夕礼拝

躓きの先にある救い

「躓きの先にある救い」  伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書; ゼカリヤ書 第13章7-9節
・ 新約聖書; マルコによる福音書 第14章27-31節
・ 讃美歌 ; 50、442

 
裏切りの予告
十字架に向かう主イエスの御受難の歩みが記された箇所を読んでいます。前回は、主イエスが弟子たちと最後の食卓を共にした箇所を読みました。いわゆる最後の晩餐と言われている食事で、過越祭における宗教的な儀式としての食事です。主イエスは、この食事において、パンとぶどう酒をご自身の体と血として弟子たちにお渡しになりました。それは、これから行われる十字架で肉を裂かれ、血を流すことによって受ける苦しみが他でもなく、ご自身に従って来た弟子たちのためであることを示すためでした。14章に26節には、「一同は賛美の歌を歌ってから、オリーブ山へ出かけた」とあります。ここで賛美の歌とは、過越の食事の最後に歌われる詩編のことです。主イエスと弟子たちは、食事を終えてオリーブ山に向かわれたのです。その道すがら、主イエスは弟子たちに向かって、「あなたがたは皆わたしにつまずく」とおっしゃいました。
「つまずく」というのは、度々聖書に登場する言葉で、わたしたちも信仰生活においてしばしば用いる表現です。信仰を無くしてしまう、主イエスに従う歩みを止めてしまうということです。弟子たちは、すべてを捨てて主イエスに従って来ました。しかし、十字架を前にして、弟子たちが「皆」主イエスについて行くことが出来なくなると言うのです。過越の食事の時に主イエスは、弟子の一人がご自身を裏切ることを話し、イスカリオテのユダの裏切りを予告されました。そのすぐ後に、今度はすべての弟子がつまずきを予告されたのです。この時、弟子たちは、明確に主イエスの十字架を意識していたわけではありません。自分たちは、これから先も主イエスの後について行くのだと考えていたはずです。ですから、この予告には弟子たちも驚き、衝撃を受けたに違い在りません。事実、この予告を聞いた時、ペトロを始め、弟子たちは、自分がつまずくことなどないと主張し出したのです。

預言の成就
主イエスは、弟子たちがつまずく理由をお語りになっています。「『わたしは羊飼いを打つ。すると羊は散ってしまう』と書いてあるからだ」。
ここで、打たれる「羊飼い」とは主イエスご自身であるのに対して、「羊」とは主イエスに従う弟子たちです。丁度、羊飼いを失った羊の群れがバラバラに去って行ってしまうのと同じように、主イエスが打たれることによって、弟子たちも散ってしまうというのです。
この御言葉は、本日お読みした旧約聖書のゼカリヤ書第13章7節にある言葉です。つまり、弟子たちがつまずくことは、旧約聖書に記された預言の成就として起こることだと言うのです。
 このことは、ただ弟子たちをつまずかせ、弟子の群れを散らすことが目的で行われるのではありません。ゼカリヤ書13章7~9節には、羊飼いが打たれたことによって、羊の群れが散らされ、そのような中で三分の二は死に絶え、三分の一が残ると言われています。又、更に、その三分の一が精錬され、試されて、最後に残った者に神が「彼こそわたしの民」と言い、彼によって、「主こそわたしの神」という告白がなされるというのです。つまり、ここでは、神が羊飼いを打つのは、ただ羊の群れを散らすためではなく、そのことによって真に主が主とされ「主こそわたしの神」との告白が導き出されるようになることが見つめられているのです。羊飼いが打たれるのは、そのことによって真の信仰が生まれるためであると言うのです。ゼカリヤ書の文脈では、信仰が試され、より確かな信仰を持っている者が、最後に残るという意味合いで語られています。しかし、マルコの文脈ではそのようなことが言われているのではありません。より優秀な弟子が最後まで残るということではなく、すべての弟子はつまずき散らされるが、そのことを通して、真に主イエスに従う者とされるということが語られているのです。

救いの前提としてのつまずき
ですから、ここで主イエスは、弟子たちを非難しているのではありません。又、弟子たちの中にある、主イエスにつまずいてしまう弱さを見つめ、そのような信仰の弱さに注意するようにと仰っているのでもありません。ここで、注意をしたいことは、羊飼いである主イエスを打つ「わたし」とは主なる神であるということです。そうであるならば、つまずきの原因は弟子たちの弱さにあるということよりも、主なる神さまの方にあると言うことも出来るのです。つまり、弟子のつまずきは預言の成就であり、つまずきも又、主なる神の救いの御計画の中に含まれていると言うのです。聖書が語る救いの中には、必ず「つまずき」があると言っても良いでしょう。つまずきの先に真の救いがあると言うのです。「羊飼いを打つ」というのは、具体的には主イエスが十字架に付けられるということです。主イエスが十字架に付けて殺されるという出来事は、確かに罪ある人々の手によって引き起こされたことですが、それは、根本的には、主なる神が主イエスを打つ出来事なのです。主なる神は、人間の罪に対する裁きを一人子の上に下されました。それは、神の子が神から裁かれるという出来事なのです。そして、この十字架の出来事は、わたしたち人間にとってはつまずきになるのです。十字架の前では、誰も主イエスの後に従うことは出来ないのです。

ペトロの反応
しかし、弟子たちは、十字架のことを理解している訳ではありません。この予告に対して、弟子のペトロは「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言いました。ペトロというのは弟子の中でも最も早くに主イエスに従った、いわば一番弟子と言っても良いような弟子です。真っ先にすべてを捨てて主イエスに従ったのです。ですから、この自分が主イエスにつまずくことなどあり得ないと思ったのでしょう。そのようなペトロに、主イエスは、畳みかけるように、「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」と仰います。ペトロは、主イエスから、もう間もなく、今日の内に「わたしのことを知らないと言う」と言われたのです。それに対して、ペトロは更に、力を込めて「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」と言い張ったのです。
このペトロの姿には、自分の力で、主イエスの後に従おうとする態度があります。つまずくことは、預言の成就として起こることだと語られても、それを理解せずに、自分は信仰をなくさない、自分は最後まで従い続けるのだと主張するのです。そして、遂には、自分は、この方と一緒に死ぬことが出来ると主張するのです。しかし、そのような姿勢は、本当に主イエスの救いに生かされているとは言えません。ただ、自分の宗教的信念に従って、主イエスに従っているのです。つまり、ペトロは、「自分の業としての信仰」とでも言うべきものによって主イエスに従っていたのです。

「たとえみんながつまずいても」
自分の力で主イエスに従おうとする、「自分の業としての信仰」に生きる時、必ず起こることは、他人と自分の信仰生活を比べるということです。業としての信仰を比較し、それを判断し、そのことによって自分を誇ろうとするのです。そのことが最も明確に現れているのは、ペトロの「たとえ、みんながつまずいても」と言う言葉です。ペトロは、ここで、自分と周囲の弟子たちの姿、主イエスに従う態度や信仰を見比べるのです。そして、周囲の人々はいざ知らず、自分だけはつまずかないと言い張るのです。その背後には、自分の業としての信仰を誇り、自分の栄光を求める態度があるのです。信仰生活、主イエスに従う歩みが、自分の生活を高めるもの、自分の栄光を約束するものになってしまうのです。
これは、わたしたちの信仰生活にもつきまとう態度であると言って良いでしょう。主イエスに栄光を帰し、主イエスに従って歩んでいながら、そのように歩む自らを誇り、自分自身の栄光を求めようとしているのです。ペトロのように人一倍熱心で古くから主イエスに従っている人だからこそ、人と見比べて自らの信仰の歩みを誇ることに陥ってしまうのだというのではありません。「皆の者も同じように言った」とある通りです。確かに、古くから従っていて、熱心であればある程、そのような思いが鮮明に表れやすいと言うことは出来るかもしれません。しかし、ここにいたすべての弟子が、少なからず、ペトロと同じ思いを抱いていたのです。わたしたちが信仰をもって歩む時、誰しも、この思いを抱いているのです。
自分の業としての信仰に生き、人と自分を見比べ、人の歩みを判断して歩む時、わたしたちの心を支配するのは、信仰生活はこうあるべきだという思いです。「主イエスに従って歩む者はこうあるべきだ」というように、信仰の在り方を自分の中で決めつけてしまうのです。信仰生活の在り方を決めつけるだけならまだしも、自分が従っているイエス様はこのような方であるべきだということまで決めつけてしまうことも起こります。そして、そこにこそ、信仰生活におけるつまずきの原因があるのです。自分が思っていることとは異なる他人の信仰生活を見てはつまずき、自分の思いとは異なる救い主の姿や教会の姿に直面してはつまずくということになるのです。それは、その人自身が、自分の業による信仰に生きていていることの表れなのです。

弟子たちの否定
この後、実際、ペトロは、主イエスが予告した通りに、主イエスを知らないと三度も否むことになります。しかも、14章71節には「確かに、お前はあの連中の仲間だ」と言われた時、「呪いの言葉さえ口にしながら『あなたがたの言っているそんな人は知らない』と誓い始めた」とことが記されています。死ぬことになっても、知らないとは言わないと言っていたのにも関わらず、呪いの言葉まで口にするのです。ここには、信仰を自らの業にして、それによって自分の栄光を求めている者の行き着く結果が示されています。
もちろん、ペトロは死ぬのが怖かったのだと言うことが出来るでしょう。しかし、死の恐怖よりももっと深い所に原因があります。根本的には、自分の思い描いていたものとはことなる救い主の姿に直面し、それにつまずいたのです。ペトロが心の底で思い描いていたことによれば、信仰生活とは、自分に栄光をもたらしてくれるものであり、主イエスとは、そのことを成し遂げ、自分の栄光のために奉仕してくれる力強い導き手なのです。そのようなペトロにとって、主イエスが恥辱に満ちた十字架につけられる。そして、自分に栄光をもたらすどころか、主イエスのせいで自分の命まで危うくなっている。その状況は、自分が思い描いていた救い主や主イエスに従う歩みとは正反対のものです。その時、もはや、主イエスに従うことは出来なくなってしまうのです

  十字架のつまずきによって
「自分の力による信仰」に歩む者にとって、十字架は最大のつまずきになります。しかし、大切なことは、そのように主イエスにつまずかざるを得ない者のために、主イエスがお一人で、十字架において罪を担って下さっているということです。わたしたちの罪は、神から離れ、自分の栄光を求めているということにあると言って良いでしょう。わたしたちは、そのような罪のために、十字架の主イエスにつまずくのです。しかし、主イエスは、その十字架によって、自分の栄光を求めて歩む者の罪を贖って下さっているのです。つまり、主イエスは、十字架を受け入れることが出来ない人間の罪を救うために、「受け入れられない」出来事をして、救いを実現されるのです。
わたしたちは、ここで、ペトロが強い信仰を持っていたならば、このような結果にはならなかったと思うのであれば、それは、ここでの主イエスの予告を全く理解していないことになります。繰り返しになりますが、ここで、主イエスに従い行くことが出来ない弟子の弱さが見つめられているのではありません。神の子である主イエスが十字架で死なれるということの前では誰しもつまずかざるを得ないのです。もし、十字架において、弟子たちが従い通すことが出来たならば、主イエスがお一人で十字架の死を担うのではなく、弟子たちが共に、十字架まで歩んでいたのであれば、主イエスの十字架は、人間の救いではなくなるでしょう。人間が自ら主イエスの後に従って裁きとしての死に臨むことが出来るのであれば、主イエスの十字架は人間の救いにおいて必要なかったのです。

あなたがたより先にガリラヤに
従う者たちのつまずきによって、主なる神さまの救いが実現することを見て来ました。わたしたちの救いは、つまずきを超えたところにあるのです。そのことが、28節に記されています。弟子のつまずきを予告された後、主イエスは「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤに行く」とおっしゃいました。十字架で死なれ、復活なさった後、主イエスは弟子たちよりも先に、ガリラヤに行き、そこで、再び弟子たちとお会いになると言うのです。
 ガリラヤとは、弟子たちが、主イエスに召し出された場所です。信仰の始まりの場所と言っても良いかも知れません。そこで、十字架の死を克服し復活させられた主イエスと出会う時、弟子たちは、再び、主に従う者として歩み出すのです。そこで、自分の信仰的信念で主イエスに従い、自分の業としての信仰に生きていた自らの罪の姿を知らされ、そのような者の罪が、罪故につまずいてしまった十字架でこそ贖われていたことを示されるからです。そこから始まる歩みは、自分の力で、自分の業としての信仰に生きるのではなく、復活の主が望んで下さり、その歩みを導いて下さっていることに感謝しつつ、ただ主に委ねる歩みです。そして、自分の栄光のために自分の力によって、主に従うことを止めているが故に、その歩みは、他の人と自分を見比べつつ、自分の栄光を求めるのではなく、ただ神に栄光を帰しつつ、主を主とする歩みになるのです。

ガリラヤからの出発
この弟子たちと共に、復活の主が先だって下さるガリラヤから歩みを始めることこそ、わたしたちの信仰の歩みです。わたしたちは、繰り返し、自分の栄光を求める信仰に陥って行ってしまいます。だからこそ、わたしたちは、繰り返し復活の主が望んで下さる中で、新しく主イエスと出会い歩み続けるのです。
 自分の業としての信仰によって主イエスに従う歩みも、悔い改めの中で復活の主に押し出されて歩む歩みも、表面的にはどちらも、主イエスを信じ、主イエスに従って歩んでいます。しかし、そこには根本的な違いがあります。一方は、自分の足で立ち、自分の栄光を求めて歩んでいるのに対し、もう一方は、自分で立ち、従うことが出来ないことを知らされて、主イエスによって立たされて歩んでいるのです。つまずきを経験しつつも、先立たれる主イエスに従って、自分の業としての信仰から、主イエスに立たされて歩む歩みに踏み出すことこそ、わたしたちの信仰なのです。
主に従う歩みの中で、わたしたちは時に、つまずきを経験します。信仰における兄弟姉妹につまずき、教会につまずき、主イエスにつまずきます。しかし、そのような者のために主イエスの十字架の救いがあるのであり、そのつまずきの先にこそ、復活の主との出会いによって与えられる真の救いがあるのです。もし、それがないのであれば、それは、自らの信仰的自我が乗り越えられていないと言うことに他なりません。救いにおいて十字架を必要とせず、自分の力で自分の栄光を求めて歩み続けていると言って良いでしょう。自分の業としての信仰に歩む者、その限り、十字架の主につまずかざるを得ない者が、主イエスによって成し遂げられる救いを受け入れつつ、主が先立って行かれるガリラヤで復活の主との出会うことによって、真に救われた者とされるのです。わたしたちは、その出会いの中で、真に自らを悔い改め、「主こそわたしの神」との告白に立ち帰り、新たな歩みを始めるのです。つまずきの先にある真の救いに生かされる者とされるのです。

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