夕礼拝

聖書が語ること

「聖書が語ること」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:イザヤ書 第46編8-13節
・ 新約聖書:使徒言行録 第17章1-15節
・ 讃美歌:54、378

<聖書は語る>  
 今日お読みした箇所は、パウロたちが、主イエスの救いを宣べ伝えるために旅をしている、第二回目の伝道旅行でのことです。今日のところでは、テサロニケと、べレアという地での伝道の様子が語られています。どちらも共通点があります。一つは、パウロたちはまずユダヤ人の会堂に行った、ということ。そして「聖書」のことが語られていること。そして、ユダヤ人の迫害に遭って次の場所へ移るということです。   

 主イエスの救いが宣べ伝えられることにおいて、聖書は欠かせないものです。今日のこの礼拝でも、旧約聖書と新約聖書が読まれました。教会において、聖書は特別な書物です。これは単に歴史書や、物語集や、良い言葉が書いてある格言集などではありません。教会は聖書を「神の言葉」として読んでいるのです。教会ではよく、「聖書が語る」とか、「聖書に聞く」という言葉が使われます。たとえば、これが小説などだったら、わたしたちは小説を読むことを「小説が語る」とか「小説に聞く」とは言わないでしょう。   
 しかし教会は、聖書をまさに、今生きておられる神が、わたしたちに語って下さっている言葉として、聞いているのです。  
 では、聖書がわたしたちに語りかけていること、神が、わたしたちに伝えようとしておられることとは、一体何なのでしょうか。それを共に聞いていきたいと思います。

<各地の伝道の協力者たち>    
 さて、まずはパウロたちの旅のルートを見ておきたいと思います。   
 パウロたちは小アジアから海を越えて、ヨーロッパの地域での伝道を始めました。ご覧になれる方は、聖書の後ろの地図の8番、「パウロの宣教旅行2、3」を見て下さい。実線で書かれているのが、今回の第二次旅行のルートです。パウロたちは前回、ヨーロッパ大陸に渡り、フィリピというところまでやって来ました。左上のところで、フィリピの地名が見つけられるでしょうか。   
 今日の箇所の直前の16:40では、「リディアの家に行って兄弟たちに会い、彼らを励ましてから出発した」と書かれています。リディアはフィリピで、つまりはこのヨーロッパ大陸で、最初に主イエスを信じた女性です。彼女は自分の家を、主イエスを信じる者たちが集まる場所として提供していたようです。そしてパウロたちが出発して次のところへ行ってしまっても、残った者たちは、共に集い、一緒に信仰を守り続けました。そのようにして、フィリピの地には主イエスを信じる共同体、教会が生まれ、パウロの伝道旅行のために、様々な支援や協力をしていきました。  

 次にパウロたちは、1節にあるように、アンフィポリスとアポロニアを経て、テサロニケに向かいました。地図では、フィリピから西に進んで、その二つの地名を見つけられると思います。そして、一番左上に書いてあるテサロニケ、という町に辿り着きます。   
 テサロニケで伝道をした結果、多くの者が主イエスを信じました。すると、ユダヤ人がパウロたちを妬んで暴動を起こしたので、パウロたちは逃げるようにして、次のべレアへ行った、とあります。   

 テサロニケでは、「ヤソンと数人の兄弟」が登場します。騒動を起こしたユダヤ人たちは、ヤソンがパウロとシラスを匿っていると思い、家を襲い、彼らを引き立てて行きました。最終的にはヤソンたちは釈放のために保証金を払わされることになりました。さっと読むと、ヤソンという人が急に出てきて、何だかとばっちりでそうなってしまったのではないか、と思うかも知れません。しかし、「ヤソンと数人の兄弟」とあるように、「兄弟」という言い方は主イエスを信じた者に対して使われていることから、ヤソンは主イエスを信じた者の一人ですし、恐らく、ヤソンがパウロたちに家を提供し、騒動が起こると主イエスを信じた者たちが協力をして、うまくパウロたちを匿い、ヤソンは矢面に立ったのです。   
 ローマの信徒への手紙の16:21に、パウロが、「わたしの協力者テモテ、また同胞のルキオ、ヤソン、ソシパトロがあなたがたによろしくと言っています」と書いています。ここに、ヤソンの名前が出てきます。ヤソンは、その後も、パウロの伝道のよき協力者、同労者となっていることが分かります。    

 そして、そのようにしてテサロニケの兄弟たちに送り出されて到着したべレアにおいても、パウロたちに妬むユダヤ人たちが、ここまでやってきて騒いだ、と書かれています。   
 べレアで主イエスを信じた人々は、何名かが付き添って、今度はパウロたちをアテネへと連れていきました。ここに名前は出てきませんが、少しあとの使徒言行録の20:4に、「ピロの子でべレア出身のソパトロ」という人が出てきます。ソパトロは、べレアにパウロたちがやってきた時、パウロの伝道によって主イエスを信じる者となり、パウロたちに付き添って彼らを助けながら、後々まで一緒に旅をしているのです。彼は、先ほどのローマの信徒への手紙16:21にある「ソシパトロ」と同一人物ではないかと考えられています。  

 パウロたちは、自分たちだけで孤独に旅をしていたのではありません。行く先々で主イエスを信じ、兄弟姉妹となった人々が、今度はその主イエスの福音がさらに多くの人々に伝えられるために、その後の伝道のために、パウロを助け、身を挺し、命をかけて、パウロたちと共に神の御業に仕えていったのです。そして、パウロたちが去った後も、その地に残った兄弟姉妹たちは、そこで信仰を守り続けたのでした。   
 フィリピではリディア、テサロニケではヤソン、べレアではソパトロ、そして名もない兄弟姉妹たち。お一人の主イエスを信じ、共に主イエスに結ばれた者たちは、一緒に主イエスの救いのみ業、伝道の業に仕えていったのです。これが、教会の姿です。そうして、主イエスの福音は、世界に広がっていきます。これは、この横浜の地で、主イエスを信じる者の群れである、わたしたちの教会もまた同じです。一人一人が、お一人の主イエスに救われ、それからは共に、同じ主の伝道の業に仕えていく。与えられた場所で信仰を守り、福音を語る。そのように教会は歩み、世界中へと神の言葉が伝えられていくのです。  

 さて、パウロたちがこのようなルートを取ったのは、この道がローマ帝国によって整備されていたからです。「すべての道はローマに通ず」と言われたように、当時のローマ帝国が地中海一帯を支配しており、そこで大きな軍隊を速やかに移動できるように、道路網を整備していたのです。パウロはこの道を使って、主イエスの福音を宣べ伝える旅を進めていったのです。

<テサロニケで>  
 それでは、テサロニケで、どのように主イエスの福音が伝えられたのでしょうか。   
 神のみ心によって、異邦人への伝道に遣わされているパウロですが、パウロは必ずどこでも、まずはユダヤ人の会堂へ行って伝道を行なっています。フィリピの地では、ユダヤ人の会堂はありませんでしたが、それでもユダヤ人の「祈りの場所」を探し、そこで主イエスの救いについて語りました。

(ユダヤ人と旧約聖書)   
 ユダヤ人は、旧約聖書の時代に神に選ばれた、神の民です。しかし神がユダヤ人を選ばれたのは、ユダヤ人だけを救うためなのではなくて、ユダヤ人を通して、世界中の人々を救うご計画のために選ばれたのです。   
 救い主イエスは、人の罪を赦すために、神の御子でありながら、まことの人となってわたしたちの世に来られました。具体的にこの地上に来られるためには、時間も、場所も、民族も特定されます。ですから主イエスは、この選ばれた神の民の中で、ユダヤ人として、約2000年前、ベツレヘムの地でお生まれになりました。そして、十字架と復活のみ業によって、すべての人々の罪を贖い、罪と死から救って下さいました。この救いを信じなさいと、神はご自分のもとへ、世界のすべての者を招いて下さっているのです。      

 このパウロの時代はまだ新約聖書はありませんから、今日の箇所で「聖書」と書かれているのは今のわたしたちでいう「旧約聖書」にあたります。そのような救い主が来られることや、世界に及ぶ神の救いのご計画が、選ばれた民であるユダヤ人たちに預言され、約束されて、聖書に記されていました。主イエスはある日急に救い主として来られたのではなくて、神の救いの歴史は、この旧約聖書の時代から始まっていたのです。   
 ユダヤ人たちは、国が滅ぼされ、捕囚に遭い、各地にバラバラにされても、この救い主が来られるのを今か今かと待ち望んでいました。「救い主」というのが、ヘブライ語で「メシア」、ギリシャ語で「キリスト」です。      

 パウロは、このユダヤ人たちに、その旧約聖書で預言され、約束されている救い主こそ、十字架に架けられ、復活したイエスである、と告げようとしているのです。ずっと救い主を待っている人々に、もはやその方は来られた。神の約束は、主イエスによって成し遂げられた。預言されていたことが成就した。そのことを告げようとしているのです。   
 バラバラにされた神の民は、この救い主イエスのもとで、新たに集められます。そしてユダヤ人という枠を超えて、救いは異邦人にも及ぶのだ、と旧約聖書には預言されています。主イエス・キリストによって新しい神の民が、世界中から呼び集められるのです。

(聖書の説明、論証)  
 さて、2節には「パウロはいつものように、ユダヤ人の集まっているところへ入って行き、三回の安息日にわたって聖書を引用して論じ合い、『メシアは必ず苦しみを受け、死者の中から復活することになっていた』と、また、『このメシアはわたしが伝えているイエスである』と説明し、論証した」とあります。  

 聖書を引用して論じ合った、つまり、聖書で神が何を語られているか、何を示しておられるかを論じ合ったのです。その時、聖書に基づいてパウロが説明し、論証した、大切なことが二つ書かれています。   
 一つは、「メシアは必ず苦しみを受け、死者の中から復活することになっていた」ということです。救い主が必ず苦しみを受けなければならなかったのは、人が自分では贖うことのできない罪を、救い主がすべて代わりに負って下さるからです。罪の中、死の中にある人々を救うために、必ず苦しみを受けることになっていた。そして必ず、罪と死の力を打ち破り、復活することになっていた。   
 主イエスの十字架の苦しみと死、そして、神が主イエスを死者の中から復活させられるということは、すべて神のご意志であった、ということです。  

 十字架で死んだナザレのイエスという男が救い主だ、というのは、ユダヤ人には受け入れがたいことだったでしょう。ユダヤ人たちは、自分たちの救い主は、もっと威厳に満ちた、力強い立派な王として来られ、この地上でイスラエル王国を建て直してくれる、と期待をしていたのです。しかし、一人の罪人として扱われ、しかも神に呪われているとされる、木に架けられる十字架という仕方で、みすぼらしく無残に死んでいった一人の男が「救い主」だというのは、とても抵抗を感じたと思うのです。   

 しかし、救い主、メシアが苦しみを受けるということは、旧約聖書に預言されていたことでした。そして、主イエスは確かに、父なる神によって復活させられた。この復活によって、まことにこの方が救い主であり、罪にも、死にも打ち勝って下さり、信じる者に永遠の命を与え、終わりの日の復活の約束を与えて下さることが明らかにされたのです。      

 ですから、聖書が語っていることは、まさに二つ目にパウロが語った「このメシアは、わたしが伝えているイエスである」ということなのです。これが聖書の福音です。「メシアはイエスである」ということが、聖書が語ることであり、またわたしたちの信仰告白の言葉です。わたしたち教会は、この十字架と復活のみ業を行われた、イエスという方が、わたしの救い主である。このことを信じ、告白しているのです。

(聖霊の働き)   
 3節の終わりには、パウロが「説明し、論証した」と書かれていますが、この「説明」という言葉は、「開く」という意味もあります。16:14で、フィリピで、リディアが主イエスを信じる時に「主が彼女の心を開かれたので」と書いてある「開かれたので」と同じ言葉です。聖書が解き明かされ、神のみ心が語られる時、わたしたちは神に向けて心が開かれ、信仰の目が開かれ、耳が開かれ、この聖書のみ言葉を、自分に語りかける神の言葉として、主イエスの救いを、わたしのための救いの出来事として聞き、受け取っていくのです。   

 そこには、聖霊なる神のお働きがあります。本日は主日礼拝でペンテコステ、聖霊が降り、教会が誕生したことを覚えて、礼拝を守りました。復活し、天にあげられた主イエスが、聖霊が降ることを約束して下さり、ペンテコステの日にその通りになりました。使徒言行録の2:1以下にそのことが書かれていますけれども、聖霊を受けた弟子たちは、様々な国の言葉で、神の偉大な業を語り、様々な国から来た者がそれを聞いたことが書かれています。神の偉大な業とは、主イエスの救いの恵みのみ業です。聖霊によって、この主イエスの福音が語られ、そして、様々な国の、世界中の人々に聞かれていくのです。こうして、主イエスを信じる者の群れ、主イエスの福音を宣べ伝える群れである教会が、聖霊が降ったこのペンテコステの日に誕生したのだと言われるのです。   

(ユダヤ人の妬み)  
 さてそのようにして、主イエスの救いが明らかにされて、4節には、「彼らのうちのある者は信じて、パウロとシラスに従った。神をあがめる多くのギリシア人や、かなりの数のおもだった婦人たちも同じように二人に従った」とあります。   
 ユダヤ人の内で主イエスの福音を受け入れたのは、ある者たちだけでした。ユダヤ人たちにとっては、主イエスが自分たちと想像している王とは違う姿であること、そして選ばれた自分たちだけでなく、汚れているとされていた異邦人も、同じように救われるということ、そして、それを信じた者たちが、多くパウロとシラスの側に立ってしまったことで、妬みを覚えたのです。      

 むしろ、神をあがめる、異邦人であるギリシア人や婦人たちの多くが、このことを信じました。「神をあがめる」とあるのは、ユダヤ人ではないけれど、同じ神を崇めている人々のことです。彼らは、神を求めながらも、ユダヤ人こそが選ばれた民であり、そうではない異邦人は、救いには入れないと思っていたかも知れません。   
 しかし、神は、そのような分け隔てはなさらないこと、そして、ここに至るまでに、異邦人にも聖霊が降り、主イエスを救い主であると信じる者とされたことが示されてきました。使徒言行録のここまで語られてきたことを見れば明らかです。また異邦人の救いも、旧約聖書には語られていました。彼らは、喜んで、自分たちの救いとして、聖書が語ること、パウロが告げてくれたことを受け入れたでしょう。      

 それは、わたしたちにとっても、同じことです。わたしたちはユダヤ人ではないし、この出来事から2000年も離れた、日本の横浜に地にいますが、聖霊によって、神の言葉は、今、ここにいるわたしたちに語りかけます。わたしたちの救いのために、主イエスが十字架で死なれ、そして甦られたのだ、この方がわたしたちの救い主であり、旧約聖書の始めからの神の救いのご計画、神が導かれる歴史の中に、今、わたしたちも置かれているのだ、という福音を、聞くことができるのです。

<べレアで>  
 さて、べレアでもパウロたちはまずユダヤ人の会堂に入っていきました。11節に、「ここのユダヤ人たちは、テサロニケのユダヤ人よりも素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れ、その通りかどうか、毎日、聖書を調べていた」とあります。そして、ユダヤ人の多くの者が信じ、またギリシア人たちも信じました。  

 彼らは、パウロが聖書から主イエスのことを説き明かすと、素直に、「非常に熱心に御言葉を受け入れ」ました。聖書において、神が語って下さるみ心、そして、主イエスによって救いのご計画、約束が成就したことを受け入れたのです。   
 そして、それで終わりではありませんでした。彼らは、「その通りかどうか、毎日、聖書を調べていた」のです。本当に、聖書にそのことが書かれている。本当に聖書は、主イエスの十字架と復活を預言しており、主イエスのみ業がその通りである。主イエスがわたしの救い主となって下さったことが示されている。それを、何度も何度も、毎日毎日聖書を読み、その恵みの知らせを確かめたのです。神の救いの言葉を、日々聞いたのです。そして、主イエスはわたしの救い主であると信じたのです。

<毎日聖書を>   
 主イエスの救いは、わたしたちにとって、慰めであり、平安であり、希望です。罪も、苦しみも悩みも、死ということさえも、主イエスが引き受けて下さり、そしてすべてに勝利して下さった。その主イエスが、わたしたちをもその勝利に与らせて下さる。そのようにして神が、この罪人であったわたしをも、神の子として受け入れて下さる。   
 この恵みを、喜びを、約束を、毎日聖書を調べることで、何度も何度も確かめ、何度も何度も噛みしめ、味わうのです。   

 聖書が、単なる歴史書や、小説であるならば、それは他の世界の出来事であり、自分には関わりのないことになるでしょう。しかし、聖書は、わたしたちを創造し、救いの御業を行い、今なお導いて下さっている神が、わたしたちに語りかけて下さる言葉です。聖書が告げることは、わたしの福音であり、わたしを新しくし、生かし、養い、強めてくれるものなのです。聖書はいつでも、汲んでも汲んでも尽きない、神のわたしたちへの愛と恵みを語っています。      

 今年の4月から、指路教会では聖書の通読運動が始まりました。色々な方が実践し、その恵みを味わっているとの声を聴きます。予定表に追いつけなくても、自分のペースで十分ですから、ぜひ少しずつでも毎日聖書を開いて、日々神のみ言葉を聞くこと、神の恵みを確かめて、味わって、日々を神の恵みに力づけられ、支えられていく、そのような歩みをしていけたらと思います。      

 そして、本日は聖餐が行われます。御言葉の説教が聞く神の言葉、聖餐は見える神の言葉と言われます。神のみ言葉に耳を傾けるとき、そこには必ず聖霊が働いて下さいます。わたしたちの心を開き、天におられる主イエスへと高く引き上げて下さいます。   
 わたしたちは聖書とその説き明かしにおいて、神の救いのみ言葉を聞き、主イエス・キリストを知ります。主イエスと出会います。そして、聖餐において、主イエスの十字架で裂かれた肉と、流された血にあずかり、わたしたちが罪を赦され、新しく生きる者とされたことを全身で味わい知ります。語りかけによって、そして目に見えるしるしによって、神はわたしたちをいつもご自分のもとへ、恵みのもとへと呼び寄せて下さり、わたしたちに命を与え、養い、強めて下さるのです。   
 神はすべての者を、ご自分のもとに招いておられます。どうか、神のみ言葉を、他でもないわたしへの語りかけとして聞き、主イエスこそ、わたしの救い主であると信じ、一人でも多くの者が、この神の食卓に共にあずかることができますように。

関連記事

TOP