主日礼拝

同胞のための祈り

「同胞のための祈り」牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:出エジプト記 第32章30-35節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙 第9章1-5節
・ 讃美歌:10、152、402

第二部の主題
 主日礼拝においてローマの信徒への手紙を読み進めていまして、本日から第9章に入ります。この9章から11章が、この手紙の第二部となります。この第二部は、パウロの他の手紙にはない、ローマの信徒への手紙に特徴的な所です。新約聖書全体を見回しても、他の所にはあまり語られていない、独特な、また大変大事なことがここに語られているのです。この第二部、9~11章の主題は何でしょうか。それが本日の1~5節に示されています。2節でパウロは「わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります」と言っています。パウロの深い悲しみ、絶え間ない心の痛みとは何だったのでしょうか。それは3節に「わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています」とあるように、自分の兄弟たち、肉による同胞のことです。パウロの兄弟、同胞とはユダヤ人たちです。同胞であるユダヤ人のために、彼は深い悲しみと心の痛みを覚えているのです。それがどのような悲しみなのかは4、5節から見えてきます。「彼らはイスラエルの民です。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。先祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストも彼らから出られたのです」とあります。「彼ら」とは同胞であるユダヤ人のことです。その彼らは「イスラエルの民です」と言われています。イスラエルの民というのは、主なる神に選ばれた神の民を意味しています。イスラエルという名は、アブラハムの孫であるヤコブが主なる神からいただいた名前でした。それが、ヤコブの子孫であるユダヤ人全体の名となったのです。その名はこの民が主なる神によって選ばれ、立てられた神の民であることを示しています。ユダヤ人がイスラエルの民であるとは、彼らが神の民であるということであり、その後に語られているように「神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束」が彼らのものであることを意味しているのです。つまり神の選びによってイスラエルの民とされたユダヤ人は、神の子としての身分とその栄光を与えられており、神の救いにあずかる契約の相手とされており、神のみ心を行なうための律法を与えられており、神のみ前に出て礼拝をすることができる者とされており、将来の救いの完成の約束を与えられているのです。さらにパウロは5節で「先祖たちも彼らのものであり」と言っています。先祖たちとは、アブラハム、イサク、ヤコブというイスラエルの最初の先祖たちであり、主なる神に選ばれ、祝福を与えられた人々です。イスラエルの十二の部族は皆彼らの子孫であり、彼らに与えられた神の祝福を受け継いでいるのです。つまりパウロはこの4、5節で、ユダヤ人が神の祝福を受け継いでいる民であることを確認しているのです。そして彼らに与えられた神の祝福のクライマックスとして、「肉によればキリストも彼らから出られたのです」ということをあげています。主イエス・キリストもユダヤ人でした。「肉によれば」とは人間としての出身から言えば、ということです。主イエス・キリストは神の独り子であられ、5節の後半にあるように「万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神」であられますが、同時に、私たちと同じまことの人間として生まれて下さった方です。まことの人間として生まれるとは、ある人種や民族の一人として生まれることです。どの民族にも属さない人間というのは、意識の上ではあったとしても、肉体においてはあり得ません。つまり神は独り子主イエスを、一人のユダヤ人としてこの世にお遣わしになったのです。そこに、ユダヤ人に与えられた神の最大の祝福があります。しかしまさにそこから、パウロの、同胞のための深い悲しみ、心の痛みが生じているのです。というのは、このように神に選ばれ、祝福を受けているユダヤ人が、最大の祝福として遣わされた救い主であるイエス・キリストを受け入れていないからです。ユダヤ人たちは、自分たちの一人としてお生まれになった主イエスを受け入れず、十字架につけて殺してしまったのです。さらに今、主イエスを救い主と信じている教会の人々を迫害しているのです。パウロをはじめとするほんの一握りのユダヤ人だけは主イエスを信じて教会に加えられていますが、大部分のユダヤ人は主イエスに逆らい、教会に敵対しているのです。このことがパウロの悲しみであり痛みです。神に選ばれ、祝福を受けた神の民イスラエルであるはずのユダヤ人が、神が遣わされた独り子イエス・キリストを受け入れずに敵対している。その現実をどう受け止めたらよいのか、そのユダヤ人たちはどうなってしまうのか、彼らに与えられた神の救いの約束は取り消されて、神に見捨てられ滅びていくしかないのか、そういうことを扱っているのがこの第二の部分、9~11章なのです。

同胞の救いへの切なる願い
 パウロはこのことを深い悲しみと絶え間ない痛みの中で語っています。単なる知的好奇心によって語っているのではありません。そのことが3節に現れています。「わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています」と言っています。つまり同胞であるユダヤ人たちがキリストを受け入れ、その救いにあずかるためなら、自分はキリストから離され、神に見捨てられてもよい、自分はどうなってもいいから、何とかして同胞たちにキリストを信じ受け入れて救いにあずかって欲しい、そういう激しい、叫びにも似た願いをもってこの9~11章は書かれているのです。このようなパウロの願いは、先程共に読まれた旧約聖書の箇所、出エジプト記32章におけるモーセの願いと通じるものです。モーセがシナイ山で主から十戒を授けられている間に、麓で待っていたイスラエルの民は、モーセの帰りが遅いので不安になり、自分たちを導く神として金の子牛の像を造って拝み始めたのです。イスラエルの民が陥ったこの大きな罪の赦しを願うために、再び主のもとに上ったモーセが願ったことが31、32節に語られています。「ああ、この民は大きな罪を犯し、金の神を造りました。今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば…。もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください」。「あなたが書き記された書」とは、救われる者の名が記されているリストです。そこから私の名を消し去ってくださいというのは、私は救いから落ちてもかまいません、ということです。同胞の罪を主がどうしても赦してくださらないなら、自分も一緒に滅ぼしてください、と彼は言っているのです。彼はこのように言うことによって、何とかして同胞の罪を赦していただこうとしているのです。パウロもこのモーセと同じように、同胞であるユダヤ人の救いを切に願い、そのためには自分が犠牲になってもよい、と思っているのです。

同胞の救いを真剣に願っているか
 私たちはこのパウロのように同胞の救いを祈り願っているでしょうか。同胞の多くがキリストを受け入れようとしない、というパウロの置かれた状況は、私たちが今、この日本において置かれている状況とそっくりです。勿論、元々主なる神の民であったユダヤ人と日本人とを同列に考えることはできませんが、多くの同胞たちが、家族や親しい者たちが、救い主イエス・キリストを受け入れていないということにおいては同じです。その同じ状況にあるパウロと私たちの違いは、パウロはこの状況を本当に深く悲しみ、絶え間ない心の痛みを覚え、そして同胞の救いのためなら自分は滅びてもよいというほどの激しい情熱をもって彼らの救いを祈り求めていた、ということではないでしょうか。私たちは、同胞がキリストを受け入れていないという現実を、本当に悲しみ嘆いているでしょうか。自分の家族が、親しい者が主イエスの救いにあずかっていないことをどれだけ本当に悲しみ、そのことで絶え間ない痛みを覚え、その人々が救われることを真剣に、そのためなら自分は滅びてもよいというほどに熱心に祈り求めているでしょうか。どうも私たちは最初から「仕方がない」と思ってしまっているのではないでしょうか。家族や親しい人々がキリストを信じていないことは残念だと言い乍ら、そのことを本当に悲しむことも痛みとすることもなく、その人々の救いを真剣に祈り求めることもしていないのではないでしょうか。そのことは神様にお任せするしかない、とよく私たちは言います。それはその通りなのです。私たちの努力や工夫で人に信仰を持たせることなどは出来ません。それは聖霊なる神様のみがなさることです。でも本当に神様にお任せしているなら、「神様この人を救ってください」という熱心な祈りがそこには伴うはずです。パウロはまさにそういう祈りに生きていました。そこにパウロと私たちの違いがあると言わざるを得ないのではないでしょうか。

私たちは伝道しているか
 つまりパウロが同胞のために深く悲しみ、心の痛みを覚えていたのは、彼が同胞の救いために一生懸命に祈り、伝道していたからです。彼は同胞であるユダヤ人たちに、主イエスこそ神が遣わして下さった独り子、救い主であり、その十字架と復活による救いが与えられているのだという福音を伝えようとして熱心に伝道していたのです。しかし人々がなかなかそれを受け入れようとしない、という挫折を体験していたのです。使徒言行録にはそういうことが沢山書かれています。パウロほどの優れた人が伝道すれば、同胞たちはすぐに主イエスを信じ受け入れた、などということは全くありませんでした。語っても語っても分かってもらえない、という伝道の挫折をパウロは沢山味わったのです。だから深い悲しみと痛みを覚えているのです。私たちがそのような深い悲しみや痛みを覚えていないとしたら、それは私たちが伝道していないからだとも言えるでしょう。パウロと私たちの違いは、同胞に対して本当に熱心に伝道しているかどうかの違いです。一生懸命伝道して、でも挫折する、そういう体験を通してこそ、私たちもパウロと同じ悲しみや痛みを覚え、同じ祈りを与えられていくのです。

信仰が個人のことになっていないか
 このことは見方を変えればこうも言えます。パウロは、主イエス・キリストによる救いを自分一人の個人的な事柄とは全く考えていないのです。自分一人が主イエスの救いにあずかり、慰めや平安を与えられて満足する、というのがパウロの信仰ではありません。彼は常に、他の人々、同胞たちと共にその救いにあずかろうとしているのです。私たちはどうでしょうか。私たちの信仰の視野の中に、他の人、同胞たち、身近な所で言えば家族や親族、友人たち、そういう人々が入っているでしょうか。それらの人々と一緒に救いにあずかろう、とどれだけ真剣に願っているでしょうか。私たちの信仰はあまりに個人的な、自分だけの平安を求めることになってはいないでしょうか。同胞の救いを願うパウロの激しい情熱に触れる時、私たちはこの点で自分の信仰のあり方を反省させられるのです。

同胞を愛しているか
 そしてそこでもう一つ、パウロと私たちの違いとして見つめるべきことがあると思います。私たちはともすると、自分が伝道しても主イエスを受け入れない同胞に対して怒りを覚えるのです。怒りとまでは行かなくても、その人々を「もの分かりの悪い連中」として軽蔑するようになることがあります。「この人たちはこの世のこと、人間のことしか考えていない」とか、「偶像崇拝から抜け出せないでいる」などと、同胞を批判するようになったりするのです。しかしパウロはそういうことをしていません。信じようとしない同胞を批判したり軽蔑するのではなくて、彼らのために悲しみ、嘆いているのです。そしてますます熱心に、彼らの救いを祈り求めているのです。それは彼が同胞たちを心から愛しているということです。それは言い換えれば、自分の信仰や伝道を自分の自己主張や誇りの手段とはしていない、ということです。伝道は、自分の主義主張を相手に認めさせることではありません。ところが私たちはしばしば、自分が語ったことが受け入れられないと、自分のプライドを傷つけられたように思ってしまうのです。それは私たちの中に、自分の主張を相手に認めさせようという思いがあるからです。そういう伝道は、相手のため、相手の救いのためではなくて実は自分のため、自分の自己主張のためです。あるいは、家族を教会に連れて来ないと他の教会員の手前恥ずかしい、というような思いで、家族に無理強いして教会に連れて来ようとするようなこともあります。それは、家族を愛しているのではなくて、自分の立場を守ろうとしているのです。そのような伝道によっては相手に何も伝わりません。伝道は、相手を本当に愛することの中でしかできないのです。キリストの福音は愛によってしか伝わらないのです。ここに示されているパウロの姿は、まさに同胞ユダヤ人への深い愛に生きている姿です。それでもなお、なかなか伝わらない、そこには怒りやいらだちや軽蔑ではなくて、深い悲しみ、痛みが生じるのです。

8章と9章の繋がり
 このように9~11章には、同胞の救いを真剣に祈り求めているパウロの姿が語られています。私たちはその姿を見倣っていきたいのです。しかし、私たちがここから読み取らなければならないのはパウロの同胞への伝道の情熱だけではありません。もっと大事なことがここには示されています。そのことは、同胞であるユダヤ人の救いについて語っているこの9~11章を、パウロがこの手紙のここに置いたのは何故なのかを考えてみることによって示されていきます。それは言い換えると、これまで読んできた8章までのところと、この9~11章の繋がり、関係を考えるということです。同胞であるユダヤ人の救いを願う思いはパウロの中に常にあったでしょう。それを8章に続いて語ることにはどういう意味があるのでしょうか。8章までのところでパウロは、自分が宣べ伝えている主イエス・キリストによる救い、つまりキリストの福音の内容をまとめて語ってきました。その部分を終えた後に、特にそれとの繋がりはないけれども、気になっている同胞ユダヤ人の救いについてのことを書いたのでしょうか。それならば、8章と9章の間に繋がりはないことになり、9~11章は8章に続いて読まなくてよい、ここだけ独立させて読めばよい、ということになります。しかしそうではないと思います。8章までを語った後で9章に入る必然性、繋がりがあるのです。それはどういうことなのでしょうか。

神の救いの御計画
 パウロは8章までのところで、イエス・キリストによって与えられる救いとはどのようなものか、その救いにあずかった者にはどのような新しい生き方が与えられるのか、を語ってきました。8章はそのしめくくりでした。その8章において彼は先ず、主イエス・キリストを信じ、その救いにあずかって生きる者には神の霊が内に宿って下さっており、その神の霊の働きによって信仰者は神の子とされ、「アッバ、父よ」と祈る者とされているのだ、と語りました。しかしそれは、神の子とされる救いがもう完成したということではありません。「アッバ、父よ」と祈りつつ生きる信仰者は、現在の苦しみの中で、将来現わされる栄光を待ち望みつつ生きているのだ、ということが8章18節以下に語られていました。23節にはそのことが「被造物だけでなく、〝霊〟の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます」と言い表されていました。キリストを信じてその救いにあずかった者は、既に神の子とされていますが、そのことはまだ完成してはいないのです。完成は、「体が贖われること」において与えられます。それはこの世の終わりに、私たちの体が主イエスの復活にあずかり、私たちも復活して主イエスと同じ永遠の命を生きる者とされることです。そこにおいてこそ、神の子とされる救いが完成するのです。それまでの、この世における私たちの歩みは、この約束を信じて救いの完成を待ち望む歩みです。そこにはなお様々な苦しみ悲しみがあります。その中で私たちはうめきながら、しかし救いの完成に希望を置いて、忍耐して生きていくのです。その忍耐と希望の歩みを支えるのが私たちの内に宿って下さる神の霊、聖霊であり、聖霊が与えて下さる「アッバ、父よ」という祈りです。神に向かって「アッバ、父よ」と祈りつつ、その祈りに支えられて、うめき苦しみつつも神の子とされる救いの完成を待ち望む希望に生きる、これが私たちの信仰の歩みなのです。その希望に生きる信仰者のあり方を代表的に示しているのが8章28節です。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」。神が私たちを御計画に従って召して下さっているのです。神はこの御計画によって、私たちを神の子とされる救いの完成へと導いておられるのです。それゆえに、私たちの人生に起る万事、つまり良いことも悪いことも、喜びも悲しみも、全てのことが私たちの救いのために益となるように共に働くのです。この神の救いの御計画にこそ、私たちの希望の根拠があります。8章の終わりに語られている、この世のどんな被造物も、キリスト・イエスによって示された神の愛から私たちを引き離すことはできない、という力強い確信も、この神の救いの御計画のゆえに与えられているのです。
 このようにパウロは8章において、神の救いの御計画こそが私たちの希望の根拠であることを語ってきました。つまり私たちの救いは、私たちがどのような良い行いをしているか、どれだけ信仰深い者であるか、というような、私たちの側の条件によって与えられるのではなくて、神が恵みのみ心によって救いの御計画を立てて下さり、その御計画によって独り子イエス・キリストを遣わし、その十字架の死と復活によって救いのみ業を行なって下さり、そしてその御計画によって私たちを召してその救いにあずからせて下さっていることによって与えられているのです。この神の御計画、つまり恵みのみ心による救いこそキリストの福音の根本です。それが8章までの第一部の結論だったのです。

神の御計画は無にならず、完成する
 この結論を見つめる時、パウロは、同胞であるユダヤ人たちのことを思わずにはおれなかったのです。ユダヤ人は、神に選ばれた神の民イスラエルです。つまり主なる神は彼らを恵みのみ心によって選び、救いの御計画の中で用いて下さっていたのです。そのユダヤ人の多くが今、主イエス・キリストを受け入れず、教会に敵対している、それは由々しい問題です。神の恵みの御計画、ユダヤ人を選んでご自分の民として下さり、彼らを通して行なってきて下さった救いの御計画が、ユダヤ人の反抗によって頓挫してしまったようにも見えるのです。しかし、神の救いの御計画がそのように人間の反抗の罪によっておじゃんになってしまうなら、8章で語ってきた神の御計画に基づく私たちの救いの希望も不確かなものになってしまいます。神の恵みによる御計画や約束があっても、人間がそれをちゃんと実現しなければ結局は無駄になってしまうのだとしたら、救いはやはり人間の力、人間の努力にかかっている、ということになるのです。パウロが8章に続く9章以下で、同胞であり神の民イスラエルであるユダヤ人の救いについて、必死にみ心を求めて語っているのは、そのことを見つめているからです。つまり彼は、ユダヤ人が自分の同胞だから、同胞への愛のゆえにその救いを願い求めているというだけではないのです。神が御計画によって召して下さったユダヤ人たちが救われるか否かは、同じ御計画によって召された私たちの救いの希望を左右するのです。そして、9~11章の結論を先取りして言えば、神は、一旦恵みによって召して下さった者を、その罪のゆえに捨ててしまうことはない、彼の罪、反抗をも用いて、救いの御計画を押し進め、それを完成して下さるのだ、ということをパウロは語ろうとしています。だから、8章の終わりで高らかに宣言したあの希望は決して揺らぐことはない、神は人間の反抗をも用いて、万事を益となるように導いて下さるのだ、それが、この手紙の第二部でパウロが語ろうとしていることなのです。
 そしてこのことは、私たちが同胞の救いを祈り求めつつ伝道していく上で大きな支えとなります。私たちの救いは、人間の側のいかなる条件にもよらないのです。神が召してさえ下されば、人間の目にはとうてい不可能と思われる救いが実現するのです。そしてその神の救いの御計画は、人間の反抗や罪によっても決して挫折することはないのです。むしろそれらをも用いて神は万事を益となるようにして下さるのです。それゆえに、今主イエスを受け入れず逆らっているユダヤ人の救いの希望をパウロが持ち続けているように、私たちも、同胞たちの、家族や親しい者たちの救いの希望を持ち続け、そのために祈り、伝道をし続けていくことができるのです。

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