夕礼拝

自分の十字架を背負って

「自分の十字架を背負って」 伝道師 矢澤 励太

・ 旧約聖書; 詩編、第49篇 1節-21節
・ 新約聖書; ルカによる福音書、第9章 21節-27節
・ 讃美歌 ; 300、270

 
1 「神からのメシアです!」、今日の箇所はこのペトロの信仰の告白を受けて始まっています。主イエスがおひとりで祈っておられた時、そのみ側に、弟子たちが共にいることを、主イエスは受け入れてくださっていました。主イエスのひとりで過ごす時間、プライベートな時にも、弟子たちはそのそばにいることを許されたのです。主イエスがひとりで祈っておられる姿、それを間近で見ることを許された弟子たちは、何事かただならぬものを感じ取ったに違いありません。弟子たちは主イエスの祈りの中に、父なる神と主イエスとの間のこの上ない近さ、交わりの深さを感じたのです。罪深い女が赦され、百人隊長の僕が生き返る出来事を目の当たりにし、また自分たちを通して五千人に食べ物が分け与えられる出来事を体験した弟子たちは、このお方が、神から遣わされたお方、救い主であることを、心のうちに示されたのです。
 「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」、主イエスから問われる中で、弟子たちにこの告白が与えられていったのです。それは主イエスの問いに促されて生まれた信仰の告白なのです。

2 弟子を代表してペトロが言い表した告白、「神からのメシアです」これは正しい告白です。真理を言い表しています。その通りです。ところが、その正しいことを言ったのに、主イエスは弟子たちを戒められるのです。この「戒める」という言葉は、他の箇所では「叱る」とも訳されている言葉です。正しいことを言ったのに叱られ、このことを誰にも話さないようにと、命じられる。とても不思議なことです。なぜ正しいに違いないことを言ったのに、そのことを言いふらさないように、と命じられねばならないのか。弟子たちのけげんな表情が目に浮かぶようです。
 ルカによる福音書のこの箇所は、よくこの福音書全体の中で分水嶺のような役割を果たしている、と言われます。「分水嶺」というのは、そこに連なる山々の頂上を始まりとして、こちら側とあちら側との二箇所に水が分かれて流れていく、そういう分かれ目となっている山の峰のことです。そうするとこちら側とあちら側では、水が違ったように流れていることになり、それだけ景色も違って見えるということになります。いったんこの山を越えて向こう側に行ってみないと、向こう側の景色、水の流れの様子は見えてきません。向こう側が見えない限り、こちら側に留まっているうちは、ここから見える景色でもって、事柄を判断しなければなりません。この山は登れそうな山かどうか、頂上はどんな様子か、きれいな草木の生い茂った景色が広がっているか、そういったことをこちらの山の麓から見える範囲で検討をつけ、予想をして山の登り方を考えなくてはなりません。弟子たちがここで主イエスを「神からのメシアです」と告白していることは、そんなようなものなのだ、というのです。つまり、まだ山の向こう側も見通した上で、山の全体像をつかんだ上で、この山はこういう山だ、と言っているのではないのです。まだ完全に見通しきれない中で告白をしている。弟子たちにはまだ十分に見えていないのです。今弟子たちがこのお方は「神からのキリストだ」と言い広めても、それは真実を言い広めることにはならない、主イエスに導かれ促された告白ではあっても、依然として弟子たちがとらえた限りでの主イエスのイメージであり続けています。山の向こう側も見た上での全体像にはなっておりません。それゆえに主はまだこのことを誰にも言わないように、あなた方が自分で告白したことの意味が本当に分かるようになる時が来るまで待つように、とおっしゃるのです。

3 ここで主イエスは最初の受難の予告をなさいます。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」(22節)。せっかく弟子たちがあなたは「神からのメシアです」と言い表したのに、主イエスはその言葉を引き受けてお語りにはなりませんでした。「神からのメシアである私は必ず多くの苦しみを受ける」とお語りにはならなかったのです。なぜでしょうか。もしここで主イエスがそうお語りになれば、主イエスは弟子たちが想像し、思いこんだ限りでの救い主でしかなくなってしまうでしょう。「神からのメシア」という言葉でもって、この時弟子たちがどんな救い主を想像していたかは定かではありません。けれども主イエスが十字架の上で死なれた後に、エマオに向かう道を歩いていた二人の弟子の言葉を思い起こすことは許されるでしょう、彼らはこう言ったのです、「わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました」(24:21)。自分たちをローマ帝国の過酷な支配から解放してくれる救い主、それが「神からのメシア」という言葉でもって、弟子たちが想像していた内容だったかもしれないのです。そういう意味では、私どもは、言葉だけ正しいことを言っていても、中身はてんでばらばらなイメージや期待を持ってしまっているかもしれないのです。主イエスはそういった人間の期待や想像が造り上げたメシア像をご自分に押しつけられることを拒まれるのです。そこで主イエスはご自身を「人の子」と呼ばれました。この「人の子」という呼び方は、いろいろな研究がなされているけれども、どういう意味なのか、どうして主がご自身をこのように呼ばれたのか、今もはっきりとは分かっていないのです。けれどもそれは救い主にふさわしいことかもしれません。人間があれこれと詮索をして、ついにこの呼び方の意味はこうだ、使われるようになった始まりはこうだ、と突き止められるようなものではないのかもしれません。人間を本当に救うことができるお方は、人間の考えや枠組みの中に収まるようなお方ではないだからです。いつも救い主は、私たちの思いを遙かに超える仕方で救いの御業を成し遂げられるのです。
 そのことが、主イエスのお言葉に現れ出ています。主イエスは人間に排斥され、多くの苦しみを受け、殺されることを通じて、ご自分が救い主であることをお示しになる、というのです。「神からのメシア」とは、弟子たちがその言葉でもって想像している救い主とは違って、苦しみを受けられる救い主だ、というのです。けれども必ず神によって甦らされ、死の力を討ち滅ぼし、本当の意味であなたがたを解き放つのだ、と予告しておられるのです。「復活する」という言葉は、もとの言葉では、「復活させられる」と受け身で訳せる言葉になっています。ということは、それを引き起こしているお方が主イエスと別におられるのであって、それが父なる神なのです。神が主イエスを死の中から甦らされる、そのことを通じて、このお方がまことの救いをもたらすお方であることが現れ出るのです。神ご自身が、分水嶺の向こう側から、ご自身を現してくださり、本当の救い主とは何なのかをお示しになられるのです。

4 「わたしについて来たい者」、それはいわばあの分水嶺の向こう側で、ご自身を示してくださる主イエスと出会いたい者です。そのために主イエスについていくことを願う者たちです。主イエスはそう願う者たちに、「自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って」従うようにと命じられました。この福音書が書かれたのは紀元80年頃、教会が時に厳しい迫害を経験し始めていた時代です。教会はすでにあの有名なローマ帝国の皇帝ネロによる迫害も経験していました。さらに皇帝ドミティアヌスによる大規模な迫害が起ころうとしている時です。そういう中で、教会は「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」という主の御声を聞いたのです。生きるか死ぬか、という差し迫った状況の中で、主の御言葉に聞いたのです、「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである」(24節)。
 私たちは、この主イエスの御言葉を、何か特別な状況の時にだけ当てはまるような御言葉として考えるでしょうか。直接命が危険にさらされる中でなければあまり現実性のない言葉だと思うでしょうか。そんなことはありません。主イエスは「日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」とおっしゃったのです。それは特別な時、珍しいある日のことについてだけの話ではない。そうではなく、今日のこと、毎日のことだ、というのです。主イエスはここで毎日殉教しなさい、と命じておられるのです。ある注解書は、ルカはこのようにして、殉教の問題を毎日の生き方の問題にすることによって、生きるか死ぬかが直接問われる現実の迫害の厳しさを和らげたと言います。しかし私はそうは思いません。かえって殉教の問題は徹底化されています。それは特別な時に神の前に誠実であり続けることができるか、節操を貫くことができるか、ということだけを問題にしているのではありません。毎日の生活、毎日の生き方が自分を捨て、自分の十字架を負い、主イエスに従う歩みとなっているか、と問うておられるのです。ここぞ、という時にちゃんとできるかが一番の問題なのではありません。今日もいつもと同じように始まっている、単調でささやかに見えるかもしれない一日、その一日も、自分の思いではなく、主イエスの心をわが心となして歩んでいるかが問われているのです。そして今をどう生きるか、今日主イエスとその御言葉にどのような態度を示すかが、終わりの時に再び来られる主イエスが私たちをどのように扱われるかを決めるというのです。「わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる」(26節)。大いに厳しい求めだ、と言わねばなりません。

5 主イエスはご自身の死と復活を予告された時、「必ず」多くの苦しみを受け、宗教・政治・法律の指導者たちに排斥され、殺され、三日目に復活する「ことになっている」とおっしゃいました。「必ず~することになっている」という言い方をされたのです。これは「~しなければならない」とも訳せる言葉です。そこには、「たとえまことの人であるわたしの思いがいかなるものであれ、神の独り子として遣わされているわたしは、父の思し召しに従ってこの受難の道を歩まなければならないのだ」、という意味がこめられています。
 そして主イエスは、ご自分に従う者たちの歩みがまさにそうした歩みになるのだ、と語っておられるのです。主イエスに従う歩みは、自分が考える生き方、自分の理想としている生き方を捨てる歩みとなります。自分の描く理想の生き方や夢があって、それを神に手助けしてもらって実現するという話でおよそありません。詩編の詩人はそうした生き方の虚しさを知っていました。先ほどお読みいただいた詩編の49編ではこう歌われています、「人は永遠に生きようか。 墓穴を見ずにすむであろうか。 人が見ることは 知恵ある者も死に 無知な者、愚かな者と共に滅び 財宝を他人に遺さねばならないということ。 自分の名を付けた地所を持っていても その土の底だけが彼らのとこしえの家 代代に、彼らが住まう所。  人間は栄華のうちにとどまることはできない。屠られる獣に等しい。」(49:10-13)。「自分の力に頼る者の道」や「自分の口の言葉に満足する者」の道を歩むのではなく、自分のメンツ、自分のプライドを捨てて、神の思し召しに自分の心を重ね合わせていく生き方が、主イエスが求めておられる生き方なのです。

6 わたしとわたしの言葉とを恥じる者は、終わりの時に人の子であるわたしも恥じるであろう、と主はおっしゃいました。弟子たちはこの時、自分は恥じたりするものか、と心の中で思ったことでしょう。私たちも主イエスを恥じたりするものか、と心を勇ませると思います。けれども、主イエスが捕まり、自分にも殉教の危険が及んだ時、ペトロが声を張り上げて叫んだ言葉は何だったでしょう。「わたしはあの人を知らない」(22:57)!この「知らない」という言葉は9章23節の「捨てる」と同じ言葉のです。弟子たちは「わたしはこの人を知らない」という言葉でもって主イエスを捨てたのです。自分を捨てて主イエスに従うどころの話ではない。逆に自らが従うべき主人を裏切り、売り渡し、捨ててしまうのが私たちなのです。殉教などできない、自分の生き方にこだわり続けてしまう、自分の肩に食い込む十字架の重みに耐えかねて、神に不平ばかり言っている、それが私たちの偽らざる姿なのではないでしょうか。
 けれども主イエスはご存知でした。捨てられた主イエスご自身は、そのままでほったらかしにされていることはあり得ない、と。神が主イエスを甦らせてくださり、主を否み、主を捨てた者たちの裏切りを赦し、甦りの命に生き始めるようにしてくださる、そのことへの深い信頼のうちに歩まれたのです。私たちは主イエスを否み、恥じるようなことをしでかしてしまうかもしれない。けれども神はわたしたちの神と呼ばれることを恥となさらないのです。この神に心から信頼できる幸いを知る時、私たちも使徒パウロと共にこう言うことができるのです、「私は福音を恥としない」と!
 私たちが負うようにと、主イエスに招かれているのは、自分の十字架です。けれどもそれを私たちは自分独りで背負うようにと命じられているのではありません。主イエスが負ってくださるけれども、そこで担いきれない分を私たちが背負う、というのでもありません。この十字架の重みはすべて、何よりも主イエスによって既に背負われているのです。救いは自分の重荷である十字架がなくなることではありません。救いとは、その十字架が主によって既に背負われていることを知ることです。その時、私たちは神の国、神のご支配を既に見始めており、その中を生き始めているのです。だからこそ私たちは、人生の重荷が肩にのしかかる時にも、人生が思い通りにいかない時でも、その十字架を主が担っていてくださることを信じるゆえに、それを自分の十字架として背負いつつ、忍耐と希望のうちに歩むことができるのです。それははた目から見れば損をしているようにしか見えない人生であるかもしれない。けれども、そこに本当の幸い、本当の幸福があることを、私たちは知っているのです。
 主の御声が聞こえてきます、 「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ11:29, 30)。

祈り 主イエス・キリストの父なる神様、信仰者として、スマートで格好のいいような生き方はできない私どもです。あなたに従うことに失敗し、自分を捨てるどころか、主を否み捨ててしまうような弱さにさいなまれています。「神からのメシアです」、と自ら言い表した告白も、あなたが分水嶺の向こう側から語りかけ、ご自身を現してくださらなければ、不十分なものに終わってしまいます。神様、この私たちの弱さを憐れみ、あなたがこの一番の重荷であるに違いない私たち自身を負っていてくださることを思わせてください。そして私たちの重荷も主イエスに担われていることを信じ、主イエスの心に私たちの心を重ね合わせつつ、自分の十字架を背負ってあなたに従う者とならせてください。そこに人生の最大の幸福を見出させてください。
 十字架の主、イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。

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