主日礼拝

神の秘められた計画

「神の秘められた計画」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:イザヤ書 第59章20-21節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙 第11章25-36節
・ 讃美歌:22、167、454

ユダヤ人は敵対し、異邦人が救いにあずかっている
 主日礼拝においてローマの信徒への手紙を読み進めていますが、その9-11章は一つの主題を扱っている、ということを毎回のように申しています。その主題とは、元々神に選ばれた神の民であったはずのユダヤ人が今、神が遣わして下さった救い主イエス・キリストにつまずき、受け入れずに、救いから落ちてしまっている、そのことをどう受け止めたらよいのか、彼らはもう神に見捨てられてしまったのか、ということです。自分もユダヤ人であるパウロは、同胞のつまずきを深く嘆き悲しみつつ、神のみ心を問うているのです。本日はいよいよ、その9-11章の最後のしめくくりです。
 神に選ばれ、救いにあずかる者とされていたはずのユダヤ人が救い主イエス・キリストを受け入れず、救いから落ちている、それと同時に今起っているのは、ユダヤ人でない異邦人たち、つまり元々神の民ではなかった人々が、イエス・キリストを救い主と信じ受け入れて救いにあずかり、新しい神の民である教会に加えられているということです。パウロも、異邦人にキリストの福音を伝える使命を神から与えられ、各地を伝道して回りました。彼の伝道によって、ローマ帝国の各地に、異邦人を主たるメンバーとする教会が生まれたのです。この手紙の宛先であるローマの教会も、そのメンバーの多くは異邦人だったと思われます。ユダヤ人はそのようなキリスト教会を見てますます敵対し、迫害を強めています。ですからユダヤ人はもう神に見捨てられ、神の民としての資格を失った、その代わりに、キリストを信じた異邦人たちが救いにあずかり、新しく神の民とされた、神の救いの恵みは今やユダヤ人から異邦人へと移されている、そう考えることが自然であるような現実が今や目の前にあるのです。

神の救いの計画
 しかしパウロは、そういう目に見える現実の背後に、神の秘められたご計画があることを見つめています。そのことが本日の25、26節に語られているのです。「兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように、次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。すなわち、一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、こうして全イスラエルが救われるということです」。イスラエル人とはユダヤ人のことです。その一部がかたくなになった、つまりイエス・キリストを受け入れずに拒んでいる、それが目に見える現実です。「一部の」とありますが、実際には「大部分が」です。しかし中には、パウロ自身もそうであるように、イエス・キリストを信じたユダヤ人もいます。パウロはそこに一つの希望を見ており、それゆえに願望を込めてわざと「一部の」と言っているのでしょう。しかしとにかくユダヤ人たちはかたくなになっている。でもそれは、異邦人全体が救いに達するまでであり、最終的には全イスラエルが救われるのだと彼は言っています。つまりユダヤ人が今かたくなになっているのは、ユダヤ人にも異邦人にも救いが及ぶための神のご計画の一環なのだ、ということです。そのことは既に11、12節においてこのように語られていました。「では、尋ねよう。ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。決してそうではない。かえって、彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです。彼らの罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう」。ユダヤ人がかたくなになることによって、異邦人に救いがもたらされる、そのことを通して神はユダヤ人にねたみを起こさせて、最終的にユダヤ人も異邦人も皆救おうとしておられる、そういう神のご計画があるのだ、とパウロは言っているのです。25節は「異邦人全体が救いに達するまで」と訳されていますが、これは直訳すれば「異邦人が満ちるまで」となります。それは、神がお定めになっている異邦人の数が満ちるまで、という意味ですから、全ての異邦人が救われると言っているわけではありません。しかしいずれにしてもここに語られているのは、ユダヤ人がかたくなになったことによって異邦人にも救いが及び、そして救いにあずかる異邦人が満ちる時には、ユダヤ人たちも今のかたくなさから解放されてキリストを信じるようになり、共に救いにあずかる、そのようにしてユダヤ人も異邦人も共にキリストの救いにあずからせようという神のご計画があるのだ、ということなのです。

神の秘められた計画に目を開かれる
 目に見える現実の背後にあるこのような神のご計画をパウロは「秘められた計画」と言っています。口語訳聖書ではこの言葉は「奥義」と訳されていました。原文の言葉は「ミュステーリオン」です。「ミステリー」の元になった言葉で、その意味は、人間の理性や考えによっては理解できない神のみ心、ご意志ということです。ユダヤ人がキリストを受け入れず教会に敵対し、異邦人が信じて救いにあずかっているという現実を私たちが人間の考えによって判断するなら、先程申しましたように、ユダヤ人はもう神に見捨てられ、キリストを信じた異邦人たちに救いの恵みは移された、としか思えないのです。しかしそういう目に見える現実の背後に、秘められた神のみ心、ご意志があるのです。信仰とは、その神の秘められたご計画、み心に目を開かれていくことなのです。

イザヤ書59章20、21節によって
 パウロがこの神の秘められたご計画に目を開かれるための導きとなった神のみ言葉の一つが、26、27節に引用されているものです。それは本日共に読まれた旧約聖書の箇所、イザヤ書59章20、21節からの引用なのですが、先程朗読されたイザヤ書の言葉と、ここに引用されている言葉とはかなり違っています。それは、この引用が、七十人訳という旧約聖書のギリシャ語訳からのものだからです。今私たちが持っている旧約聖書は、ヘブライ語原典からの翻訳ですが、パウロたちが読んでいた、紀元前一世紀にヘブライ語からギリシャ語に訳された七十人訳はそれとはかなり違うところがあるのです。イザヤ書59章20節におけるその違いは大変興味深いものです。私たちのイザヤ書では「主は贖う者として、シオンに来られる。ヤコブのうちの罪を悔いる者のもとに来ると主は言われる」となっています。ヤコブとはイスラエルのことです。イスラエルの民のもとに、神が、贖う者、罪の赦しと解放をもたらす救い主として来られる、という預言です。そしてここでは、その贖いつまり救いを受けるのは、イスラエルの民の内の「罪を悔いる者」だと言われています。自分の罪を認め、それを悔い改める者にのみ、主は贖う者として来て下さる、ということです。ところがパウロが引用している七十人訳は「救う方がシオンから来て、ヤコブから不信心を遠ざける」となっています。「シオンに」と「シオンから」の違いもありますが、最も重要な違いは「救う方」が「不信心を遠ざけて下さる」ということです。つまり悔い改める者に赦し、贖いが与えられるというのではなくて、不信心な罪人から、救い主ご自身が不信心、罪を取り除いて下さると言われているのです。人間の悔い改めが先にあり、それに対して神が赦し、救いを与えて下さるのではなくて、神によって遣わされる救い主が、罪人から罪を取り除き、救って下さるのです。そういう言葉をパウロは引用しています。さらに21節では、「これこそ、彼らと結ぶわたしの契約である」というイザヤ書の言葉に、七十人訳にはない言葉をパウロ自身が付け加えています。「わたしが彼らの罪を取り除くときに」という言葉です。これらのことから、パウロがこの引用によって何を見つめているのかがはっきり分かります。それは、人間の側が悔い改めるという条件を満たすことによって救いが与えられるのではなくて、神ご自身が自由な恵みによって救い主を遣わし、罪人の罪を取り除き、赦しを与え、救って下さるということです。そういう神のみ心を語っている言葉としてこのイザヤ書が引用されているのです。

人間の罪によって取り消されない神の愛
 パウロはこのイザヤ書の言葉を通して、目に見える現実の背後に隠されている神のご計画、み心を見つめています。それは、救いを与えて下さる神の愛は、人間のかたくなさや不従順の罪によって失われ、取り消されてしまうようなものではない、ということです。28節に「福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で神に愛されています」とあります。キリストの福音については、イスラエル人、ユダヤ人は今神に敵対しています。それはあなたがたのため、つまりあなたがた異邦人に救いが及ぶためです。しかし神の選びについて言えば、彼らは先祖たちのお陰でなお神に愛されているのです。神の選び、愛は、彼らの罪によって取り消されてしまうものではないのです。「先祖たちのお陰で」というのは、イスラエルの父祖であるアブラハム、イサク、ヤコブたちのお陰で、ということですが、それは彼らが特別に立派な、神に背くことのない信仰者だったということではありません。アブラハムもイサクもヤコブも、様々な罪を犯し、失敗を繰り返しつつ歩みました。自分の力ではとうてい、神の民イスラエルの先祖となることはできなかったのです。彼らはただ神の恵みと憐れみによって選ばれ、神の愛を受け、それに支えられて生きたのです。彼らに与えられた神の愛は、取り消されることなく、その子孫であるユダヤ人たちに今も注がれているのです。29節にも、「神の賜物と招きとは取り消されないものなのです」とあります。人間は、かたくなになったり、不従順になったり、様々な罪や弱さに陥りますが、神の恵みのみ心は、そのような人間の側の条件によって動かされたり取り消されたりすることはないのです。

神の憐れみによる救い
 この神の恵みのみ心に目を開かれたパウロは、30、31節を語ることができました。30節に「あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順によって憐れみを受けています」。これは、「あなたがた」つまり異邦人の信仰者たちがどのようにして神の救いにあずかったかです。異邦人は、かつては神に不従順だった、神に従ってはおらず、そもそもまことの神を知らずに生きていたのです。その異邦人たちが、「彼らの不従順によって」、つまりユダヤ人たちがかたくなになり、救い主イエス・キリストを受け入れなかったために、神の憐れみを受け、救いにあずかっているのです。それは彼ら異邦人が従順だったとか、素直だったからではありません。彼らはただ神の憐れみを受けたのです。人間の側の条件によってではなく、ただ神の憐れみによって救いにあずかったのが異邦人の信仰者たちなのです。そしてそのことこそ、ユダヤ人たちの救いの希望でもあります。31節はそのことを語っています。「それと同じように、彼らも、今はあなたがたが受けた憐れみによって不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今憐れみを受けるためなのです」。「彼ら」とはユダヤ人のことです。ユダヤ人も、異邦人たちと同じように、人間の側の条件によってではなく、ただ神の憐れみを受けることによって救いにあずかるのです。この31節は、「あなたがたが受けた憐れみによって」という言葉をどこにかけるかについて議論があります。新共同訳では、あなたがたが受けた憐れみによってユダヤ人が不従順になっている、と訳していますが、口語訳聖書では「彼らも今は不従順になっているが、それは、あなたがたが受けたあわれみによって、彼ら自身も今あわれみを受けるためなのである」となっていました。こちらの訳の方が私は良いと思います。要するにここに語られているのは、ユダヤ人たちは今、かつて異邦人がそうだったように不従順になっているが、それは異邦人が不従順にもかかわらず神の憐れみを受けたように、彼らもただ神の憐れみによる救いを与えられるためなのだ、ということです。つまり、ユダヤ人がかたくなになり、異邦人が憐れみを受けているのは、ユダヤ人たちに、自分の信心深さ、従順さ、あるいは神の民としての特権によって救われるのではなくて、人間の側のいかなる条件にもよらず、ただ神の憐れみ、恵みによってのみ救いは与えられるのだということを悟らせるための神のご計画なのです。そのために、本来救われるための条件を何ももっていない異邦人が、憐れみを受けて救いにあずかっているのです。

自分を賢い者とうぬぼれないように
 その神のご計画が32節ではこのように語られています。「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです」。神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められた。異邦人もユダヤ人も、全ての人間は神に対して不従順な罪人なのです。そのことを知らなければ神の救いは分かりません。自分が不従順な者であり、自分の力や正しさによって神の前に立ち、救いにあずかることはできないことを知らなければ、つまり25節に言われているように、自分を賢い者とうぬぼれていたら、神の秘められたご計画、独り子イエス・キリストの十字架と復活によって私たちを救って下さる恵みと憐れみのみ心を知ることはできないのです。私たちは常にそういううぬぼれに陥っていく者です。ユダヤ人はユダヤ人なりに、自分たちこそ神に選ばれた民だ、神のことは自分たちが一番よく知っている、救いにあずかるのは自分たちだ、という思いから、かえって救い主キリストを拒んで十字架につけ、神の憐れみを無にしてしまいました。異邦人は異邦人なりに、ユダヤ人がつまずいて自分たちが救いにあずかったことを、何か自分たちの手柄であるかのように、自分たちは神に素直で従順に従っているが、ユダヤ人はそうではない、とユダヤ人を見下していきました。そういう感覚が受け継がれて、キリストを殺した悪い民族としてユダヤ人を迫害するという歴史を生んだのです。自分を賢い者とうぬぼれ、自分の力や正しさによって救われると思い込む時に、私たちは人を蔑み、差別し、迫害し、殺す者となってしまうのです。

不従順な者の救いの希望
 それゆえに、神の救いのご計画は、私たちを不従順の状態に閉じ込めることから始まるのです。それは自分が不従順なのは神のせいだ、ということではありません。私たちは自分の意志で罪を犯し、不従順に陥るのです。その責任はあくまでも私たちにあります。ここで見つめられているのは、私たちはこの不従順の中に閉じ込められており、自分の力でそこから抜け出すことはできない、ということです。神はその私たちのために、独り子イエス・キリストを遣わし、その十字架の死によって私たちを赦して下さいました。私たちの救いは、不従順の中に閉じ込められている者が、何らかの条件を整えることによってではなく、ただイエス・キリストによって示された神の憐れみを受けることによって与えられるのです。ユダヤ人も異邦人も同じようにこの神の憐れみを受けることによって救われる、それが、全ての人に対する神のみ心です。パウロが9-11章で語っているのはこの神のみ心、救いのご計画なのです。そこにこそ、今はかたくなになっている同胞ユダヤ人たちの救いの希望があります。救い主を頑に拒んでいる者に、人間的に見れば救いの希望はありません。しかし私たち人間の中にある条件によってではなく、神の自由な憐れみのみ心によって救いが与えられるなら、全ての人が不従順であるという現実の中でも、神は全ての人を憐れんで下さるという希望を失うことなく持ち続けることができるのです。

宗教改革から500年
 パウロは33節以下で、神の秘められたご計画、その憐れみのみ心への賛美を歌い、それによって9-11章をしめくくっています。「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。『いったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか。だれがまず主に与えて、その報いを受けるであろうか。』すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン」。神の憐れみのみ心は人間のどのような思いや知恵や知識よりも深いのです。また人間のどのような頑さや不従順によっても動じることはないのです。信仰とは、この神の秘められた憐れみのみ心に目を開かれ、それによって生かされることです。この神の秘められた憐れみのみ心に目を開かれる時、私たちは新しくされます。罪を赦され、義とされて新しく生き始めることができるのです。私たちは今年、マルティン・ルターの宗教改革から500年の記念の年を歩んでいますが、ルターが聖書から改めて発見したこと、それによって教会が新しくされ、喜びをもって生かされていったことも、この神の秘められた憐れみのみ心でした。人間が救われるための条件を自分で整えることによって救いが与えられるのではなくて、神ご自身が、憐れみのみ心によって、独り子イエス・キリストの十字架の死と復活によって、罪の赦しと永遠の命の約束を与えて下さった、その神の愛と憐れみは、人間の罪や不従順によって失われてしまうことはない、私たちは主イエス・キリストを信じてその神の救いの恵みを受け入れることによってその救いにあずかることができる、そのことを聖書から示された時、ルターは、そして教会は、新しくされ、喜びと感謝の内に歩み出すことができたのです。

9-11章の大事さ
 パウロがこの手紙の9-11章で語っているのは、ユダヤ人の救いについてのことです。それは一見、私たちとは関係のない話のようにも感じられます。しかしパウロはこのことを通して、神が私たちに与えて下さっている救いとはどのようなものであるかを、その根本を描き出しているのです。それゆえに、9-11章はローマの信徒への手紙の中でとても重要な意味のある、大事な部分です。私たちはこの9章から11章を通して、神の隠された救いのご計画が、人間の思いや常識をはるかに越えて深い、恵みに満ちたものであることを味わい知ることができるのです。

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