夕礼拝

病人のための医者、罪人のためのイエスさま

「病人のための医者、罪人のためのイエスさま」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:イザヤ書 第53章11-12節
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第2章13-17節
・ 讃美歌:206、313

<罪人とは誰のこと?>
 主イエスは言われました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなくて病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」  
 主イエスは、「罪人を招くために、この世に来た」と言われます。
 ここに集っているわたしたちも、主イエスに招かれたから、教会に来ています。ということは、礼拝に集っているわたしたちも皆、罪人だということです。

 そう言われることは、教会にはじめて来られた方には、とても嫌な印象を与えるようです。わたしは何も罪なんて犯していない。「あなたは罪人だ」と決めつけて言うなんて、失礼だ。確かにその通りです。罪を犯したり、法律を破ったりしていない。でもそれは、この教会に通っている人たちも、基本的にそうであるはずです。それでも皆、罪人だというのです。

 それは、聖書の言う「罪」が、わたしたちが普段使っている意味の、社会や人間に対して悪いことをしたり、人を傷つけたり、どうこうする、ということを指しているのではないからです。
 聖書では、神の前でわたしたちがどう生きているか、ということが問われています。  
 聖書では、神の方を見ないで、神に逆らって生きていることを「罪」と言います。旧約聖書のヘブライ語では「的を外す」という意味の言葉です。本来、人は神に向かって生きるべきものなのに、違う方向を向いてしまい、的を外して、神を見ないで自分勝手に生きている。それが神に対する、わたしたちの「罪」なのです。  

 人は、神に創造されたものです。神は、人を愛し、神の呼びかけに応えて、神と共に生きる善いものとしてお造りになりました。しかし人は、神に背き、神から離れ、自分中心に、自分を神のようにして生きてしまっています。自分の願いが叶うことを求め、自分の力で思い通りに生きようとしています。そうして、神を忘れ、人を傷つけ、傷つけられて歩んでいるのです。
 しかし、命を与え、人生を与え、生かして下さっているのは神です。本当は、わたしの人生は、わたしのものではなく神のものです。
 ですから、神は、独り子である主イエスをわたしたちのところに遣わし、「神のもとに立ち帰り、神の方を向いて、神の恵みの中で生きなさい」ということを、伝えようとしておられるのです。

 主イエスは「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」と、人々に告げておられます。神が罪を赦して下さり、人が神と共に生きることができるようにして下さる。その救いの約束が実現して下さるのが、神の御子である主イエスです。
 主イエスは、救い主として来られ、神から離れてしまった罪人であるわたしたち、すべての人間を、神のもとに招いておられるのです。
 罪人でない者は一人もいません。みな、神の前に罪を犯しているのであり、神に罪を赦していただかなければならない者なのです。

<ファリサイ派の批判>  
 さて、今日の聖書の箇所には、「ファリサイ派の律法学者」という人たちが出てきます。先ほど、人はみな罪人だと申しましたが、彼らは、自分たちは罪人ではないと思っていました。
 彼らは、イスラエルの民に神が与えて下さった律法を、厳格に守る人たちです。
 そもそも律法というのは、神がイスラエルの民を選んで、エジプトで奴隷にされていた中から救い出し、ご自分のものとしてくださった、その恵みに応えて、イスラエルが神の民として、救いの恵みに感謝して、神に従って歩んで行くために与えられたものです。
 しかし、イスラエルの民は神に逆らい、国が滅びるということを経験しました。そんな人々は、律法を徹底的に大切にしようとしました。そして、律法をちゃんと守る者は、正しい者であり救われる。律法を守れない者は、罪人であり救われない、と考える者が現れました。
 それは、先ほどお話したように、神に心を向けて生きているか、という神に対する根本的な姿勢を問うのではなく、律法を守っているかどうか、という人の行いが、救われるかどうか、罪人かどうかという、判断基準になっていったということです。

 特に厳格な律法主義の人々が「ファリサイ派」と呼ばれました。「ファリサイ派」とは「分離された者」という意味です。彼らは、律法を守っている正しい自分たちと、律法を守らない罪人を徹底的に分けて、接触を避け、自分たちの清さを保とうとしました。
 しかしそこには、神に心を向ける思いではなくて、人を律法という基準で判断し、批判し、裁く思いが起こっていました。

 このような背景の中で、本日の聖書の2:16にあるように、「ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、『どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか』と言った」のです。彼らの言う「罪人」は、彼らの律法に照らした判断基準による罪人です。

 そして、食事をするという行為は、特に親しみを現す行為であり、食事をする者同士が仲間であることの「しるし」でした。
 だから、正しい者が、罪人たちと食事をすると、その人も罪人の仲間だ、罪人だ、と見做されることになるのです。ファリサイ派の人々にとっては、罪人と一緒に食事をするなど、考えられないことでした。
 また、徴税人というのは、ローマ帝国の支配下で、ローマから委託を受けて、その土地の人々から税金を集める仕事をする、現地採用の人です。徴税人は、人々からしたら同胞だけれども、自分たちを苦しめるローマ帝国の手先のような存在です。またどのような取り立て方をしても良いとされていましたから、徴税人は、人々から多めに徴収して、私腹を肥やすことが出来ました。また、神の民であるユダヤ人だけではなく、他の土地から来た異邦人、異教徒と接触する機会も多いので、彼らは罪人と交わる汚れた者とされ、同胞のユダヤ人の間でも軽蔑されていたのでした。
 ユダヤ人は「徴税人」を遊女や異邦人と同じ、「罪人」のように扱い、のけ者にしていました。ですから、徴税人たちは、裕福だったかも知れませんが、自分たちが人々から罪人と同一視され、軽蔑されているという自覚もあったでしょうし、共同体の中で孤立している人たちだったのです。

 主イエスは、このような徴税人や、罪人と言われる人々と一緒に食事をしておられました。主イエスと弟子たちが、人々から疎外され、分け隔てされている人々と一緒に、彼らの仲間となって、楽しそうに親しい食卓を囲んでいる。それを、ファリサイ派の律法学者が批判したということなのです。
 しかし一体、どうしてこのような食卓が実現することになったのでしょうか。

<徴税人レビの召命>
 この食卓は、徴税人だったレビが、主イエスを自宅に招いて実現したものです。しかしそこにはまず最初に、主イエスの招きがありました。

 主イエスは、2:13にあるように、湖のほとりに出て行かれた時、群衆が皆そばに集まって来たので、教えておられたとあります。この教えは、先ほどお話したように、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という教え、神の方を向いて、神に立ち帰りなさい、神の恵みのご支配の中で生きなさい、という招きです。

 この教えを聞きに、群衆が皆、主イエスのところに集まっていたのに、徴税人のレビは一人、収税所に座ったままだったようです。
 彼はいつもそのように座っていたのでしょう。多くの人が収税所を通り過ぎますが、彼に挨拶もせず、軽蔑と憎しみの視線を投げていきます。
 噂の主イエスが近くに来ておられる。レビは興味があったでしょうか。なかったでしょうか。本当は、レビも、教えを聞きに行きたかったのではないでしょうか。しかし、人々に嫌われている自分が行っても、邪魔者扱いされるでしょうし、居場所がありません。主イエスのありがたい話を聞いたって、自分の現状は変わらない。結局、自分には関係ない。そう思って、自分の唯一の居場所である収税所に、じっと座っていたのではないでしょうか。

 ところが、そこに主イエスが通りかかられました。主イエスは、収税所に座っているレビを見かけて「わたしに従いなさい」と言われました。レビにとっては思いがけない出来事です。
 まず、「見かけて」とあるのは、たまたま目に入った、ということではなく、じっと見つめる、目を留める、という言葉です。そして、「わたしに従いなさい」、わたしの弟子になりなさい、と招かれたのです。主イエスからの眼差しと語りかけによって、主イエスとレビとの関係がはじまります。
 その言葉を受け、レビは立ち上がって、すぐに主イエスに従いました。自分の居場所だと思い込んで動かなかった場所から立ち上がり、それらをすべて捨てました。主イエスのもとが、レビの新しい居場所となったのです。そして、弟子としての新しい生き方、主イエスと共に歩む人生が始まりました。  

 こうして主イエスに従った徴税人アルファイの子レビは、十二使徒の一人になりました。ただ、十二使徒のリストに「レビ」という名前はありません。マルコの3:18には、「アルファイの子ヤコブ」と出てきますし、マタイによる福音書のでは「徴税人のマタイ」と「アルファイの子ヤコブ」という人物がいます。少し名前の混乱がありますが、しかしこのレビが、主イエスの十字架の死を目撃し、復活の主イエスと再び出会い、伝道に遣わされた十二使徒であったことは間違いないようです。

 レビは、正しかったから、立派で優秀だったから主イエスに選ばれたのではありませんでした。むしろ、あくどい商売をし、人々から搾取し、憎まれ、軽蔑されているような者でした。しかし、主イエスが一方的にレビに目をとめ、選ばれたのです。神から離れ、人を愛することも、愛されることもできない、そのような罪の苦しみの中から、立ち上がらせて下さったのです。

 また、レビが主イエスの招きに従ったのは、レビにとって何か条件が良かったからとか、話を聞いて納得したから、ということではありませんでした。呼ばれたのは仕事の途中だったし、教えを聞いて弟子になりたいと願ったわけでもありませんでした。
 でも、主イエスが、自分のところに来て出会って下さり、声を掛け、自分と関わりをもって下さった。その眼差しで捕らえて下さった。これはただのスカウトではありません。神の愛と憐れみに満ちた、神に遣わされた神の御子の、救いへの招きなのです。
 この主イエスに従うということは、主イエスを遣わして下さった神へと心を向けること。神のもとへ立ち帰るということです。主イエスによって、ここにレビの、造り主である神との関係の回復があり、神の恵みに感謝し、神を礼拝して生きる、人間の本来の最も幸いな生き方が与えられていくのです。  

 わたしたちも、主イエスの眼差しに捕らえられ、「わたしに従いなさい」と招いていただいたのです。知り合いであれ、ホームページからであれ、看板を見てであれ、どのような形であっても、主がご自分のもとへ招いて下さったのです。その招きを受けたから、このキリストの体である教会にいるのです。
 この招きに応えること。招いて下さった主イエスを受け入れること。これが唯一、わたしたちに求められていることです。

<自宅に主イエスを招いたレビ>  
 さて、レビが主イエスを喜んで受け入れた様子が、2:15からよく分かります。「イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。」  
 主イエスの招きに応えて弟子となったレビが、今度は自分の家を開放して食事の席を設け、主イエスや弟子たちを招き、また多くの徴税人仲間や、他の罪人までをも家に招いて、受け入れているのです。じっと一人で座っていた時とは大違いです。

 レビは、自分自身が主イエスに目を留められ、呼ばれ、受け入れられたことが、よほど嬉しかったに違いありません。彼は、自分のように孤独な思いをしている他の徴税人たち、また罪人とされている人たちも、自分の家の食卓に招き、主イエスと引き合わせました。そしてそれらの人々も、主イエスに招かれ、受け入れられ、従っていったのです。
 このレビの姿こそ、信仰者の姿ではないかと思います。自分が主イエスから受けた恵み、喜びを、自分だけのものとするのではなく、他の人にも、伝えたくなる。知ってもらいたくなる。もう一人で座り込んでいなくて良いのだ。この方と共に、新しく生きていくことが出来るのだ。主イエスとの出会いが、レビを新しく造り変えます。そうして、罪人を招く主イエスのもとに、レビも多くの人々を招いたのです。主に自分が受け入れていただいたように、レビもまた人々を受け入れたのです。

<罪人の仲間になられる主イエス>  
 こうして、主イエスは、徴税人や罪人たちと共に食卓に着いておられた。彼らの仲間となって、親しく交わっておられたのです。それを、ファリサイ派の律法学者が「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と批判したということなのです。

 主イエスはそれに対して「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」とお答えになりました。
 丈夫な人は医者を必要としていない。病を癒し、苦しみを取り去ってもらうために医者を必要としているは病人です。同じように、主イエスは、正しい人のためではなく、神から離れて、そこから生じる様々な苦しみ、悲しみ、絶望の中にある罪人を、神のもとに立ち帰らせ、神の赦しを得させ、神と共に生きる者とするために来られたのです。

 「正しい人」は一人もいません。このファリサイ派の律法学者たちも、律法を正しく守り、自分は「正しい人」だと思っていますが、そのことを誇りに思い、他の人々を裁いて、人ばかり見ている。神を見上げ、神に心を向けることを忘れています。彼らもまた、神の前で、主イエスの前で「罪人」です。しかし、自分の思いに固執して頑なになっているために、自分たちにこそ主イエスが必要であるということに気付かないのです。

 しかし主イエスは、すべての罪人のために来られました。レビのためにも、ファリサイ派のためにも、わたしたちのためにもです。その罪を赦し、神のもとに立ち帰らせるためです。それは簡単なことではありません。主イエスが来て下さったのは、単に孤独な人、捨てられた人のところに来られて、一緒にいて下さってお優しいことだ、というようなことではありません。
 主イエスが罪人の仲間となられることで、どういうことが起こったでしょうか。このことによって、主イエスを受け入れることができないファリサイ派の律法学者や、ユダヤ人の指導者たちに、主イエスに対する殺意が芽生え、主イエスは十字架に架けられ殺されることになるのです。主イエスがお受けになった十字架刑は、最も重い罪を犯した者が受ける、辱めさと悲惨さを極めた、重い刑罰です。主イエスが罪人のもとに来られ、罪人と食卓を囲まれる、罪人の友となられるということは、罪のない方である神の御子ご自身が、罪人と同じとされるということであり、ご自身が罪人として十字架で殺されることになる、ということと引き換えなのです。
 しかし主イエスは、神の御心のために、人々が神のもとへ立ち帰るために、そのことを受け入れて下さり、御自分を低くされ、罪人と出会い、語りかけ、御自分のもとへと招いて下さるのです。そして、十字架への道を歩んで行かれるのです。

 救い主である主イエスは、ご自分の十字架の死によって、すべての者の罪を担い、神の赦しを得させて下さいます。今日お読みした旧約聖書のイザヤ書53:11~12に預言されている通りです。
 「彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。」
 わたしたちすべての者は、罪人であり、病人が医者を必要とするように、わたしたちには救い主、主イエスが必要です。わたしたちは自力で神のもとに立ち帰ったり、自分で救いを勝ち取ったり、自分で正しい者となって、罪をなかったことにすることは出来ません。主イエスが、わたしたちの自分では負いきれない罪を負って下さり、執り成して下さることによってしか、罪を赦していただくことは出来ないのです。

 今、わたしたちは、主イエスが十字架で死に、葬られた後、神に復活させられたことを知っています。主イエスは死に勝利され、罪の贖いを成し遂げて下さった。わたしたちは、主イエスの十字架と復活によって、神の前で、罪を赦され、正しい者とされた、罪人なのです。
 そして、罪を赦されたわたしたちもまた、レビたちのように、主イエスが招いて下さる恵みの食卓を共に囲むことが許されています。パンと杯の聖餐の食卓です。主イエスの招きに応え、救いを信じた者は、この食卓に招かれて、主イエスとの、また共に救われた者たちとの、親しい交わりを経験するのです。主の恵みへの招きに、立ち上がって従いましょう。

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