【2023年4月奨励】死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエス

  • ローマの信徒への手紙第8章31-39節
今月の奨励

「死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエス」
牧師 藤掛順一

・新約聖書 ローマの信徒への手紙第8章31-39節

四月の聖句
 本日の祈祷会は、受難週祈祷会であると同時に、4月の「昼の聖書研究祈祷会」でもあります。「昼の聖書研究祈祷会」ではいつも、その月の月間聖句についての奨励を語っています。今年の四月の月間聖句は、ローマの信徒への手紙第8章34節の中の「死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエス」というみ言葉です。これを四月の聖句としたのは、四月の第一週、つまり今週は受難週であり、来る9日がイースターだからです。つまりこの四月に私たちは、主イエスの十字架の苦しみと死を覚え、そして復活を覚えていくのです。月間聖句は長さに制限がありますので、短い中でその両方のことに触れている箇所を、ということでこの箇所を選びました。この箇所には、主イエスの死と復活が同時に見つめられています。この聖句を味わいつつ、主イエスの十字架の死と復活の両方に思いを致しつつ、この四月を歩んでいきたいのです。

受難と復活は切り離せない
 主イエスの十字架の苦しみと死は、復活と分かち難く結び合っている、ということは、先日の棕櫚の主日の礼拝説教でも語りました。私たちはこの受難週に主イエスの十字架の苦しみと死を覚えて歩みます。受難週祈祷会もそのために行われています。しかし主イエスの受難を覚える時に私たちは、主イエスの復活を忘れているのではありません。そしてイースターを迎え、主イエスの復活を喜び祝う時にも、主イエスの十字架の苦しみと死を忘れてしまうのではありません。受難週には主イエスの受難のことだけを見つめて復活のことは考えず、イースターになったら今度は復活のことだけを見つめて受難のことは考えない、というのは正しいあり方ではありません。主イエスの受難を復活を抜きにして見つめることはできないし、主イエスの復活を受難を抜きにして見つめることは無意味です。つまり主イエス・キリストは、十字架にかかって死んだ方であり、そして復活させられた方です。そこに、主イエス・キリストが私たちの救い主であられる所以があるのです。4月の聖句はそのことを語っていると言うことができます。このことを確認した上で、先ずは「受難週祈祷会」として、主イエスの死を見つめていきたいと思います。

御子をさえ惜しまず死に渡された
 主イエスが「死んだ方」であると34節は語っていますが、それは、その前の32節に、「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は」とあるように、父なる神が、御子主イエスを死に渡された、ということです。主イエスが「死んだ方」であるのは、年をとって死んだとか、病気で死んだというような自然現象でないことは勿論ですが、敵対する者たちによって殺されてしまったということでもありません。表面的には、主イエスは敵対する人々によって捕えられ、ローマ帝国の総督ピラトのもとで裁かれて死刑の判決を受け、ピラトの命令によって十字架につけられて殺されたのですが、しかしそれは実は人間の思惑によることではなくて、父なる神がその御子である主イエスを死に渡したことによって起った出来事だったのです。つまり主イエスの死は、人間の敵意や悪意によって起こりましたが、そこで実現したのは父なる神のみ心だったのです。そのみ心とは、「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡して」下さるみ心です。つまり神は、御子イエスをも惜しまず死に渡して下さるほどに、私たちを愛して下さっているのです。主イエスの十字架の死は、父なる神のこの大いなる愛の実現です。このことを知らされる時に私たちは、神が「御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」という確信を与えられるのです。「すべてのものをわたしたちに賜る」というのは、私たちが求めたら何でも好きなものを与えてもらえる、ということではありません。神がかけがえのない独り子を私たちのために死に渡して下さったのは、私たちの我儘をかなえるためではありません。このことによって神は、私たちを、直面している滅びから救い出し、私たちが本当に必要としている救いを与えて下さるのです。

義としてくださる
 私たちが直面している滅び、そして本当に必要としている救いとは何か、それが33節に語られています。「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです」。私たちを義として下さること、それが私たちが本当に必要としている救いです。生まれつきの私たちは、神の下で生きることをを束縛と感じ、神を無視して、自分が主人となって生きようとしている罪に陥っています。神との良い関係を失っているのです。その罪を訴えられ、神に裁かれたら、私たちは有罪となり、滅びるしかない。私たちはその滅びに直面しているのです。その私たちの罪を神が赦し、神と良い関係を持って生きる者として下さる、それが「人を義としてくださる」救いです。私たちが本当に必要としているその救いを与えるために、父なる神は御子主イエスを死に渡して下さったのです。御子主イエスが私たちの罪を全てご自分の身に負って、私たちに代って、十字架の苦しみと死を引き受けて下さったことによって、神は私たちの罪を赦して下さり、私たちを義として下さり、神の子として生きることができるようにして下さったのです。

味方であってくださる
 この33節と同じことを語っているのが31節です。「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか」。神が御子をさえ惜しまず死に渡して下さったことによって、私たちはこの恵みをも与えられているのです。それは、神がどんな時も自分の味方であって下さるのだから、もうどんな敵も恐れる必要はない、自分に敵対する者は皆神が滅ぼして下さる、ということではありません。私たちに敵対するというのは、私たちの罪を示して、こんな罪を犯しているお前が神に義とされ、救われるはずがないだろうが、と言うということです。そういう声は外から聞こえて来ることもありますが、むしろ自分の心の中にそれが湧き上がって来るのです。こんなに罪深くダメな自分は救われるはずがない、裁かれて滅びるしかない、という思いが起ってくるのです。でもその時に、神は私たちの「味方」であって下さいます。私はあなたのために、独り子イエス・キリストを死に渡した。それによって私はあなたの罪を赦して義とした。あなたと私の関係はもう回復されている。私はあなたを子として愛している、と宣言して下さるのです。神が「味方」であるとはそういうことです。主イエスの十字架の死によって、即ち御子をさえ惜しまず死に渡して下さったことによって、神は私たちに対するこのような愛を示して下さったのです。ですから、受難週に主イエスの十字架の苦しみと死を覚えるというのは、主イエスが受けた悲惨な苦しみと死を悼み、嘆き悲しむことではありません。勿論主イエスが受けて下さった苦しみはまことに大きなものであり、その原因は私たちの罪にあるのですから、それを嘆き悲しむのは当然のことです。しかし私たちはそこに、「御子をさえ惜しまず死に渡して下さった」神の愛を見るのです。神がこれほどまでに、罪人である自分を愛して下さり、最も大切なものを犠牲にしても私たちを救おうとして下さったことを見つめて、感謝するのです。その感謝こそ、受難週の歩みに相応しいあり方なのです。

むしろ復活させられた方
 さてここまでが、言ってみれば「受難週祈祷会」としての奨励であり、ここから先は、四月の聖句に共に語られている主イエスの復活を見つめていきます。それは最初に申しましたように、受難とひと繋がりのことであって、決して切り離すことはできません。主イエス・キリストは、死んだ方であると共に、復活させられた方でもあるのです。主イエスが「死んだ方」であることは、これまで見てきたように、父なる神が私たちの救いのために御子主イエスを死に渡して下さったということ、つまり根本的には神のみ業でした。同じように復活も、父なる神のみ業です。「復活させられた方」という言葉がそのことを示しています。主イエスは父なる神によって復活させられたのです。主イエスが自分の力で死に勝利して復活したのではありません。つまり主イエスの十字架の死も、復活も、共に父なる神が私たちの救いにために成し遂げて下さった救いのみ業なのです。そして「死んだ方、否、むしろ、復活させられた方」という言い方が示しているのは、主イエスが死んだことも勿論大事だが、むしろ復活させられたことをこそ中心的に見つめていくべきだ、ということです。主イエスが死んだこと、つまり神が主イエスを死に渡して下さったことだけを見つめていたのでは不十分で、その神が主イエスを復活させたことをこそ見つめるべきなのです。主イエスの復活によってこそ、私たちのための神の愛は、救いの恵みは実現したのです。主イエスの復活の記念日であるイースターこそ、神が私たちの救いを実現して下さった記念日なのです。だから教会は主の復活の日である日曜日に礼拝を守っているのです。この日に神が実現して下さった救いにあずかり、それを感謝しつつ生きることが教会の信仰です。私たちは洗礼を受けて教会に加えられ、その信仰に生きていきます。洗礼は、主イエスの十字架の死にあずかって古い自分が死に、主イエスの復活にあずかって新しく生き始めることの印です。洗礼を受けた者は、「死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエス」と結び合わされて、主イエスの復活の命にあずかって生きていくのです。

主イエスの昇天
 しかし34節に語られているのは、主イエスの十字架の死と復活のことだけではありません。「復活させられた方」であるキリスト・イエスは、「神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです」と後半にあります。死んで、復活した主イエスが、天に昇り、父なる神の右に座しておられることが見つめられているのです。そしてこの主イエスの昇天も、主イエスが自分の力で天に昇ったということではありません。エフェソの信徒への手紙第1章20節にこうあります。「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ」。主イエスの十字架の死も、復活も、昇天も、全て父なる神のみ業なのです。神は御子主イエスを死に渡し、そして死に勝利して復活させ、そして天に引き上げてご自分の右の座に着かせることによって、私たちのための救いのみ業を成し遂げて下さったのです。

わたしたちのために執り成してくださっている主イエス
 天において、父なる神の右に座っておられる主イエスが今何をして下さっているのかもこの34節に語られています。「わたしたちのために執り成してくださるのです」というのがそれです。主イエスの復活は、神の恵みが死の力に勝利して永遠の命をもたらすことを示しているだけではありません。復活して今も生きておられる主イエスは、今、父なる神の右の座において、私たちのために執り成して下さっているのです。つまり父なる神と私たちとの間を取り持って下さり、良い関係を築いて下さっているのです。罪人である私たちが義とされ、神の子とされて生きることができるのは、天におけるこの主イエスの執り成しのおかげです。そのために父なる神と主イエスから遣わされ、今私たちをその恵みにあずからせて下さっているのが聖霊です。この聖霊のお働きによって、およそ二千年前の出来事である主イエスの十字架の死と復活と昇天が、今現在の私たちの救いの出来事となり、私たちを神の子として生かしているのです。受難週からイースター、そしてイースターから四十日後の昇天日において覚えていく主イエスの十字架の苦しみと死と復活と昇天は、ペンテコステ(聖霊降臨日)において、私たちを生かす救いの出来事となっているのです。

神の大いなる愛を受けて
 主イエスの十字架の死と復活、昇天、そしてペンテコステにおける聖霊の降臨はこのように全て繋がっており、それらの全体によって、罪人である私たちを赦して義とし、神の子として新しく生かして下さり、死に勝利する永遠の命にあずからせて下さろうとしている神の大いなる愛が示されています。受難週そしてイースターを歩むこの四月、「死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエス」を見つめることによって私たちは、私たちの味方であって下さり、私たちを義として下さる神の愛を受けて歩みます。そこには、38節以下に語られている、「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」という確信が与えられていくのです。

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