夕礼拝

主による養い

「主による養い」 副牧師 川嶋章弘

・ 旧約聖書:エゼキエル書 第34章23-31節
・ 新約聖書:ルカによる福音書 第9章10-17節
・ 讃美歌:55、461

十二人の帰還
 本日の箇所の冒頭にこのようにあります。「使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた」。ここで「使徒たち」とは主イエスの十二人の弟子たちのことです。9章1節以下では、主イエスが十二人を「神の国を宣べ伝え、病人をいやすために」遣わしたことが語られていました。6節には「十二人は出かけて行き、村から村へと巡り歩きながら、至るところで福音を告げ知らせ、病気をいやした」とあります。主イエスによって遣わされた十二人は、ガリラヤの町や村を巡って、あちらこちらで神の国が到来したという喜ばしい知らせを伝え、主イエスから与えられた力によって病で苦しんでいる人たちを癒されたのです。その十二人が主イエスのところに帰って来たことが、10節冒頭で「使徒たちは帰って来て」と言われているのです。彼らは主イエスに自分たちが行ったことをすべて話しました。ここでは「自分たちの行ったことをみなイエスに告げた」と記されているだけで、彼らがどんなことをどんな風に主イエスに話したのか分かりません。しかし想像をたくましくするならば、こんな失敗があって落ち込んだ、こんな成功があって嬉しかった、たくさんの恵みを受けることができた、素晴らしい体験をした、そのようなことを十二人はかわるがわる懸命に、また興奮気味に話したのではないかと思います。きっと主イエスはそのような十二人の話にじっと耳を傾けていたのではないでしょうか。

人里離れた所に退く
 弟子たちの話が一通り終わると、主イエスは「彼らを連れ、自分たちだけでベトサイダという町に退かれた」と10節後半にあります。ベトサイダはガリラヤ湖畔(ゲネサレト湖畔)の町ですが、そこに退いたといっても、人々が生活している町の中心部に行ったということではありません。少し先の12節で十二人が「わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです」と言っているからです。主イエスは弟子たちを連れて、ベトサイダの町の中心部から離れた、誰も人が住んでいない「人里離れた所」に退かれたのです。それは、現代の私たちが日々の生活から離れてリフレッシュするのと似ているかもしれません。弟子たちは主イエスによって遣わされ、ガリラヤの村々を巡って福音を告げ知らせ、病を癒しました。慌ただしい日々を過ごしたに違いありません。だからその働きから一旦離れて、リフレッシュする必要があったのです。その一方で彼らのリフレッシュは、私たちの社会で流行っている旅行に行くとか、美味しいものを食べるとか、自然を満喫するとか、そういうことによってではありませんでした。主イエスが彼らを「人里離れた所」に退かせたのは、彼らが静かな場所で神様と向き合う時間を過ごすためだと思います。神の国を宣べ伝えるという大変ながらも素晴らしい務めを終え、興奮しながら戻ってきた彼らが、心と身体を静めるために「人里離れた所」で神様に祈り、その祈りの中で自分自身の働きを振り返るよう、主イエスは導かれたのです。ルカ福音書は、主イエス御自身がその働きから離れて「人里離れた所」に退いて祈られたことを記しています(5:16)。主イエスは自分と同じように弟子たちにも働きから離れ、静かなところで神様に祈ることを教えておられるのです。

神から与えられるリフレッシュ
 私たちも忙しい毎日を送っています。それぞれに遣わされたところで、神様によって導かれ、豊かな実りが与えられることを経験します。しかしそのような中で、いわゆる「成功体験」に夢中になり、いつのまにか自分の力で何かをなし遂げたかのように錯覚し、思い上がってしまうことがあるのです。自分の手柄のように思ってしまうのです。しかし一旦、自分の感情の高ぶりから距離を置いて、神様に祈る中で、本当は自分の力ではなく、主イエスが与えてくださった力によって働きを担えたことが示されていきます。その働きに、神様の導きと支えと守りがあったことが示されるのです。そのような祈りのときが私たちには必要です。神様に祈り、一対一で神様と対話することによってこそ、日々の働きの中で興奮したり、あるいは落ち込んだりして、疲れとストレスを抱えている私たちに本当のリフレッシュ、神様からのリフレッシュが与えられていくからです。私たちが心身の休息と回復を本当に得ることができるのは、神様の下でだけなのです。

主イエスのところに来る人たちを迎え入れる
 さて、このとき実際には、十二人はそのような祈りのときを持てなかったようです。11節にあるように、群衆がベトサイダの「人里離れた所」に退いた主イエスと十二人の後を追っかけてきたからです。「イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた」と語られています。御言葉と癒しを求めて主イエスのところに来る人たちを主イエスは拒むことなく迎え入れました。同時に主イエスは御自身が群衆を迎え入れることを通して、十二人に御言葉を求めて来る人たちを拒むことなく迎え入れるよう教えているのではないでしょうか。この十二人は使徒であり、後に教会の礎となった人たちです。ですからここで主イエスは十二人に将来の教会の姿を示しているのです。そしてその姿は、十二人だけでなく使徒の働きを受け継いでいる私たちの教会にも示されています。教会は、御言葉を求めてくる方々を、救いを求めて主イエスに会いにくる方々を何にも増して喜んで迎え入れるのです。コロナ禍になって以前と比べると信仰を求めておられる求道中の方や新しく礼拝に来られる方が少なくなりました。しかしそれでも主日礼拝では新来会者が与えられ続けているし、求道者は主日礼拝だけでなくこの夕礼拝にも与えられ続けています。このことは私たちにとって、教会にとって何にも勝る喜びなのです。

主イエスのところに来たすべての人を養う
 そうこうしているうちに日が暮れ始めました。十二人は主イエスに言います。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです」。十二人の心配はもっともです。人々が生活していない場所で食料を調達することは困難だからです。周りの村や里へ行くにしても、日が落ちて暗くなってしまえば移動するのも難しくなります。だから群衆を早く解散させて、それぞれが自分で食べ物を調達できるようにしたほうが良いと思ったのです。ところが主イエスは十二人に言われました。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」。14節にあるようにその場には「男が五千人ほど」いました。女性や子どもを含めればもっと多くの人たちがいたのです。その人たちに食べ物を与えなさいと言われても、十二人が持っているのは「パン五つと魚二匹」だけです。だから彼らは主イエスに言います。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり」。しかし主イエスは弟子たちに命じて、「人々を五十人ぐらいずつ組みにして座らせ」ました。皆が座ると、「イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた」のです。その結果「すべての人が食べて満腹した」と17節で言われています。このようにして主イエスは、ご自身のところに集まってきたすべての人たちを養われたのです。

弟子たちの持ち物を用いる
 この奇跡において主イエスは弟子たちの持ち物を用いられました。弟子たちが持っていた「五つのパンと二匹の魚」を用いて、主イエスはみ業を行ったのです。それは、弟子たちには思ってもみなかったことでした。自分たちが持っている「五つのパンと二匹の魚」が用いられるとは思っていなかったのです。主イエスから「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言われて、彼らは「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません」と言いました。弟子たちの「しかありません」という言葉に、集まっている群衆を養うためには、自分たちの持っているものでは到底足りるはずがない、自分たちの持っているものが役に立つはずがないという彼らの思いと諦めが表れています。さらに弟子たちは「このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり」とも言っています。男だけで5000人の群衆。それに対して自分たちが持っているのはパン五つと魚二匹。考えるまでもなくそれだけでは群衆を養えるはずがありません。そのとき彼らの頭の中に浮かんだのは、足りない分を補うために自分たちが食べ物を買いに行く、ということでした。要するに自分たちの力で、頑張って、自分たちの持ち物を増やそうと考えたのです。すべての人たちを養えるだけの食料を調達して、それを主イエスに用いてもらおうとしたのです。

私たちのちっぽけな持ち物を用いて
 私たちも自分の持っているものでは、主イエスに用いられるには到底足りない、十分ではないと思います。自分の力は何の役にも立たないと諦めてしまうこともあります。弟子たちと同じように私たちも「(これ)しかありません」としばしば呟いているのです。そして足りないものを補おうとして頑張ったり、もっと役に立とうとして知識やスキルを身につけたりします。自分の力で自分の持ち物を増やし、主イエスによって用いられるのにふさわしくあろうとするのです。しかし主イエスは弟子たちが持っていた「パン五つと魚二匹」によって集まっているすべての人を養ってくださいました。17節に「すべての人が食べて満腹した」とあるように、弟子たちが持っていた、たった五つのパンと二匹の魚を用いて、すべての人がお腹いっぱいになるまで養ってくださったのです。私たちの持ち物や力や賜物は、本当にちっぽけなものです。しかしそのような私たちの持ち物や力や賜物を主イエスは豊かに用いてくださり、大きな恵みのみ業を行ってくださるのです。私たちのちっぽけな持ち物を主イエスに献げるとき、主イエスはその献げ物を用い、満ち溢れるほどの豊かな恵みによって、すべての人を養ってくださるのです。

弟子たちを用いて群衆を養う
 主イエスは、弟子たちが持っているものだけを用いられたのではありません。彼ら自身をも用いられました。人々が食事を調達できなくなる心配から群衆を解散させるよう主イエスに言った弟子たちに対して、13節で主イエスは「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言われました。この主イエスのお言葉を原文で見ると、「あなたがた」が強調されていることが分かります。そのことを意識して訳せば、「ほかならぬあなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」となります。また14-15節で、人々を五十人ぐらいずつ組みにして座らせたのも主イエスではなく、主イエスの指示を受けた弟子たちでした。そして16節で「裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた」と言われているように、パンと魚を主イエスから受け取り人々に配ったのも弟子たちなのです。主イエスは群衆に自分で食料を調達させようとはしませんでした。つまり自分で自分を養いなさい、とは言われなかったのです。その一方で主イエスは御自身で食料を群衆に配って与えたのでもありません。弟子たちに渡して、配らせたのです。つまり主イエスは弟子たちを用いて、弟子たちを通して群衆を養われたのです。

主イエスの恵みを配る
 ここでは単にパンと魚、つまり肉の糧による養いだけが見つめられているのではありません。主イエスは肉の糧によって養うだけでなく、恵みによって養ってくださるからです。主イエスの弟子とは、主イエスの恵みを主イエスから渡され、その恵みを人々に配っていく者にほかなりません。それは使徒と呼ばれる十二人だけの務めではなく、使徒の働きを受け継ぐ教会の務めであり、その教会に連なる私たちの務めなのです。私たちはそれぞれ主イエス・キリストに出会い、キリストの十字架による救いに与り、キリストの体なる教会の肢とされました。そしてキリストによる救いの恵みによって日々養われ、生かされています。しかしその恵みを自分だけで独り占めして良いのではありません。自分が主イエスによって養われていれば、それで良いということにはならないのです。主イエスは私たちに「ほかならぬあなたがたが人々に恵みを配りなさい」と命じられます。だから私たちは神様から与えられた恵みをほかの人たちにも配っていくのです。一人でも多くの人が主イエスによって養われ生かされていくために、私たちは受けた恵みを人々に伝えていくのです。私たちは礼拝で語られる神の言葉を通してだけ主イエスによる救いの恵みを受け取ったのではありません。主イエスの弟子である信仰の先達の証を通しても、その恵みを受け取りました。「自分が主イエスによって養われ、生かされている」、と伝えることによって主イエスの恵みが証しされます。言葉にすることはなくても、その人の生き方そのものが、主イエスによって養われ生かされている証となります。それは、その人が立派な信仰を持って生きているというようなことではありません。むしろ自分の信仰はまことに乏しく、弱さや欠けがあるけれども、それとは比べものにならないほど豊かな主イエスの恵みによって生かされている姿が、人々への証となるのです。
 本日の主日礼拝は召天者を記念しての礼拝でした。主イエスによる救いに与り、主イエスによって養われ、この地上における生涯を歩まれ、先に天に召された方々を覚えました。それぞれにまったく違う人生を歩まれたにもかかわらず、主イエスによる養いによって生かされてきたそれぞれの歩みが救いの恵みを証ししてきたのです。私たちも先達の信仰の遺産をしっかり受け継いでいきたいと願います。先達が私たちに配ってくださった主イエスの恵みをしっかりと受け取り、そして受け取った恵みをほかの人たちに配っていきます。そのようにして私たちは一人でも多くの方を主イエスによる養いによって生かされている者の群れへ、教会へと招いていくのです。

主イエスは何者なのか
 弟子たちの持ち物を用い、また弟子たち自身を用いて、主イエスが行ったこの奇跡を通して、主イエスとは何者であるかが示されていきます。本日の箇所の直前で、主イエスの噂を聞いたヘロデはこのように言いました。「いったい、何者だろう。耳に入ってくるこんなうわさの主は」。そして本日の箇所の直後で、主イエスが弟子たちに「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問いかけ、それに対して十二弟子の筆頭であるペトロが「神からのメシアです」と答えた、と語られています。ですから本日の箇所は、「主イエスは何者なのか」というヘロデの問いに対して答えていると言えるし、同時にこの出来事を通して弟子たちにその答えを与えていると言えるのです。この主イエスのみ業を通して、弟子たちは、主イエスが何者なのか答えられるよう導かれたのです。

すべての民を養う約束の実現
 そうであるならばこの主イエスのみ業は、主イエスが何者であると弟子たちに告げているのでしょうか。その手掛かりは旧約聖書にあります。イザヤ書25章6節と9節をお読みします。「万軍の主はこの山で祝宴を開き すべての民に良い肉と古い酒を供される。それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。…その日には、人は言う。見よ、この方こそわたしたちの神。わたしたちは待ち望んでいた。この方がわたしたちを救ってくださる。この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び踊ろう」。かつて預言者イザヤを通して語られた、主なる神が祝宴を開き、すべての民を養ってくださるという約束が、主イエスにおいて実現し始めていることを、主イエスの奇跡は示しているのです。約束が実現したとき、人々は「見よ、この方こそわたしたちの神…この方がわたしたちを救ってくださる。この方こそわたしたちが待ち望んでいた主」と告白するのです。この神の約束の実現は、主イエス・キリストの十字架を待たなくてはなりません。しかしそうであったとしても、それはすでに始まっているのです。主イエスによる養いのみ業は、約束の実現がすでに始まっていることを弟子たちに示し、彼らに「この方こそわたしたちの神…この方がわたしたちを救ってくださる。この方こそわたしたちが待ち望んでいた主」という信仰の芽生えを与えたのです。

安らかに生きることができる
 本日共に読まれたエゼキエル書34章23-31節でも、主なる神は預言者エゼキエルを通してイスラエルの民を養う牧者が現れるという約束を告げています。23節にこのようにあります。「わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。それは、わが僕ダビデである。彼は彼らを養い、その牧者となる」。「わが僕ダビデ」と言われていますが、エゼキエルが預言者として活躍した時代は、ダビデ王の時代よりはるかに後の時代です。ですから「わが僕ダビデ」とは、来るべきダビデを指し示しているのです。その来るべきダビデこそ、主イエス・キリストにほかなりません。主なる神は、私たちのために主イエス・キリストという牧者を与えてくだり、私たちを養ってくださるのです。このエゼキエルの預言において繰り返し言われているのは、「安らかに生きることができる」ということです。25節には「彼らが荒れ野においても安んじて住み、森の中でも眠れるようにする」とあり、27節には「彼らは自分の土地に安んじていることができる」とあり、さらに28節には「彼らは安らかに住み、彼らを恐れさせるものはない」とあります。つまり主によって養われ生かされるとき、私たちに本当の安心、まことの平安を与えられるのです。

満ち溢れるほどの恵みによって養う
 主イエスのところに集まった人たちは、パンと魚でお腹がいっぱいになっただけではなく、恵みによって満たされました。「残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった」とあります。そこに集まった人たちを恵みで満たしてなお、主イエスの恵みは尽きることがありません。十二という数字は、イスラエル十二部族、つまりイスラエルの民を示し、また十二使徒とその働きを受け継ぐ教会を示しています。主イエスがイスラエルのすべての民を、教会に連なるすべての人たちを養ってくださることが見つめられているのです。主イエスによって養われ生かされている歩みにこそ、満ち溢れるほどの恵みが注がれ、本当の安心、まことの平安が与えられていきます。主イエスに養われることによってこそ私たちは安んじて生きることができるのです。主なる神は、一人でも多くの人が主イエスによって養われ、恵みと平安に満たされて生きることを願われ、救いのみ業を前進させてくださいます。教会は、私たちは、その救いのみ業のために用いられていくのです。私たちの持ち物や力や賜物は、ちっぽけなものでしかありません。私たち自身も弱さと欠けと罪を抱えた、取るに足らない者に過ぎません。こんな持ち物では、こんな自分では、主イエスに用いられるにはまったく不十分だと思います。しかし主イエスは、そのような私たちの持ち物を、そして私たち自身をも豊かに用いてみ業を行ってくださり、救いを求めて主イエスのもとにやって来る人たちを、満ち溢れるほどの恵みによって養ってくださるのです。

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