夕礼拝

御言葉への信頼

「御言葉への信頼」  伝道師 矢澤美佐子

・ 旧約聖書; 詩編 138:1-5
・ 新約聖書; マタイによる福音書 9:18-26

 
 主イエスは、弟子達や、収税人、罪人たちと食事をしている時でした。人々からつまはじきにされていた人々との食事の席です。主イエスは、ここを婚礼の宴の席である、喜びの食卓であるとお語りなりました。食事をしている人々は、安心と喜びで満ちていました。ところが、そのような平安な人々をかき分けるように、ただならない気配の一人の男が飛び込んで来たのです。 主イエスの前に飛び出し、ひれ伏した男。彼は、指導者であったと言います。この指導者には、少女である娘がいて、今、死んでしまったと言うのです。まだ少女であるのに、死んでしまったのです。男は、もうどうすることも出来なかったのです。ただただ、主イエスの許にひれ伏し、必死の思いで救いを願い求めに来たのです。 まったく、喜びを失ってしまった者が、喜びの食事の席に飛び込んで来た。たちまち、暗さがやってくる。悲しみと言うのは、実際のところ、このように突然やってくるのです。喜びと悲しみが入り混じって、世の現実は、このような事が多いのです。やりきれない場面でありますけれども、この世の現実をよく映し出している場面であるのです。
 今、この指導者は無力な一人の父親です。最愛の娘は死んでしまったのです。この父親は指導者であり、会堂長と言われていました。この頃の会堂では、初等教育、民事事件の調停が行われていた所です。人々は、必ず会堂に集まり、当時の人々にとって社会生活の中心でもあったのです。そしてこの会堂のリーダーが、会堂長です。教育を受けた人でしょう。見識があり人望も備えていた。信仰と生活全体の指導者だったのです。 ですから、世に力のある人を何人も知っていたでしょう。けれども、彼は主イエスを求めた。主イエスが自分の町へ来たと聞いて、必死の思いで主イエスの所へやって来たのです。そして、救いを願い求めたのです。主イエスを求め、この方に頼んで哀れんで頂けるものなら哀れんで頂きたい。いや、この方ならきっと生き返らせて下さる。そのような思いでひたすら主イエスに近づき、救いを願い求めたのです。どこにも持って行き様が無い深い苦しみがあります。もう駄目だ。けれども、救ってほしい。そのような必死の思いを込めて救いを願ったのです。

 それを聞いて、主イエスは腰を上げます。その様子を見ていた人たちは、さて助ける事が出来るのか?人が人を呼んで押すな押すなの大騒ぎになった事でしょう。人々が塊になって道を進んだでしょう。指導者の家へと向かいます。すると不意に、主イエスの足が止まったのです。12年間も出血が止まらない病にかかった女性が、主イエスの衣の房に触れたからです。当時の律法の規定によって彼女の病は、汚れた病とされていました。汚れは人に移るとさています。そこでこの女性は、人中に出てはいけなかったのです。必ず一人でいなければならなかったのです。それにもかかわらず、通り過ぎようとする主イエスに近づき、彼女は主イエスの衣の房に触れたのです。この衣の房と言うのは、神の聖さを思い起こす為に付けられているものです。この神の聖さを受けるなどという所から、ずっと遠く離れている彼女です。その神聖な房に、汚れた女が触る事は許されない事なのです。けれども、彼女は愚かと言われるかもしれない、とがめられるかもしれない、その絶望のただ中で、その房に触ろうと思ったのです。
 彼女も、娘を亡くした指導者と同じです。行き場が無いのです。どこにも持っていきようがない苦しみがあります。駄目かもしれない。怒鳴られるかもしれない。けれども救ってほしかったのです。

 私は、これまで何度か「キリスト教は難しい」という事を言われた事があります。確かに、信仰の理解についても、これでいいと言う終わりはない様に思います。しかし、私達は、難しい事をたくさん勉強し、理解して、その末にやっと救われるというのではありません。主イエスは、私達の頭の中で甦ったわけではなく、現に復活を遂げて、今、生きて働いておられるのです。
 死んでしまった娘の救いを求めてやって来たこの指導者も、病を治して頂こうと主イエスに触れた長血の女も、難しい事を知っていたわけではありません。ただ一人、主イエスを頼みとしてやって来た。ここにあるのは「信じる」ということだけです。この「信じる」ということに、主イエスと出会い、救いが出来事になって行くのです。
 今日登場する二人の姿から、私達は、主イエスに対して救いを求める「ひたすらな信仰」を伝えられ、訴えかけられるのです。そこには、主イエスに向かい「主よ助けて下さい」とひたすらに救いを求める姿があります。

   ところが、一方で、指導者の家の周りでは、騒いでいる群衆がいました。指導者の娘が死んだのです。彼から指導を受けた多くの人達が、共に悲しむ為に集まっていたのです。親よりも、子が早く死んでしまうと言う事は、どれほど深い悲しみであるでしょうか。集まった人たちは、口々に嘆きと悲しみ、不安の声をあげたのです。神は、何処にいるのか?神は、本当に私達を救って下さっているのか?神は、何処に行ってしまったのか。
 しかし、これを聞いて、私達は、この人たちの気持ちが分かるような気が致します。私達は、今、主イエスを手で触れ、目で見る事は出来ません。それは、私達をほんとうに不安にさせます。「私はほんとうに救われているのだろうか」確かなものに触れられない恐ろしさを感じる時があるからです。この世の厳しい現実の中で生きる私達は、「目で見える救い」を切実に求めたくなります。「神様いつまで私達を不安のままにしておかれるのですか。私達をはっきりと救ってください」と嘆きたくなるのです。「あなたの、神の御支配を、ほんとうに誰もが分かるように、この地上に今、私達の前に行って下さい。」そう言いたくなります。私たちは、不安なのです。つまり、どこかで、不信仰のゆえに、神を信じきる事が出来ないゆえの不安がつきまとうのです。
 そして、このような人々の中に、「ひたすらな信仰」を持って主イエスに近づく指導者と長血の女がいます。ひたすら主イエスを求めます。今、この二人は主イエスの御前に立っています。私達もまた、この二人の前に立っておられる主イエス、この方の御前に立たされています。主イエスの御前に立たされた時、私達は、私達のこれまでの信仰が明らかにされてしまうのです。
 私達の歩んでいるこの信仰生活というのは、私達の歩みに喜びと確信を与えると同時に、私達の心に不安をもたらすものです。信じて従いきれていない。或いは、神を信じているはずなのに、何故このような事が起こるのだろうか。疑問を抱くことがあります。時には、近くにいて下さったはずの神が、遠く退いてしまったかのように思えることもある。生きることの不条理を嘆く時もある。そして、私達は神から来る救い主キリストを求めているのです。

 私達は普段、「私はキリストを求めているのです」と特別改まって言うことは無いかもしれません。それどころか、自分が健康である事、人生の目標があること、これまでがそうであったように、これからも明日が来ること。疑いも無く思って生きています。ところがある日、中断する日が来るのです。
 指導者は、娘が死んでしまった。中断が起こります。長血の女は病によって中断が起こります。自分たちが、これまで当たり前に思えていたものが中断されるのです。これまで当たり前だと思っていた事が揺さぶられ、覆され、中断される。人は、このような形で主イエスと出会うのです。主イエスと出会い、神の御前に立たされた時、私達は人としての弱さや、不信仰を知らされることになる。かえって、今まで気付かなかった罪を知らされることになるのです。私達の信仰の有様を知らされるのです。

 指導者の家の前で、主イエスはこのように仰せになります。
 「少女は死んだのではない。眠っているのだ。」
この言葉に、人々は、あざ笑ったのです。人々は信じなかったのです。救い主イエスの噂は、この頃、人々に広く伝わっていたはずです。病を癒し、嵐を静め、人々を教え導く。人には出来ない奇跡の業を数々行っている。救い主イエス。人々は、噂で聞いていたのです。その方が、今、目の前に現れたのです。主イエスは仰せになります。「少女は死んだのではない。」けれども、人々は、信じられず、あざ笑ったのです。
 主イエスは救い主のはずです。けれども、その主イエスの御言葉を、信じる事が出来ない。何故でしょう?
 群集は、主イエスを自分の理解する範囲でしか信じていなかったのです。イエスは宗教者としての教育を受けたわけでもない。公の資格など何一つ持たない。「イエスは、ナザレの大工ではないか」「ガリラヤの漁師たちを弟子にし、田舎大工がある日、福音を語り始めただけではないか」到来した救い主を、そのままには受け入れられなかったのです。自分たちの知っている事、自分たちの目で見、理解している事柄でしか主イエスを見る事が出来なかったのです。
 人は、自分自身が受け入れられる確かな証拠を見なければ、神を、神として受け入れられない。「見なければ信じない」この思いが人々の中に、確かにあるのです。

 例えば、神の御言葉について考えた時、「私達は、主イエスの御言葉を聞くことで神と出会う」と言う事を知っています。けれども、その事を知っているにもかかわらず、私達は、自分が理解できる事、受け入れられる事、満たされる事で神と出会おうとしてしまう。理解できないこと、受け入れられない事、満たされない事については、神の出来事ではないと思いたいのです。だから、神を神だと思えず、十字架に付けて殺してしまうのです。それが、私達の罪なのです。その罪を神御自身が担うために、人となって来られたのがイエス・キリストなのです。このイエス・キリストによってのみ、私達は救われるのです。
神であるという確かな証拠がなければ、信じる事ができない私達を救ってくださる。信じることの出来ない私達を、神の御言葉に信頼する者へと、そして、見ないで信じる者へと変えて下さる。
 では、どの様にしてそうなっていくのでしょうか?

 汚れた者とされた女。娘の死に絶望する父親。悲惨な人を前にして、私達は、言葉をかける事が出来なくなります。私達が言葉を失うところで、しかし、主イエスはお語りになるのです。「娘よ元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」「少女は死んだのではない。眠っているのだ。」人には語る言葉がない時に、主は、お語りになるのです。
長血の女も、指導者も、その御言葉が本当かどうか受け止めきる事ができないままであったかもしれません。しかし、ただひたすらに信じた。とにかく、その御言葉を信じたのです。そして、長血の女の病は治り、娘の命は救われたのです。娘は、主によって、生き返ったのです。
 想像してみても、信じ難い場面であります。けれども、そう言う事を主イエスはなさいました。
 私達は、ここで、奇跡を見せ付けられるのです。主の驚くべき御業、御力を見せ付けられるのです。しかし、どうでしょうか。主イエスは、奇跡の御業を見せ付け、どうだ参ったか、神の力を見たか。そして、これによって信じる者になれ、と仰せになっているのでしょうか?
 なぜなら、思うのです。この治して頂いた長血の女も、生き返った娘も、いつかは、世を去る時が必ず来るのです。やっぱり、死んでしまうのです。であるなら、病の癒し、死んだ者の生き返りは、何ゆえ、そのようにして下さったのでしょうか?何の意味があると言うのでしょうか?
ここで直面している死は、誰もが味わう死です。そこでしかし、主イエスは、誰よりも深く人間が病んでいること、滅びざるを得ないこと、死なざるを得ないのだという、その現実を知っておられるのです。私達に絡みつく罪を知っておられるのです。罪のゆえに、私達が死の絶望から逃れられないでいることを知っておられるのです。

 聖書が告げる、主イエスの病の癒し、死からの生き返りの奇跡の御業は、私達の命が死をもって終わる時に、そこで止まらないものを告げているのです。主イエスは、その先の物を与えて下さっているのです。それは、生き返らせることによって、もとの命へと引き返るというのではないのです。
 指導者の娘の死も、そして、その指導者の深い痛みも、長血の女が汚れた病によって負わされた屈辱も、全て無い状態に、元いた健康な状態へ戻して下さる、そのような奇跡の御業が、私達の救いではないのです。
 人間の悲惨の根は、私達自身の罪にあるのです。そのことを、主イエスはご存知なのです。だから、その罪へと引き戻ってはならない事を、長血の女を癒し、娘を生き返らせた事でお示しになっておられるのです。
つまり、いくら原状を回復し健康な姿に戻ったとしても罪に戻るだけなら、それほど無意味なことはないのです。健康になってなお、罪の只中を生きるならば、治していただく意味は無いと言う事なのです。
 ですから、主イエスは、元へと戻るのではなく、前へと進ませてくださると言う救いをお与えくださっているのです。神を神として信じることができない罪。その罪のゆえに、死という絶望から逃れる事の出来ない私達を、罪の無い者として、神の子として生き返らせて下さるのです。主イエス・キリストの復活の命を与えて下さるのです。私達を、罪許された者として主と共に生きるところから来る、病への本当の癒し、死からの本当の命。これを、お与えて下さったのです。
長血の女が癒される。死んでいた娘がもう一度生きる。私達の生きているこの世でそれをなさったのです。主イエスの行くところ、至る所で病の人が癒される、また、死んでしまった人が、生き返ると言うのではありません。実際、この長血の女も、会堂長の娘も、いつしか世を去った事でしょう。しかし、ここにある、死をも打ち破る主イエスによる御業が、主イエスが私達を永遠の命に捉えて下さる真の救い主であることとを、時代を超えて生きる私達に、確かに指し示しているのです。

 今日、聖書が最も伝えたいとする所は、「少女は、死んだのではない」と仰せになった主イエスの御言葉です。私達は、不思議な業によって信じる者とされていくのではなく、神の命の言葉によって、信じる者とされていくのです。
 人が、見えたもので信じたという思いは、また見えなくなると信じられなくなる。これが私達の現実です。だから神は、永遠に変わらない神の命の御言葉を、私達にお与えになるのです。この永遠に変わらない命の言葉を、ただひたすらに聞き続ける者となれと仰せになっているのです。
 それゆえ、神は、どこにも確かなものに触れられない不安の中にいる私達に、人々が求めてやまない、見える奇跡以上の力をもって、人間を救う「神の御言葉」の存在をお示しになりました。

 今、私達には、神を目で見る事はできません。しかし、神の御言葉は、今も、生きて働いているのです。神の御言葉は、生きて働き、そして、神の御言葉がひとたび語られるなら、そこでは人々を全く新しく生かす信仰が引き起こされるのです。それは、私達を、目で見える限られた世界から解き放ち、永遠の救いへと向けさせるのです。見えない神が、そのことをなさるのです。生きて働く神の命の言葉が、たとえ、主イエスが見えなくとも、主イエスがこのことをなさった、救ってくださったと信じ合うことができる。それが神の出来事です。「見えなくても、信じる者へ」と神の御言葉によって、そのようにされていくのです。
 救いが、神が見えなくては、不安な私達です。どこにも確かな物に触れられない不安の中にいる私達です。しかし、私達は、それを超えて、私達を死で終わる絶望から救い出して下さるのです。
 そして、その方の御言葉がどんなに確かで、どんなに愛に満ち、決して私達を離すことがなく、誰も御言葉を、私達から奪い取ってしまうことの出来ない確かな救いの御言葉であることを、信じるようにと示されているのです。
 神は、今、私達に対して、どこででも命の言葉をもって、私達を救ってくださり、その御言葉が、私達を生かす真の神の命の言葉であると信じて立つものとしていて下さるのです。
 そして、このことを信じて立つなら、私達は、たとえ、今、主イエスが見えなくとも、どこででも、神の御言葉を信じて立つものとされ、誰に対しても、神の御言葉を信じてのぞむように、神によってたてられ送り出されているのです。
 主イエスは、私達にも対しても、「あなたは、死んだのではない」あなた達は「生きる」とお語りになって下さるのです。この主イエスが、今も生きて、私達に神の御言葉を語り続けて下さっているのです。私達は、この神の御言葉に信頼する者へと向かって生きたいと思います。

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