「信仰に踏みとどまる」 牧師 藤掛 順一
・ 旧約聖書; 詩編、第37編 1節-22節
・ 新約聖書; 使徒言行録、第14章 19節-28節
・ 讃美歌 ; 296、401、467
第一回伝道旅行の終わり
礼拝において、使徒言行録を読み進めてまいりまして、本日は14章の終わりのところです。ここは、いわゆるパウロの第一回伝道旅行の終わりの部分です。この第一回伝道旅行は、パウロとバルナバが、26節に語られているように、シリアのアンティオキアの教会から、神の恵みにゆだねられて送り出され、先ずキプロス島に渡り、それから小アジア、今日のトルコに渡って、その内陸部のいくつかの町々での伝道がなされ、そして本日のところでシリアのアンティオキアに帰って来る、という道筋を辿りました。聖書の後ろの付録の地図の7「パウロの宣教旅行1」を見ていただきたいのですが、小アジアに渡ってから伝道がなされた町は、順番に、ピシディア州のアンティオキア、イコニオン、リストラ、デルベです。最後のデルベの町から、出発地であるシリアのアンティオキアに帰るには、陸路を東へ向かった方がずっと近いことがわかります。またその道の途中には、パウロの出身地であるキリキア州のタルソスもあります。いろいろな意味で、その道を通った方が好都合だったのではないかと思われるのです。現に、地図の次の8「パウロの宣教旅行2、3」を見ていただくと、この後の第二回伝道旅行では、この道を逆にたどって、シリアのアンティオキアから、キリキア州を通ってデルベへ、という道がとられています。そのような、旅の便利さ、近さにもかかわらず、パウロたち一行は、デルベから全く逆の方向へ、つまり来た道を引き返したのです。そしてこれまでに伝道をした、リストラ、イコニオン、アンティオキアとたどり、ペルゲに出て、その西のアタリアから船に乗ってアンティオキアへと帰って行ったのです。
迫害の中にある教会
彼らがそのような遠回りをして帰ったのは何故でしょうか。それは勿論、彼らが伝道をし、主イエス・キリストを信じる者たちの群れが生まれていたそれぞれの町に立ち寄って、信者たちを励まし、力づけるためです。これらの町々の信仰者たちは、大変困難な状況に置かれていたことが容易に想像されます。パウロらの伝道によって、これらの町々に主イエスを信じる人々の群れ、教会が生まれましたが、同時に、その信仰に反対し、迫害する者たちも多かったのです。ピシディア州のアンティオキアにおいては、13章44節にあったように、ほとんど町中の人々が主の言葉を聞こうとして集まって来たのですが、次の45節には、ユダヤ人たちがそのことを妬み、口汚くののしって反対したとあります。また50節には、彼らが貴婦人たちや町のおもだった人々を煽動してパウロらを迫害させ、追い出したとあります。次のイコニオンでも、信じようとしないユダヤ人たちが異邦人を煽動して、人々に教会の兄弟たちに対して悪意を抱かせたと14章2節にあります。彼らは町の指導者たちと一緒にパウロとバルナバに石を投げつけようとしたので、パウロらは次のリストラへと逃れて行ったのです。リストラでも、パウロが行なった癒しの奇跡を通して力強い伝道がなされましたが、本日の19節には、アンティオキアとイコニオンからやって来たユダヤ人たちがここでも群衆を抱き込み、パウロに石を投げつけ、パウロは気を失い、死んだようになって町の外へ引きずり出されたとあります。そのようにパウロはリストラで瀕死の目にあい、デルベに行ったのです。このようにパウロたちは行く先々で迫害にあっています。その伝道によって主イエスを信じた信仰者たちも、当然そのような迫害にさらされていたに違いありません。主イエスの福音が宣べ伝えられるところでは、それを信じて信仰に生きる人々が生まれると共に、反対し、敵対しする人々による迫害もまた起ってくるのです。
信仰の戦い
このことは、今日においても基本的に同じです。私たちは今、たとえばパウロが石で打たれて殺されてそうになった、というような物理的迫害を受けることはなくなりました。勿論60年前の敗戦以前には、迫害によって命を落とした人もいましたが、戦後はそういうことはなくなっています。しかしそのような物理的迫害のみが迫害ではありません。私たちが語る信仰の言葉、伝道の呼びかけを無視し、耳を貸さない、という消極的な迫害もあります。迫害とは言えないにしても、私たちが今この日本の社会で直面しているのは、圧倒的多数の人々が、主イエスを信じる信仰とは無縁に、全く別の思いや生活習慣の中で生きている、という事実です。そのような中で、主イエスを信じて教会に連なり、主の日の礼拝を守りつつ生きることは、それだけで大変なことであり、常に無言の圧迫を受けることになります。この社会の中で信仰を持って生きるためには、有形無形の圧迫との戦いが必ずあるのです。そして戦いには苦しみがつきまといます。信仰者として生きることには、苦しみが伴っているのです。
このことは、信仰というものを、単なる心の平安の拠り所、あるいは現世的利益を得るための手段と考えている人にとっては、違和感のあることでしょう。信仰は、苦しみから救われるためのものだろう、信じたら何かいいことがあるから信じるのだろう、信仰によって苦しみにあうなんて、いったい何のための信仰か、と思うのです。そういう思いは、ひょっとして私たちの中にもあるかもしれません。信仰のために少しでも苦しいことが起ってくると、「こんなはずではなかった」と、信じることをやめてしまうということが起るのです。けれども、本当の信仰というのは、自分はこのことによってのみ本当に生きることができる、という何ものかを持つことです。このことなしには、自分の人生は真実の支えを失い、生きる意味がなくなってしまう、その何ものかをしっかりと保って生きるためには、それを妨げ、そこから引き離そうとする力と戦わなければならないのです。そのことは、パウロの時代も今も、全く同じです。信仰は、戦って守るべきものです。パウロらは、その戦いの中にある兄弟たちを力づけるために、迫害を受けて追い出された町々へと、危険を顧みずに戻って行ったのです。
心を強くする
これらの町々でパウロはどのように信仰者たちを力づけたのでしょうか。そのことが22~25節に語られています。その一つ一つのことをじっくりと見ていきたいと思います。パウロは先ず、「弟子たちを力づけ」たと22節にあります。この「力づける」は、強くする、堅固にする、という意味の言葉ですが、ここの原文には、弟子たちの「心を」あるいは「魂を」という言葉が入っています。文語訳聖書はここを、「弟子たちの心を堅うし」と訳していました。パウロは、困難や苦しみの中にある信仰者たちを、ただその一つ一つの苦しみや問題の解決のために励ましたと言うよりも、もっと根本的に、彼らの心を、魂を、力づけ、しっかりさせたのです。苦しい信仰の戦いを担えるようなしっかりとした心を得させようとしたのです。どのようにしてそうしたのか。原文の順序では、次に語られているのは、「信仰に踏みとどまるように励ました」ということです。信仰者たちの心を強くする、力づけ、堅固なものとする、そのためには、彼らが信仰に踏みとどまることが必要なのです。
信仰に踏みとどまる
信仰に踏みとどまる、とはどのようなことでしょうか。「踏みとどまる」という言葉から分かるようにそれは、一つの所にしっかりと留まり、そこを離れない、ということです。「信仰に踏みとどまる」のですから、信仰という場所にしっかりと留まっていることが求められています。それは具体的にはどういうことなのでしょうか。私たちはここで、信仰とは何か、という基本的なことを問われています。そして私たちはこのことにおいて実にしばしば勘違いをしているのです。それは、信仰を、自分の心の持ちようと考えてしまう、という勘違いです。信仰を心の持ちようとして捉えるならば、「信仰に踏みとどまる」ことも、ある心の持ちよう、気持ちを保ち続けること、となります。主イエスを信じ、神様を信じるという気持ちをいつまでも保ち続けること、それが信仰に踏みとどまることだということになるのです。私たちは「信仰に踏みとどまる」ということをそのように、自分の信じる気持ちを維持すること、と考えていることが多いのではないでしょうか。けれども、聖書が教えている信仰は、そういうものではありません。つまり、私たちの心の持ちようが信仰だとは、聖書は言っていないのです。聖書において、信仰の土台は、私たちの気持ち、心の持ちようではなくて、神様が私たちのために成し遂げて下さったみ業です。そのみ業とは、神様がその独り子イエス・キリストをこの世に遣わして下さったこと、主イエスが私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さったこと、その主イエスを神様が復活させて、私たちに、主イエスと共に生きる新しい命を約束して下さったことです。主イエス・キリストにおいて成し遂げられた、この神様の私たちへの救いのみ業が、聖書の教える信仰の土台であり、私たちの信仰は、そのみ業が自分のためになされたことを信じ、受け入れることです。つまり信仰において大事なのは、私たちが神様に対してどのような心、気持ちを持っているかではなくて、神様が私たちに対してどのようなみ心を持ち、何をして下さっているか、なのです。神様の私たちへのみ心は、主イエス・キリストの十字架と復活において明らかにされています。そのみ心を受け入れるかどうかが、私たちが信じるか信じないかの分かれ目であり、「信仰に踏みとどまる」とは、主イエス・キリストによる救いのみ業によって示されている神様の恵みのみ心のもとに留まり続けることなのです。つまり私たちが踏み留まるべき所は、自分の心の持ちようとしての信仰ではなくて、主イエスによる神様の救いのみ業です。そしてそこに踏み留まる時にこそ、私たちの人生に、真実の支えが与えられるのです。神様の独り子主イエス・キリストが、この私のために十字架にかかって死んで下さり、復活して下さったことによって、罪の赦しと、新しい命が与えられている、この救いのみ業の上に立つ時にこそ、私たちの心は、本当に堅固な、しっかりとした土台を得ることができるのです。力づけを受けるのです。私たちは、自分でいくら強い心を持とうと決意しても、それで自分の心を強くしたり、堅固なものとすることはできません。信じる気持ちを強く持とう、と思っても、そう思う自分の心そのものが弱ってしまい、力を失ってしまえば、そんな決意はどこかへ消えてなくなってしまうのです。心が力づけられ、強くされるのは、心を本当に支える土台が与えられることによるのです。その土台が、主イエス・キリストによる神様のみ業によって与えられます。その土台の上に立つことが信仰であり、その土台の上にしっかりと踏みとどまることによって、私たちの心は力づけられ、強められるのです。
多くの苦しみを経て
そしてそのように私たちの心がしっかりとした土台の上に支えられているなら、様々な苦しみと戦っていくことができるようになります。そこでは、困難や苦しみも、主イエスによる救いにあずかるために通らなければならない道として受け止められるようになるのです。そのことをパウロは、「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」という言葉によって教えています。この言葉は普通に読めば、「私たちが神の国に入る、つまり神様の救いにあずかるためには、多くの苦しみと戦ってそれに打ち勝っていかなければならないのだから、そのように覚悟してしっかり頑張ろう」、という意味に理解されるでしょう。しかしパウロがここで言おうとしていることは、それとは少し違うのです。この言葉を理解するための鍵は、「多くの苦しみを経なくてはならない」の「~しなくてはならない」という言葉がどこにかかっているのか、ということです。この翻訳では「多くの苦しみを経なくてはならない」となっていますが、原文ではこれはむしろ、「神の国に入る」という言葉にかかっていると見た方がよいのです。そのことを生かして訳していたのは昔の文語訳聖書です。文語訳ではこうなっていました。「我らが多くの艱難を歴て神の国に入るべきことを教ふ」。昔の日本語には「~すべし」というよい言葉がありました。それは「~しなければならない」という意味にもなりますが、「必ず~する」という意味をも持っています。ここなどはその意味が最も生きる所です。ここでパウロが語っているのは、私たちは必ず神の国に入るのだ、そのように神様が道を備えていて下さるのだ、ということです。そしてその道は、必然的に多くの苦しみを経ていく道である、と言っているのです。ということは、この言葉は、多くの苦しみに打ち勝たなければ神の国には入れないぞ、ということではなくて、信仰の歩みにおける様々な苦しみ、戦いは、必ず神の国に至る道なのだから、それを積極的に受け止め、前向きに担い、戦っていこう、と信仰者たちを励ましている言葉なのです。そのように積極的な、前向きな姿勢を持った生き方は、心が本当に堅固な土台の上に置かれている者にのみできることです。主イエス・キリストによる神様の恵みのみ業を、心の、人生の土台として受け入れ、そこに踏みとどまる信仰に生きている者は、この救いのみ業のために主イエスの十字架の苦しみと死が必要であったように、私たちの神の国への歩みにも苦しみが伴うことを前向きに受け止め、そして父なる神様が主イエスを復活させて下さったように、私たちをも、苦しみの中で支え、助けて、必ず神の国に入らせて下さることを確信して歩むことができるのです。
パウロはこのように語って、教会の人々を力づけました。その中心となる教えは、主イエス・キリストによる神様の救いのみ業という土台の上に、しっかりと踏みとどまって歩めということです。それは、自分の心の持ちようや、気持ちの状態、その強さや弱さを信仰と勘違いして右往左往するな、ということでもあります。信仰の戦いの苦しみに直面している私たちが本当に聞かなければならないのは、こういうみ言葉なのです。
長老たちを立てる
パウロが諸教会のためにしたのは、このような教えを語ることのみではありません。彼は23節にあるように、教会ごとに長老たちを任命したのです。これは、教会における信仰の指導体制を整えたということです。パウロは、これまで見てきたように、教会の兄弟たち一人一人の信仰が力づけられるために心を配り、語ってきました。しかしパウロが一つの町にいつまでも留まっていることはできません。彼が去った後、教会の人々がしっかりと信仰に踏みとどまり続けるために、教会における信仰の指導体制が整えられなければならないのです。そのために立てられたのが長老たちです。この長老たちを、今日の私たちの教会における、信徒の中から選ばれて牧師と共に教会の指導に当たる長老と直ちに重ねてしまうことはできません。ここでの長老たちとはむしろ、今日の牧師、長老、執事の働きの全てを含めて担っている、教会の指導者たちです。この長老たちの中から、後に、牧師、長老、執事という務めがそれぞれ独立して担われるようになっていったと考えるべきでしょう。そのような留保はつけなければなりませんが、しかしこの長老たちに託された使命を、今日の私たちの教会において負っているのは、牧師もその一員である長老会である、ということは確かです。彼らに託された使命とは何でしょうか。それは、教会の人々一人一人が、主イエス・キリストにおける神様の恵みのみ業に踏みとどまる信仰をしっかりと持ち、そこから迷い出てしまわないで、苦しみをも神の国への道としてしっかりと受け止めていくように守り導くことです。そういう重大な務めが長老会に託されているのです。先週の定期教会総会において私たちは長老の選挙を行い、新しい年度、長老として群れを守り導く人々を選出しました。長老として立てられた者は深い畏れをもってこの使命を覚え、自らの信仰を常に吟味し、み言葉によって常に新しくされることによって、教会が主イエス・キリストを土台とする信仰に踏みとどまるための務めを果たしていけるように祈り求めなければなりません。また、長老を選出した教会員一同も、長老たちに与えられているこの重大な使命を覚えてそのために祈り、長老会の指導に謙虚に従っていくことが必要です。それぞれが、自分の思うところに従って勝手な方向に進んでいくのでは、信仰に踏みとどまり、力づけられることは起こりません。長老会を中心として、信仰の指導体制が整えられることによって、様々な困難、圧迫、迫害の中で、主イエス・キリストの体である教会が保たれ、そこに連なる者たちが神様の恵みのみ業のもとに踏みとどまり、本当の力づけを受けて歩むことができるのです。
主に任せる
パウロはこのように、教会の指導体制を整えることにも熱心に務めました。しかしそれらのことのしめくくりとして、彼が諸教会のためにした最後のことは何だったでしょうか。それは、23節の終わりにある、「彼らをその信ずる主に任せた」ということです。パウロは、町を去るに当たって、残していく教会を主に任せたのです。それぞれの群れに立てた長老たちに「この教会をおまえたちに任せるからしっかりやれ」と言ったのではありませんでした。教会は、その指導を託されている長老たちも含めて、全体が、主に委ねられるべきものです。私たちはこのことを深く自覚しておきたいのです。主イエス・キリストを信じて洗礼を受け、クリスチャンとなるとは、主なる神様に、その独り子主イエス・キリストに、委ねられた群れの一人になる、ということです。洗礼を受けることにおいて私たちは、私たちのために苦しみを受け、十字架の死によって罪を贖い、復活によって永遠の生命の先駈けとなって下さった主イエス・キリストに自分の人生を委ねるのです。そして洗礼を受けた者は、これから行われる聖餐にあずかりつつ歩みます。聖餐において私たちは、ご自身の肉を裂き、血を流して私たちの贖いとなって下さった主イエス・キリストと一つになり、主イエスに身を委ねて生きる者の恵みを深く味わいつつ歩むのです。
神様の独り子イエス・キリストと、独り子主イエスを遣わして下さった父なる神様こそ、私たちが自分の人生を委ね、お任せする甲斐のある方です。本日共に読まれた旧約聖書の個所、詩編第37編は、主に信頼し、自らを委ねる人の幸いを歌っています。その3~6節を読みます。「主に信頼し、善を行え。この地に住み着き、信仰を糧とせよ。主に自らをゆだねよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。あなたの道を主にまかせよ。信頼せよ、主は計らいあなたの正しさを光のように、あなたのための裁きを真昼の光のように輝かせてくださる」。主に信頼し、自らをゆだね、自分の道を主に任せる、その時にこそ、私たちの歩みは、人生は、また教会の歩みは、本当にしっかりとした土台の上に置かれ、いろいろな苦しみの中でも信仰に踏みとどまって、神の国に入るまで、歩み続けていくことができるのです。