「天から与えられる住みか」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:詩編 第3編1-9節
・ 新約聖書:コリントの信徒への手紙二 第5章1-10節
・ 讃美歌:18、571
肉体の死について聖書はどう語っているのか
本日の礼拝は、召天者記念礼拝です。この教会の教会員として天に召された方々、またこの教会で葬儀が行われた方々のことを覚えつつこの礼拝を守っています。お手元に召天者の名簿をお配りしました。1993年以降に天に召された方々の名簿です。昨年のこの礼拝以降新たにこの名簿に加えられたのは、高橋賢吾さん以降の14名の方々です。勿論この名簿に記されている以前に天に召された方々も多くおられます。それらの方々をも含めて、この教会において信仰者として歩み、天に召された全ての方々のことを記念して、私たちはこの礼拝を守っているのです。
天に召されたと言っていますが、それは要するに、肉体において死んだということです。私たちは今日、既に死んだ方々のことを覚えて、そして同時に、私たち自身もいつか死ぬことを覚えてこの礼拝を守っているのです。肉体の死とはどういうことなのでしょうか。死んだらどうなるのでしょうか。それは私たちにとって最大の謎であり、不安であり恐れです。それに対して「こうだ」とはっきり答えることができる人は一人もいません。死んで、生き返って来て「こうだった」と証言してくれた人は一人もいないのです。死後の世界についてもっともらしく語られているいろいろなことは全て推測に過ぎません。しかし私たちには、神のみ言葉である聖書が与えられています。聖書は、肉体の死についてどう語っているのか、それを聞き取っていきたいのです。そのための代表的な箇所の一つが、本日ご一緒に読む、コリントの信徒への手紙二の第5章1節以下です。
地上の住みかである幕屋
冒頭の1節に「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています」とあります。「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びる」、それが肉体の死です。私たちは、肉体という地上の住みかに住んでおり、死においてそれが滅びるのです。この地上の住みかが肉体のことであるのは、6節に「体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています」とあることから分かります。私たちは体という地上の住みかに住んでいるのです。その住みかは「幕屋」と言われています。幕屋とはテントであり、遊牧民が家畜の群れと共にあちこち移動しながら生活していた家です。幕屋は分解して持ち運び、新しい場所で組み立てることができます。つまりそれはずっとそこに住み続けることができるような頑丈で立派な住まいではなくて、いつでも取り壊して持ち運ぶことができる、簡易な住まいです。私たちがこの地上を生きている肉体はその幕屋のように、永遠にそこに住み続けることはできず、簡単に取り壊され、滅びていくのです。つまり幕屋という言葉によって、私たちは死ぬ者だ、ということが見つめられているのです。そこに、人生が苦しみに満ちたものであることも見つめられています。2節の終わりのところに「この地上の幕屋にあって苦しみもだえています」とあり、4節にも「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが」とあります。体という地上の住みかに住んでいる私たちは、様々な重荷を負ってうめき苦しんでいる。その苦しみの中心には、この幕屋がいつか死んで滅びていく、ということがあるのです。
天にある永遠の住みか
しかしその幕屋に住んでいる私たちに、神によって希望が与えられているとここに語られています。1、2節をもう一度読みます。「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています」。地上の住みかである肉体は滅びていくが、神が建物を備えて下さっている、それは幕屋のようにすぐに取り壊され、滅びてしまうことがない、「人の手で造られたものではない天にある永遠の住みか」です。地上の住みかである肉体が死んで滅びても、神が、天にある永遠の住みかを備えて下さっている、その住みかは、天にある永遠の住みか、もはや滅びることのない、永遠に住み続けることができるしっかりとした建物なのだ、神がそういう救いを私たちに約束して下さっているのだ、と語られているのです。
天からの住みかを上に着る
滅びていく肉体を住みかとしている苦しみ多い人生において、このことを信じて、希望をもって生きることが、聖書の教える信仰です。聖書を神の言葉と信じる者は、肉体の死が滅びではなくて、その先に神によって新たな命、永遠の命が与えられることを信じて生きるのです。その信仰の歩みが2節において「天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています」と表現されています。「住みかを着る」というおかしな言い方がなされています。住みかに住む、というイメージと、服を着るというイメージが重ねられているのです。そのことが3、4節へと続いていきます。「それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません。この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです」。地上の住みかを脱ぎ捨てて裸になることが救いなのではなくて、天からの住みかを上に着ることが救いなのだ、と言われているのです。それは何を言っているのかというと、苦しみが多く、滅びていく幕屋であるこの肉体には価値がないから、そんなものはさっさと脱ぎ捨ててしまうことを願うことが私たちの信仰ではない、ということです。地上の住みかである幕屋、つまりこの体も実は神が私たち一人ひとりに与えて下さったものです。1節には、神が約束して下さっている天にある永遠の住みかは「人の手で造られたものではない」と語られていました。しかしそれは、地上の住みかである肉体は人の手で造られたものだ、ということではありません。私たちの肉体は私たちが造ったものではなくて、神が造り与えて下さったものです。誰も、自分で自分の肉体を造って生まれて来た人はいません。神が私たち一人ひとりに命を与え、この地上における住みかとしてこの体を与えて下さったのです。その体をもって生きることは神のみ心です。そのみ心に従って、肉体をもって生きる人生において神に喜ばれる歩みをすることを神は私たちに求めておられるのです。肉体などさっさと脱ぎ捨てたい、というのは神のみ心に反する思いです。それがここに語られている大切なことの一つです。
死ぬはずのものが命に飲み込まれる
しかしさらに大切なことがここには示されています。神による救いは、地上の住みかである肉体に代って神が天にある永遠の住みかを着せて下さる、ということではないのです。救いとは、古い服を脱いで新しい服に着替えるようなことではなくて、天から与えられる住みかを「上に着る」ことだとここに語られているのです。私たちの感覚からすると、地上の住みかである肉体が死によって滅びると、神が新しい、永遠の命を生きる天からの住みかを新たに着せて下さる、という方が分かりやすい感じがします。しかしそうではなくて、天からの住みかは「上に着る」のです。それは4節の後半にあるように、「死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着る」ということです。神による救いは、肉体というもういらなくなった服を脱いで新しい服に着替えるようなことではなくて、私たちの地上の住みかとして神が造り与えて下さったこの肉体が、神が与えて下さる新しい命によって飲み込まれて、もはや死ぬことのない、永遠の命を生きる新しい体へと復活する、ということなのです。主イエス・キリストの十字架の死と復活において神はそのことを実現して下さいました。肉体をもって十字架にかかって死んで下さった主イエスを、神はその肉体をもって復活させ、永遠の命を生きる者として下さったのです。主イエスは古い肉体を脱ぎ捨てて新しい体を得たのではなくて、神による新しい命が、死んで葬られた主イエスの肉体を飲み込んで、永遠の命を生きる者として復活させて下さったのです。この主イエスの十字架と復活において実現して下さったことを、神は私たちにもして下さると約束して下さっています。いつか必ず死んで葬られる私たちの肉体を、神による新しい命が飲み込んで、新しく、永遠の命を生きる者として復活させて下さるのです。それが、この世の終わりに実現する神による救いです。天から与えられる住みかを上に着ることは、世の終わりに実現するのです。つまり、重荷を負って苦しんでいるこの体を死において脱ぎ捨てると、神が天国で新しい住みかを用意して下さっている、というのではなくて、世の終わりの救いの完成の時に、死んで滅びたこの体がキリストの復活の命に飲み込まれて、永遠の命を生きる新しい体とされる、つまり復活して永遠の命を生きる者とされるのです。このことを信じて待ち望みつつ生きるのが、神の独り子イエス・キリストの十字架と復活による救いを信じて生きる信仰者の歩みなのです。
聖霊に支えられて
5節には、「わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として“霊”を与えてくださったのです」とあります。「このようになる」とは、死ぬはずのこの体がキリストの復活の命に飲み込まれて、永遠の命を生きる新しい体へと復活することに希望を置いて生きる者となることです。私たちがそのような信仰と希望を持って生きることができるようになるのは、神によってです。神はその信仰を支える保証として霊を与えて下さっています。聖霊を注いで下さっているのです。聖霊のお働きによってこそ私たちは、死に支配されていくこの身が、最後には神の命に飲み込まれ、永遠の命を生きる者とされるという希望に生きることができるのです。
目に見えるものによらず、信仰によって
聖霊に導かれて信仰をもって歩む私たちは、6節にあるように、「それで、わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています」。聖霊によって、天にある永遠の住みかを与えられる希望に生きている者は、地上の幕屋にあって苦しみもだえている中でも、その希望に支えられているので、心強いのです。でも同時に、「体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知って」います。地上の幕屋である体を住みかとしている私たちの苦しみの根本的な原因は「主から離れている」ことです。体をもって地上を生きている私たちは、主イエス・キリストのお姿をこの目で見ることができません。地上を生きている私たちは、復活して天におられる主イエスからは離れているのです。だから、様々な苦しみ悲しみの中で、主イエスによって与えられている救いが分からなくなったり、信じられなくなったりするのです。そのような苦しみの中でも、聖霊の支えによって私たちは、目に見えない主イエスを信じて、主イエスの命が死ぬはずのこの体を飲み込んで永遠の命を生きる者へと復活させて下さるという希望をもって生きています。つまり7節にあるように「目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいる」のです。聖霊は私たちを、目に見えるものによらず、信仰によって歩む者として下さるのです。
体を離れて、主のもとに住む
だから8節にもう一度「わたしたちは、心強い」とあります。それに続いて「そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます」とあります。体を住みかとして地上を生きているかぎり、私たちは天におられる主から離れており、主イエスをこの目で見ることができない苦しみを負っています。しかし体を離れたら、つまり死んだなら、主のもとに住むことができる、主イエスと共にいることができる、主イエスのみ手にしっかりと抱き止められて、地上の住みかである体をもって生きている時の重荷や、苦しみ悲しみの全てから解き放たれて、主のみ手の中で憩うことができるのです。それが、死んで天に召されるということです。私たちが覚えている召天者の方々は、この幸いを与えられているのです。そしてなおしばらくの間体を住みかとして地上を生きていく私たちは、体を離れて主のもとに住む者となることを、つまり私たちも主のもとに住む者とされることを、希望をもって待ち望むのです。
救いの完成は復活と永遠の命
しかしこのことと、「天から与えられる住みかを上に着る」こと、「死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着る」ことは違います。「天から与えられる住みかを上に着る」とは、先ほども申しましたように、世の終わりの救いの完成において、復活して永遠の命を生きる新しい体を与えられるということです。死んで体を離れて主のもとに住むようになることはそれとは別のことです。つまり、死んで主のもとに召されることが救いの完成ではないのです。そのことは9、10節を読むことによって分かります。「だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです」。体を住みかとしてこの世を生きていても、死んで体を離れて主のもとに住む者とされても、どちらにおいてもひたすら主に喜ばれる者でありたい、と語られています。なぜならば10節にあるように、キリストの裁きの座の前に立つ時が来るからです。つまり、死んで体を離れて主のもとに住む者となった後に、キリストによる裁きがあるのだ、ということです。その裁きにおいてこそ救いは完成するのです。つまり私たちがキリストの復活の命に飲み込まれて、永遠の命を生きる新しい体へと復活する救いの完成は、そこでこそ与えられるのです。死んで主のもとに召されることによって、即永遠の命を与えられ、救いが完成するのではありません。つまり聖書は、死んだら天国に行ってそこで幸せになれる、という救いを語ってはいないのです。聖書が語っている救いの完成は、神によって今のこの世が終わり、神の国、神のご支配が完成するその時に、死に捕われている私たちがキリストの復活の命に飲み込まれて、永遠の命を生きる新しい体へと復活することなのです。
キリストによる裁き
その神によるこの世の終わりには、神による裁きがなされます。神のご支配が完成する時には、神による裁きがなされ、救われる者と、神に敵対しているために滅ぼされる者とがはっきりと分けられるのです。私たちもその裁きにおいて、「善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならない」のです。それは恐しいことです。私たちは、神に背き逆らってばかりいる罪人です。自分の行ったことに応じて報いを受けねばならないなら、私たちは滅びるしかありません。しかしここに語られているように、私たちが立つのは、「キリストの裁きの座の前」です。私たちをお裁きになるのは、神の独り子主イエス・キリストなのです。主イエス・キリストは、私たち罪人の救いのために人間となってこの世を生きて下さった方です。そして私たちの全ての罪を背負って、十字架にかかって死んで下さった方です。主イエスが私たちに代って、本来私たちが受けるべき神の裁きと滅びを引き受けて下さったのです。このキリストの十字架の死によって、神は私たちの罪を赦して下さいました。そして神はキリストを復活させ、永遠の命を生きる者として下さいました。それはキリストを信じ、キリストと結び合わされて生きる私たちにも、復活と永遠の命を与えて下さるためです。私たちは、世の終わりの神による裁きを恐れなければなりませんが、しかし主イエス・キリストを信じる信仰によって、その裁きを経て死ぬべき自分が主イエスの命に飲み込まれて、復活と永遠の命を与えられることを信じ、その希望をもって生きることができるのです。
主に喜ばれる者でありたい
肉体の死において私たちは、この主イエス・キリストのもとに住む者とされます。死において私たちは、罪人である私たちをなお愛して下さり、私たちのために命をささげて下さった救い主イエスのみ手にしっかりと抱き止められるのです。そして、体を住みかとしている間、主から離れているために味わってきた様々な苦しみ悲しみから、また肉体をもって生きることに伴う数々のつらさ、痛みや苦しみの全てから解き放たれて、平安を与えられるのです。私たちが今日覚えている召天者の方々は、主のもとでその平安を与えられています。私たちも、それぞれに与えられている地上の人生を歩んで、主がお定めになっている時に、主のもとに迎えられていくのです。
そしてその私たち全ての者が、世の終わりに、主イエスの命に飲み込まれて復活し、神が備えて下さっている天にある永遠の住みか、永遠の命を生きる新しい体を与えられるのです。今、私たちは地上において、召天者の方々は主のみもとで、その復活と永遠の命、救いの完成を待っているのです。その私たちの願いは、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい、ということです。それは、主に喜ばれる者にならなければ救いにあずかれない、という話ではなくて、私たちのために十字架にかかって死んで下さり、復活して下さった主イエスによって、私たちの深い罪にもかかわらず、恵みによって与えられている救いに感謝して、その主の愛のみ心に少しでもお応えして歩もうということです。つまりそれは喜びと感謝に生きることです。それが、主イエス・キリストを信じて生きる者の歩みなのです。