夕礼拝

洪水

「洪水」 牧師 藤掛 順一

・ 旧約聖書; 創世記、第7章 1節-第8章 22節
・ 新約聖書; ペトロの手紙一、第3章 18節-22節
・ 讃美歌 ; 343、527
 

ノアの大洪水  
毎月一度、私が夕礼拝の説教を担当する日には、旧約聖書創世記を連続して読んでいます。先月は第6章から、いわゆる「ノアの大洪水」が神様によって告げられ、ノアが箱舟を造ることを命じられたところを読みました。この洪水は、6章5~7節と11~13節に語られているように、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのをご覧になった主なる神様が、人を造ったことを後悔し、全ての者を、人も獣も地上からぬぐい去り、滅ぼすことを決意なさったことによって起った、神様の審きのみ業でした。人間の罪に対する神様のこの怒り、審きの中で、ノアとその家族は、主の好意を得ました。神様はノアに箱舟を造ることをお命じになり、そこに家族と、また全ての獣や鳥たちをつがいで入れ、神様の審きである洪水を生き延びるようにして下さったのです。本日は、第7章と第8章を読んでいただきました。いよいよ洪水が起こり、地上の全てが水に覆われ、全ての生き物たちが滅ぼされたこと、そしてついに洪水が止み、水が引き、ノアとその家族、また箱舟にいた鳥や獣たちが外に出て、新しい生活を始めたことまでがここに語られています。この洪水の物語によって聖書が私たちに語りかけていることを本日は聞き取っていきたいと思います。

二つの洪水物語?  
さて、大変長い洪水の物語なのですが、よく読んでみると、いくつかのことが重複して語られていたり、あるいは前に語られていることと違うことが出てきたりすることに気づきます。例えば、箱舟に入った動物たちのことですが、6章の19節以下に語られていたのは、全ての動物たちの中から雄と雌との二つずつ、つまり一つがいでした。ところが7章2節以下には、清い動物を七つがいずつ、清くない動物を一つがいずつ、と言われています。そうかと思うと8、9節にはまた「清い動物も清くない動物も、鳥も地を這うものもすべて、二つずつ」となっています。15節もそうです。また、洪水の期間も、12節には「雨が四十日四十夜地上に降り続いた」とあり、17節には「洪水は四十日間地上を覆った」とあります。8章の6節には、四十日たってノアが箱舟の窓を開けて烏を放ったことが語られています。この「四十日たって」の意味はその前のところからのつがなりではよく分かりませんが、今の7章17節の続きと読めばつながります。四十日間降り続いた雨が止んだ後も四十日間洪水は地を覆った、その四十日が過ぎた後、烏を放ってみた、ということになるのです。ところが、7章24節には、「水は百五十日の間、地上で勢いを失わなかった」とあります。8章3節にも「水は地上からひいて行った。百五十日の後には水が減って」とあります。洪水が地を覆っていたのは四十日なのか百五十日なのか、分からなくなってしまうのです。また7章11節には、洪水が始まったのはノアの生涯の第六百年の第二の月の十七日だと言われています。そして第8章13、14節には、地上の水がすっかり乾いたのはノアが六百一歳の第二の月の二十七日だとあります。つまり洪水の期間はまる一年とされているのです。四十日の雨とその後四十日水が地を覆ったというのと比べるとずっと長い期間です。このように、洪水の期間について、矛盾することが語られているのです。これらのことから、この洪水の物語は、二つの別々の物語を一つにくっつけているのではないか、と思わるようになりました。そのことが感じられるもう一つの個所は、先程もふれた8章7節の、「烏を放した」という所です。そのすぐ後には「鳩を放した」という話があり、烏についての語り方と鳩についての語り方では随分違いがあります。これなども、もともとは別の物語だったものがくっつけられて並べられているのでは、と思われるのです。第一章と第二章の天地創造の物語においても、二つの別々の話が並べられている、ということを前に申しました。それと同じことが、この「ノアの洪水の物語」にもあると思われるのです。ただ、その二つの関係については、学者の間でも説はいろいろです。全く独立した二つの話あって、それが混ぜ合わされてこのようになった、と言うよりも、先ず一つの話が生まれて、それが後に別の視点から、あるいは新たな主張を加えるために改訂された、と考えるのが一番自然ではないかと思います。例えば先程の洪水の期間のことなどは、四十日の雨とその後四十日水が地を覆ったという話が先にあり、それが後から、洪水の期間を丸一年とする改訂が加えられたのだと思われるのです。それは、この洪水が丸一年世界を覆ったと語ることによって、この世界が全く新しくされたということを象徴的に表わそうという意図によることでしょう。 創世記の洪水物語の独自性  このように、この洪水物語は、今のような形になるまでに変遷があったと思われます。こういうことは旧約聖書の多くの個所に見られることで、旧約聖書の学問的註解書を読むと、学者たちが、これはもともとどういう話だったのがこのように変化していったのだ、ということをいろいろと議論していることがわかります。そういう議論はあまり信仰の助けにはならないことも多いのですが、しかしそういう議論が、聖書の信仰の基本的特徴を明らかにしてくれる、という面もあります。つまり、素朴な物語が次第に形を変えて今聖書にあるような話になっていく、その変化に、信仰のポイントが隠されているということがあるのです。この洪水物語などはまさにそうです。もともとこれは、古代の中近東世界に広く言い伝えられていた洪水伝説でした。「ギルガメシュ叙事詩」と呼ばれるバビロニアの神話にも似たような話があるということはよく指摘されます。しかしそういう、他の民族にもあった伝説が、イスラエルの民の信仰の中で、独自な物語へと形を変えていったのです。その独自性を読み取ることによって、この物語が語っている信仰に触れることができるのです。

神の審きのみ業  
その独自性は先ず第一に、この洪水が徹頭徹尾主なる神様の、人間の罪に対する審きのみ業として語られている、という点です。天地の全てを創造し、その最後に人間を造り命を与え、他の被造物を神様のみ心に従って管理するべき者としてお立てになった主なる神様は、その人間の罪、即ち神様に背き、自分が主人となって生きようとすること、その結果として隣人を傷つけ、殺し、他の被造物を欲望のために破壊していく、という罪に対してお怒りになり、最終的には人間を滅ぼすこともお出来になるし、またそのようにする正当な権威を持っておられるのです。また、被造物を管理する者である人間が罪に陥ったことによって、被造物全体と神様との関係も損なわれ、神様の呪いの下に置かれてしまったのです。その結果として、人間が滅ぼされる時に、被造物も一緒に滅ぼされてしまうのです。洪水によって他の動物たちも皆地上からぬぐい去られてしまうというのはそういうことです。創世記は、洪水をそのような神の審きの出来事として描いているのです。 天地創造と洪水  しかしそれだけなら、なお他の民族の洪水物語と共通していると言えるでしょう。洪水を神の怒り、審きと見ることは他の民族にもあります。しかし創世記の描く洪水は、これから申し上げる点で根本的に異なっているのです。それは、創世記においてこの洪水は、主なる神様による天地創造のみ業の裏返しとして描かれている、ということです。裏返しというのは、反対のことが行われている、ということです。そのことが分かるのは7章の11節です。その後半にこうあります。「この日、大いなる深淵の源がことごとく裂け、天の窓が開かれた」。このことによって洪水が始まったのです。その次の12節には「雨が四十日四十夜地上に降り続いた」とありますが、これと今の11節とは合いません。12節のように、雨が四十日四十夜地上に降り続いたことによって洪水が起った、というのがもともとの素朴な形の洪水物語です。11節はそこに後から加えられた部分であり、洪水の持つさらに深い意味を語ろうとしているのです。この11節を理解するためには、創世記第1章の2~10節を思い起さなければなりません。2節に「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」とあります。闇に覆われた混沌の深淵、水が全面を覆っている世界、それが神様の天地創造のみ業が行われる前の世界です。そこに「光あれ」というみ声が響き、光が創造されるところから天地創造のみ業が始まります。つまり創世記が描く天地創造のみ業は、闇と混沌、深淵と水に覆われた世界に、神様が光と秩序をもたらしていく、というみ業なのです。その一環として、6、7節には、「水の中に大空あれ。水と水を分けよ」というみ言葉によって「大空」が造られ、大空の上と大空の下に水が分けられたと語られています。さらに9節には、大空の下の水が集められて、乾いた所、つまり陸地が現れたことが語られています。ここで「水」は混沌、無秩序の象徴です。その水に覆われている所では動物も植物もそして人間も生きることはできません。それゆえに神様はその水を先ず大空によって上と下とに分け、その間に空間を造って下さり、さらに空の下の水を集めて乾いた地、陸地を造って下さったのです。こうして、植物や動物や人間が生きることのできる場を設けて下さったのです。つまりこの世界は、上にも下にも水があり、混沌の力に囲まれているのです。神様がその水を抑えて、コントロールして、秩序を保って下さっていることによって、私たちの生きることができる世界が守られ、維持されているのです。空の上の水は、神様のコントロールの中で時々地上に降ってきます。それが雨です。神様がちゃんとコントロールしていて下さる限り、それは恵みの雨となり、私たちの命を支え、作物を実らせるものです。また空の下の水も、その境を越えないように神様がちゃんと抑えていて下さる限り、川や海として生活の一部となり、海の幸をもたらすものなのです。私たちが生きているこの世界は、この神様の天地創造のみ業によって常に守られ支えられています。天地創造のみ業はその時限りのものではなく、常にこの世界を支え続けているのです。7章11節に語られているのは、その神様のコントロール、抑えのみ業が取り払われたということです。「大いなる深淵の源がことごとく裂けた」、それは地の下の水、あの混沌の深淵が口を開き、境を超えて溢れ出て来たということです。「天の窓が開かれた」、それは大空によって支えられていた上の水がコントロールを失い、一気に地上に落ちて来たということです。つまりこの11節は、洪水を、ただ大雨が降り続いて起ったこととしてではなくて、上からの水と共に下からも深淵の水が湧き上がって来たという出来事として、神様が水を制御することをおやめになったために、上の水と下の水が一気に合流してこの世界を飲み込んでしまった出来事として描いているのです。それは言わば、神様が天地創造のみ業を撤回されたということです。この洪水はそのように、この世界の存在の根底を揺るがす出来事なのです。人間の罪に対する神様の審きはこのような洪水をもたらしました。天地創造のみ業において、人間はその頂点、あるいは目的でした。その人間が神様に背き罪に陥ったことは、この世界の存在を揺るがし、その意義を失わせるようなことなのだということを、創世記はこの洪水物語によって示そうとしているのです。

新しい世界へ  
このことと並んでもう一つ、創世記の洪水物語の独自性は、ノアとその家族が、また動物や鳥たちが、箱舟に入って洪水による滅びを免れたということにあります。箱舟によって誰かが洪水から救われるという話は他の民族にもあります。聖書の独自性は、その救いが、やはり徹頭徹尾主なる神様のみ心、ご意志によることだ、という点です。既に6章で読んだように、ノアが箱舟を造ったのも、主のご命令によることでした。そして7章に入って1節で主は「さあ、あなたとあなたの家族は皆、箱舟に入りなさい」と命じておられます。また、動物たちを箱舟に入れることも、全て主の指示によることです。6節に「ノアは、すべて主が命じられたとおりにした」とある通りです。9節にも16節にも「神が命じられたとおりに」という言葉があります。箱舟は神様の審きからの救いの象徴ですが、その救いもまた、ただ主なる神様のみ心によってなされているのであって、例えばノアが何らかの手段で洪水の発生を前もって知り、生き延びるために箱舟を造った、というようなことではないのです。つまりここには、主なる神様が人間の罪のゆえに、天地創造のみ業を撤回し、この世界を徹底的に滅ぼされる、そのような厳しい審きのみ心が語られていると同時に、そこからの救いをも与えて下さる、その恵みのみ心が示されているのです。しかもそれは、ただ一部の人間や動物が幸いなことに洪水による死を免れた、ということではありません。7章23節には、全てのものが大地からぬぐい去られ、「ノアと、彼と共に箱舟にいたものだけが残った」とあります。この「残った」という言葉は、救われたということであると同時に、神様の新しいみ業、新しい神の民がそこから再び育てられていくために残された、ということでもあります。「残りの者」を通して神様が新しい救いのみ業を行なって下さるという信仰は旧約聖書に広く見られるのです。つまり箱舟に入れられて残された人と動物たちは、洪水後の新しい世界を築いていく土台として選ばれ、立てられているのです。洪水によって天地創造のみ業を一旦撤回された主なる神様は、もう一度それを行なって下さり、この世界に再び秩序を与え、新しい世界を築いていって下さるのです。そのことが8章の1、2節に語られています。「神は、ノアと彼と共に箱舟にいたすべての獣とすべての家畜を御心に留め、地の上に風を吹かせられたので、水が減り始めた。また、深淵の源と天の窓が閉じられたので、天からの雨は降りやみ、水は地上からひいて行った」。洪水が止み、水が減り始めたのです。それもまた、主なる神様のみ心によることだとここは語っています。そしてここに、「深淵の源と天の窓が閉じられた」とあるのは、先程の7章11節の反対です。上の水と下の水を神様が再びせき止め、この世界の秩序を回復して下さるのです。撤回した天地創造のみ業を再開して下さるのです。箱舟に入れられて救われた者たちは、そのようにして神様が再び秩序を与えて下さる新しい世界を生きて行くのです。ノアとその妻、また三人の息子たちとその嫁たち、という夫婦、家族が箱舟に入れられています。また動物たちも必ず雄と雌のつがいで入れられています。それは洪水後の新しい世界で子孫を殖やしていくためです。そのみ心は8章16、17節の、彼らが箱舟を出ることを命じるみ言葉に示されています。「さあ、あなたもあなたの妻も、息子も嫁も、皆一緒に箱舟から出なさい。すべて肉なるもののうちからあなたのもとに来たすべての動物、鳥も家畜も地を這うものも一緒に連れ出し、地に群がり、地上で子を産み、増えるようにしなさい」。このみ言葉は、創世記第1章22節と28節の、「産めよ、殖えよ、地に満ちよ」というみ言葉の繰り返しであると言うことができます。実際この後9章の1節以下でその祝福が繰り返されていくのです。主なる神様は天地創造のみ業を再開してこの世界を再び守り整えて下さり、そこで生きる人間と動物たちの歩みを祝福して下さっているのです。

慰めの実現  
このように、ノアの洪水の物語は、人間の罪に対する主なる神様の、天地創造をも撤回するような徹底的な審きと、その審きによる滅びを通して天地創造を再びやり直して下さる救いのみ業とを描き、語っています。審きと救いが一つの物語として語られているのです。その洪水のしめくくりとして語られているのが、8章21、22節の主のお言葉です。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも、寒さも暑さも、夏も冬も、昼も夜も、やむことはない」。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい」と主は言われました。ここは口語訳聖書では「わたしはもはや二度と人のゆえに地をのろわない」と訳されており、こちらの方が原文に忠実な正しい訳です。これと同じことが3章17節に語られていたのです。そこには「お前のゆえに、土は呪われるものとなった」とありました。アダムの罪のゆえに、土、大地は神様の呪いの下に置かれたのです。洪水はその人間の罪のゆえの神様の呪いの最終的帰結です。しかしその洪水を経て今や主は、「人間の罪のゆえに地を呪うことはもはやしない」と宣言なさったのです。それは、3章17節において宣言された呪いがもはや大地とそこに住む者たちに下されることはない、という慰めの宣言です。ノアという名前は「慰め」という意味であり、その由来が5章29節に語られていました。「主の呪いを受けた大地で働く我々の手の苦労を、この子は慰めてくれるであろう」というのがその由来です。まさにこの慰めが、この主のお言葉において実現しているのです。

別の仕方  
けれどもここで主は、「人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ」と言っておられます。洪水を経て、神様に選ばれたノアとその家族が生き残り、その子孫たちによって人類は新しい歩みを踏み出しますけれども、それは、もう罪を犯さない、正しい者としての歩みがなされていく、ということではないのです。人間の罪は、洪水の前も後も、変わることがありません。洪水の理由は、「人が常に悪いことばかりを心に思い計っている」ことだとありましたが、「人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ」というのはそれと同じことです。人間の罪の状況は、洪水の前も後も全く変わってはいないのです。変わったのは、その人間に対する神様のあり方です。幼い時から悪いことばかりを思い計っている私たち人間は、何度でも洪水によって滅ぼされるべき者なのです。しかし神様は、一度そのような審きのみ業をなさり、人間の罪がどれほど重大なことなのかをお示しになりましたが、二度とはそれをしない、と約束して下さったのです。それは罪が赦されたということではありません。罪の問題はなお残っています。しかしそれを、この世界を滅ぼすという仕方で解決することはしない、と神様は宣言なさったのです。洪水を経た新しい世界において、人間の罪の問題は、それとは別の仕方で解決されるのです。その別の仕方が実現したのは、神様の独り子イエス・キリストの十字架の死においてである、ということを私たちは新約聖書から教えられています。そのことは、次回、第9章を読む時に、よりはっきりと示されていくことでしょう。

洗礼の恵み  
最後に、本日共に読まれた新約聖書の個所、ペトロの手紙一の第3章18節以下にふれておきたいと思います。ここに語られていることを詳しく見ていく暇はありませんが、ここには、ノアの洪水と箱舟による救いが象徴的な意味を持ったこととして見つめられています。箱舟に乗り込んだ八人だけが洪水の水の中を通って救われた、それは、洗礼のことを前もって表わしていたのだ、と言われているのです。それはちょっとびっくりするような比喩的解釈ですけれども、創世記が語っているこの洪水と箱舟による救いの深い意味を見つめるならば、なるほどその通りだと思わされるのです。洪水は、罪ある人間に対する神様の審きです。そこにおいて天地創造のみ業が撤回され、この世界と私たちは徹底的な滅びに直面するのです。しかし神様がそこに箱舟を与えて下さり、洪水から、神様の審きによる滅びから救って下さいました。この救いのみ業は、新しい天地創造に匹敵する恵みです。洪水の後の世界は、それ以前の世界の延長ではありません。神様が新たな恵みによって秩序立て、もはや人の罪のゆえに滅ぼすことはしないと宣言して下さった新しい世界なのです。箱舟は、旧い世界に生きていた人を、新しい世界を生きる者へと生まれ変わらせるものです。神様の恵みによって箱舟に入れられ、救われた者は、もはや旧い世界の生き残りではなくて、新しい世界を生き、築いて行くために選ばれ、立てられた「残りの者」なのです。それはそのまま、私たちが洗礼を受けることにおいてあずかる恵みであると言うことができます。本日はペンテコステ、聖霊降臨日です。聖霊が降り、教会が誕生したことを記念する日です。ノアの洪水の物語において創世記が描いている神様の救いの恵みは、今や私たちに、聖霊の働きによって与えられています。聖霊の働きによって私たちは洗礼を受け、主イエス・キリストによる罪の赦しの恵みにあずかり、キリストの体である教会の枝とされ、新しい神の民である教会の歩みを担う者へと新しくされるのです。

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