夕礼拝

安息日のいやし

「安息日のいやし」 伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書; 出エジプト記 第20章8-11節
・ 新約聖書; マルコによる福音書 第3章1-6節
・ 讃美歌 ; 2、202、77(聖餐式)

 
はじめに
 本日の箇所は、主イエスが、ある安息日に会堂にお入りになった時の出来事です。この安息日に主イエスの御言葉によって二つの出来事が引き起こされます。一つは、会堂の隅にいる片手が萎えている人が真ん中に立たされ、癒されたということ。もう、一つは主イエスを訴える口実を見つけようとしていた人々が、殺意を抱いて、会堂を出て行ったということです。この主イエスが語られた時に起こることの中に、私達が安息日に経験する真のいやしがあるのです。

安息日の会堂
 「イエスはまた会堂にお入りになった」。ここで、「また」と言われていますが、マルコによる福音書において、主イエスが安息日に会堂に来られたのは、二回目です。1章21節には、前回、会堂に来られた時のことが記されています。その時の会堂は様々な声で満ちていました。主イエスが会堂で権威あるものとして力強く教えられる。そうすると汚れた霊に取りつかれていた男が「ナザレのイエス、かまわないでくれ」と叫びだす。主イエスが、「黙れ、この人から出て行け」と言って叱りつける。そして、それを見た人々が驚きの声を上げる。教える声、叫ぶ声、叱りつける声、人々の歓声、様々な声が響いていたのです。
 しかし、この日は、そうではありませんでした。初めて安息日の会堂で教えられてからどれくらい経っているのかは定かではありませんが、しかし、それ程長い月日が経っているわけではないことが想像されます。もしかしたら一週間後の安息日だったのかもしれません。主イエスはこの日も、同じように安息日の会堂に入ってこられたのです。しかし、この時、会堂を支配していたのは、汚れた霊に取りつかれた男の叫びでもなく、驚きの歓声でもありませんでした。そこを支配していたのはむしろ「静寂」でした。しかし、この静寂は、主イエスの御言葉を聞くための謙りでも、神を拝むための恭しさでもありません。「人々はイエスを訴えようと思って」と記されています。主イエスの口から訴える口実となるようなことが語られるのを聞きのがすまいとする静寂であったのです。

人々の眼差し
人々は、ただ静かに耳をそばだてていただけではありません。「安息日にこの人の病気を癒されるかどうか注目していた。」とあります。この会堂には「片手の萎えた人」がいたのです。人々は、主イエスがこの人の病を癒されるかどうかに注目していたのです。当時の律法では、安息日には、働いてはいけないことになっていました。生死を分けるような、緊急事態は別として、命に関わりのない病を治療する行為は許されていなかったのです。もし、主イエスがこの日も、そのような業を行えば、訴える口実を得ることになるのです。人々は、主イエスを、じっと伺っていたのです。まるで、狩を行う人が、獲物を捕獲しようと罠をはって、静かに身を潜めて、じっと見つめる時のような視線を向けていたのです。決して善意のものではなく、悪意に満ちた眼差しであったのです。
 先週お読みした直前の箇所においては、ファリサイ派の人々と主イエスとの安息日についての論争が記されていました。主イエスの弟子達が、安息日に会堂に向かって歩きながら、麦の穂を摘んでいるのです。それを見かけた、ファリサイ派の人々が、主イエスに、何故あなたの弟子達は、安息日にしてはならないことをするのかと問うたのでした。人々は、この時、主イエスの弟子達に向けていた悪意の視線を、今度は、主イエスご自身に向けるのです。
安息日というのは、神様が六日間で世界を創造され、その完成された世界を「極めてよかった」と言ってご覧になり、七日目に休まれたことから定められた日でした。この日は、神様の祝福の眼差しの中で私達も神様と共に憩い、私達に注がれている神様の「祝福」を覚えて、神様を讃える日なのです。しかし、この人々は、そのような思いで安息日を過ごしていたのではありません。神様に目をむけていないだけでなく、律法を守っている自分と、律法を守っていない他人を見つめていたのです。しかも、その眼差しは、自分の救いを確かめ、他人を裁くことに熱心になることによって引き起こされる悪意に満ちたものであったのです。

主イエスへの殺意
 何故人々は、主イエスを訴えようとしているのでしょうか。最初の安息日の会堂から、二度目の安息日の会堂にいたるまでのほんの短い間に何故、主イエスに対する憎しみが生まれたのでしょうか。最初に安息日の会堂で教えて以来、主イエスは教えを語られ、多くの人を癒されてきたのでした。しかし、その教えと御業が、憎しみを生むことになるのです。この短い間に、ファリサイ派と言われる、当時の宗教的指導者達は、主イエスに論争を挑みました。そこで明らかになったことは、主イエスがなした力強い御業が、律法の枠にはまっていなかったということです。律法を守ることによって、自らの正しさと救いを得ようとしていた人々にとって、その律法を否定する形で御業を行われる主イエスは、自分達の正しさ、自分達の救いを否定する存在であったのです。たとえ、主イエスのなすことが善いことであっても、それが赦せないのです。しかも、主イエスは、中風の人に、「あなたの罪は赦される」と語られました。主イエスは、神のみがなすことができる罪の赦しを口にしました。そのことが神を冒涜しているように思われたのです。主イエスを真の神の子と受け入れないで律法による救いを得ようとしている人々にとっては、主イエスの力強い御業も、主イエスに対する憎しみを生むものにしかなりませんでした。そして、この安息日に、主イエスがいやしの業をなすのを待ち構えていて、それが安息日であったという理由で訴える口実を得ようとしていたのです。ここに律法を守ることによって救いを得ようとする人の本末転倒があります。律法を行うことに熱心になり、それを絶対化するあまり、自らを正当化する思いと、隣人を裁く思いに支配されてしまうのです。そして、安息日に本来なすべき、善を行うことよりもむしろ、悪を行ってしまうのです。

手の萎えた人
 人々が何より注目していたのは、主イエスでしたが、もう一人、この会堂にいた「片手の萎えた人」にも視線を向けていました。いつもの安息日であれば、人の目につくこともなく、静かに隅に座っていた人であったことでしょう。この後、主イエスが彼に「真ん中に立ちなさい」と言われたことからも分かるように、彼は会堂の真ん中にはいませんでした。
どれだけ、普段、人々がこの人に目を向けていたのかは定かではありませんが、この時、人々は、確かに、この人にも注目したのです。しかし、この人に憐れみの思いを抱いているのでも、何か助けの手を差し伸べようとしているのでもありません。主イエスを訴える口実を得るための手段、道具として、彼に注目しているのです。律法によって自分の正しさを主張していた人々が、弱い立場の人に注目するとすれば、それはせいぜい、自分の目的を果たすために利用できる時なのです。主イエスは、最初に安息日の会堂で教えられた時にいやしの業をされたように、この時も、この人を癒すだろうと踏んで、じっと見つめているのです。
「萎える」というのは麻痺することを意味します。片手が自由に動かなかったのです。この人も、安息日ですから、神様を礼拝するためにこの場にやってきたのでしょう。もしかしたら、主イエスのうわさを聞きつけて会堂にやってきたのかもしれません。又、ここに登場する「この人」がどのような人であったのかも聖書は記しません。この人が、「片手が萎えた人」であること以外何もはっきりしたことは分からないのです。しかし、一つ確かなことは、先ほど述べたように、この人がいたのは会堂の隅の方であったということです。このことは、当時の安息日の会堂における彼の扱われ方を表しているように思います。彼は堂々とした態度で会堂の真ん中にいたのではないのです。当時、身体に障碍を負った者は不浄とされていました。この人の麻痺がどの程度だったのかは定かではありませんが、律法の支配する当時の社会において、この人が宗教的にも見下されていたことは想像がつきます。手が萎えているということで、会堂の隅に追いやられていたのです。会堂で、彼の居場所がそこにしかなかったのです。
しかし、又、「この人」自身、手が萎えていることを心のどこかで後ろめたく思い、隅にいることに慣れきっていたのかもしれません。主イエスが会堂に入ってこられた時も、彼は自分から何か求めたわけでもなく、声をかけたわけでもありませんでした。隅に座っている内に、この人自身の信仰、求める思いも、どこかで萎えてしまっていたのではないでしょうか。

真中に立ちなさい
 主イエスは、この会堂の静寂を破るようにして、この片手の萎えた人に向かって「真ん中に立ちなさい」と語られました。会堂の静寂を破って主イエスが語られた時、二つのことが起こります。一つは、片手の萎えた人、会堂の隅にしか自分の居場所がなかった人を真ん中に引き出されたということです。真ん中に立つというのは、ただ物理的に真ん中につれてこられたことだけを意味するのではありません。隅にしかいることが出来なかったこの片手の萎えた人こそ、安息日に真ん中に立つべきものであることを示されたのです。人々が意識的か、無意識的にかは別として、隅に追いやっていた人、主イエスを訴える口実を得るための手段としてしか見ていなかった人を安息日の会堂の中心に立たせたのです。
もう一つは、この言葉によって、主イエスは、人々の悪意の眼差しの只中に入って来られたということです。手の萎えた人を真ん中に引き出されることによって、人々が仕掛けている罠の中に、入ってこられる。その静寂と悪意の眼差しの中に自ら入って来られるのです。この一言は主イエスが戦う姿勢を明確に示された一言でもあるのです。律法が隅に追いやっていた人を真ん中へと連れ出すと共に、主イエスは人々の心の内にある殺意をかき立て、それに、大胆に立ち向かうのです。

安息日についての問答
 ここで、主イエスは、安息日についての問いを発します。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」。安息日の本質を問う問いです。
 この時、人々は、律法に縛られる中で、本来の安息日のあるべき守り方からかけ離れていたのでした。律法の奴隷となり、人々に悪意の眼差しを向けることに熱心でした。安息日に「命を救うこと」よりもむしろ「命を殺すこと」を考えていたのです。又、ここで、命と訳されている言葉は魂を意味する言葉です。ですから、ここで、単純に命が救われるということや、肉体的に病が癒されるということだけを意味しているのではありません。魂を生かすか殺すかということをも言われているのです。この時、会堂の人々の魂は生きていなかったのです。
ファリサイ派の人々のしていることは、安息日において、魂を殺してしまうことでした。本当に生き生きとした心で、安息日を過ごせなくなってしまっていたのです。そのような中で、本来、安息日の会堂で中心となるべき、癒しの業を必要とする人が隅に追いやられ、悪意を持って他者に注目する眼差しが支配していたのです。
 考えてみれば、この質問に対する答えは、分かりきっています。ファリサイ派の人々にしても、安息日に、善を行うこと、命を救うことの方が大切だということくらい分かっていたでしょう。そして、病に苦しむ人をいやすということが悪ではなく、善であるということもわきまえていたはずです。しかし、答えないのです。形式的に律法を守ることで救いを見出そうとしていたために、たとえ善いことであっても、それを善であるとは言えないのです。それを言うことは自らを否定することになるからです。そして、自らを否定できない思いは、主イエスを否定する思いを生んでいくのです。

手を伸ばしなさい
ファリサイ派の人々は、この問いに答えることをしませんでした。自分を正当化して、自分の非を認めることをしようとしない時に人は黙っているのかもしれません。親に厳しく怒られ、問いただされて、何も答えずに口を結んでいる子供のように黙ったまま時間が過ぎるのを待っている。彼らはそもそも、安息日がいかなる日であるかを論ずるつもりなどないのです。ただ主イエスを訴える口実を得ることのみがこの人々の目的なのです。
黙っている人々を、主イエスは怒って見回したとあります。主イエスは、何も答えないで、ただ伺っている人々を、怒りをもってご覧になるのです。ただ怒っていただけではありません。怒ると同時に、頑なな心を悲しまれたとあります。私たちが頑なになる時に、私たちは黙ります。何も語ろうとしなくなるのです。しかし、主イエスは、そのような人々の姿を悲しまれたのです。安息日において、心が生きていないで死んでしまっている人々、その中で、神よりも人々に視線を向け、主イエスを陥れようとする人々の頑なな態度を悲しまれたのです。主イエスは人々の心の頑なさを悲しみながら怒って見回されたのです。これは人間の罪にむけられた主イエスの怒りと憐れみの眼差しであると言っていいでしょう。そして、悲しまれつつ、この手の萎えた人に「手を伸ばしなさい」といわれたのです。この人は言われた通りに手を伸ばすと、手は元通りになったのです。
この出来事の後、ファリサイ派の人々は、会堂を出て行き、ヘロデ派の人々と、どのように主イエスを殺そうかと相談し始めたのです。今まで、主イエスとファリサイ派の人々の対立は徐々に深まってきました。しかし、本日の出来事によって、主イエスを殺そうという思いが決定的になるのです。ここでファリサイ派の人々が、ヘロデ派の人々と手を結んだことが記されています。ヘロデ派というのは、時の支配者ヘロデ・アンティパスの親派のことで、政治的指導者とも言うべき人々でした。それに対して、ファリサイ派というのは宗教的指導者達です。ファリサイ派の人々はローマ帝国の支配におもねるヘロデ派を憎み、普段は犬猿の仲でしたが、主イエスを殺すということのために手を結んだのです。主イエスを殺そうとする思いが、いかに強かったかを示しています。

安息日の出来事
安息日の会堂に主イエスが来られた時、救いを必要としていた、手の萎えたものが真ん中に立たされ、癒されました。又同時に、律法によって人々や主イエスに悪意の眼差しを向けていたものは、殺意と共に会堂を去っていきました。これらの姿は共に、私達の姿でもあります。一方で、私達は「萎えた心」を持っています。救いを求めていながら、律法によって主イエスに近づけずに隅にいるということがあります。一方で、私達は、「頑なな心」を持っています。自分の正しさを主張して、他人に悪意の眼差しを向ける姿です。これらは二つとも、私達の内にも起こりうる人間の現実です。主イエスは安息日に、このような私たちの現実の中に来られるのです。そして、主イエスは救いを求めていながら、どこかで麻痺してしまい、隅にいることしか出来ないものを真ん中に立たせ癒されるのです。又、主イエスは、私達の悪意の眼差しの中に入って来て来られるのです。私達の頑なさを憐れまれた主イエスは、人々の頑なさと戦い続けられるのです。この時、会堂を去っていった人々が抱いた殺意は後に実行に移され、主イエスを十字架につけるということが起こります。しかし、主イエスはその十字架を身に受けられるのです。そのことによって、罪に死んでいる私達を生かそうとされるのです。自らが、その罪を引き受ける形で、私たちの救いをなしておられる。そのことによって、頑ななまでの人間の罪を贖われるのです。この十字架があるからこそ、私達は、萎えた心、頑なな心の根本にある罪が赦されるのです。

おわりに
私達は、日曜日に礼拝堂に集まって共に神様を礼拝しています。安息日とは、本来、私達の命が救われる日、魂が生きるはずの日です。しかし、私達は、時に、自らの内に、「頑なな心」や「萎えた心」があることを見出します。どちらも人間の罪が支配する時に、私達の内に生まれるものです。それらは、私達の魂を殺し、真の神を見上げることをさせなくなります。しかし、主イエスは、私たちの救いを必要とする、萎えた心を癒されるのです。また、私たちの、主イエスに対する殺意を生む私達の心の頑なさを憐れみ、その罪をも贖っていてくださるのです。主に近づけない信仰の麻痺を癒すと共に、主イエスを否定しようとする罪の思いに、主イエスが立ち向かってくださり、その頑なさと戦ってくださっているのです。その主イエスによって、私たちの萎えた心、頑なな心が癒されるのです。そこに真の安息日の癒しがあり、私達の魂は生かされ、神様を心から讃える歩みをなすものとされるのです。

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