「神がそうなさる」 伝道師 乾元美
・ 旧約聖書:詩編 第67編1-8節
・ 新約聖書:使徒言行録 第11章1-18節
・ 讃美歌:404、16
約2000年前の、ベツレヘムという小さな町でお生まれになった、ユダヤ人の、ナザレ村のイエスという方は、神が遣わして下さった独り子であり、過去の人にとっても、この今現在を生きているわたしたちにとっても、そして、これから未来に生まれる人にとっても、すべての、世界中の人々の救い主です。このイエスという方の十字架の死によって、この方を信じるすべての人の、神に背き、滅びに至るほどの罪が、赦されるということ。主イエスが神に復活させられて、今も生きておられるということによって、信じるすべての者が、死んでも、主イエスに続いて復活することが約束されていて、神と共に、永遠の命を生きることが出来るということ。教会は、そのことを、今も世界中の場所で、世界中の人々に宣べ伝え続けています。
そして、今も教会は、この神の救いの歴史の中を歩んでいて、主イエスが終わりの日に再び来られ、救いを完成して下さることを待ち望んでいます。
わたしたちに与えられた神の救いの歴史、主イエス・キリストの出来事は、初めは、ユダヤ人の間で預言され、ユダヤ人の間で起こった出来事でした。
その頃、日本は弥生時代。しかし今、確かにこの日本にも主イエスの救いは伝わっています。約2000年前、この主イエスの救いの知らせを初めに聞いたユダヤ人の人々の一体誰が、こんなに長い年月をかけて、この世界の隅っこにあるような島国にまで、主イエスの救いが及ぶなんて想像できたでしょうか。
でもこれは、神様の御計画であり、神様のみ業によって、神様に導かれてきた、教会の歩みなのです。
今日共に聞いた使徒言行録の11章は、これまで共にお読みしてきた10章1節から書かれていた出来事の続きであり、このエピソードの締めくくりの部分です。
ここで語られてきたのは、主イエス・キリストの救いが、ユダヤ人だけではなくて、ユダヤ人以外の人々、つまり「異邦人」と呼ばれている人々にも与えられ、洗礼を受けた、という出来事です。この物語は使徒言行録全体から見ても、とても多い分量を割いて、記されています。それだけ、教会にとって重大な事件だったのです。
主イエスがお生まれになる前。旧約聖書の時代です。ユダヤ人は、神に選ばれた民であり、救い主が与えられるのを、先祖の時代からずっとずっと待ち望んでいました。そして、神の御子であるイエス様が、聖霊によってマリアという女性に宿り、ユダヤ人として、人となってお生まれになりました。神は救いのみ業を行うため、イスラエルの民、ユダヤ人を選び、用いられたのです。この方こそ、神から与えられた救い主だということが、主イエスの教えによって、また様々な業によって、何より、十字架の死と復活の出来事によって示されました。待ち望んでいた約束が、旧約聖書の預言が成就したのです。
そして、神によって復活させられ、天に上げられた主イエスは、この使徒言行録の1章8節で、使徒たちに「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と約束されました。実は、この主イエスの約束において、すでにユダヤ人の枠を超えて、異邦人にも、地の果ての、世界のすべての人にも、救いが及ぶことが語られていたのでした。
そして、主イエスは人々に聖霊をお遣わし下さいました。それが使徒言行録の2章に書かれていたことです。地の果てに至るまで主イエスの証人となりなさい、あらゆる国の人々に宣べ伝えなさい、と主イエスは使徒たちにお命じになり、聖霊を送って下さり、世界へ遣わされました。これが、教会の誕生です。
神様のみ心は、地の果てまであらゆる国の人々が、イエス・キリストによって罪を赦されて、神様のもとに立ち帰って、新しい命を得ることです。教会は、今も、その神様のご計画に従って、歩んでいるのです。
使徒言行録では、これまで共に聞いてきた箇所でも、ユダヤ人だけでなく、ユダヤ人と仲の悪かった混血のサマリア人にも福音が伝わったこと、また外国人であるエチオピアの宦官が福音を受け入れ洗礼を受けた出来事(8章)など、神様のみ心に沿って、救いのご計画が着実に前進していたことが示されています。
でも、一番はじめのエルサレムの教会はユダヤ人ばかりでした。ユダヤ人の中の人たちが、旧約聖書の時代から、自分たちに約束されていた救い主として、主イエスのことを受け入れたのです。その人たちが教会のメンバーでした。
そんな人々が、救いは自分たちユダヤ人だけのものではなくて、どんな国の人でも、イエス・キリストを信じる者は、その名によって誰でも罪の赦しを受けることが出来るのだ、ということを受け入れるのは、大変なことでした。ユダヤ人の教会の人々が、これまでの慣習や、先祖代々伝えて来たことや、大切にしてきたことを止めて、神様が示された御心に新たに従う、というのは、わたしたちの想像以上に、とても困難なことだったのです。
それは、人々が、自分で決心したり、思いを改めよう!と思って、簡単に変えられるものではありませんでした。神様が、人々がみ心に従うことが出来るように、捕らわれている思いや、慣習や、意識を乗り越えられるように、み心を示し、働きかけ、語りかけ、人々の心を新しく変えて下さったのです。それが、10~11章にかけて語られていることです。
教会がはっきりと神様のみ心を知ることになる第一歩は、10章で、まず主イエスの十二使徒の一人である、ユダヤ人のペトロが、ローマの軍人である異邦人のコルネリウスという人に、主イエスの救いを知らせ、そして異邦人の上にも、神の聖霊が降り、洗礼を受けたという出来事によって起こりました。
その10章の内容は、11章4節以下に、「そこで、ペトロは事の次第を順序正しく説明し始めた」とあるところで要約されています。
ペトロがヤッファという町にいたとき、大きな布が天からつるされて来る幻を見ました。その中に入っている、汚れていて、食べてはいけないと律法に定められた生き物を、天の声は「ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい」と言います。それをペトロが拒否すると、「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」と声が返ってくる。そういうことが三度繰り返されました。そこに、異邦人であるコルネリウスの使いの者が三人やってきて、聖霊が一緒に行くように促します。このコルネリウスも、天使からのお告げを受けて、ペトロが「救う言葉」を話してくれるのを待っていました。そして、ペトロがコルネリウスのところを尋ねて、話し出すと、聖霊が異邦人の彼らの上にも下ったのです。
ペトロは、これらの出来事を通して、今までユダヤ人が、汚れていて神の救いには決して与れないと考えていた異邦人でも、神の前では、そのようなユダヤ人、異邦人という分け隔てはなく、どんな国の人でも神を畏れる正しい人は神に受け入れられ、主イエスを信じる者は、だれでもその名によって罪の赦しが受けられる、ということを、神から教えられました。神ご自身が、語りかけ、導き、しるしを見せ、丁寧に、丁寧に、パウロを導き、パウロの固定観念や思い込みを打ち砕き、み業によって、神の御心が何であるかを教えて下さったのです。
その出来事を見たのは、使徒のペトロと、そして11章12節に「ここにいる六人の兄弟も一緒に来て」とあるように、ペトロが滞在していたヤッファという町から一緒に同行してきた、教会の者たちです。彼らはパウロがイエス・キリストの救いを語っている時、御言葉を聞いていた異邦人のコルネリウスたちの上に、神の聖霊が降ったのを一緒に目撃した証人です。
そして、この出来事が、使徒たちとユダヤにいる兄弟たち、つまりユダヤ人でキリストを信じた教会の人々の耳にも入ったというのが、11章の冒頭に書かれていることです。
2節には、「ペトロがエルサレムに上って来たとき、割礼を受けている者たちは彼を非難して、「あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした」と言いました。
「割礼を受けている者たちは」とありますが、割礼は体の一部に傷をつけることで、神の民、ユダヤ人であることのしるしです。ユダヤ人は、みな割礼を受けています。その中の人々が、ペトロが汚れているとされる異邦人のところへ出向き、話をしに行って、食事をした、自ら汚れるような行為をした、ということを咎めたのです。これは神の民に与えられた律法に逆らうことです。
彼らは、決してペトロに敵対していたとか、頑固で攻撃的な人たちだった、という訳ではないでしょう。しかし、彼らは先祖代々、割礼を受けた、清い神の民であることを大切にしてきたし、その自分たちに救い主イエスが与えられた、ということを、感謝をもって受け入れ、御言葉に従おうとしていた人々であったと思います。そしてこれまでと変わらずに、律法を守ることで自分たちの清さを保つことも、重要に思っていたでしょう。
ペトロも、異邦人のところへ行くのは、律法で禁じられていることであり、また汚れるとされる行為だと十分承知していました。10章28節ではペトロ自身が異邦人に対して「あなたがたもご存知のとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています。」と語っています。
しかし、幻を示され、聖霊に導かれてやってきたペトロはこう続けます。「けれども、神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました。」
神が清いと言われた者が清いのです。割礼を受けていない異邦人でも、神は分け隔てをなさらない。主イエスを信じる者はだれでも罪の赦しを受けることが出来る、割礼の有無には関係なく、ただ信仰によって救いの恵みに与れる、清くされる、ということを、ペトロは神に示されたのです。
もともと割礼は、旧約の神の民に与えられた、神の恵みのしるしです。それは恵みを受ける条件ではありませんし、自分たちを特別な者として誇るためのものでもないのです。
そして旧約の時代が終わり、救い主が来られた今や、父と子と聖霊の名によって受ける洗礼が、主イエスが教会に定めて下さった、救いの恵みのしるしです。神はそうして、キリストを信じ、洗礼を受け、罪赦された者を、新しい神の民として迎えて下さるのです。
この洗礼も、洗礼を受けた人が、受けていない人を分け隔てしたり、自分を誇ったりするためのものではありません。洗礼は主イエスの死にあずかって罪を赦され、主イエスの新しい命に結ばれ、聖霊を受ける、神が与えて下さるその恵みのしるしとして、受けるものなのです。
また「ただ信仰によって」という信仰というのも、神がコルネリウスに語りかけ、聖霊が導き、ペトロを遣わし、御言葉を聞かせ、神ご自身が救いへと導いて下さったのでした。
ここでは徹底的に神に主導権があります。その救いの恵みを頂くためには、その恵みを受け入れること、つまり信じることだけです。何の条件も、功績も、資格も必要ないのです。というより、わたしたちの罪は深刻であり、救われるための資格や、正しさや、清さなど何一つ自分で持つことが出来ないのです。神が名を呼び、悔い改めて、神に立ち帰りなさいと、ご自分の許に招いて下さり、神が信仰を与え、キリストを信じる者に、罪の赦しと永遠の命を、惜しみなく与えて下さるのです。
そしてそれは14節で、天使がコルネリウスに、「ヤッファに人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。あなたと家族の者すべてを『救う言葉』をあなたに話してくれる」と告げたように、「救う言葉」、神の言葉が語られて、聖霊によって主イエスの救いの恵みがわたしたちに与えられます。また聖霊が導いて下さる信仰によって、その恵みを受け入れさせて下さるのです。
ペトロは、これらのことを語り、非難してきた教会の兄弟たちに、丁寧に応じ、自分自身が、神の御心を示され、人を分け隔てする思いを打ち砕かれ、神によって変えられたことを、順序だてて説明したのでした。そして最後に15節以下で、このように語っています。
「わたしが話し出すと、聖霊が最初にわたしたちの上に降ったように、彼らの上にも降ったのです。そのとき、わたしは、『ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは聖霊によって洗礼を受ける』と言っておられた主の言葉を思い出しました。こうして、主イエス・キリストを信じるようになったわたしたちに与えてくださったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったのなら、わたしのような者が、神がそうなさるのをどうして妨げることができたでしょうか。」
「神がそうなさった」のです。神が望まれ、神が導かれ、神が働かれて、ローマの異邦人の家族が、主イエス・キリストを信じ、割礼を受けているペトロたちと同じ、聖霊の賜物を受け、罪の赦しの洗礼を受け、救われたのです。救いのみ業は、初めから最後まですべて神のなさったことです。
そして、そのみ業に、神は人を用いられます。しかし、人は、自分の思い込みや、これまで大切にしてきたことや、誇りや、人を分け隔てするような心で、その神のみ業を妨げようとしてしまうことがあるのです。
神は根気強く、また丁寧に、わたしたちが神の御心を知ることが出来るように、神のご計画に従う者となることが出来るように、わたしたちを御言葉によって新しく造り替えて下さいます。それはあるとき、大きく変えられることもあれば、日々小さく、少しずつ変えられていくこともあるかも知れません。
わたしたちは、神が語って下さる御言葉を共に聞き続けることです。その度に、逸れそうになっている心を神に向け直し、神が望まれていること、神の思いを知らされ、教会は新たにされつつ歩んでいくのです。
そのように歩むことは、わたしたちが何かを我慢したり、思いを押し殺したりすることではありません。神のみ心を知ることは、神がわたしたちに最も善いものを与えようとして下さっていることを知ることです。それは、主イエス・キリストの罪の赦しであり、新しい命であり、復活の希望です。そのみ心を知り、用いられて歩んでいくことは、わたしたち一人一人が、喜びを知り、恵みを知り、感謝を味わい知っていく歩みなのです。
ペトロも、ユダヤ人、異邦人などの分け隔ての意識を砕かれて、神の救いの前では、みな同じ者である、同じ神に救われなければならない罪人であると知らされました。その時ペトロは、確かに自分自身もユダヤ人だから清いとか、正しいとかではなく、自分も主イエスを裏切って逃げ出した者であり、罪深い者であり、赦される資格や、功績など何もない者でありながら、ただ恵みによって救いに与ったことを、改めて深く覚えたのではないでしょうか。
誰も、規則や、誇りや、何かの努力によって、自分を清くすることは出来ません。しかし、どんなに汚れていても、罪に満ちていても、キリストによって、神が清い、と言って下さる。ただそのことによるのです。
「神がそうなさった」。神が、ユダヤ人も異邦人も区別なく、救いのみ業を行われた。
神に新しく変えられたペトロの経験を、彼を非難した教会の兄弟たちは聞いて、どうしたでしょうか。
18節には「この言葉を聞いて人々は静まり、『それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ』と言って、神を賛美した」とあります。
人々は静まった。神のみ心の前に、沈黙したのです。彼らは悪意があってペトロを非難したのではありません。自分たちが守ってきたことに捕らわれ、熱心なあまりに起こった非難でした。しかし、今、ペトロの語ってくれた出来事を通して、神ご自身が、異邦人を悔い改めさせ、命を与えられた、ということが分かりました。そこに神のご支配が確かにあり、神のみ心によって、異邦人に救い及んだことが、はっきりと分かったのです。
そして神の前に、彼らは沈黙しました。神のみ心を受け入れたのです。彼らも、神のなさったことによって、彼ら自身の思いや、拘りや、捕らわれていたことから解放されたのです。こうして教会は、ここから本格的に異邦人への伝道を初めていくのです。
そして、その時に彼らがしたことは、神を賛美することでした。
神のみ業、神のみ心を示された時、神がなさったことを知った時、人は神を賛美することに至ります。神のみ業は、罪人を赦し、死んだ者を生き返らせ、命を与えて下さる、大いなるみ業です。教会に連なって、神のみ心に従って歩むということは、この素晴らしい神のみ業に用いられ、その素晴らしいみ業を目撃し続けることです。その前に自分の小さい狭い心は沈黙して、神の大きな恵みに支配され、神をほめたたえずにはいられなくなる、そのような経験をしていくことです。私たちは自分自身も、また隣人についても、洗礼を受ける時、苦しみから立ち上がった時、悲しみを慰められた時、その神のみ業を確かに目撃しているのではないでしょうか。
わたしたち一人一人そのように導かれ、召されています。神のなさることによって、キリストを信じる信仰を与えられ、神の救いに与り、聖霊の賜物を受けます。また神のみ業を目撃した証人として、キリストの体なる教会のひと肢として、新たにされつつ、世に送り出されていくのです。
最後に、共に詩編67編の賛歌に心を合わせたいと思います。(詩編67:1~8)
「神よ、すべての民が あなたに感謝をささげますように。
すべての民が、こぞって あなたに感謝をささげますように。
大地は作物を実らせました。
神、わたしたちの神が わたしたちを祝福してくださいますように。
神がわたしたちを祝福してくださいますように。
地の果てに至るまで すべてのものが神を畏れ敬いますように。」(6~8節)