【2025年2月奨励】光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった。

  • ヨハネによる福音書 第1章1-13節
今月の奨励

2025年2月の聖句についての奨励(2月5日聖書研究祈祷会) 奨励 牧師 藤掛順一
「光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった。」(5節、聖書協会共同訳)
ヨハネによる福音書第1章1-13節

「勝たなかった」と「理解しなかった」
 1月に続いて2月も、聖書協会共同訳の言葉を月間聖句としました。2025年には、教会の礼拝等で使用する聖書を新共同訳から聖書協会共同訳へと変更することを検討していこうとしています。そのために、いろいろな機会を捉えて、聖書協会共同訳を紹介していきたいと思っています。特に、新共同訳から大きく訳が変わった箇所に注目していきたいのです。その一つがヨハネによる福音書第1章5節です。ここは新共同訳では「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」となっていました。「理解しなかった」が「勝たなかった」に変わったのです。ちなみに以前の口語訳聖書では「光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった」でしたから、口語訳に戻ったと言うことができます。「勝つ」とか「理解する」と訳されているこの言葉は「つかむ、捕える」という意味で、聖書協会共同訳は註において、ここは直訳すると「光を捕らえなかった」であり、別訳として「光を理解しなかった」を示しています。つまりここは「勝たなかった」とも「理解しなかった」とも、どちらにも訳せるのです。

初めに言があった
 そこで、このヨハネ福音書の冒頭のところに語られていることを広い視野で見てみたいと思います。そうすることによって、5節をどう訳すのがより良いのかを判断することができると思うのです。ヨハネ福音書は「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった」(1、2節)と始まります。ここは新共同訳も聖書協会共同訳も全く同じです。神と共にあり、自らが神である「言」の存在が見つめられているのです。そして3節には、万物がこの言によって成ったことが語られています。1節の「初めに」とは、万物が造られる前に、という意味であることがここから分かります。神と共ににあり、自らが神である「言」は、天地創造以前におられ、万物の創造に関わっておられたのです。そこまでは、二つの訳の間に基本的な違いはありません。

命は言の内にこそ成った
 しかし4節になると、少し違いが出てきます。新共同訳は「言の内に命があった」と訳していたのに対して、聖書協会共同訳は「言の内に成ったものは、命であった」となっているのです。聖書協会共同訳は、3節の「成った」が4節にまで及んでいるととらえており、それゆえに3、4節を分けずにひとつながりとしています。つまり、「万物は言によって成った、言の内に成ったものこそ命だった」という理解です。しかし訳としてより自然なのは、新共同訳のような「言の内に命があった」でしょう。初めに神と共にあり、自らが神であり、万物がそれによって成った「言」の内にこそまことの命があった、と語られているのです。しかし聖書協会共同訳にも魅力と必然性があります。そこには、「命」が「言」の内に「成った」ことが語られているからです。「命」は、もともとどこかに存在していたのではなくて、初めに神と共にあり、自らが神である「言」の内にこそ「成った」のです。そこには神のご意志が働いています。命があるのは当たり前ではありません。それは、命を無に帰せしめようとする力に対抗してそれを存在させようとする神のご意志によって「成った」ものです。平たく言えば命は神が与えて下さったものであり、そのことが「言」の内でこそ起こっているのです。聖書協会共同訳の4節はそのことを示している点で魅力的ですが、訳としてはちょっと無理があるように思います。

闇の力に対する神の勝利
 「言」の内にある(成った)命は「人の光であった」と4節後半は語っています。つまりこの命は、人を本当に生かす命、私たちを滅ぼし、無に帰せしめようとする闇の力に対抗して神が私たちに与えて下さり、私たちを明るく照らして下さるまことの光でもあるのです。それを受けて5節前半には「光は闇の中で輝いている」と言われているのです。つまりこの「闇」は、神が造り、与えようとしておられる命を無に帰せしめようとしている力、神に対抗する混沌の力です。その闇の中で光が輝いているというのは、神が闇の力に打ち勝って光を照らし、命を与えて下さっていることを語っているのです。それゆえに5節後半の「闇は光を捕らえなかった」は、「闇は光に勝たなかった」と訳すべきだと思います。ここには、命と光を造り与えようとしておられる神のご意志を無に帰せしめようとしている闇の力に対する神の勝利が語られているのです。創世記第1章に、「地は混沌として、闇が深淵の面にあった」ところに神が「光あれ」と言われると光があった、と語られているのも、それと同じことです。そこに示されているのは、闇の力に対する神のご意志の勝利であり、そのご意志によって天地の全ては造られ、私たちの命も与えられたのです。ヨハネ福音書が、初めに「言」があり、その「言」の内に命があった(成った)と語っているのも、この神のご意志を見つめているのだと言えるでしょう。「言」は意志をもって語られるものです。意志をもって語られた神の「言」こそが万物を創造し、命をあらしめ、闇に打ち勝つ光をもたらしているのです。

まことの光が世に来た
 さてしかしヨハネ福音書が語っているのは天地創造のことではありません。万物がそれによって成った「言」の内にあった(成った)光が闇の中に輝いているというのは、その光が世に「来た」からです。そのことが9節に語られています。9節も、新共同訳と聖書協会共同訳ではかなり違っています。新共同訳は8節と9節の間に段落を設けず、8節の続きとして「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」となっています。聖書協会共同訳はそこに段落を設けて、「まことの光があった。その光は世に来て、すべての人を照らすのである」となっています。いずれにしても、「まことの光が世に来てすべての人を照らす」ことを語っています。それは主イエス・キリストのことです。ヨハネ福音書は、主イエスがまことの光として世に来たことを語っているのです。6〜8節には、洗礼者ヨハネがその光について証しをするために来たことが語られています。新共同訳は、9節をそのことと繋げて、ヨハネが証しをした「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」としたのです。ヨハネと主イエスの繋がりを示そうとしている訳だと言えます。しかし9節の原文には「その光は」という言葉はありません。むしろ、「まことの光があった」の「あった」を強調するような文になっています。ですから聖書協会共同訳の方が原文の感じが出ています。9節は、ヨハネが光について証しをしたこととは切り離して、まことの光があり、それが世に来てすべての人を照らしたことを語っている、と捉えた方がよいと思います。

世は言を受け入れなかった
 そして10節には、唐突に「言は世にあった」と語られています。このことによって、9節のまことの光と10節の言が同じものであることが示されていると言えるでしょう。「言」であり、「まことの光」でもある方が世に来て、世を生きたのです。それが主イエス・キリストです。しかし10節はそれに続いて、「世は言によって成ったが、世は言を認めなかった」と語っています。言は、ご自分によって成った世に来られたのですが、世はその言を認めなかったのです。そのことが11節で語り直されています。「言は自分のところへ来たが、民は言を受け入れなかった」。10節の「認めなかった」は「受け入れなかった」という意味であることが分かります。言によって成った世は言にとって「自分のところ」です。新共同訳では「自分の民のところへ来たが」となっています。自分のところ、自分の民のところに来たのに、世の人々は言を受け入れなかったのです。それは、世の人々が主イエス・キリストを受け入れずに十字架につけて殺したことを指しています。ヨハネ福音書はその冒頭から、世の人々が主イエスを認めず、受け入れずに十字架につけて殺すことを意識しているのです。

主イエスの十字架と復活が見つめられている
 そしてこのことこそが、新共同訳が5節後半を「闇は光を理解しなかった」と訳した理由だと思います。「光は暗闇の中で輝いている」という5節前半は、まことの光である主イエスが世に来られたことを語っています。しかし世の人間たちは、罪による闇に支配されてしまっており、光として来られた主イエスを理解できず、受け入れなかったのです。新共同訳は5節をそのことと結びつけて訳しています。つまり5節を10、11節との繋がりにおいて、あるいはそちらに引きずられて訳しているのです。「暗闇は光を捕らえなかった」という5節はそのように訳すことも可能です。しかしそのように捉えてしまうと、この5節は、人間が罪の闇に支配されてまことの光である主イエスを受け入れず、殺したことを語っていることになり、そこまでしか語っていないことになります。しかし5節は、もっと先のことまで、あるいはそこで起こっているもっと深いことまでを見つめて語られているのではないでしょうか。つまりこの世を支配している罪の闇のゆえに、人間は、まことの光として世に来られた主イエスを理解することができず、受け入れることができず、殺してしまう。そのようにして、闇の力は、言をもってこの世を造り、命を与えようとしておられる神のご意志を無に帰せしめようとしたのです。しかし神の恵みの力はその闇の力よりも強く、闇の力に勝利してまことの光を世に輝かせておられるのです。それは具体的には、主イエスの十字架と復活を指しています。主イエスの十字架の死において起こったのは、「初めに神と共にあり、ご自身が神であり、万物はこの方によって成った」と語られている「言」が人間となって世に来て下さり、その方が人々の罪をご自分の身に背負って、人々に代って死んで下さることによって、人々の罪の赦しを実現して下さったということであり、主イエスの復活において起こったのは、神が死の力に勝利して主イエスに新しい命、永遠の命を与えて下さり、それによって主イエスを信じる者たちにも、復活と永遠の命の約束を与えて下さったということだったのです。つまりそこには、罪と死の力に対する神の勝利が実現しており、罪と闇の力はこの神の恵みに勝つことはできなかったのです。5節はこのことを見つめて語られていると考えるべきです。つまり5節は、人間がその罪のゆえにまことの光である主イエスを理解することができず、殺してしまった、ということだけでなく、神がその人間の罪とそのもたらす死に勝利して、罪の赦しを実現し、もはや死に支配されない復活と永遠の命への道を拓いて下さったことをも語っているのです。「闇は光に勝たなかった」と訳すことによってこそ、そのことがはっきり示されるのです。

暗闇の力に対する神の勝利に支えられて
 以上、5節をどう訳すのがよいのかを、その前後を踏まえて考えてきました。このことは、どちらの翻訳が良いか、というだけのことではありません。私たちの信仰の歩み、教会の歩みが何によって支えられているのか、がここに示されているのです。私たちは暗闇に取り囲まれています。この社会、世界で起こっていることも、暗い出来事ばかりです。憎しみが世界を覆っており、それを煽るような言葉が飛び交っています。明るい未来を思い描くことができにくい世界となっています。そしてその暗闇は私たち自身の中にもあります。私たち自身が、神を愛し、自分自身を愛し、隣人を愛して生きることを失い、神よりも人間のことばかりを見つめ、その結果人と自分をいつも見比べながら、それによって喜んだり落ち込んだりを繰り返しながら、まことに不自由な生き方をしています。人間の罪による暗闇は私たちの外にだけあるのではなくて、私たち自身が罪による暗闇を作り出しているのです。そのような人間の罪による暗闇の中に、初めに神と共にあり、ご自身が神であり、天地創造に関わっておられた「言」である方が、まことの命、まことの光として来て下さいました。それが神の独り子主イエス・キリストです。暗闇である私たちはその主イエスを理解できず、受け入れることもできずに、十字架につけて殺してしまいました。しかし神はそのことを通して、私たちの罪の赦しを実現して下さり、主イエスの復活によって私たちにも、復活と永遠の命の約束を与えて下さったのです。つまり私たちの罪の闇は、まことの光として世に来られた主イエスに勝つことはなく、神の救いの恵みこそが勝利したのです。神の救いのご意志を無に帰せしめようとする暗闇の力は、神のご意志に勝つことはできないのです。この神の救いのみ心の勝利こそが、私たちの信仰の歩みを、そして教会を支えて下さっています。私たち自身は、罪に支配されてしまっていて、まことの光である主イエスを理解できず、受け入れずに敵対してしまうことが多くあります。洗礼を受けてからもそうです。だから教会においてもそういうことがいくらでも起こります。教会には暗闇がない、などということはありません。しかし確かなこととして聖書が告げているのは、神はその暗闇の中にまことの光である主イエスを輝かせて下さっており、暗闇はそのまことの光である主イエスに勝つことはない、ということです。そのことを告げているヨハネ福音書1章5節に支えられてこの月を歩んでいきたいのです。

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