夕礼拝

荒野の主

「荒野の主」 伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書; イザヤ書 第11章1-7節
・ 新約聖書; マルコによる福音書 第1章12-13節
・ 讃美歌 ; 214、531

 
はじめに

私たちは信仰生活の中で、しばしば「荒れ野」を経験します。信仰を持って生きる時に経験する荒れ野です。キリスト者として歩むこと、イエス・キリストに対する信仰をもって歩むということは、単純に、神様の祝福の中で幸せな歩みを送るということを意味しません。洗礼をきっかけに順風満帆な歩みがスタートするというのではないのです。まして、洗礼を受けたことで、自分の望み通りの人生が始まるとか、様々な御利益があったりするとか、自分の思いが叶えられると言ったことではありません。むしろ、そこにあるのは、荒れ野の経験です。信仰をもって生きる時に必ず私たちが経験する荒れ野があるのです。

洗礼の直後の荒れ野

「それから、霊はイエスを荒れ野に送り出した。」
本日の聖書箇所は「それから」と言う言葉で始まっています。この言葉は、マルコによる福音書に多く用いられる表現です。福音書が展開して行く中で、場面が移る時に、この言葉が使われるのです。「それから」という翻訳ではよく伝わりませんが、実際は「そして直ぐに」という意味の言葉です。
今日お読みした箇所の直前には、主イエスが、ヨハネから洗礼を受けられたことが書かれていました。その時、主イエスは、天が裂け霊が鳩のように降ってくるのを見たのです。そして、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が聞こえて来たのです。しかし、洗礼において神の霊が降ったかと思ったら、直ぐに、その霊が今度は「イエスを荒れ野に送り出した」と言うのです。神は、「愛する子」を自分の下において可愛がったと言うのではないのです。
ここで言われているのは単に「かわいい子には旅をさせよ」というようなことではありません。ここで「送り出す」と言われている言葉は、「投げ出す」とか「追い出す」というニュアンスのある言葉です。主イエスが、汚れた霊にとりつかれた男から、汚れた霊を追い出された時の「追い出す」という時と同じ言葉が用いられているのです。霊はイエスを荒れ野に追い出したのです。愛する子を投げ出されるのです。私たちが荒れ野を経験するというだけではありません。まさに、主イエスご自身が荒れ野に追い出された、しかも洗礼を受けて直ぐに投げ出されたのです。

私たちの戸惑い

 この事実の前に私たちは戸惑いを覚えるのではないでしょうか。洗礼において始まる歩み、「神の愛する子」としての歩みが、荒れ野に投げ出されるということから始まるのです。私たちは御言葉を前にして、しばしば、戸惑います。御言葉の語ることが、あまりに自らの思いと異なる時に、躓くのです。この箇所においても、私たちは少なからず困惑します。困惑するだけならばまだ良いでしょう。時に、私たちは、その部分を軽く読み飛ばして、御言葉に耳を塞いでしまうということすら起こります。又、御言葉の語る内容を曲解したり、都合のいいように、自分勝手な解釈を付け加えたりしてしまうことすらあるのです。そして、知らず知らずの内に、御言葉に聞くことから離れてしまうのです。私たちが信仰を与えられて生きる時にしばしば陥ってしまう、私たちの態度です。それは、神様への信仰をも自分の人生のための手段にしてしまう人間の罪と言ってもいいでしょう。信仰を自己実現の手段にしてしまったり、自分の生活を豊かにするための一つの手段としてしまったりするのです。
そのような態度は、私たちが経験する信仰生活での荒れ野と無関係ではないように思います。荒れ野を経験する時、そこには、信仰を自分の都合のいいように利用しようとし、そこでも自分自身が主として振る舞おうとする人間の罪があるのです。

真っ直ぐにする

先ほどの「それから」という冒頭の言葉。「直ぐ」という言葉には二つの意味があります。時間的なことを現すために用いれば、「時間をおかないさま」ということを意味します。「ただちに」という意味です。又、状態を表すために用いれば、「真っ直ぐでまがっていないこと」を意味します。
ここで、私たちは、この福音書の最初の部分を思い出したいと思います。荒れ野で叫ぶ声から始まります。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」という声です。ここで「まっすぐにせよ」という時の「まっすぐ」という言葉は、今日お読みした聖書の冒頭の「それから」という言葉と同じ言葉なのです。マルコによる福音書は、「まっすぐにせよ」という声で始まり、同じ単語である「直ぐに」という言葉によって続いていくのです。
私たちは時に主の道を曲げてしまいます。自分の道を歩く時に、自分の判断で、寄り道をするのと同じように、主の道も自分の判断で曲げてしまう。神様への信仰も自分の尺度でしか判断しないのです。マルコはそのような人間の思いに抗いつつ、主の道を真っ直ぐにしようとしているのです。それがこの福音書の中でたびたび記される「直ぐに」という言葉に表れているようにも思います。そして、真っ直ぐにされた、主の道は他のどこでもなく、荒れ野に向かっているのです。

荒れ野

「荒れ野」とはどのような場所でしょうか。私たちは渇いた砂地や大きな石が転がっている岩場を想像します。それは私たちが人生の旅路の中で経験する様々な不幸であるように思います。確かにそれらは荒れ野と言えるでしょう。しかし、そのような不幸だけがここで言われているのではありません。ここで語られている「荒れ野」というのは、そのような人生の試練の中で陥りやすい、信仰生活における根本的な荒れ野のことが言われているように思います。様々な不幸が襲う時に、しばしば、信仰を与えられているものが陥ることになる荒れ野です。
1章45節では、この「荒れ野」という言葉を「人のいないところ」と訳しました。又、この言葉には、「捨てられた」という意味もあります。人が孤独になる場所と言っても良いかもしれません。自分が、神から、又、人から「捨てられている」と感じる場所が荒れ野であると言うのです。そのような状態にある時、まさに、そのような荒れ野でこそ、私たちはサタンからの誘惑に合うのです。孤独を感じる中で、自分が愛されていることが信じられない。洗礼において語られた「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適うもの」という言葉が信用出来なくなるのです。果たして本当に自分は神から愛されているのかという疑いを持つのです。いやむしろ、捨てられているのではないかと思うのです。そのような中で、神を見失うのです。そして、そのような不安の中で、サタンの力に唆されて、神を試みようとするのです。

サタンの試み

主イエスが荒れ野で誘惑に合われたということについて他の福音書ははるかに詳しく具体的描写をもって記しています。マタイによる福音書では、荒れ野で40日間断食をして、空腹を覚えられている時に誘惑する者が、「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と言うのです。次に神殿の屋根の上に立たせて「神の子なら飛び降りたらどうだ『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ちあたることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある」と御言葉を用いてささやくのです。そして、最後に山の上に連れて行き、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言うのです。
この「誘惑」と言われている言葉は「試す」という意味に取ることが出来る言葉です。荒れ野の誘惑は、私たちの心の内で、神を試そうとする思いを起こさせるのです。心の内で、ささやくことによって、真の神から引き離そうとするのです。そのような時に、私たちは欲望のために、神を利用したり、神の力を試そうとしたり、自らを主としようとします。信仰を与えられて生きるということは、常に、このような試みと隣り合わせなのです。
私たちは日々の信仰生活の中で、このような試みに合います。キリスト者としての歩みの中で様々な困難にぶつかったり、自分の思い通りにことが運ばなかったりすると、「自分は洗礼を受けて、信仰に入ったのに、神は何もして下さらない」との思いに駆られます。「神は何故沈黙しておられるのか」、祈っても無駄だとの思いにとらわれます。そして、挙げ句の果てに、「神はいない」「信じても無駄だ」と神を否定しようとするのです。

荒れ野の主

 しかし、私たちは、この荒れ野が、まさに主イエスによって経験されたものであることを知らされます。主イエスは、洗礼を受けられて直ぐに荒れ野に投げ出されたのです。神は、その愛する一人子を、荒れ野に追いやったのです。そして、洗礼を受けられた者として、主イエスご自身が荒れ野で誘惑に合って下さっているのです。サタンと戦って下さっているのです。
主イエスは荒れ野で何をしておられたのでしょうか。マルコによる福音書の1章35節には、宣教に出かけられる前の主イエスの姿が記されています。「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。」。とあります。ここで「人里離れたところ」と言われているのは、「荒れ野」のことです。そこで、主イエスは祈っておられるのです。私たちは荒れ野で神を信じることが出来なくなるかもしれません。祈ることができなくなるかもしれません。しかし、主イエスは、荒れ野で祈っておられるのです。試みに耐えつつ、私たちのために祈っていて下さるのです。
 主イエスが荒れ野でサタンからの誘惑に合っておられた間、「野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。」とあります。このことはマルコによる福音書にだけ記されています。いくつかの解釈がありますが、その内の一つの解釈に、罪によって、失われた楽園での状態の回復がここに記されているというものがあります。
 イザヤ書11章には、平和の王についての預言が記されています。
 「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで その根からひとつの若枝が育ち
その上に主の霊がとどまる。」と始まります。そして、
「狼は子羊と共に宿り 豹は子山羊と共に伏す。
子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く」とあります。
 ここで言われている、野獣と共にいる状態が、主イエスにおいて実現している。主イエスの到来は、人間が罪によって追われた楽園の状態を回復する新しいアダムの到来であると言うのです。アダムの罪によって壊されたかつての状態が、この主イエスによって回復されるということを記していると言うのです。サタンの試みにあって、神から捨てられたと思うしかない場所、人間の罪が支配する場所において、主イエスが罪を克服して下さっているのです。私たちが神を見失う場所、私たちの罪が明らかになる場所において、その罪に勝利して下さっているのです。

荒れ野を歩まれる生涯

 主イエスは、40日間荒れ野で誘惑に合われました。しかし、その40日間だけ、荒れ野にいたのではありません。40日間の荒れ野でのテスト期間が終わって、そこでの試みに耐えられた後は、二度と荒れ野には行かれなかったというのではないのです。
この後、主イエスの歩みは、まさに、荒れ野を経験し続けられる歩みでした。たびたび、荒れ野で祈られたというだけではありません。まさに荒れ野を経験しているような人々、自分は見捨てられているとしか思えないような人々の下に赴かれました。汚れた霊にとりつかれた人に向かって「黙れ、この人から出て行け」と言われ、重い皮膚病の人に「よろしい、清くなれ」と言われ、中風の人に「起きあがり、床を担いで歩きなさい」と言われました。
そして、何より、主イエスご自身が荒れ野を経験しておられます。繰り返し、ご自身のことを示しても、弟子たちや周りの人々は主イエスのことを理解しなかったのです。そして、主イエスは地上の歩みの最後にゴルゴタの十字架へと赴かれました。その場所で、人々からも、神からも完全に見捨てられたのです。ただお一人で、「わが神、わが神、何故わたしをお見捨てになるのですか」と語られるのです。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適うもの」と言われた、主イエスが、父なる神から見捨てられたのです。ここにこそ、主イエスが赴かれた荒れ野があります。洗礼を受けられた直後に荒れ野に追い出された主イエスの歩みは、十字架という荒れ野に向かっていたのです。神は、そのような場所に愛する子を追い出されたのです。

おわりに

私たちは信仰生活において荒れ野を経験します。様々な困難や孤独の中で、私は神から見捨てられていると呟くのです。時に、サタンの誘惑に合い、神を試したり、神を否定したりしてしまうのです。そのような試みから自由ではないのです。しかし、そのような私たちの経験する荒れ野の中にも主イエスがいて下さるのです。私たちが、荒れ野で神を見失うかもしれません、しかし、神は私たちを見捨てられないのです。そこに、神の愛する一人子でありながら荒れ野に投げ出されている主イエス・キリストおられるからです。

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