夕礼拝

神の自由なる恵み

2003年6月29日、横浜指路教会・夕礼拝説教
申命記第7章6-8節
ルカによる福音書第1章46-56節

「神の自由なる恵み」

序 「驚くべき神の恵み」というタイトルのつけられた讃美歌があります。英語でアメイジング・グレイスという題がつけられた讃美歌です。この讃美歌の詩を書いたのは18世紀に生きた元奴隷船の船長、ジョン・ニュートンという人物です。「1 驚くべきみ恵みー何と胸をときめかせる言葉かー私のような無頼漢をさえ救いたもうたとは!私はかつて失われていたのですが、今や神に見いだされ、かつて目が見えなかったのですが、今や見ることができます。 2 み恵みが私に恐怖を教え、そのみ恵みが私を恐怖から救ってくれました。そのみ恵みは、何と貴く見えたことでしょうか、私が初めて信じたときに! 3 多くの危険、困難や誘惑を私はくぐり抜けてきました。み恵みがここまで私を安全に導いてくれたのです。そしてみ恵みが私を天のふるさとに導いてくれます。 4 主は私に恵みを約束されました。主のみ言葉に私は望みをおきます。主こそ私の楯、分け前です、私が生きるかぎり。私の心と体が弱り、地上の生が終わるとき、天国において喜びと平安が与えられるのです。 5 私たちは天国で一万年もの年月、太陽のように輝くでしょう。それからの一万年の長い間も、神を賛美し続けるでしょう。」
 かつて奴隷の売買に従事し、キリスト教の信仰をあざ笑い、放縦な生活に身を持ち崩していたジョンはイギリスに戻る船旅の途中で激しい嵐に出くわし、魂が揺さぶられる経験をし、回心するのです。その後彼はイギリス国教会の牧師となり、伝道・牧会に邁進する一方で多くの讃美歌を作曲しました。そのうちの一つがこの「驚くべき神の恵み」であったのです。
 一人のあるに甲斐なき存在が、神の御心に留められ、救いへと引き揚げられる経験をした時、そこにどんなに大きな喜びと感謝、何よりも賛美が起こるのか、そのことをこのエピソードは教えてくれます。今示されたマリアの賛歌もまた、この驚くべき神の恵みにとらえられた女性から生まれた讃美の歌にほかなりません。

1 天使ガブリエルから神の御告げを受けたマリアは、初めは驚き、戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込みました。聖霊によって心の目を開かれない限り、人間には神のなそうとしておられることが分からないのです。それゆえマリアは人間の思いから神の御心を判断して言いました、「どうしてそのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」(34節)。けれども神は人間の不信仰に対して、聖霊において身を向けてその不信仰を克服し、「信じない者ではなく、信じる者になるように」してくださるのです。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」(35節)。この聖霊がわたしたちの中に住み、わたしたちのかたくなな心を打ち開き、神が恵みと慈しみをもって今身を向けてくださっていることを教えてくれるのです。神の恵みの出来事を明らかにしてくださるのです。そこで聖霊によって心の目を開かれたマリアは言いました、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(38節)。神のはかりしれない恵みに抵抗し、いぶかる心を捨てて、その恵みの力に身をゆだねる者となったのです。
 この時マリアに与えられたしるしは不妊の女と言われていたエリサベトが身ごもってもう六ヶ月になっているというしるしでした。聖霊によって神の大いなる恵みの出来事に目を開かれたマリアは、同じ神のご計画の中にあるもう一人の女性、エリサベトの存在を知らされたのです。わたしたちが気づかされるのは、この時マリアが取った行動です。マリアは同じ神の恵みの中に置かれたもう一人の女性の存在を知らされた時、それを聞いて済ませるのではなくて、急いで山里に向かい、ユダの町に行き、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶をしたのです。同じ聖霊に生かされて神の恵みに目を開かれた者どうしが、ともに喜びの挨拶を交わし、声高らかに言葉を掛け合うのです。二人の母が出会い、そこに喜びと賛美が湧き上がっているのです。神の恵みに生かされた者はそれを独り占めすることはありえず、神の恵みを賛美し、告白する共同体へと導かれるのです。わたしたちもまた、神の恵みの出来事に目を開かされ、それに生かされている者として、この賛美と告白の共同体へと加えられた神の民なのです。
 そもそも人間の第一の、最高の目的とは何でしょうか。マリアとエリサベトがわたしたちに教えてくれるのは、人間の第一の、最高の目的は「神に栄光を帰し、永遠に神を限りなく喜びとすること」なのです(ウェストミンスター大教理問答問1)。それゆえに、マリアの賛歌は歌うのです、「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」(47節)。
 マリアは人間として、取り立てて優れた才能や資質があったわけではありません。いやそれどころか持てる物、誇れるものなど何もない、貧しく、身分の低い女性でした。しかし神はそのように持てるものなど何もない、それゆえに主の恵み以外により頼むべき何ものもないこの一人の女性を憐れまれたのです。何の取り柄も価値もないと思われたものが、神の目から見た時、かけがえのない存在であることが示されるのです。ご自身の重大な救いのご計画のためにお用いになることをよしとされるほど、神は重大な関心と顧みをもって神の民と関わっていてくださるのです。わたしたちの歩み一つ一つもまた、その神の重大な関心と顧みの中にあるのです。そのことを知らされる時、わたしたちの口から喜びの歌が生まれ、ほとばしり出るのです。あのジョン・ニュートンがアメイジング・グレシスを生み出したように、賛美が生まれるのです。

2 マグニフィカートと呼ばれ、親しまれているこのマリアの賛歌は、特に二つの重要なメッセージを歌っています。第一は、神は人間的な能力や賜物に従って恵みを注がれるお方などではなく、ご自身のよしとされることに従って恵みを注がれるお方であるということです。ですから、身分の低い者にも目を留めてくださるのです。逆に言えば、神の恵みに抵抗し、自分の能力や才能によって立とうとする者にとって、神の恵みはさばきを意味するのです。「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良いもので満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」(51―53節)と歌われているとおりです。自らの知恵や力に依り頼み、自分で自分の義を立てようとする人間の罪を神は見逃さずに罰したもうのです。使徒パウロは言いました、「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の低い者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。『誇る者は主を誇れ』と書いてあるとおりになるのです」(Ⅰコリント1:26-30)。神の恵みに生かされた者とは、もはや自分は「権力ある者」や「富める者」などではなく、神のみ前で「身分の低い者」であり、「飢えた人」であることを知っている者です。それゆえ主の尊い御名を呼ばわり、代々に揺るぎない神の憐れみにより頼むほかない、「主を畏れる者」として、御霊によって造りかえられた者であります。
 わたしたちは繰り返し、自分の力やこの世の名声、お金や名誉といった偶像に心を奪われたり、それらにより頼む罪を犯しがちです。そのたびにわたしたちはキリストの十字架が明らかにする神の恵みとさばきの光の中に身を置き、「主を畏れる者」として主に立ち返る者とされなければならないのです。
 マグニフィカートが歌うもう一つの重大な点は、マリアが自分の身に起こった出来事をイスラエル全体の救いの出来事として受け入れていることです。マリアという一人の女性が子供を授かった時、彼女はそれを個人に対して神が恵みをもって向き合われた一回的な祝福として受け止めたのではなかったのです。マリアは歌います、「その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません、わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに」(54―55節)。神がイスラエルの民を選び出し、これと契約を結び、「あなたはわたしの民となり、わたしはあなたの神となる」と約束してくださった、その神が変わらぬ憐れみをもって神の民と関わり続けてくださり、その延長線上にわたしがいる。神がわたしを用いて父ダビデの王座を受け継ぐ者、いと高き方の子、救い主をこの世に贈ろうとしてくださっている、マリアはそのように受け止めることができたのです。聖霊がそのように受け止めさせたのです。
 先ほど読まれた申命記は、イスラエルの民に身を向けてくださる神の選びについてこう語っています、「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただあなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである」(申命記6:6-8)。マリアはこの、ご自身が神の民と結ばれた契約に、変わることのない誠実さをもって関わり、神の民と向き合ってくださるあの神が、今、その契約の成就のために決定打として独り子を送ろうとしておられることを知るに至ったのです。しかもこのわたしを用いてその決定打をこの世に向かって放とうとしておられることを知ったのです。その恵みと光栄、祝福に目を開かれた時、この賛美の歌、マグニフィカートが生まれたのです。

結 わたしたちもまた神の選びによって召し出され、神の民に加えられた者です。「新しいイスラエル」として教会の枝とされ、神のものとされた民です。このわたしたちとも、神は変わらぬ信実をもって関わり、恵みと慈しみをもってその歩みを導いてくださっています。神の前に持てるもの、誇れるものなど、何ものも持ち合わせていない、それゆえ神の恵みにより頼む以外に何も知らない、このわたしたちを主は御心に留めてくださったのです。しかも、なお繰り返し罪にとらわれ、神に反逆し、神の深い承認と肯定に抗うわたしたちを救い出すために、あのマリアを用いて、イエス・キリストをこの世に贈ってくださったのです。そしてわたしたちの中にある否定され、否認されなければならないものを、神ご自身がイエス・キリストの十字架において担いきってくださったのです。それほどまでに神の祝福、神の選びと契約に対する信実さは徹底したものなのです。このことを知らされた時、わたしたちもまたあのジョン・ニュートンのアメイジング・グレイスをわたしたちの歌とし、何よりもそのおおもとにあるあのマリアのマグニフィカートをわたしたちの歌として歌うのです。

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