夕礼拝

使徒の任務

説教「使徒の任務」 副牧師 川嶋章弘
旧約聖書 サムエル記上第10章17-24節
新約聖書 使徒言行録第1章12-26節

教会が出発するための準備
 使徒言行録を読み始め、その1章を読み進めています。前々回、使徒言行録を読み始めた時に、使徒言行録の主人公は、天に昇られた主イエス・キリストであるとも、聖霊であるとも、使徒たちであるとも言えるけれど、教会である、と言うのが一番良いのではないか、とお話ししました。天におられ今も生きて働かれる主イエス・キリストのご支配のもとで、聖霊の働きによって使徒たちが用いられて、教会の働きはなされていくからです。ですから使徒言行録は教会の働きと歩みを語っている書物である、と言って良いと思います。そうであるなら使徒言行録の本編は、2章から始まると言えそうです。すでにペンテコステの夕礼拝で見たように、2章1節以下で聖霊降臨の出来事が語られていました。聖霊が弟子たちの上に降り、聖霊に満たされた弟子たちが神の偉大な業を語り始め、そこに教会が誕生したのです。使徒言行録が教会の働きを語っているのであれば、その教会の誕生を語っている2章は、使徒言行録の本編の始まりと言えます。そうなると1章は、使徒言行録の序文ということになりますが、序文だからと言って、重要でないということではありません。むしろ大切なことが語られている。1章は教会が誕生し、その働きを始めるための備え、教会が出発するための準備について語っているのです。それはまた、使徒たちがキリストの証人として歩むための準備について語っている、ということでもあります。8節で主イエスは使徒たちに、「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と言われていました。使徒言行録が語る教会の働きとは、使徒たちがキリストの証人として福音を宣べ伝えていく歩みなのです。使徒たちは、教会が誕生し出発するために、キリストの証人として歩むために、どのような準備をしたのでしょうか。
 私たちの教会は、今年度の年間主題として「新しい出発」を掲げています。その私たちにとって、使徒たちが最初の教会の出発に備えて、どのような準備をしたのかに目を向けることは意義あることだと思います。私たちの教会が新しく出発するために、私たちは何をなすべきなのでしょうか。

神の準備
 これまで使徒言行録1章は、教会が誕生するための神様の準備を語ってきた、と言えます。その神様の準備の中心が、前回見た、主イエス・キリストの昇天です。ルカ福音書24章49節で主イエスは、「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る」と言われていました。この「父が約束されたもの」が聖霊です。聖霊を送るためには、主イエスが天に上げられなくてはなりません。神様が復活の主イエスを天に引き上げてくださったからこそ、天におられる主イエスが聖霊を送ってくださるのです。主イエスの昇天こそ、教会が誕生するために神様が行ってくださった欠かすことのできない準備であったのです。

部屋に集った使徒の名前
 神様のほうはこれで準備完了と言っても良いでしょう。後は、使徒たちの準備が整わなくてはなりません。その準備が、本日の箇所で語られています。冒頭12、13節にあるように、使徒たちは、主イエスが天に昇られた後、「『オリーブ畑』と呼ばれる山からエルサレムに戻って」来ました。彼らはエルサレムに入ると、「泊まっていた家の上の部屋」、つまり家の上の階に上がりました。そこには大人数が集まれる部屋があったのだと思います。
 13節の後半では、その部屋に集っていた使徒たちの名前が記されています。「それは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子ユダであった」。この使徒たちの名前のリストは、基本的にルカ福音書6章12節以下と同じです。しかし決定的な違いもあります。それが、福音書に記されている「イスカリオテのユダ」の名前が、使徒言行録には記されていない、ということです。このことが15節以下でペトロが語っていることの前提となります。

心を合わせて熱心に祈る
 しかしそのことに目を向ける前に、使徒たちはこの部屋で何をしていたのかに目を向けたいと思います。14節にこのようにあります。「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた」。この部屋には使徒たちだけでなく、女性の弟子たちやイエスの母マリア、イエスの兄弟たちもいました。そして使徒たちを中心として皆で、主イエスの約束を信じ、聖霊が降るのを待って、「心を合わせて熱心に祈っていた」のです。「心を合わせて熱心に祈る」ことが、教会が誕生するために、また使徒たちがキリストの証人となるために、彼らの何よりも準備すべきことであったのです。

自分の働きを止めて
 このことは、私たち一人ひとりの信仰生活においても大切なことです。私たちは何かを準備しなければならないとき、自分があれをしなくては、これをしなくては、と考えてしまいます。タイムテーブルやチェックリストを作成することに頭がいっぱいになります。しかしその前に、私たちが第一にすべき準備は、神様に熱心に祈ることです。祈りは、神様のほうを向くことから始まります。そのためには、私たちが自分の働きを止めなくてはなりません。自分の準備に心を奪われていたら、神様のほうを向くことはできないのです。あれこれ準備するのを止めて、つまり私たち自身の働きを止めて、神様のほうを向き、神様に熱心に祈り、聖霊の働きを祈り求め、聖霊を待つことこそ、私たちが第一にすべきことなのです。

共に祈る
 しかし、ここでは「心を合わせて」と言われているように、一人で祈ることよりも、むしろ共に祈ることが見つめられています。使徒たちを中心として皆が共に祈ることが、教会誕生のための第一の準備であったのです。同じように、私たちの教会が「新しい出発」をするために、第一にすべき準備は、共に祈ること、共に心を合わせて熱心に祈ることです。コロナ禍を経て、今、私たちの教会は、毎週異なる曜日と時間に祈祷会を行っています。その内二回は対面で、二回はWebで行っています。夜遅い時間に教会に来るのが難しい方々が増えてきました。その方々にとっては、昼の祈祷会が参加しやすいと思います。一方、日中、働いている方は、夜の祈祷会でないと参加できません。また病や怪我、ご高齢による弱りのために教会になかなか来ることができない方もいらっしゃいます。その方々もWeb祈祷会なら参加できます。ただWeb祈祷会は技術的なハードルがあるので、今後、教会が何らかのフォローをできると良いと思います。いずれにしても、これらの祈祷会に集う方がさらに与えられていくことを願います。一人でも多くの方が共に集い、共に心を合わせて熱心に祈り、聖霊の働きを祈り求め、聖霊を待つことこそ、私たちの教会が新しく出発するために何にも増してすべきことなのです。

百二十人ほどの人々が一つになって
 さて、15節にはこのようにあります。「そのころ、ペトロは兄弟たちの中に立って言った。百二十人ほどの人々が一つになっていた」。この15節から始まる場面ですが、14節までの場面と同じなのだろうか、と思われるかもしれません。「百二十人ほどの人々が一つになっていた」と言われていますが、あの家の上の階の部屋に、それほどの人数が入れるとは思えないからです。また15節冒頭の「そのころ」というのも、14節とうまく結びつきません。ですから14節までの場面と15節からの場面を、同じ場面として読まなくても良いと思います。主イエスが天に昇られてから、聖霊が降るまでの十日の間で、別の時間と場所で起こった出来事が語られていても不思議ではありません。しかし大切なことは、場面は違ったとしても、教会の誕生と出発のために使徒たちが行った準備を語っているという点では一貫している、ということです。百二十人ほどの人たちは「一つになって」何をしていたのでしょうか。14節で語られていたのと同じように、「心を合わせて熱心に祈っていた」のではないでしょうか。使徒たちを中心として人々が「一つになって」、心を合わせて熱心に祈るところに、聖霊が降って、教会は誕生するのです。

ユダの最期
 そのように百二十人ほどの人々が一つになっている中で、ペトロが話し始めます。ペトロの話は、先ほどの13節で使徒たちの名前のリストの中に「イスカリオテのユダ」がなかったこと、つまり十二人の使徒の一人であったユダが主イエスを裏切り、その後、自ら命を絶ってしまったこと、そのために「十一人の使徒」となっていることを前提としています。ルカ福音書では、ユダの裏切りについて語られていましたが、その理由については、「サタンが入った」(22章3節)としか語られていませんでしたし、その後のユダについては、何も語られていませんでした。しかし本日の箇所の18節で、ペトロはこのように語っています。「このユダは不正を働いて得た報酬で土地を買ったのですが、その地面にまっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、はらわたがみな出てしまいました」。主イエスを裏切るユダに、祭司長たちが金を与えたことはルカ福音書が語っていました。ユダはその金で土地を買ったのでしょう。しかし悲惨な最期を遂げたのです。ユダの最期について、マタイによる福音書は少し異なる話を伝えています。主イエスを裏切ったユダは、主イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔して、受け取った銀貨30枚を祭司長たちに返そうとします。しかし受け取ってもらえず、ユダは「銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ」(27章5節)のです。このようにマタイ福音書と使徒言行録は、ユダの最期について異なる顛末を伝えていますが、しかしいずれにしても、ユダが主イエスを裏切り、そして悲惨な最期を遂げたことに変わりはありません。

聖書の言葉の実現
 この悲惨な最期を含め、ユダの生涯については、特にその裏切りの理由については、実に多くのことが言われてきました。多くの小説や漫画の題材ともなっているようです。しかしルカ福音書はもとより、ここでペトロもユダの裏切りの理由について語ってはいません。福音書でも使徒言行録でも著者ルカはそのことに関心を持っていないのです。ではここでペトロは、ユダの裏切りと死を語ることを通して、何を伝えようとしていたのでしょうか。
 一つには、ユダの裏切りと死は、聖書の言葉の実現である、ということです。このことをペトロは16節でこのように言っています。「兄弟たち、イエスを捕らえた者たちの手引きをしたあのユダについては、聖霊がダビデの口を通して預言しています。この聖書の言葉は、実現しなければならなかったのです」。この「聖霊がダビデの口を通して預言」した「聖書の言葉」として、20節で、二つの詩編の言葉、「その住まいは荒れ果てよ、そこに住む者はいなくなれ」と「その務めは、ほかの人が引き受けるがよい」が引用されています。「ダビデの口を通して」と言われているのは、ダビデがこれらの詩編の作者と考えられていたからです。ここでペトロはかなり自由に詩編の言葉を引用しています。もともとユダについて預言していたのではない詩編の言葉を、ユダの裏切りと死を指し示している、と受け取り直して語っているのです。それはともかく、ペトロの言わんとしていることは、ユダの裏切りと死は、旧約聖書に指し示されていることだ、ということです。それは、ユダの裏切りと死が、神の御心であった、神のご計画であった、ということにほかなりません。神の御心の外で、神のご計画の外で、ユダの裏切りと死が起こったのではないのです。

自分たちも主イエスを裏切った
 しかしだからと言って、ペトロは、神のご計画なのだから、ユダが裏切り、悲惨な最期を遂げたのは当然だ、と言っているのではありません。神のご計画の内にあるということを、そのように捉えると、単なる運命論になってしまいます。むしろペトロは、自分もユダと同じような悲惨な最期を遂げたかもしれないと思いつつ、このことを語っていたのではないでしょうか。17節に、「ユダはわたしたちの仲間の一人であり、同じ任務を割り当てられていました」とあるように、ユダとほかの十一人は仲間であり、同じ任務を割り当てられていました。その点でペトロとユダに違いはありません。そしてユダだけが、主イエスを裏切ったのでもありません。ほかの十一人も、十字架を前にして主イエスを見捨てて逃げ出しました。特にペトロは、大祭司の家の中庭で、イエスのことを、「わたしは知らない」、「私はイエスと関係ない」と言ったのです。一回だけでなく三回、イエスを知らないと言って、完全にイエスとの関係を否定しました。ユダだけでなく、ペトロも主イエスを裏切ったのです。だからペトロは、ユダの姿に自分自身の姿を重ねたに違いありません。自分こそが、ユダのような悲惨な最期を遂げなければならなかった、と思っていたのです。ペトロは、ユダの裏切りと死を語ることを通して、ユダについて語っているというより、自分たちもユダと同じように主イエスを裏切り、自分たちこそユダのような最期を遂げなければならなかったことを伝えているのです。

主イエスの復活によって生かされ
 そうであればペトロたち十一人とユダの違いはどこにあるのでしょうか。それは、ペトロたちが復活の主イエスに出会ったことにあります。ペトロたちは復活の主イエスに出会い、聖書の説き明かしを通して、主イエスの十字架の死と復活によって自分たちの救いが実現したことを示され、その救いを信じ、受け入れました。復活の主イエスに出会ったからこそ、ユダと同じように主イエスを裏切り、悲惨な最期を遂げてもおかしくなかったペトロたちが救われ、使徒であり続けることができたのです。22節にあるように、使徒は「主の復活の証人」です。それは単に、主イエスが復活したことを証しするだけではありません。主イエスの復活によって、自分が罪を赦され、救われ、使徒としての働きを担うことができていることを証しするのです。教会は、使徒たちが「主イエスの復活の証人」として歩むことで、主イエスの十字架と復活による救いを告げ知らせていきます。だからこそ使徒たちは、自分たちが主イエスを裏切ったにもかかわらず、主イエスの復活によって今も生かされていることを、しっかり受けとめる必要がありました。そのためにペトロはユダの裏切りと死について語ったのです。
 私たちが今、生かされているのも、基本的には使徒たちと同じことが私たちに起こったからです。私たちもかつて主イエスと関係なく生きていました。「私はイエスを知らない」と、イエスを拒み、あるいは裏切って生きていたのです。その私たちに聖霊の働きによって復活の主イエスが出会ってくださったことによって、私たちは罪を赦され、救われて、今このように生かされています。だから私たちは、ユダの生涯についてあれこれ詮索するよりも、ペトロが伝えようとしていることに、私たち自身が主イエスを裏切り、しかし主イエスの復活によって救われ、生かされていることに心を向けたいのです。

十二人
 さて、その上でペトロは、使徒を新たに一名加えることを語ります。使徒が十二人であることも、教会の誕生のために必要な準備であったのです。なぜなら十二という数には象徴的な意味があるからです。十二は、イスラエルの十二部族の象徴です。イスラエルの十二部族からイスラエルの民が生まれたように、十二人の使徒たちを核として新しい神の民が、つまり教会が誕生するのです。教会は新しい神の民です。そのために使徒は十一人ではなく、十二人である必要があったのです。

使徒の条件
 ただし誰でも使徒になれたわけではありません。使徒の条件が21、22節に語られています。「そこで、主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです」。つまり使徒の条件は、主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けたときから天に昇られる日まで、主イエスといつも一緒にいたこと、また復活の主イエスに出会ったことです。使徒は「主の復活の証人となるべきです」と言われているように、主イエスの復活を証しします。しかしそのためには、主イエスの地上の歩みを一緒に歩んでいる必要がありました。それは、地上の歩みの一つひとつの出来事を語るためというより、その歩みの最後に、主イエスが十字架で死なれ、復活されたことを証しするためです。正しく十字架と復活を証言するためには、そこに至るまでの主イエスの地上の歩みを一緒に歩んでいる必要があったのです。この条件を満たす者だけが使徒です。例外はパウロで、パウロは特別な仕方で復活の主イエスと出会っています。いずれにしてもこの時代以後、使徒が現れることはありません。この条件を満たす者がいないからです。私たちも使徒ではありませんし、使徒と同じ意味で、「主の復活の証人」であるわけでもありません。私たちは地上を歩まれた主イエスと一緒にいたわけでも、目に見える復活の主イエスと出会ったわけでもないからです。しかしこの使徒たちの信仰を受け継いでいるのが、教会です。教会の礼拝で、使徒たちの信仰が記されている聖書が読まれ、説き明かされることを通して、聖霊の働きによって、目には見えない復活の主イエスが私たちに出会ってくださり、語りかけてくださるのです。その語りかけにお応えして洗礼を受け、救いにあずかり、キリスト者とされた私たちは、主イエスの復活を証しする者として、この世へと遣わされています。その意味では、使徒とまったく同じ意味ではないとしても、私たちも「主の復活の証人」なのです。

くじを引く
 この箇所の最後に、どのように使徒が選ばれたかが語られています。ペトロが使徒の条件を満たす者から一人、使徒に加わる必要があると語りかけると、人々はバルサバとマティアの二人を選びました。祈った後に、くじを引くと、マティアにあたったので、マティアが「十一人の使徒の仲間に加えられ」たのです。くじを引くのは、旧約の時代から用いられてきた方法です。しかし大切なことは、人間がくじを引くことによって神のみ心が決まるのではない、ということです。神のみ心は先に決まっていて、くじを引くことで、そのみ心が示されるのです。共に読まれたサムエル記上10章17節以下でも、サウルが王となる神のみ心は先に決まっていました。本日の箇所でも、マティアが使徒となる神のみ心は先に決まっていたのです。そのすでに決まっていたみ心が示されるために、くじを引いたのです。だから24節で、くじを引く前に人々はこのように祈っています。「すべての人の心をご存じである主よ、この二人のうちのどちらをお選びになったかを、お示しください」。すでに決まっていた神のみ心が、くじを引くことで示されるよう、人々は神様に祈り求めたのです。

共に祈り、み心を求め
 本日の箇所で、教会が誕生し、出発するための準備として、使徒たちがキリストの証人として歩むための準備として、彼らが行ったことは、何であったでしょうか。それは、共に祈ることと神のみ心を求めることに尽きます。あえてそれに加えるなら、主イエスを裏切った自分たちが、主イエスの復活によって、今、生かされ、使徒としての任務を与えられ、「主の復活の証人」とされている、と受けとめたことです。この使徒たちが行った準備こそ、私たちの教会が新しく出発するために、私たちがすべきことです。一人でも多くの方と共に祈り、神のみ心を求め、そして救われるに値しなかった自分たちが、主イエスの十字架と復活によって救われ、今、生かされ、主イエスの復活を証しする務めを与えられている、と受けとめることこそ、私たちがすべきことなのです。そのような準備をしていくとき、聖霊が私たちの教会に豊かに降り、私たちを用いて神の大いなるみ業が実現していくのです。そのような準備をすることを通してこそ、私たちの教会は新しく出発していくことができるのです。

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