主日礼拝

神の約束の確かさ

「神の約束の確かさ」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:創世記 第12章1-4節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙 第9章1-5節
・ 讃美歌:11、113、447、75

第二部の主題
 先週と同じく、ローマの信徒への手紙の第9章1-5節よりみ言葉に聞きたいと思います。先週申しましたように、この9章から11章がこの手紙の第二の部分です。8章までの第一の部分でパウロは、自分が宣べ伝えているキリストの福音、キリストによる救いの知らせとはどのようなものえあるかを語ってきました。9章からは新しい主題に入ります。9-11章は、その主題を頭に置いて読まないと、語られていることを理解することができません。そこで、先週の繰り返しになる部分も多いですが、この第二部の主題は何であるか、そしてそれが私たちの信仰とどのように関わるのかを確認したいと思います。

同胞の救いを願う
 第二部の主題を提示しているのがこの9章の1-5節であると言うことができます。2節でパウロが「わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります」と言っていることがその主題を表しています。パウロの深い悲しみ、絶え間ない心の痛みとは、3節に「わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています」とあるように、自分の兄弟たち、肉による同胞であるユダヤ人たちについてのことです。パウロは同胞であるユダヤ人たちの救いを真剣に願い、そのためなら自分はキリストから離され、神に見捨てられた者となってもよいとさえ思っているのです。これは簡単に言える言葉ではありません。キリストから離され、神から見捨てられるとは、パウロにとって、それでも何とか生きていくことはできる、というようなことではありません。彼にとってそれは即ち死と永遠の滅びを意味しています。自分の命と人生が全て無に帰するようなことです。そうなってもいいから、何とかして同胞であるユダヤ人を救いたいと彼は願っているのです。
 そういう願いを抱いている彼が深い悲しみと心の痛みを覚えているのは、彼らユダヤ人の多くが、主イエス・キリストを信じておらず、その救いにあずかっていないからです。ユダヤ人たちは主イエスを救い主として受け入れずに十字架につけて殺しました。そして今も、イエスをキリストつまり神から遣わされた救い主と信じている教会に敵対し、信仰者たちを迫害しているのです。パウロ自身も、以前は教会を迫害していました。彼はイエス・キリストを信じている者たちを捕まえて投獄するためにダマスコという町に向かう途中で、生きておられる主イエスとの劇的な出会いを体験して、迫害する者から一転してキリストを信じ、宣べ伝える伝道者となりました。しかしそのパウロの伝道は常に、ユダヤ人たちの妨害と迫害にさらされており、彼自身も、裏切り者として命をつけ狙われていたのです。そのように同胞たちが主イエス・キリストによる救いを受け入れずに激しく敵対していることが、パウロにとって常に深い悲しみであり痛みだったのです。
 彼が同胞の救いを願っているのは、同胞への愛のためだけではありません。ユダヤ人たちが救われるかどうかは、パウロにとって、彼が宣べ伝えている福音の根幹に関わることだったのです。そのことを理解しておかないと、9-11章でパウロが語っていることが分かりません。ユダヤ人の救いはユダヤ人のみの問題ではなくて、私たちの救いにも関わることなのです。それはどういうことなのでしょうか。

人間の側の条件によらない救い
 このことの根本には、主イエス・キリストによる救いが、人間の側が条件を整えることによって得られるものではない、ということがあります。主イエス・キリストを信じて良い行いに励むという信心深い生活によって救われるなら話は簡単で、パウロがここで語っているような問題は生じません。ユダヤ人であれ、その他の人々つまりいわゆる異邦人であれ、キリストを信じて良い行いをして生きればそれによって救われるし、キリストを信じることなく、逆らって罪を犯しているなら、ユダヤ人であれ異邦人であれ同じように裁かれ、滅ぼされるのです。そこにおいては、救い主キリストを受け入れないユダヤ人たちが救いにあずかることができないのは、残念ではあっても仕方のないことであり、それによってキリストによる救いの根幹が揺さぶられるようなことはありません。しかし、主イエス・キリストによる救いは、人間が努力して信仰深い人になり、良い行いに励むことによって獲得するものではなくて、神が恵みによって与えて下さるものです。私たちの側には救いに価するようなものは何一つないけれども、神が独り子イエス・キリストを遣わして下さり、その十字架の死によって私たちの全ての罪を赦して、義として下さった、そこに救いがあるのです。私たちは主イエス・キリストを信じる信仰によってその救いにあずかるのです。それが、パウロが宣べ伝えているキリストの福音なのです。

神の選び、予定
 それは言い換えれば、救いの主導権は私たちの側にではなく神の側にあるということです。それを具体的に言えば、私たちはキリストを信じてみ心にかなう良い人間として生きているから救われるのではなくて、救われる資格などない罪人であるのに、神がこの人を救おうと思って下さったことによって救われるのです。これが、神の「選び」とか「予定」と言われることです。私たちの救いは、神の選び、予定によって、つまり神の恵みのみ心によって与えられるのです。この「選び、予定」の教えはよく、神様のノートには救われる者と滅びる者の名前があらかじめ記されており、人間が何をしてもそれを変えることはできない、救われる者は救われるし滅びる者は滅びるのだ、というふうに表現され、つまり神によってあらかじめ全てが決定してしまっているという身も蓋もない教えのように捉えられがちですが、しかしその根本にあるのは、救いは私たちの良い行いや信心深さによって獲得されるものではなくて、神の恵みのみ心によって与えられるものだ、ということです。どんなに深い罪を犯している者でも、神が恵みのみ心によってその人を選び、救おうと思って下さるなら、その人はキリストによる赦しにあずかり救われるのだし、人間の目にはどんなに良い人、信心深い人に見えても、神の目にはその人も罪人であり、神が恵みのみ心によって選んで下さらなければ、その人は罪人として滅びるしかないのです。

信仰によって救われるとは
 パウロは8章までのところで、私たちは信仰によって義とされ、救われるのだ、という福音を語ってきました。その根本は、救いは神の選びによって与えられる、ということです。信仰によって救われるということを、キリストを信じるという私たちの良い行いによって救われる、というふうに捉えてしまってはなりません。イエス・キリストを信じるというのは、私たちが信仰者になるという手柄を立てるとか、神を信じている立派な人間になることではなくて、神が罪人である私を恵みによって選んで下さり、私の全ての罪を主イエスの十字架の死によって赦して下さり、主イエスの復活によって私にも復活と永遠の命の約束を与えて下さったことを信じて受け入れることです。つまりキリストを信じることによって救われるとは、神が恵みによって罪人である自分を選んで下さり、救いを与えて下さっていることを信じて、その救いを感謝して受け入れること、つまり神が自分を選んで下さったこと信じることです。神の選びこそが私たちの信仰と救いの土台なのです。パウロはそういう福音を語っているのです。

神の選びは罪によって取り消されるのか
 そしてこの神の選びは、主イエス・キリストによる救いにおいて初めて示されたのではありません。神は既に旧約聖書の時代から、ある民を特別に選んでご自分の民とし、彼らに祝福を与えると約束して下さっていたのです。その民こそがユダヤ人、イスラエルの民です。ユダヤ人は、神に選ばれた民なのです。救いが神の選びによるとするならば、彼らはまさに救われるはずの民なのです。ところがその神に選ばれた民であるユダヤ人たちが今、神の独り子イエス・キリストを受け入れずに敵対し、キリストを信じる人々を迫害しているのです。つまり現実において彼らは神の救いを拒んでおり、救われている者の群れから落ちてしまっているのです。このことはパウロにとって、単に悲しいことであるだけでなく、神の選びによる救いそのものを脅かす大きな謎でした。神がお選びになったユダヤ人たちが救いから落ちてしまっている。ということは神の選びが失敗だったということになるのではないか。あるいは、ユダヤ人たちは一旦は選ばれたけれども、その後の歩みにおいて神のみ心に逆らったために、彼らへの選びは取り消されてしまったのだろうか。いずれにしてもこれは、神の選びが人間の救いにつながっていない、ということであって、人間の罪によって神の選びが無になってしまうことがある、ということになります。そうであるならば、神の選びによって救われるという福音はその土台から崩れてしまいます。私たちにおいても、今私たちが神に選ばれて主イエスによる救いを受け入れ、信仰者として生きていても、そのことが救いの実現につながるわけではないということになります。一旦は神に選ばれて信仰者となっても、その後神のみ心に背いて罪に陥るならその選びは取り消され、救いから落ちてしまう。そうであるならば救いはやはり人間の側の条件によることになります。人間がどれだけしっかりとキリストを信じ、信仰者としての良い行いをきちんと出来るかによって救いが決まる、ということになるのです。それは、パウロが1章から8章にかけて語ってきたこと、人間の良い行いによってではなく、主イエス・キリストの十字架と復活による罪の赦しの恵みを信じる信仰によって義とされ、救われる、という福音の確かさを揺るがすことなのです。それゆえに、神に選ばれた民であるユダヤ人たちが今神の独り子主イエスによる救いを受け入れていないという事実は、パウロにとって、同胞の救いということに留まらない、キリストの福音の根幹に関わる重大な問題であるし、それは私たちにとっても、救いは何によって与えられるのか、また救いの確かさはどこにあるのか、という問題なのです。

ユダヤ人は神に選ばれた民
 パウロはここで、今キリストを信じ受け入れていないユダヤ人たちが、しかし神に選ばれた民なのだということを強調しています。それが4、5節です。「彼らはイスラエルの民です。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。先祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストも彼らから出られたのです」とあります。「彼ら」とは同胞であるユダヤ人のことです。その彼らが「イスラエルの民です」と言われているのは、彼らユダヤ人が神によって特別に選ばれた民であることを意味しています。イスラエルという名は、神がこの民に与えて下さったものであり、「イスラエルの民」という言い方は、彼らが主なる神に選ばれた神の民であることを意味しているのです。次に「神の子としての身分」が彼らのものであるとあります。ここは以前の口語訳聖書では「子たる身分を授けられること」が彼らのものである、となっていました。原文では、「子とすること、あるいは養子にすること」という意味の言葉が使われています。つまりユダヤ人たちも、もともと神の子だったわけではなくて、神が彼らを特別に選んで、子として下さったのです。そのことによって彼らに与えられた恵みが「栄光、契約、律法、礼拝、約束」です。「栄光」が与えられているとは、神が彼らと共におられ、神の栄光が彼らの内に輝いているということです。「契約」が与えられているとは、神がイスラエルの民の神となり、イスラエルをご自分の民として下さった、そういう特別な関係を結んで下さったということです。神の選びは契約において具体的に表されます。そのことが聖書全体を貫いています。旧約とか新約の「約」はこの「契約」のことです。神の恵みによる選びが、旧約の時代にはシナイ山における契約において具体化し、その契約に伴って十戒を中心とする「律法」が与えられたのです。4節の訳では「律法」とだけ語られていますが、原文の言葉は「律法を与えること」という意味です。律法を与えられたという恵みも彼らユダヤ人のものだ、と言っているのです。律法は、契約によって神の民とされたイスラエルの人々に、守り行なうべき掟として神から与えられたものです。それを与えられたこと自体が、神に選ばれたことの印だったのです。次の「礼拝」も神がイスラエルの民に与えて下さった恵みです。旧約聖書において神はイスラエルに、どのような場所で、どのような祭りを行い、どのような献げ物をするかをお命じになりました。つまりイスラエルの民はまさに神によって与えられた礼拝を行なっていたのであり、それも神の選びの印だったのです。そして「約束」も彼らのものとされています。本日共に読まれた旧約聖書の箇所、創世記第12章の1節以下には、イスラエルの民の最初の先祖であるアブラハム、この時はまだアブラムでしたが、彼に神がお与えになった約束が記されています。あなたを大いなる国民とし、祝福の源として下さる、という約束です。イスラエルの民の歩みは、アブラハムがこの神の約束を受けて、父の家を離れて旅立ったことから始まったのです。5節に入って「先祖たちも彼らのものである」と言われているのはこのアブラハムとその子イサク、孫のヤコブのことです。彼らの子孫としてイスラエルの十二の部族が増え広がっていきました。この先祖たちを与えられ、その子孫であることが、彼らユダヤ人が神に選ばれた民であることの印だったのです。

神の選びによる救い
 このように、ここに並べられていることは全て、ユダヤ人たちが神に選ばれた民であることの印です。ユダヤ人たちはこれらの印によって、自分たちが神に選ばれた民であることを強く意識し、そのことを誇っていたのです。その誇りこそが、彼らが主イエス・キリストを拒んでいることの理由でした。パウロ自身も以前はそうでした。アブラハム以来の神の民イスラエルの一員であるという誇りと自負のゆえに彼は、十字架につけられたイエスをキリストつまり救い主と信じることによって罪を赦され救われるというキリスト教会の教えに我慢がならなかったのです。神の選びの印として与えられた律法を守り、神のお命じになった礼拝を行なうことによって救いを得ることができる、という約束を与えられているイスラエルの民の誇りが傷つけられると感じていたからです。しかし今や彼は主イエスをキリストと信じ、その信仰による救いを宣べ伝える伝道者となりました。それは彼が、神の選びを、約束を信じることをやめたということではありません。彼は以前と同じく、そして今キリストに敵対している多くのユダヤ人たちと同じく、ユダヤ人への神の選びを信じているのです。ただ違うことは、彼がこの神の選びの恵み、祝福の最後に、以前は知らなかったもう一つのことを付け加えていることです。それは「肉によればキリストも彼らから出られたのです」ということです。主イエス・キリストも一人のユダヤ人としてお生まれになったのです。ここにこそ、神がユダヤ人を選び、ご自分の民として下さり、与えて下さった最大の祝福があるのです。つまり彼は、神の選びを、約束を、主イエス・キリストを遣わして下さった神の恵みにおいてこそ見つめるようになったのです。そのことによって彼は、救いが、人間の良い行いや信仰深さによってではなくて、独り子をさえ与えて下さる神の恵みのみ心によって与えられていることをはっきりと知ることができたのです。以前の彼は、今敵対している多くのユダヤ人たちと同じように、神の選びを信じていました。しかしその選びは、自分たちは神に選ばれた者だ、だから他の人々よりより立派な、優れた者だし、律法を守り行なうことによって優れた者であることができる、という誇りと自負を生んでいたのです。神の選びがそのように、人に対して誇りや優越感を抱くことの根拠となっていたのです。しかし今や彼は主イエス・キリストと出会ったことによって、そのような誇りや優越感を打ち砕かれ、人と自分を比べて誇ったり劣等感を抱いたりすることから解放されました。そしてむしろ、神に敵対していたとんでもない罪人である自分を神が選んで下さり、キリストによる罪の赦しを与えて下さり、キリストの福音を宣べ伝える者として新しく生かして下さっている、その神の選びの恵みに感謝して生きる者となりました。自分の正しさや信仰深さや良い行いによってでは全くなく、むしろ罪人である自分を、神が独り子イエス・キリストの十字架の死と復活によって赦して下さり、永遠の命の約束を与えて下さった、その神の恵みのみ心による救いを感謝して生きる者となったのです。多くの同胞たちが主イエスを受け入れず敵対している中で、教会を迫害する急先鋒だった彼が、キリストとの出会いを与えられ、救われたのは神の選びによることです。何故彼が選ばれたのか、それは謎です。神のみ心としか言うことができません。そしてそれは、今この礼拝を共に守っている私たち一人一人においても言えることです。今私たちがこうして教会に集い、神を礼拝しているのは、神が私たちを選んで、ここへと呼び集めて下さったからです。それは私たちが正しい立派な生活をしている信仰深い人間だからではありません。私たちの側には、選ばれるべき理由は何もないのです。だからどうしてこの私なのかは謎です。それが神の選びというものです。しかしまさに神はそのようにして、私たちの側の信仰深さや良い行いや、その他のいかなる価値にもよらず、ただ神の側の恵みのみ心によって、主イエス・キリストによる救いにあずからせて下さっているのです。その神の選びの恵みを信じて、それを受け入れて、感謝しつつ神の民として歩んでいくことが私たちの信仰です。その信仰による救いの印が洗礼です。洗礼において私たちは、神が私たちを選んで下さり、キリストの十字架と復活による新しい契約の相手として下さり、新しい神の民である教会の一員として下さる恵みをお受けするのです。そして本日はこれから聖餐にあずかります。聖餐は、神の選びによって集められ、主イエス・キリストの十字架と復活による救いを与えられ、洗礼を受けて神の民とされた者たちが、キリストの体と血とにあずかり、その恵みによって養われていくための食事です。聖餐にあずかることによって私たちは、自分の信仰深さや良い行いによってでは全くない、神が主イエス・キリストの十字架によって与えて下さった赦しの恵みによる救いを覚え、その救いにあずからせて下さった神の選びへの感謝を新たにするのです。

救いの確かさ
 創世記12章で神がアブラハムを選び、祝福の約束を与えて下さって以来、イスラエルの民に与えられてきた神の選びは、イエス・キリストの十字架と復活による救いによって、今やイスラエルの民を越えて全世界に、私たちにまで広げられています。私たちは、主イエス・キリストを信じる信仰において神の選びにあずかっているのです。しかし元々神に選ばれていたはずのイスラエルの民、ユダヤ人たちは、キリストによる救いに敵対している。それはどういうことなのか。彼らはどうなるのか。彼らに与えられた神の選びは不信仰によって無になってしまうのか、パウロはそういうことを9-11章において語っています。私たちはそれをこれから読み進めていくわけですが、今ここで確認しておきたいのは、神の選びが、言い換えれば神の約束の確かさが問題の中心だということです。私たちの救いは神の選びによって与えられています。神が私たちを選び、救いの約束を与えて下さったのです。その約束が確かなものであることをパウロはこの第二部で語っています。神の選び、約束が確かなものであるゆえに、私たちの救いも確かなものであることがこれから語られていくのです。

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