主日礼拝

キリストの体

「キリストの体」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書; 詩編第126編1-6節
・ 新約聖書; コリントの信徒への手紙一第12章27-31a節
・ 讃美歌; 278、158、395

 
キリストの体である教会
 本日の礼拝において、コリントの信徒への手紙一の第12章27節以下からみ言葉に聞きます。礼拝においてこの手紙を連続して読んでまいりましたが、 クリスマス前のアドベントの期間には、「愛の讃歌」と呼ばれている第13章を読みました。12章の終わりの部分、本日の27節以下がまだ残っていたの ですが、先に13章を読んでしまったのです。その時にも予告しましたように、本日、この新年の礼拝において、飛ばしてしまったこの箇所に戻って読みた いと思います。アドベントの期間に13章を読むためにこういうことになったのですが、しかし12章のしめくくりであるこの部分を本日の新年の礼拝にお いて与えられたは、意味のあることだと思わされています。冒頭の27節には、「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」と あります。私たちの教会は2007年度、「キリストの体である教会―とりなし祈る群れの形成のために」という年間主題を掲げて歩んできました。こ の27節には、まさにその主題が語られています。2008年を迎え、2007年度を締めくくる最後の3か月に入るに当って、この箇所を読むことに よって、本年度の主題を再確認し、新たな思いで歩み出したいのです。

兄弟姉妹との交わりに生きる  
「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」という文章は、12章12節以下に語られてきたことのまとめです。12節に 「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である」とありました。 私たちは、多くの異なった部分が組み合わされて一つとなっているキリストの体の部分とされているのです。それが教会というものです。教会とは、 建物ではなくて信仰者の共同体ですが、その共同体は、単に人間が寄り集まって一緒に何かをしている団体ではなくて、一つの体、しかもキリスト の体なのです。私たちは、信仰を告白し、洗礼を受けることによって、このキリストの体の部分とされるのです。つまり私たちの信仰は、一人で神 様を信じ、一人で神様との交わりに生きるものではありません。信仰者になるとは、キリストの体の部分となることであって、そこには必然的に、 他の部分である兄弟姉妹との交わりに生きることが含まれているのです。教会における兄弟姉妹との交わりは、一人より仲間がいた方が心強いと いうような便宜的なものではありません。それは私たちの信仰の本質に関わることなのです。つまり私たちは、イエス・キリストの救いにあずか って生きる限り、教会における兄弟姉妹との交わりに生きるのです。逆に言えば、兄弟姉妹との交わりに生きることにおいてこそ私たちは、 主イエス・キリストの救いにあずかる者として生きることができるのです。教会の交わりを離れて、どこか別の所にキリストの救いがある わけではありません。「イエス様の救いはいただきたいけれども、他の人との交わりはちょっと遠慮したい」というところには、主イエス・キリスト との交わりもあり得ず、従ってキリストによる救いもないのです。「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」とは、 そういう意味でもあるのです。

課題としての交わり
 ここには、世間の他の団体やグループ、様々な共同体における交わりと、教会における兄弟姉妹の交わりとの根本的な違いが示されています。 世間における交わりは、その親密さにおいていろいろなレベルがあります。例えば仕事の上だけの付き合いのような希薄なレベルの交わりであれば、 気が合うとか合わない、好きとか嫌いということを離れて誰とでも交わりを持つことができるでしょう。しかしより親密な交わりを結ぼうとすると、 そこにはおのずから、親しく付き合える人とそうでない人が分かれてきます。誰とでも同じように親密に付き合えるわけではありません。ましてや、 「一つの体に共に連なる部分」というほどの緊密な、一体性のある交わりは、よほど親しい、また気の合う、意見や感覚が一致する者どうしの間に しか成り立ち得ない、それが世間における交わりの常識です。ところが、ここに語られている教会における交わりは、その常識に全く反しています。 キリストの体の部分としての交わりは、気の合った、親しい友達どうしの間にのみ成り立つのではなくて、洗礼を受けて教会に加えられた者たち 全員がキリストの体の部分となり、そこに、「一つの体に共に連なる部分」としての交わりが生まれるのです。そこには様々な違った人々が集め られています。13節には「つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分 の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです」とあります。この手紙の宛先であるコリントの 教会には、ユダヤ人もいればギリシア人もおり、奴隷である者もおれば自由な身分の者もいたのです。これらは当時の社会において、最もかけ 離れた、とうてい共に歩むことなど不可能と思われる、水と油の関係にある者たちです。そのように全くかけ離れた、本来共にあることができ ないような者たちが、洗礼を受けたことのみによって、一つの体となり、その部分としての交わりに入る、それが教会なのです。ですから、 「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」というのは実に驚くべきことなのです。それは、「教会には親しい交わり があって楽しいな」とか、「この交わりが支えになるのよね」というような呑気なことではなくて、むしろ、私たちに与えられた非常に重い課題 なのです。

気の合う仲間としてではなく
 そのことが15節以下に語られていました。パウロはそこで、体を構成する部分の中で、足が「わたし は手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなることはない、あるいは目が手に向かって「お前は要らない」などとは 言えない、と言っています。そのようなことが語られる現実が教会の中にあったのです。「私は~ではないから、体の一部ではない」。これは、 自分と他の人を見比べて、自分の賜物、能力が他の人よりも劣っていることをひがみ、「どうせ自分なんか役に立たないんだ、いなくてもいいんだ」 といじけてしまうこととも読めますし、前に申しましたように、コリント教会の現実からすればむしろ、自分の賜物を誇り、「俺は他のやつらとは 違うんだ」と言って、自分一人で信仰者としてやっていけると思っている言葉とも取ることができます。あるいは、自分と意見の合わない者、自分 よりも力がないと思う者に対して「お前は要らない、おまえなんか役に立たないからひっこんでろ」と言う。これらはいずれにせよ、兄弟姉妹と共 にキリストの体を造り上げようとしない者たちの姿です。そういう現実がコリント教会にあったのです。それはコリント教会のみではないでしょう。 私たちにおいても、教会に共に連なる兄弟姉妹の間で、ひがんでいじけたり、誇って人を見下したりすることがしばしば起るのです。そういう現実の 中で、26節に語られていたような、「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ」と いう、まさに一つの体の部分としての交わりを確立していくことは、まことに難しいことだと言わなければならないのです。
 ところが私たちはしばしば、この難しさを見失ってしまいます。そして先程申しましたように、「教会にはよい交わりがあって楽しいな」とか、 「この交わりが支えになるのよね」というふうに、既にそういう交わりが成り立っているかのように思ってしまうことがあるのです。それはしかし 実際には、私たちが自分の周りに何人かの親しい気の合う仲間を作っている、ということでしかないことが多いのではないでしょうか。つまり人間 の親しさによって結び合う世間の交わりをそのまま教会の中に持ちこんでいるに過ぎないのではないでしょうか。そういう親しい交わりと、パウロ がここで言っているキリストの体の部分としての交わりとは全く違うものです。どこにその違いが現れるか。気の合う仲間が集まって作る交わりは、 必ず、そこに入れない者、あるいは入れたくない者が出てくるのです。気の合う仲間の範囲は限定されます。その仲間の輪の中にいる者は、「一つの 部分が苦しめばすべての部分が苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ」という交わりがそこにあるように思うけれども、その輪 に入れず外にいる者は、「お前は要らない」と言われているように感じるのです。コリント教会には、いくつかのグループが生まれ、党派争いがあっ たということを私たちはこの手紙において読んできましたが、その党派というのはそのように人間的に気の合う仲間が集まることによって生まれて いったのだろうと思います。党派というのは、その中にいる者には、非常に居心地のよい、あたかも一つの体の部分であるかのような交わりを体験 することができるものです。しかしそれは「キリストの体」ではありません。それはむしろキリストの体の形成を妨げ、それを破壊していく働きを してしまうのです。そのような党派に陥ることなく、共に洗礼を受けている全ての兄弟姉妹との間に、様々な人間的違い、意見や感覚の相違を乗り 越えて、キリストの体の部分としての交わりを確立することこそ、パウロがこの手紙で必死に訴え、教えようとしていることです。それは、人間業 ではとうてい不可能と思われるような、難しいことなのです。

聖霊の働きによって
 けれども、教会とはそういうものだ、とパウロは宣言しています。「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」 というのはその宣言なのです。これは、あなたがたはキリストの体になることを目指し、その部分となれるよう努力しなさい、という勧めの 言葉ではありません。「あなたがたはキリストの体なのだ。一人一人はその部分なのだ。既にそうなっているのだ」とパウロは宣言しているのです。 そのように言うことができるのは、13節の、「つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、 奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです」ということによって です。私たちは洗礼を受けている。洗礼によって、皆一つの霊、聖霊を飲ませてもらった。私たちの内に働いて下さっている聖霊によって私たちは、 キリストの体となり、一人一人はその部分となっているのだ、ということをパウロは見つめているのです。つまり、私たちがキリストの体であり、 一人一人がその部分であると言うことができるのは、私たちの交わりの現実を見つめることによってではなくて、聖霊の働き、神様のみ業を見つめる ことによってなのです。

キリストに聞き従う  私たちの交わりの現実ではなく、聖霊の働き、神様のみ業を見つめる、それは言葉を替えれば、私たちがその部分とされている体が、 「キリストの」体であることを見つめる、ということです。「キリストの」というのは、「キリスト的な」とか「キリストの精神を受け継ぐ」 という程度の、添えものの言葉ではありません。私たちは文字通りキリストの体であり、イエス・キリストこそこの体の主人、所有者なのです。 あるいは、キリストはこの体の頭(かしら)であり、そこに手や足など様々な部分が結び合わされてこの体が出来ているのです。手や足はこの頭 (かしら=あたま)の指示に従って動くことによって初めて、体の部分としての機能を果たすことができるのです。キリストの体の部分になると いうことは、この頭(かしら)なるキリストと結び合わされ、キリストに聞き従う者となることです。そのことによってキリストの体が組み合わ され、造り上げられていくのです。そこにこそ、キリストの体である教会における私たちの交わりの絆があります。私たちがこの交わりを築き上 げるために努力していくべきことは、人間的な親しさ、親密さ、意見や考えの一致を深めることではなくて、頭なるキリストに真実に聞き従う者と なることなのです。そのことによってこそ、様々な人間的な違い、考え方や感覚の相違があっても、一つのキリストの体となることができるのです。 逆に、キリストに聞き従うことをないがしろにして、人間的な親しさを求め、それによって交わりを形作ろうとしていくならば、そこには、 先程申しましたように、キリストの体を破壊する党派が生まれてしまうのです。

様々な務め  
 28節以下には、教会の中にいろいろな異なった務め、働きが立てられていることが語られています。様々な違った務め、働きがあって、 それらが相俟って教会は一つの共同体として歩んでいくのです。一つの体の様々な部分ということが、ここでは教会における様々な務め、 働きに置き換えられています。どのような共同体にも、いろいろな役割があって、それぞれが自分の役割をしっかり果していくことによって 維持されていくと言えるでしょう。しかしここに語られているのは、そのような世間の常識ではありません。ここにも、教会がキリストの 体として造り上げられていくために最も大事なことは何か、が語られているのです。その一番大事なこととは、頭なるキリストに真実に聞き 従うことです。ここに並べられている教会における務め、働きも、その「キリストに聞き従う」ことがきちんとなされるために整えられて いるのです。パウロがここで様々な務めを並べている、その順序にそれが現れています。「第一に使徒、第二に預言者、第三に教師」とあり ます。第一の「使徒」とは、基本的には主イエスの弟子であった人々で、主イエスの復活の直接の証人たちです。パウロは、自分も、復活 された主イエスとの出会いによって使徒の一人とされている、と言っています。教会の教え、その信仰は、この使徒たちが伝えたものです。 教会が頭なるキリストに聞き従っていくためには、使徒たちの教えをしっかりと受け継ぎ、守っていかなければならないのです。そうでないと、 「キリストに聞き従う」と言いながら結局は自分の思いを中心とするようなことが起るのです。第二の「預言者」とは、未来のことを言い当て る人ではなくて、神様のみ言葉を人々に語る人、つまり今日で言えばみ言葉を語る、説教をするという務めに立てられた人です。これも、教会 が神のみ言葉に聞き従うために立てられている務めです。第三の「教師」もそれと似て、頭なるキリストに聞き従う信仰を教え、それによる 生活を指導していく人です。パウロはこの三つの務めを、神様が教会の中にお立てになった第一、第二、第三の務めとしています。これらは いずれも、教会が、頭なるキリストに聞き従っていくために立てられている務めなのです。そしてこの三つが、使徒、預言者、教師という 職名で呼ばれているのに対して、次からは番号なしに、また言い方も「~を行う者」あるは「~の賜物を持つ者」というふうになっていくのです。 そこに並べられているのは、「奇跡を行う、病気を癒す、援助する、管理する、異言を語る」ということです。ここには明らかに、教会が頭なる キリストに聞き従い、み言葉によって歩むために立てられている務めと、それ以外の務めとが区別され、序列がつけられているのです。
 このことは何を意味しているのでしょうか。パウロは、「私は使徒である、私の務めは他の務めよりも重く大事なものなのだから、私をもっ と大事にしろ」という自己主張をしているのでしょうか。あるいは教会における様々な務めには、上位と下位という序列があるということでしょ うか。パウロはここと同じようなことを、ローマの信徒への手紙でも、同じ12章で語っています。その4~8節を読んでみたいと思います。 「というのは、わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、わたしたちも数は多 いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった 賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。また、教える 人は教えに、勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい」。 ここには、やはり教会の中に立てられている様々な務め、働きが並べられていますが、それぞれの務めの間の区別や序列は感じられません。そ れぞれ、神から違った賜物を与えられているのだから、自分に与えられている賜物に応じて働きなさいと言っているのです。パウロは基本的に はこのように、教会における務めの間に序列があるとは考えていないのです。

イエスは主である
 それでは本日のところで、働きの間に序列をつけるような言い方をしているのは何故でしょうか。それはコリント教会の事情によることだ と思われます。この12章はもともと何の話をしていたのかというと、霊的な賜物、聖霊の賜物についてです。どのような賜物こそが本当に 聖霊の賜物であり、またどのような賜物をこそ求めていくべきであるか、を語っていく中で、一つの体に多くの部分があるように、一人一人 に様々な違った賜物が与えられている、という話になってきたのです。その背景には、コリント教会において、ある特定の賜物が重んじられ、 もてはやされていたということがあります。その賜物とは何かはここにははっきりと語られていませんが、来週以降に読んでいく14章から それが分かります。それは「異言を語る」という賜物です。詳しいことは来週以降に譲りますが、異言を語るというのは、信仰的興奮状態に なって、意味不明の言葉を口走ることです。それが信仰の現れ、神様への讃美の言葉として重んじられていたのです。コリント教会の人々は、 この異言を語れるという賜物を誇っていました。それこそが、信仰において人よりも成長している印であると考えていたのです。そのことを 頭に置いてここを読むと、パウロが、様々な賜物による様々な働きの間に序列をつけるような言い方をしている意図が見えてきます。コリント 教会において重んじられ、もてはやされている異言の賜物を、彼はこのリストの最後に置いているのです。そして、それよりもより重要な、 重んじられるべき働きとして、み言葉が語られ、教会がそれに聞き従っていくための働きを上位に置いているのです。パウロは、異言を語る ことも聖霊の賜物の一つとして重んじています。けれどもそれは多くの賜物の中の一つであって全部ではないし、一番大切なものでもない、 奇跡を行うとか、病気を癒すとか、困っている人を援助するとか、教会を管理するという他の賜物と並ぶものなのです。そしてそれらの賜物は、 み言葉を聞き、頭なるキリストに聞き従うという一番大切なことによってこそ生きるし、意味あるものとなるのです。聖霊の第一の中心的な賜物は 「イエスは主である」という信仰の告白である、ということが12章の始めのところに語られていました。教会における様々な務めや働きも、 このことを中心として、このことへ向かって整えられなければならないのです。教会がキリストの体であり、私たちがその部分であるという恵みが、 私たちの現実の交わりに具体化し、実を結ぶためには、何よりも先ず、「イエスは主である」という信仰告白を共有し、そして主である イエス・キリストのみ言葉を聞き、それに聞き従っていくことを中心とする交わりを確立していかなければならないのです。「キリストの体」 である教会はそのようにして建て上げられていきます。そしてその中でこそ、私たちそれぞれに与えられている様々な賜物と、それによる私た ちの働き、奉仕は実り豊かなものとなるのです。

実り豊かな歩みのために
 本日共に読まれた詩編126編に、「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、 束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる」と歌われています。私たちはこれから、この新しい年の種蒔きの業へと出かけて いこうとしています。そこには様々な苦労があり、種の袋を背負い、泣きながら出て行かなければならないようなことも多いでしょう。 それらの私たちの労苦多い働きが、豊かに報われ、喜びの歌と共に刈り入れ、喜びの歌をうたいながら帰ってくることができるようになる のは、私たちの種蒔きの業が、み言葉に聞き従うことを第一とする中でなされていくことによってです。私たちの交わりも同様です。単なる 親しさ、人間的親密さではなく、み言葉に共に聞き従っていくことの中でこそ、「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその 部分です」という交わりのすばらしい恵みを、私たちは体験していくことができるのです。

関連記事

TOP