2024年2月の聖句についての奨励(2月7日 昼の聖書研究祈祷会) 牧師 藤掛順一
「主の恵みの年を告げるためである。」(19節)
ルカによる福音書第4章16-21節
2024年度の主題と聖句の案
2月末に定期教会総会が行われ、2024年度の教会の活動計画案が審議されます。長老会が提案する24年度の年間主題は「主の恵みの年を告げるために」であり、年間聖句はルカによる福音書第4章18、19節、「主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」です。この年間主題と聖句の元になっている言葉を2月の聖句としました。本日はそれをご一緒に味わいたいと思います。総会における議事への準備の意味もあります。
教会創立150周年
この箇所を24年度の聖句としたことにはいくつかの理由があります。第一は、2024年が、横浜指路教会の創立150周年を記念する年だ、ということです。今年私たちは、主なる神が私たちの教会を150年にわたって守り導いてきて下さった、その恵みを覚え、感謝しつつ歩むのです。150年というのは、キリスト教会の二千年の歴史からすればそんなに長い年月ではありません。日本の教会はまだまだ「駆け出し」だと言わなければなりません。しかしそれでも横浜指路教会は、日本において最初に生まれたプロテスタント教会の一つであり、日本の教会の歴史、特に長老教会の歴史を代表する教会だと言えます。その教会が、関東大震災による会堂の全壊、横浜大空襲による火災、戦後の教会分裂などの苦難を経て、150年目の今もこうして歩んでいることは、主の大いなる恵みと、信仰の先輩たちの祈りと献身によることであり、私たちはそれをしっかり覚えて、主に感謝し、私たちの献身の思いを新たにしていかなければなりません。主の恵みを覚える年として、この2024年を歩んでいくことが今年の私たちの課題なのです。
ヨベルの年
150年という数字には、聖書において大事な意味があります。レビ記第25章8〜10節にこうあります。「あなたは安息の年を七回、すなわち七年を七度数えなさい。七を七倍した年は四十九年である。その年の第七の月の十日の贖罪日に、雄羊の角笛を鳴り響かせる。あなたたちは国中に角笛を吹き鳴らして、この五十年目の年を聖別し、全住民に解放の宣言をする。それが、ヨベルの年である。あなたたちはおのおのその先祖伝来の所有地に帰り、家族のもとに帰る」。週の七日目は安息日、七年目は安息年、そしてそれを七回数えた後の五十年目は「ヨベルの年」なのです。その年には、全住民に解放の宣言がなされ、皆がその先祖伝来の所有地に帰り、家族のもとに帰ることができるのです。生活に困って土地を売った人も「しかし、買い戻す力がないならば、それはヨベルの年まで、買った人の手にあるが、ヨベルの年には手放されるので、その人は自分の所有地の返却を受けることができる」(レビ記25章28節)のです。また、「もし同胞が貧しく、あなたに身売りしたならば、その人をあなたの奴隷として働かせてはならない。雇い人か滞在者として共に住まわせ、ヨベルの年まであなたのものとで働かせよ。その時が来れば、その人もその子供も、あなたのもとを離れて、家族のもとに帰り、先祖伝来の所有地の返却を受けることができる。」(同39〜41節)ともあります。生活に困窮して土地を売ったり身売りをした人が、ヨベルの年には解放され、手放したものを返される、それが「解放の宣言」です。五十年目をそのような「解放の年」「主の恵みの年」とすることを主なる神が命じておられたのです。それは、イスラエルの民は元々、主なる神によってエジプトの奴隷状態から解放された民だからです。レビ記25章の最後の55節にはこうあります。「イスラエルの人々はわたしの奴隷であり、彼らはわたしの奴隷であって、エジプトの国からわたしが導き出した者だからである。わたしはあなたたちの神、主である」。イスラエルの民は主なる神の奴隷である、と繰り返し語られています。「奴隷だったら解放されていない」と思うかもしれませんが、主なる神の奴隷、所有物とされることによってこそ、この世の、人間のあらゆる支配から解放されるのです。イスラエルの民はこの世の誰の所有物でもない、主なる神のものだ、そこに解放があるのです。イスラエルの民は、主なる神の奴隷とされたことによって、エジプトの奴隷状態から解放されたのです。この主なる神による解放がイスラエルの民の原点です。それを覚え、そこに立ち戻って新たに歩むために、主は五十年ごとに「ヨベルの年」を解放の年として定めて下さったのです。150周年は、この五十年ごとの区切りの年にあたります。私たちが教会創立150周年を祝うのは、150が区切りのよい数字だからではなくて、ヨベルの年を覚えてのことなのです。
主の恵みの年を告げる「わたし」とは主イエス
しかし勿論私たちが主なる神による解放にあずかるのは、五十年だからではありません。本日の箇所であるルカによる福音書第4章は、ガリラヤで伝道を始められた主イエスが、お育ちになったナザレの会堂で安息日にお語りになった場面です。主イエスはイザヤ書第61章1、2節を朗読なさいました。そこに語られているのは、主の恵みの年、解放の年を告げるために、主なる神が「わたし」に油を注ぎ、お遣わしになった、ということです。ヨベルの年の到来を告げる者として「わたし」が主なる神から遣わされたことをイザヤ書は語っているのです。この聖句を朗読してから主イエスは「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」とお語りになりました。つまり、主イエスこそ、ヨベルの年、解放の年の到来を告げる「わたし」であると宣言なさったのです。主イエスの到来によって、「捕らわれているいる人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由に」する「主の恵みの年」即ちヨベルの年が来たのです。
主イエスによる解放、救い
私たち人間は、罪に支配され、罪の奴隷となっています。主なる神の恵みによって造られ、命を与えられている私たちですが、その神のもとから離れ、自由になって、自分が主人となって生きようとする罪によって、この世の様々な力に支配され、その奴隷となっているのです。神から自由になろうとしたためにこの世の力の奴隷になっている、それが罪人である私たちです。主なる神はそのようにご自分のもとから離れて行ってしまった私たち人間を、ご自分のもとに取り戻そうとして、独り子主イエスをお遣わしになったのです。主イエスが私たちを、罪の支配、この世の力の支配から解放して、父なる神のものとして下さったのです。主イエスによって父なる神は私たちをご自分の所有物(奴隷)として取り戻して下さったのです。それこそが私たちの解放、救いです。私たちはこの主イエスによる解放、救いにあずかっているのです。その解放、救いを実現して下さるために、主イエスは人間となってこの世を生きて下さり、そして私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さいました。罪人である私たちが本来負わなければならない十字架の死を神の独り子である主イエスが代って負って下さったのです。そのような犠牲を払って、神は私たちをご自分のもとに取り戻して下さいました。つまり私たちは神の所有物(奴隷)とされたことによって罪の支配から解放されたわけですが、それは神が独り子の命をすら与えて下さるほどに私たちを愛して下さったということであり、神の所有物(奴隷)とされた私たちは主イエスと共に神の子とされているのです。私たちは主イエスを神の子、救い主と信じて洗礼を受けることによって、主イエスの十字架の死と復活によって実現したこの神による解放、自由にあずかり、神の所有物、神の子として新しく生まれ変わり、この神による解放、救いを喜び、感謝しつつ生きていくのです。ヨベルの年に記念される主の恵み、解放は、主イエス・キリストの十字架と復活によってこそ実現したのです。教会の150周年をヨベルの年と重ね合わせることによってて私たちは今年、主イエスの十字架の死によって実現したこの解放、救いを覚えて歩むのです。
コロナ後の新しい歩み
今年を「主の恵みの年」として歩もうとしているのは、創立150周年をヨベルの年と重ねることができるからだけではありません。この四年間私たちは「コロナ禍」によって苦しめられてきました。礼拝を三回、二回に分けて行わざるを得ず、聖餐にあずかれない期間もあり、いろいろな集会もできず、交わりが損なわれてきました。この1月から、ようやくそれを抜け出して、主日礼拝を一回とすることができました。聖餐も以前と同じ形で毎月あずかることができるようになりました。讃美歌も全節を歌うようになり、地区集会も再開されつつあります。「コロナ後」の歩みがようやく始まっているのです。迎えようとしている2024年度は、主イエス・キリストの体である教会を新たに築いていく年となります。しかし教会は、私たちが自分の能力や才覚や工夫によって築くものではありません。主の恵みによってこそ築かれるものです。ですから今年はまさに「主の恵みの年」なのです。具体的には、主イエス・キリストによって神が与えて下さった解放の恵みに私たちが、礼拝において、み言葉と聖餐によってあずかり、神の所有物、神の子とされた喜びと感謝の内に主にある交わりを築いていくことによって、キリストの体である教会が築かれていくのです。つまり私たちが「主の恵みの年」を生きていくことによってこそ、教会の新たな歩みが築かれていくのです。そのことを2024年度の目標としたいのです。150年にわたってこの教会を守り導いてきて下さった主なる神の恵みを覚え、感謝すると共に、その恵みを受けて新しく歩み出し、キリストの体である教会を新たに築いていくことを目指していきたいのです。
主の恵みの年を告げるために
イザヤ書第61章を語っているのは、主の霊を注がれて、福音を告げ知らせ、主の恵みの年を告げるために遣わされた「わたし」です。主イエスはルカによる福音書第4章で、ご自分こそその「わたし」であること、主イエスこそ、父なる神から油を注がれ、聖霊を与えられて、主による解放を告げ、主の恵みの年を告げるために遣わされた者だ、と語られました。主イエスのご生涯と、十字架の死そして復活によって、捕らわれている人の解放が、目の見えない人の視力の回復が、圧迫されている人の自由が、つまり「福音」が実現したのです。私たちは主イエスを信じて洗礼を受け、主イエスと結び合わされることによってその福音にあずかり、私たちを捕えている罪の力から解放されて罪の赦しを与えられ、塞がれていた目を開かれて神の恵みをはっきりと見つめる者となり、私たちが喜びをもって生き生きと生きることを妨げているこの世の様々な力、例えば人と自分とを比べることによって陥る心の闇や、また死への恐れなどの様々な圧迫から解き放たれて、天の父となって下さった神の愛を信じて、神に愛されている子として生きる自由を与えられました。その恵みを感謝して生きるのが私たちの信仰です。しかしこの福音にあずかった私たちは、それに感謝するだけでなく、その福音を告げ知らせる者として遣わされていきます。つまり主の霊を注がれて、福音を告げ知らせ、主の恵みの年を告げるために遣わされた「わたし」とは、私たちのことでもあるのです。「主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」というみ言葉は、主イエスのことであると共に、主イエスによる救いにあずかって生きている私たちのことでもあるのです。つまりこのみ言葉は、主イエスによって与えられている恵みを語っていると同時に、その恵みによって生かされている私たちに神から与えられている使命、課題をも語っているのです。24年度の主題を「主の恵みの年を告げるために」としたのはそのためです。教会創立150周年である2024年を歩んでいく私たちは、主がこの教会に150年にわたって与えて下さった恵みを覚え、主イエスの十字架と復活によって実現した解放にあずかって感謝して生きるだけでなく、その福音を世の人々に告げ知らせるために主が私たちを選び、聖霊の油を注いで遣わそうとしておられることを覚え、その主の召しに応えて、人々に主の恵みの年の到来を告げ知らせていきたいのです。2024年度の教会と私たちの歩みを、「主の恵みの年を告げるために」整えていくことによってこそ、創立150周年を単なる区切りのよい数字として記念するのでなく、ヨベルの年、主による解放の年として喜び祝い、主の恵みによって生かされていくことができるでしょう。そしてそれによってこそ、コロナ後の教会の新しいあり方を適切に築いていくことができると思います。以前のあり方をただ再興するのでなく、主に与えられている課題を新たに果たしていくことによってこそ、200周年に向かってよい歩みを始めることができるでしょう。