悲しむ人々の幸い

  • 家庭集会説教 /牧師 藤掛 順一
聖書が教える幸せ

■家庭集会説教 /牧師 藤掛 順一

◆ 悲しむ人々の幸い

マタイによる福音書 第5章4節
 

1.悲しんでいる人が何故幸いなのか?

この言葉は以下のように読まれることが多かった。

 「この悲しみとは、自分の罪を嘆き悲しむこと。つまりこの幸いは、悔い改める者の幸い。
 悔い改めこそが、神様から与えられる本当の祝福、幸いへの道である。 自分の罪を悲しむことは、他者の罪を悲しむことにもつながる。そこには、人の罪をただ批判し裁くのではなく、それを共に嘆き悲しむ姿勢が生まれる。そのような働きかけによって、罪を犯している者が悔い改めへと導かれていく。
またそれは、この世に起る様々な悲惨な出来事、人間の罪が引き起こす苦しみの現実を悲しむことにもつながる。戦争、難民、飢餓、災害、南北問題…
これらの現実を悲しむところから、何とかしていこうとする努力が生じる。 人の悲しみへの共感、同情はとても大事。人の悲しみを自分の悲しみとする感受性は、自分自身の悲しみの中で育てられる。悲しみを知っている者こそが、人の悲しみを思いやり、人と心を通わせることができる。
そういう意味で、悲しむ人々は幸いであると言うことができる。」

しかしこのように理解し、説明する時に、この言葉は私たちから遠く離れた、別の世界の事柄になってしまうのではないか。私たちは、自分の罪を嘆き悲しむよりもむしろ、いろいろと言い訳をし、人のせいにしてしまう。人の罪を悲しむよりもそれを喜び、興味の対象とし、優越感にひたっている。
また本当に悲しんでいる時には、自分のことで精一杯で、人のことをかまっている余裕などなくなる。それが私たちの現実ではないだろうか。

「悲しみはこのような意味で幸いなのだ」と説明するどのような言葉も、私たちの現実の具体的な悲しみの前では力を失い、私たちとは遠く離れた別世界の話になってしまう。

2.宣言された幸い

 主イエスは、悲しむ人々はこういう意味で幸いなのだ、という説明をしてはいない。主イエスが語っているのは、悲しむ人々は幸いであるという宣言。このような悲しみならば、という限定も、このような見方をすれば、という留保もない。私たちはそれぞれが、様々な悲しみをかかえている。その私たち一人一人に対して、「悲しむ人々は、幸いである」と宣言されている。この宣言によって主イエスは、悲しんでいる私たちの現実のただ中に、幸いを作り出そうとしておられる。

その幸いとは何か。
それは「その人たちは慰められる」ということ。
悲しむ人々には、慰めが与えられる、そこに、悲しむ人々の幸いがあると主イエスは言われる。

3.慰めとは何か

 私たちは、悲しみは人それぞれに違っており、だから慰めも人によって違うものとなると考える。
「慰め」を、悲しみの原因の解決、解消と考えるならばその通り。しかし「慰められる」とは、問題の解決や解消ではなく、悲しみの現実の中で、その重荷を背負って生きていく力を与えられること。慰められることによって、悲しみがなくなるのではなく、悲しみを背負って生きていく力を与えられる。
「慰める」という言葉は、「励ます」、「勧める」とも訳される、広がりを持った言葉。
そのもとの意味は「傍らに呼ぶ」。慰めは、傍らに呼んで下さる方がおられるところに与えられる。私たちを傍らに呼んで、慰めと励ましと勧めを与えて下さるのは主イエス・キリスト。
「その人たちは慰められる」とは、主イエスご自身が、悲しむ者たちを傍らに呼び、ねんごろに慰めを与えて下さる、という宣言、約束。

4.どこで慰めを受けるのか

私たちはどこで主イエスの傍らに呼ばれるのか。
日曜日の礼拝の時間に、人生の戦いからしばし離れて、監督が試合の途中にタイムをかけて選手たちを呼ぶように主イエスのもとに呼ばれ、慰め、励まし、勧めを受けるのか。しかし人生にタイムはない。私たちは、自分の悲しみの全てをかかえたままで礼拝に集う。そこで主イエスの傍らに呼ばれることが起る。
それは実は、主イエスの方が、悲しんでいる私たちの傍らへと来て下さり、ねんごろに語りかけて下さるということ。主イエス・キリストがこの世にお生まれになったことにはそういう意味がある。私たちは、主イエスの傍らに呼ばれるのではなくて、主イエスご自身が、私たちの傍らにまで降りて来て下さって、悲しんでいる私たちの傍らに立って下さっている。悲しみにおしつぶされそうになっている身をひきずるようにして、私たちは礼拝に集う。そしてそこで、私たちのために苦しみと死とを引き受けて下さった主イエス・キリストが、傍らにいて、私たちを担い、支えていて下さることを示される。そして慰めを受ける。

5.悲しみを背負って

 悲しみの現実はなお変わることなく私たちの重荷としてある。しかし、その下にある私たちが、傍らに共にいて下さる主イエスとの出会いによって、主イエスが悲しむ私たちを担って下さることによって、悲しみに押しつぶされることなく、それを背負って立ち上がり、新しい一歩を踏み出していく力を与えられる。その力は私たちの中にあるものではない。主イエス・キリストの父なる神様から与えられるもの。主イエスによって、父なる神様が、私たちをご自分のものとして傍らに置いて下さる。それによって大きな力が与えられ、それぞれの悲しみを背負いながら、共にいて下さる主イエスに支えられて歩む者とされる。
その歩みの中で、慰めを与えられる。悲しむ人々が幸いであるのは、この慰めのゆえである。

3節の「心の貧しい人々は、幸いである」という教えにおいて、心の貧しいことそれ自体が幸いなことではなかったように、「悲しむ人々は幸いである」という教えも、悲しみそれ自体が幸いであったり、価値があったりするわけではない。悲しみをも無理に幸いと思わければならないのではない。私たちのために十字架の苦しみと死とを受けて下さった主イエス・キリストが傍らにいて下さることによって、悲しむ私たちが慰められる。
その慰めをいただきつつ歩む時に、私たちの悲しみは、意味のあるものとなる。
人の悲しみに共感する感性が与えられていくというのもその一つ。自分の罪を悲しみ、悔い改めることも、この主イエスによる慰めの中でこそできる。そして人の罪を悲しみ、それを責めるのではなく共に嘆き悲しみ、共に悔い改めへと至るということも、主イエスによる慰めを与えられている者にこそできること。
主イエス・キリストによる慰めの中で悲しむ者は幸いなのである。

6.あなたは悲しんでよい

 信仰者はいつも喜んでいなければならない、という強迫観念に捉えられる必要はない。
主イエスはここで、悲しむ人々の幸いを語られた。「あなたがたは悲しんでよいのだ、泣いてよいのだ。ただ、忘れないでほしい、その悲しんでいるあなたの傍らに、私がいる、泣いているあなたの隣に私がいて、慰めを与えようとしている、あなたがたの悲しみは、その慰めの中にあるのだ」。

この慰めの中で生きることが信仰。

「いつも喜んでいなさい」(Ⅰテサロニケ5・16)というのは、悲しみなどないかのように、あってもおし隠して生きよということではなくて、この慰めに支えられて、悲しみを背負って歩みなさいということである。

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