、死者の中から復活させて下さったことにおいて父なる神が示して下さった私たちへの真実、誠実、愛によって与えられるのです。
信仰のみによる義認
しかし、父なる神と独り子キリストの真実なる愛によって実現した神の義に私たちがあずかることは、自動的に起こるわけではありません。主イエスと父なる神が示して下さった真実に、私たちも真実をもって、誠実をもって、愛をもって応えていくことが必要です。そこに、私たちの「信仰」の意味があります。神の義にあずかるために、私たちの信仰もまた大切な働きをするのです。ですから「イエス・キリストの信仰」を「イエス・キリストへの私たちの信仰」と訳した新共同訳の捉え方も間違いではありません。私たちは、イエス・キリストを信じる信仰によって義とされ、救われるのです。それは宗教改革の三大原理の一つとされている「信仰のみによる義認」ということでもあります。私たちは、良い行いをすることによって自ら義となるのではなくて、ただイエス・キリストを信じる信仰によって義とされるのです。しかしそこで勘違いをしないようにしなければなりません。イエス・キリストを信じる私たちの信仰によって神の義が得られるのではありません。私たちの信仰が神の義を得るための手柄になるわけではないのです。そうなってしまったらそれは、良い行いをして神の義を得るのと変わらないことになります。私たちがイエス・キリストを信じる前に、神が、イエス・キリストによって、私たちへの真実を、誠実を、愛を、示して下さったのです。イエス・キリストの真実こそが、私たちに救いをもたらすのです。そのキリストと神の真実の愛が示されているがゆえに、私たちはそれに応えて、キリストを、神を信じて、その救いにあずかるのです。
応答としての信仰
「神の義は、イエス・キリストの真実によって、信じる者すべてに現されたのです」という聖書協会共同訳の22節はそのことをはっきりと示しています。神の義が現されたのは、イエス・キリストの真実によってです。つまり神の、イエス・キリストによる救いのみ業こそが根本的な救いの出来事なのです。そしてその神の義が、「信じる者すべてに」現され、与えられている、神がイエス・キリストによって実現して下さった義に、私たちは信じることによってあずかるのです。信仰はあくまでも、神が実現して下さった義への応答です。しかし応答することは大事です。神が義を差し出して下さっているのに、それを無視して、応答せず、受け取ろうとしないならば、その救いは私たちの現実とはなりません。信じることなしにその救いの喜びに生きることはできないのです。イエス・キリストの真実に、私たちも真実をもって応える、そこに、キリストと共に生きる歩みが与えられます。それが信仰をもって生きるということなのです。
イエスの真実に基づく者
新共同訳のように「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です」と訳してしまうと、私たちがキリストを信じることだけが強調されて、その根本にあるキリストの真実が見落とされてしまいます。信じることが私たちの手柄であり、信じるという良い行いによって救いを獲得できるようにも感じられてしまうのではないでしょうか。26節においても同じことが言えます。「イエスを信じる者を義となさる」という新共同訳は、イエスを信じることが、義とされ、救われるために私たちが身につけるべき資格であるかのように感じられます。しかしイエスを信じる者とは、聖書協会共同訳のように「イエスの真実に基づく者」なのです。イエスの真実、つまり私たちのために十字架にかかって死んで下さった真実な愛こそが私たちを義とするのであって、そのことを信じて、感謝し、主イエスの真実に自分も真実をもって応えて生きようとすることが信仰なのです。
救いは人間の業によるのか、神の真実によるのか
新共同訳と聖書協会共同訳とで、これと同じ訳の違いが見られるのが、ガラテヤの信徒への手紙第2章16節です。新共同訳ではこうなっています。「けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした」。同じ箇所が聖書協会共同訳ではこうなっています。「しかし、人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、ただイエス・キリストの真実によるのだということを知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の行いによってではなく、キリストの真実によって義としていただくためです」。ここでも、「イエス・キリストへの信仰」と訳されていたのが「イエス・キリストの真実」に変わっています。原文の言葉はやはり「イエス・キリストの信仰」です。ここは、律法の行いによって救われるのか、それとも信仰によって救われるのか、ということを語っているところですが、根本的な問題は、律法の行いか信仰か、ではありません。それはどちらも人間のすることであって、その種類の違いでしかありません。根本的に見つめられているのは、律法の行いつまり人間の業によって救われるのか、イエス・キリストの真実つまり神の愛によるみ業によって救われるのか、ということです。人間の行いによってではなく、キリストの真実つまり神の愛によってこそ義とされることを知って、そのキリストにおける神の愛に応えて生きようとすることがキリストを信じる信仰なのです。聖書協会共同訳はそういう私たちの信仰の基本的なあり方を明確に示してくれているのです。
新しい出発の土台
このことは、2025年の年頭にあたり、新しく出発しようとしている私たちの歩みの土台となることです。私たちの信仰の歩みは、そして教会の歩みは、私たちがどれだけ神を信じキリストを信じて、信仰者としての良い行いや奉仕をすることができるか、にかかっているのではありません。私たちの信仰も、教会の歩みも、キリストの真実、神の真実、つまり神の私たちへの愛によって支えられているのです。土台はキリストの真実、神の真実なのです。私たちの信仰の歩みが、そこにおける働きが、不十分であり、欠けがあり、あるいはつまずきに陥ってしまうことがあっても、キリストの真実、神の愛という土台は揺らぐことはありません。私たちは、このキリストの真実、神の愛を受けて、それにお応えして、私たちもできる限りの真実を尽くして、キリストに従い、神を愛し、隣人を愛して歩むのです。私たちの歩みにはいろいろな欠けがあり、失敗があり、罪があり、弱さがあります。十分なことなどできないのが私たちです。しかしキリストの真実は揺らぐことはない。そのことを信じ、信頼して歩むことによって、私たちはこの新しい年を、新しい出発の年とすることができるのです。