主日礼拝

聖霊に助けられて

「聖霊に助けられて」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編第32編1-5節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙第7章7-25節
・ 讃美歌:115、352、475、75

救いは律法からの解放  
 主日礼拝において基本的にはローマの信徒への手紙を読み進めているのですが、前回は6月の第一主日でした。その日に、第7章7~12節を読みました。本日は、同じ7節から25節まで、範囲を広げて読みたいと思います。この箇所を何回かにわたって読んでいくことになります。冒頭の7節に「では、どういうことになるのか。律法は罪であろうか。決してそうではない。」とあります。ここから分かるように、ここには律法について語られています。律法とは、旧約聖書において主なる神がご自分の民イスラエルにお与えになった掟、戒めであり、その中心が「十戒」です。イスラエルの民はこの律法を守ることによって神の民として、神の祝福を受ける者として歩もうとしていたのです。この手紙を書いたパウロも、元々はイスラエルの民の宗教的指導者層であるファリサイ派の一員であり、律法を熱心に守り、それによって神の前に正しい者として歩もうとしてきました。ところが今やそのパウロがこの手紙で、律法を守ることによって救われるのではない、救いとはむしろ律法からの解放である、と語っているのです。例えば3章20節にこうありました。「なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」。また6章14節にも、「なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです」とありました。律法の下からの解放が罪の支配からの解放だと言っているわけです。そして7章に入っても4節に、「ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています」とありました。「キリストの体に結ばれて」とは洗礼を受けて教会に加えられたことを意味しています。洗礼を受けたあなたがたは、律法に対して死んだ者となったと言っているのです。そのことが6節には「しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています」と言い換えられています。洗礼を受けてキリストの救いにあずかった者は、律法から解放され、それによって罪から解放された、と語っているのです。

罪の邪悪さが律法を通して現れる  
 このように語って来たパウロは、7節で自ら問い、そして答えています。「では、どういうことになるのか。律法は罪であろうか。決してそうではない」。律法は、先程も申しましたように、神がお与えになったものです。神がお与えになったものが悪いものであるはずはありません。律法が罪であるわけではないのです。しかし良いものであったはずの律法が、罪の働く機会となってしまっている。そのことが11節にこのように語られています。「罪は掟によって機会を得、わたしを欺き、そして、掟によってわたしを殺してしまったのです」。「掟」とは律法のことです。罪が、良いものである律法を利用して私を捕え、私を殺してしまった、そういう深刻な事態をパウロは見つめているのです。そのことが13節ではこのように語られています。「それでは、善いものがわたしにとって死をもたらすものとなったのだろうか。決してそうではない。実は、罪がその正体を現すために、善いものを通してわたしに死をもたらしたのです。このようにして、罪は限りなく邪悪なものであることが、掟を通して示されたのでした」。律法そのものは善いものであって、それが死をもたらしているのではない、しかし律法によって、罪がその正体を現しているのだ、ということです。その罪の正体とは、善いものを通して死をもたらす、ということです。そこに、罪の正体、その本当の邪悪さがあるのです。罪は、誰が見てもこれは悪だと思うようなことを通して働くのではありません。もしそうであれば、私たちが罪に支配され、罪に陥ることは、少なくとも今よりずっと少なかったでしょう。しかし罪の本当の邪悪さは、明らかに悪いこと、いけないことを通してでなく、むしろ私たちが善いことだと思い、優れている、価値があると思うようなことを通して働き、私たちを支配するというところにあります。私たちがいっしょうけんめい善いことをしているつもりでいる時に、実は罪が私たちをしっかり捕えてほくそ笑んでいる、というのが罪の正体です。『ナルニア国物語』で有名なC・S・ルイスが『悪魔の手紙』という本を書いています。老練な悪魔が、若い駆け出しの悪魔に、人間を罪に誘惑するための指導をしている手紙、つまりパウロが教会に書き送った手紙の悪魔版として書かれているものですが、そこで老練な悪魔が盛んに語っているのは、人間に、自分は善いことをしているのだと思わせておけ、ということです。決して「悪魔に魂を売った」などと思わせてはならない、そんなつもりは少しもないのに、気がついたら魂が悪魔の餌食になっている、それが悪魔にとって理想的な誘惑なのです。パウロがここで「わたし」に起ったこととして語っているのはまさにそういう事態です。神が与えて下さった善いものである律法を通して罪が働き、私に死をもたらしたのです。一生懸命に律法を守り、正しい者として生きていると信じていた、その律法がむしろ罪の働く機会となり、罪と死に捕えられてしまっている、そのことに気づかされた時、パウロはまさに目の前が真っ暗になったのです。24節に「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」という悲痛な叫びが語られていますが、これは決してパウロの謙遜の言葉ではありません。私たちが信仰者どうしの挨拶替りによく語っている、「私は不信仰でダメな人間です」というような呑気な言葉とは違うのです。パウロは本当に、掛け値なしに、どうしてよいか分からない惨めさに打ちのめされたのです。自分の体が、その体をもって営んでいる生活の全体が、罪に支配され、死に定められている、滅びへとつき進んでいる。それはもう人類普遍の真理として語れるようなことではありません。前回の説教でも申しましたが、ここで彼は「私たちは」とか「あなたがたは」という言い方をしておらず、「わたしは」と言っています。そう言わざるを得ないのです。善いものと信じて依り頼んできた律法が、罪の働く機会となっており、罪と死が私を支配している、私はいったいどうしたらよいのか、という悲痛な叫びを彼はあげているのです。

パウロの自己分裂  
 パウロは自分が感じているその「惨めさ」を「自己分裂」として語っています。15節にはこうあります。「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」。19節にも「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」とあります。21節ではそのことが「それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます」と語られています。前回の説教においても申しましたが、私たちはこのパウロの言葉を「しなければならないこと、してはならないことは分かっているが、弱さのゆえに、また誘惑に負けてしまってその通りにできない」というふうに読んでしまうことが多いと思います。簡単に言えば「わかっちゃいるけどやめられない」ということです。しかしパウロが言っているのはそういうことではない、と前回申しました。パウロの嘆きは、律法を守ることが大事なのは分かっているが、弱さのゆえにそれができない、ということではなくて、律法を一生懸命守って生きている、まさにそのことにおいて自分が罪に捕えられてしまっている、ということなのです。「善をなそうと思う自分にいつも悪が付きまとっているという法則」とは「わかっちゃいるけどやめられない」ということではなくて、一生懸命善をなそう、律法に従って生きようと努力している、その自分の努力に悪が付きまとい、その努力を通して罪が支配しているということなのです。

霊と肉  
 そういう自己分裂はどうして生じているのでしょうか。それをパウロは14節でこう語っています。「わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています」。律法は霊的なものだが私は肉の人である、つまり霊と肉の分裂を彼は見つめているのです。この「霊的」の「霊」は、人間の心とか魂のことではありません。神の霊、聖霊のことであり、「霊的」とは、神に属するもの、聖霊の働きの下にあるもの、ということです。ですから律法が霊的であるというのは、それは神が与えて下さったものであり、聖霊の働きの中でこそ本来の意味や力を発揮するものだ、ということです。それに対して私は「肉の人」だと言っています。その「肉」は単に肉体を意味しているのではなくて、霊に敵対する肉、つまり神に敵対する罪の働きを意味しています。ですから「肉の人」であるわたしは「罪に売り渡されています」ということになるのです。それが、パウロだけではない、私たち全ての人間の生まれつきの現実です。そのように肉の人であり、罪に売り渡され、罪の支配下にある人間が、霊的なもの、神からのものである律法を守って生きようとしても、律法の本来の意味や力が発揮されずに、かえってそれが罪の働く機会となってしまう、それが「善をなそうと思う自分にいつも悪が付きまとっているという法則」なのです。つまりパウロが経験している自己分裂をもたらしているのは、霊的なものである律法に生きようとしている自分が、実は聖霊の力の下におらず、罪の力に支配されている「肉の人」である、ということなのです。

信仰によって示された惨めさ  
 そして大事なことは、パウロがこのような自己分裂を自覚し、それゆえに深刻な嘆きを覚えるようになったのは、彼が復活した主イエスと出会い、主イエスを信じる者となったことによってだったということです。主イエスと出会う前のパウロ、キリスト信者となる前のパウロは、自己分裂など全く感じていませんでした。自分が惨めな者であるとはこれっぽっちも思っていなかったのです。彼はユダヤ教ファリサイ派のエリートとしての教育を受け、律法を熱心に守り行うことによってこそ神の民として歩むことができると信じ、そのことにおいて非の打ち所のない生活をしており、そのような自分の生き方に絶対の自信を持っていたのです。それゆえに、律法によるのではなく、十字架につけられて殺されたイエスという者を救い主と信じることによる救いを説く新しい教えが起って来たことに激しい怒りを覚え、そのような連中を根絶するための迫害の先頭に立っていたのです。それは彼にとって、まさに善いことをしている、神に熱心に仕えているということであって、そこには何の分裂もありませんでした。自分は善いこと、正しいことを望み、そしてそれを実行している、善をなそうという意志とそれを行う力が自分には兼ね備わっている、と思っていたのです。そのパウロが、復活した主イエス・キリストと出会い、主イエスから語りかけられたことによって、イエスこそキリスト、救い主であるという事実を示され、イエス・キリストを信じる者へと変えられました。そのことによって彼は、深刻な自己分裂に陥ったのです。勘違いしてはなりません。彼は、深刻な自己分裂の苦しみの中でイエス・キリストと出会って、それによって救われ、自己分裂から抜け出したのではありません。キリストと出会い、キリストを信じる者となったことによって、深刻な自己分裂に陥ったのです。いやそれは、陥ったのではなくて、自分が、また全ての人間が、元々そのような分裂に陥っているのだということに気づかされたのです。つまり自分も他の人々も、「肉の人であり、罪に売り渡されている」という現実に目を開かれたのです。そして、罪に売り渡され支配されている肉の人が、霊的なもの、聖霊の働きの下でこそ意味を持つ律法によって生きようとする時に、霊的なものである律法がかえって罪の働く機会となってしまうことに気づかされたのです。具体的に言えば、律法を熱心に行う者こそ神の民であるという信念に立って、律法を守ることによって救われるのではないと教えているキリスト教会を撲滅することが神に仕えることだと信じてそれを実行してきた、その自分の行為が、神が遣わして下さった救い主イエス・キリストを拒み、その救いを否定し、神の民を滅ぼそうとする、神に対するとんでもない反逆だったことに気づかされたのです。  
 ですから繰り返しになりますが、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」というパウロの悲痛な叫びは、主イエス・キリストと出会う前の、信仰者となる前の姿ではありません。以前のパウロはそんな惨めさは少しも感じていなかったのです。もっと自信に満ちた、誇り高い人生を意気揚々と歩んでいたのです。しかし主イエス・キリストと出会ったことによって彼は、自分が聖霊の力の下にではなく肉の、罪の力の下にいることを知ったのです。自分としては善をなそう、神に従い仕えようと思っていても、結果的にはそうならずにむしろ神に逆らう悪を行ってしまっているという現実に目を開かれたのです。「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」とか「善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます」と彼が言っているのはそういうことなのです。

聖霊によって新しくされる  
 復活して生きておられる主イエス・キリストとの出会いによって彼がこのような現実に目を開かれた、それは、彼に聖霊が働いて下さり、信仰を与えて下さり、彼を新しくして下さったということです。つまり、彼が「肉の人」から「霊の人」とされたということです。パウロは、キリスト教会への迫害の中心人物から、キリストの福音を宣べ伝える大伝道者へと劇的な転換を遂げた人です。彼は回心したのです。しかしそれは、彼がいろいろなことに悩み苦しみ、いろいろな人と出会い、様々な思想を学んで思索を深めていった結果たどりついた結論ではありません。彼は主イエスとの出会いによって突然変えられたのです。自分で考えて心を入れ替えたのではなくて、聖霊の働きによって新しくされたのです。だからこの「かいしん」は「心を改める」ではなくて「心が回る」と書くのです。イエス・キリストを信じる信仰者というのは、自分で心を改めてなるものではなくて、聖霊によって心を180度回転されて、罪に売り渡されている肉の人から、聖霊の働きの下で生きる霊的な人、霊の人へと変えられることなのです。そしてその聖霊の働きを受ける時に私たちは、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」という現実に目を開かれるのです。自分は死に定められ、滅びへとまっしぐらに突き進んでいる者であって、自分の力でその死と滅びから抜け出すことができないことを思い知らされるのです。しかしそこで聖霊が同時に与えて下さることがあります。それが25節の、「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」という告白です。罪によって死に定められた自分の救いの可能性は自分の中には何一つない、まさに絶望するしかない自分だけれども、その自分に、主イエス・キリストの救いが与えられている、私はキリストによる救いに依り頼むことができるし、それを感謝することができる、そのこともまた、聖霊なる神が私たちに示して下さるのです。聖霊の働きを受け、信仰を与えられて新しくされる時に私たちは、自分が罪に支配されており、死と滅びへと向かっている者だという惨めさに目を開かれると同時に、その自分に主イエス・キリストの救いが与えられていることをも示されるのです。

聖霊によって罪の支配を知る  
 この主イエス・キリストによる救いについては次回以降に見つめていきたいと思います。本日注目しておきたいのは、17節に「そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」と言われていることです。20節にも、「もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」とあります。ここでパウロは何を言っているのでしょうか。自分が罪を犯してしまっているのは自分のせいではなくて自分の中に住んでいる罪のせいだ、と言い訳をしているのでしょうか。そうではなくて、これらの言葉は、パウロが、自分の中に聖霊が働いて下さり、自分を新しくして下さったことを意識したことによって初めて語ることができるようになった言葉だと言えると思います。それまでの彼は、誰にも支配されずに自分の思いで生きていると思っていました。自分の思いは神の思いと一致しており、それを自分の力で実行して、正しい者として生きていると思っていたのです。しかし今や、聖霊のご支配の下で新しくされた彼は、自分の思い通りに生きていると思っていたかつての自分が、実は罪に支配されていたことがはっきりと分かったのです。それゆえに彼は、「わたしの中に住んでいる罪の働き」と言うことができたのです。彼の中に今や聖霊が働いて下さっているからこそ、そのことに気づかされたのです。6月19日の教会全体修養会において、「あさが来た」の広岡浅子が、聖霊を受けることこそキリスト信者の生命であることを語っている文書を紹介しました。その中にこのようにありました。「人は聖霊を受くることによって、その心が明るくなり、自己の罪悪と不潔なる心根(しんこん)とは明瞭に看取せらるるに到るであろう」。聖霊を受けると心が明るくなるのだ、と広岡浅子は言っています。それは明るい気持ちになるとか、晴れ晴れするということではなくて、自分の罪や不潔な思いがよりはっきりと見えてくるということです。つまり、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」という嘆きがよりいっそう深まっていくのです。聖霊の働きを受けることによってそういうことが起るのです。しかし私たちの内に働いて下さる聖霊は、それと共に、罪に支配されてしまっている私たちを神が独り子イエス・キリストの十字架と復活によって救って下さり、私たちの罪を赦し、神の子として新しく生かして下さる、その救いの事実をも私たちに示し、私たちをその救いにあずかる者へと新しくして下さるのです。だから私たちは、罪に支配されてしまっている嘆き、悲惨さをなお味わいつつも、主イエス・キリストによる救いに依り頼み、感謝して生きることができます。聖霊なる神が私たちに働いて下さり、私たちを新しくして下さることによって、私たちもパウロと共に、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。」と告白しつつ生きる者となるのです。

聖霊に助けられて  
 これから聖餐にあずかります。神の独り子主イエス・キリストが、私たちの罪を赦し、救って下さるために、十字架にかかって肉を裂き、血を流して死んで下さった、その救いの恵みが、聖餐にあずかることによって、私たちの「死に定められたこの体」に与えられるのです。この聖餐にあずかって生きる私たちは、罪による悲惨さに苦しみつつも、同時に、「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」という喜びと感謝の内に生きることができます。その全ては聖霊のお働きによることです。本年度の私たちの教会の年間主題は「聖霊に助けられて祈り、交わりを深めつつ伝道する教会」です。「聖霊に助けられて」歩むことを私たちは今願い求めています。聖霊の助けが与えられる時、私たちは、自分が罪に支配されていることに気づかされると同時に、十字架の死と復活によってその私たちの罪に勝利し、救いを与えて下さった主イエス・キリストの恵みに目を開かれ、感謝して生きる者とされるのです。

関連記事

TOP