主日礼拝

苦難、忍耐、練達、希望

「苦難、忍耐、練達、希望」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 詩編 第119編105-112節 
・ 新約聖書: ローマの信徒への手紙 第5章1-11節 
・ 讃美歌:19、386、436

四つの言葉の連鎖
 「苦難、忍耐、練達、希望」という題でお話をいたします。厳めしい漢字ばかりが八つも並んでいて、見るからに難しそうな、新しい方々を招くには相応しくない題かもしれません。しかし先ほどの聖書朗読を聞いて下さってお気づきのように、これは本日ご一緒に読む聖書の箇所、ローマの信徒への手紙第5章に出てくる言葉です。その3節から4節にかけて、こう語られています。「わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」。ここから分かるように、この四つの言葉は、別々のこととして並列されているのではありません。苦難は忍耐を生じさせ、その忍耐から練達が生まれ、そしてその練達は希望を生むという連鎖、つながりを語っているのです。あるいは、苦難を忍耐することの中で得られる練達によって希望が与えられる、という一つの事実を語っているとも言えるでしょう。今日は皆さんとご一緒に、この四つの言葉のつながりについて、聖書から聞きたいと思います。

無責任な言葉?
 この手紙を書いたのはパウロという人ですが、彼は今読みましたように3節で「わたしたちは知っているのです」と言っています。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを私たちは知っている、このつながりは私たちにとって周知のこと、誰もが知っている事実なのだ、と言っているのです。皆さんはこれを読んでどう思われるでしょうか。苦難が忍耐を、忍耐が練達を、練達が希望を生むという連鎖を私たちは知っている、と言えるでしょうか。確かに、私たちが知っている諺にも、そのような意味のものがあります。「艱難汝を玉にす」などというのはそれに当るでしょう。あるいは、少し意味は違いますが、「若い時の苦労は金で買ってでもしろ」という言い方があります。これらの言葉は、苦しみによって人は鍛えられ、成長することができるのだから、苦しみを避けるのでなく、それを試練として積極的に受け止めるようにと勧めています。パウロがここで語っているのは、こういう諺と同じことなのでしょうか。もしそうなら、それははっきり言って無責任な話だと言わなければならないでしょう。苦しみによって人が鍛えられ、成長するというのは、確かにそういうこともあるでしょうが、必ずそうなると保証できるようなことではありません。むしろ、余りに大きな苦しみによって人が押しつぶされてしまう、だめになってしまうということも私たちの間でしばしば見られるのです。この特別伝道礼拝へのお招きの文章に、「でも私たちは、苦難が憔悴を、憔悴が無気力を、無気力が絶望を生むようなことばかりを体験しているのではないでしょうか」と書きました。苦難が必ず忍耐を生むわけではなく、むしろ憔悴を生んでしまう、そしてそこに無気力が生じ、それが絶望へとつながっていくというマイナスの連鎖もあるのです。いや私たちは今日むしろそういう負の連鎖ばかりを、自分自身においても体験し、また社会に起る様々な出来事においても見ているのではないでしょうか。ですから、今深刻な苦しみの中にいる人に、「艱難汝を玉にす、と言うではないか。人は苦しみによってこそ成長できるのだから、試練として受け止めなさい」、などと言うのはまことに無責任な話だし、相手を本当に慰め力づける言葉にはなりません。「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」という聖書の言葉も、そういう諺のような一般論として用いられたならば、全くもって無責任な言葉になってしまうのです。

「わたしたち」とは
 パウロはしかしこれを一般論として語っているのではありません。「わたしたちは知っているのです」の「わたしたち」は、「世間の誰でも」という意味ではありません。この「わたしたち」は、明確な限定を持った「わたしたち」です。それがどのような「わたしたち」なのかを知ることが、本日の箇所を理解する上で根本的に重要です。この「わたしたち」は、1節に、「わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており」とある「わたしたち」です。信仰によって義とされ、主イエス・キリストによって神との間に平和を得ている「わたしたち」。もっと単純に言えば、イエス・キリストを信じる信仰者である「わたしたち」です。イエス・キリストを信じる信仰者である私たちは、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むことを知っているのだ、そのような希望を抱いて生きることができるのだ、と言っているのです。つまりこの言葉は、諺のような一般論ではなくて、イエス・キリストを信じる信仰者に与えられる恵み、喜び、希望を語っているのです。
 イエス・キリストを信じる信仰者は、苦難、憔悴、無気力、絶望というマイナスの連鎖ではなく、苦難、忍耐、練達、希望という喜ばしい連鎖に生きることができる、とパウロは語っているわけですが、しかしそれは本当でしょうか。どうしてそのようなことが言えるのでしょうか。その理由が、本日の箇所に語られているのです。

不信心な者のために死んでくださったキリスト
 先ほど読みましたように1節には「わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており」とあります。イエス・キリストを信じる者は、信仰によって義とされ、神との間に平和を得ているのです。でもそう言われても、特に初めて聖書を読むという方にとっては何のことやらさっぱり分からない、外国語を聞いているような感じだと思います。「信仰によって義とされ、イエス・キリストによって神との間に平和を得ている」とは具体的にどのようなことなのか、もっと分かるように説明して欲しい、と思うでしょう。実はこれは、今日初めて礼拝に来られた方や最近教会に通い始めたという方々だけではなくて、長年教会に通っているクリスチャンも思っていることです。「信仰によって義とされ、イエス・キリストによって神との間に平和を得ている」ということを、もっと分かるように、イメージをつかめるように話して欲しい、と誰もが思っているのです。この手紙を書いたパウロも、そういう求めを強く感じていました。それで、そのような求めに応えて、イエス・キリストによって与えられた救いをまことに具体的に、わかりやすくここで語ってくれています。それが本日の箇所の6節以下です。6節にこのように語られています。「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった」。イエス・キリストが私たちのためにして下さった救いのみ業を、これほど単純に、具体的に、分かりやすく語っている言葉は他にはないのではないでしょうか。イエス・キリストは私たちのために死んで下さったのです。キリストの十字架の死は私たちのための死であり、そこにこそ私たちの救いがあるのです。しかもキリストが死んで下さったのは、「私たちがまだ弱かったころ、不信心な者のために」でした。「弱かった」も「不信心な」もどちらも私たちのことを言い表しています。不信心な者というのは、神様に創られ生かされているのにその神様を信じようとせず、従おうとせず、自分の思いを第一として歩み、神様に背き逆らってばかりいる、そういう恩知らずの罪人のことです。そういう罪人である私たちの救いのために、キリストは死んで下さったのです。そのことが「私たちがまだ弱かったころ」と言われているのは、罪の力に支配され、その奴隷とされてしまっているので神様に従う力がない、そういう弱い者だった私たちのために、ということと、その私たちが今やイエス・キリストによって罪の力の支配から解放され、神様を信じて生きることができる者とされている、ということを言い表すためだと言えるでしょう。いずれにしても、主イエス・キリストは、神様に背き逆らっている恩知らずな罪人である私たちの救いのために、十字架にかかって死んで下さったのです。

驚くべき愛
 それがどんなに驚くべきことか、を語っているのが7、8節です。7節に「正しい人のために死ぬ者はほとんどいません」とあります。人が誰かのために死ぬということはどのような場合に起るのか。「正しい人のために」、つまりあの人は正しい人だ、あの人の言っていることは正しい、だからあの人のために命を投げ出してもいい、という人はまあほとんどいないのです。それに対して、「善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません」、とあります。あの人は正しいからという理由で命を捧げる人はいなくても、「あの人は善い人だ」と思う人のために命を惜しまないことならあるかもしれない。「善い」というのは、「正しい」という客観的論理的な判断の問題ではなくて、その人と自分との関係の問題です。あの人は自分に親切にしてくれた、優しい、心の温かい人だ、自分のことを本当に愛してくれている、親身になってくれている、そういう「善い人」のためなら、命を捨てても惜しくない、と思うことが人間には時としてあるのです。「いるかもしれません」という言葉は、先ほどの「ほとんどいません」よりもずっと肯定的な、そういうこともあり得る、という言い方です。そのようにしてこの7節は、人が誰かのために自分の命を投げ出して死ぬことについて、そういうことはそもそもめったにないことであり、「あの人は正しい人だ」という理由ではまず起らない、あるとすれば「あの人は善い人だ、自分に善いことをしてくれた」と思うことによってなのだ、という人間心理への洞察を語っています。しかしそれは8節の驚きを際立たせるための備えです。「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」。「わたしたちがまだ弱かったころ」という6節の言葉が、ここでは「わたしたちがまだ罪人であったとき」と言い直されています。イエス・キリストは恩知らずの罪人である私たちのために死んで下さったのです。そんなことは、7節に語られていた、人が誰かのために自分の命を投げ出して死ぬことが起り得る場合に全くあてはまりません。そんなことはあり得ない、考えられないことなのです。その考えられないことを、イエス・キリストは私たちのためにして下さったのです。キリストが私たちのために十字架にかかって死んで下さったというのは、常識では考えられない、驚くべき出来事なのです。そしてこの驚くべき出来事によって、神様は私たちに対する愛を示して下さいました。神様が私たち人間を一人一人皆愛して下さっている、というのが聖書の教えですが、その愛は、ご自分の独り子である主イエスを、十字架につけられるためにこの世に遣わして下さるほどに驚くべき、また具体的な、徹底的な愛なのです。

義とされ、神との間に平和を得ている
 9節はこの、キリストが私たちのために死んで下さったという出来事を受けて語られています。「それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから」とあります。ここに、1節にあった「義とされる」という言葉が再び出て来ます。「義とされる」というのは、今見てきた、キリストが私たちのために十字架にかかって死んで下さったことによって与えられる恵みです。不信心な、恩知らずの罪人である私たちのために、その私たちの罪を全てご自分の身に背負って、キリストは十字架にかかって血を流して死んで下さいました。このキリストのお陰で、私たちの罪は赦され、帳消しにされたのです。それが「義とされた」ということです。
 義とされたことによって、神様と私たちの関係が全く新しくなりました。その新しい関係を語っているのが、1節にあった「神との間に平和を得ており」ということです。罪を赦され、義とされたことによって、私たちと神様との関係は平和なものとなったのです。ということは、それまでは平和でなかったということです。生まれつきの私たちと神様との関係は平和ではありません。私たちは、命を与え、人生を導いて下さっている神様を神様として認めようとせず、信じようとせず、敬いも従いもしない恩知らずの罪に陥っています。それは私たちが、神様と敵対関係にあるということです。別に神様と喧嘩をしているつもりはない、と思うかもしれません。しかし、神様を信じることは自由を失うことだ、信仰者になると、やりたいこともできない不自由な、窮屈な生活を強いられるようになる、と思っているとしたら、その人にとって神様は自分の自由を奪おうとする敵です。生まれつきの私たちは皆そのように、神様に敵対しているのです。そして神様を敵だと思っている私たちは、苦しみや悲しみ、特に理由の分からないいわゆる不条理に直面する時、神様が気まぐれな怒りをもって自分の人生を翻弄しているように感じ、ますます神様を憎み、敵対するようになっていきます。神様に対する敵意は、和らいでいくどころか、増幅されていくのです。そのように神様に敵対し、憎んでさえいる私たちのために、神の子である主イエス・キリストが十字架にかかって死んで下さったのです。「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより」神様は私たちへの愛を示し、私たちの罪を赦し、その罪によって生じている敵対関係を乗り越えて、和解を与え、私たちとの間に平和なよい関係を結ぼうとして下さったのです。イエス・キリストの十字架の死において、神様はそのような愛のみ手を私たちに差し出して下さいました。私たちは、イエス・キリストを神の子、救い主と信じることによって、この差し出された神様の愛のみ手を、私たちの方からも握り返します。そのようにして、神様と私たちとの間に平和、和解が実現するのです。1節の、「信仰によって義とされたのだから」というのはそういうことです。イエス・キリストの十字架の死によって神様が実現して下さった救いは、私たちが信じることによって私たちの現実となるのです。「わたしたちは知っているのです」とパウロが語っている「わたしたち」とは、このように、イエス・キリストを信じる信仰によって罪を赦され、神との間に平和な関係を得ている「わたしたち」です。その「わたしたち」においては、苦難は忍耐へと、忍耐は練達へと、練達は希望へとつながっていく、と言われているのです。

希望、苦難、忍耐、練達、そして希望
 そこで今度はこの喜ばしい連鎖についてさらに見ていきたいと思います。この四つの言葉の連鎖は、3節の冒頭の「そればかりでなく、苦難をも誇りとします」ということの理由、根拠として語られています。苦難が忍耐、練達、そして希望へとつながっていくことを知っているから、苦難をも誇りとしているのだ、と言っているのです。そしてこの「苦難をも誇りとします」、の前には、「そればかりでなく」という言葉があります。その前に語られていることと並べて、「それだけでなく、苦難をも誇りとする」と言っているのです。その前に語られているのは、「神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」ということです。希望を誇りとしている、と語り、いや希望だけでなく苦難をも誇りとしている、なぜなら、苦難は忍耐、練達、希望へとつながっていくことを知っているからだ、というのがここの文章の流れです。つまりここを読む時に、苦難、忍耐、練達、希望という連鎖だけを見ていてはならないのであって、その前提には、「神の栄光にあずかる希望を誇りにしている」ということがあるのです。苦難が忍耐を、忍耐が練達を、練達が希望を生むという喜ばしい連鎖が成り立つ土台には、この希望があります。希望があるから、苦難の中でも忍耐することができるのです。そしてその忍耐によって信仰が強められ、鍛えられ、練達が与えられるのです。そしてその鍛えられた信仰によって、希望がますますはっきりと、しっかりと見つめられていくのです。つまりこの喜ばしい連鎖は、実は、希望、苦難、忍耐、練達、そして希望に戻ってくるという、円を描くような連鎖なのです。そしてそのひとまわりを経ることによって、希望がますます深く、強くなっていくのです。5節には「希望はわたしたちを欺くことがありません」とあります。ここは以前の口語訳聖書では「希望は失望に終わることはない」と訳されていました。つまり、どうなるか分からない単なる願望ではない、決して失望に終わることのない確固たる希望が与えられていくのです。その確固たる希望へとつながる連鎖の最初にあるのは「苦難」ではありません。「神の栄光にあずかる希望」です。この希望が与えられているから、そこでどんな苦難が襲ってきても、その苦難が憔悴を、憔悴が無気力を、無気力が絶望を生んでしまうような歩みに陥ることは決してないのです。

キリストのお陰で、信仰によって
 しかしこの「神の栄光にあずかる希望」は、私たちの心の中にもともとあるものではありません。自分の心の中をどんなに探しまわっても、この希望を見出すことはできないのです。それはこの手紙を書いているパウロも同じです。彼は2節でこう言っています。「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」。神の栄光にあずかる希望を抱いて生きるという今のこの恵みに、パウロも、キリストのお陰で、信仰によって導き入れられたのです。「キリストのお陰で」、それは、神様に敵対し、背き逆らっている罪人である自分のために、神様の独り子であられるイエス・キリストが死んで下さったことによって、ということです。そのことによって、神様の驚くべき、また具体的な、徹底的な愛が、自分に向けられていることを示されたのです。その愛に答えて、神様が差し出して下さった手を、こちらからも手を伸ばして握り返した、それが「信仰によって」ということです。私たちは、キリストのお陰で、信仰によって、恵みの中に導き入れられ、それによって「神の栄光にあずかる希望」を与えられるのです。

神の栄光にあずかる希望の中で
 神の栄光にあずかる希望、それは、神様の栄光が、その恵みに満ちたご支配が、あらわになり、完成することを信じて待つことです。希望は現在の現実ではありません。神様の栄光、恵みのご支配は、今はまだ隠されています。それゆえに私たちのこの地上の歩みには、苦難があり、罪の力がなお存続し、死の力こそが私たちを最終的に支配するものであるように感じられるのです。しかし神様は、既に独り子イエス・キリストをこの世に遣わして下さり、その十字架の死によって私たちの罪を赦し、和解を与えて下さいました。そして主イエスを復活させることによって、死の力に勝利して、私たちにも復活と永遠の命を与えることを約束して下さいました。主イエス・キリストの十字架と復活を信じる信仰によって、私たちは、主イエスの父である神様の栄光が、その恵みに満ちたご支配が、いつか必ずあらわになり、完成することを信じて待つことができるのです。それが「神の栄光にあずかる希望」です。この希望の中でこそ私たちは、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むという喜ばしい連鎖を体験していくことができるのです。

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