夕礼拝

ヘロデの戸惑い

「ヘロデの戸惑い」 副牧師 川嶋章弘

・ 旧約聖書:詩編 第93編1-5節
・ 新約聖書:ルカによる福音書 第9章7-9節
・ 讃美歌:14、75

十二人の派遣と帰還に挟まれた箇所
 先週の夕礼拝では9章1-6節を読みましたが、その最後、6節では主イエスによって遣わされた十二人の弟子たちが「出かけて行き、村から村へと巡り歩きながら、至るところで福音を告げ知らせ、病気をいやした」と言われていました。そして本日の箇所のすぐ後、9章10節では、その十二人が主イエスのところに戻ってきたことが「使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた」と言われています。ですから本日の箇所は、十二人の弟子たちが主イエスによって遣わされた出来事と、彼らが戻ってくる出来事に挟まれているのです。当然、私たちは十二人の派遣と帰還に挟まれて、伝道における彼らの体験が語られることを期待します。村から村へ巡って福音を告げ知らせる中で直面した困難、あるいは与えられた恵みについて記されていることを期待するのです。ところが実際は本日の箇所でそのようなことは一切記されず、かなり唐突にヘロデについて記されています。この夕べ私たちは、短い箇所ですが、そこで語られているヘロデに目を向けるとともに、ルカ福音書全体を通して語られているヘロデの姿にも目を向けていきたいと思います。

ヘロデ大王
 冒頭7節にこのようにあります。「ところで、領主ヘロデは、これらの出来事をすべて聞いて戸惑った」。新約聖書にはヘロデという名前の人物が何人か登場するため、どのヘロデなのか混乱することも少なくありません。一番有名なヘロデは、マタイによる福音書のクリスマス物語に出てくるヘロデ王だと思います。降誕劇の一つの場面としても、いわゆる三人の博士(聖書では占星術の学者たち)とヘロデ王の対面の場面はよく知られています。またマタイによる福音書によれば、ヘロデ王は幼子イエスを殺そうとしますが、イエスが見つからなかったのでベツレヘム一帯で二歳以下の男の子を一人残らず殺した、と伝えられています。このように新約聖書ではヘロデ王は残虐な王として知られていますが、その一方で「ヘロデ大王」と呼ばれる偉大な人物でもありました。その時々で権力を握ったローマ皇帝と良好な関係を築き、「ユダヤの王」となった巧みな政治家であり、また優れた行政官でもありました。エルサレム神殿の再建は彼によるものです。ですから彼の本当の姿を知ろうとするならば、彼とその治世を多面的に捉えていく必要があると思います。ヘロデ大王についてはこれ以上触れませんが、本日の箇所と関わりのあることとしてもう一つお話ししておきます。それは、ヘロデ王が家庭内の不和に悩まされ続けたということです。彼は絶えず身内からの謀反を警戒し、疑いの目で家族を見なくてはなりませんでした。そのために二人の息子を処刑し、さらには自らの死の5日前にも長男を処刑したのです。ヘロデ王は度々遺言状を書き換え、その度に王位継承者の名を書き換えました。

ヘロデ・アンティパス
 さて、そのヘロデ大王の子どもの一人が、冒頭7節に出てくる「領主ヘロデ」であり、ヘロデ・アンティパスと呼ばれます。ヘロデ大王の最後の遺言状によって、アンティパスの兄ヘロデ・アルケラオスに王国が継承され、アンティパスにはガリラヤの領土(とベレア)が与えられました。7節で「ヘロデ王」ではなく「領主ヘロデ」とあるのは、アンティパスが王ではなく領主であったことを正確に記しているからです。しかし実は、ヘロデ大王の最後から二番目の遺言状では、兄アルケラオスではなくアンティパスが王位継承者として記されていたそうです。つまり彼は一時、ヘロデ大王の後継者とみなされていたにもかかわらず、結局、兄にその地位を奪われてしまったのです。その経緯はよく分かりませんが、王位の継承をあと一歩で逃したアンティパスは大きなダメージを受けたに違いありません。それでも彼は父に従わざるを得なかったはずです。少しでも不満を漏らせば、ほかの兄弟たちのように処刑されても不思議ではなかったからです。こうしてアンティパスはガリラヤの領主となりました。王ほどではないとしても領主も十分な権力を持った権力者であり、支配者です。しかし彼がその権力に満足できたとは到底思えません。いつかは自分が得るはずだったヘロデ大王の領土と遺産のすべてを手に入れ、絶大な権力を握りしめたいという野望を持っていたのではないでしょうか。しかしアンティパスはその野望を表立って言いふらすことなく心の内に秘めていたようです。
 父ヘロデ大王とは違いアンティパスに関する資料は限られていますが、間違いないのは彼が常にローマへの服従を明らかにしていたことです。ガリラヤ湖畔にティベリアスという町がありますが、この町はアンティパスが、時のローマ皇帝ティベリウスのために建てさせた町です。この町の名前一つ取っても、彼のローマに対する姿勢が分かります。その一方で彼はユダヤ人にも気を遣いました。彼が造らせたとされる硬貨が発見されましたが、そこには「ヘロデ」の文字は記されていたものの彼の肖像は描かれず、硬貨の表面には「枝を広げたナツメヤシ」が、裏面には「小麦または大麦の粒」が描かれていました。おそらくアンティパスは硬貨を造る際に、十戒の第二戒「あなたはいかなる像も造ってはならない」(出エジプト記20:4)を尊重して、自分の肖像を彫らせなかったのです。このようにアンティパスは、ローマ皇帝に従いつつ、ユダヤ人にも一定の配慮を示しました。そのため彼は穏健な統治をしたと評価されることもあります。しかしそれは領民のことを考えていたというより、自分の支配が脅かされないためであったのではないでしょうか。ローマ皇帝の支持なくしては自分の地位を保てないし、ユダヤ人による反乱を防ぐことも自らの支配を確立するために不可欠なことでした。より大きな権力を手に入れ、父ヘロデ大王の領土とその遺産のすべてを手に入れるためには、自分の領土の支配が安定していなくてはなりません。自分の野望を実現するために、ガリラヤにおける自分の支配を脅かすものに対しては細心の注意を払っていたのです。彼にとって最大の脅威は、自分がコントロールできないこと、自分の支配の及ばないことが、彼の領土で起こることにあったのです。

ヘロデの戸惑い
 そのヘロデ・アンティパスの耳に噂が聞こえてきました。「領主ヘロデは、これらの出来事をすべて聞いて戸惑った」と言われていますが、「これらの出来事をすべて聞いた」とは、主イエスがガリラヤの町や村を巡って神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせ、悪霊を追い出し、病を癒したことを聞いたのであり、また主イエスによって遣わされた十二人が同じように「村から村へと巡り歩きながら、至るところで福音を告げ知らせ、病気をいやした」(9:6)ことを聞いたのです。自分の領土であるガリラヤで、イエスという名の人物が有名になっているようだ。彼とその弟子たちが自分の領土のあちらこちらを巡って教えを語ったり、病人を癒したりしているらしい。そのためにイエスのところに多くの人たちが集まり、イエスに従う人たちも出てきているようだ。そのような噂を聞いて、ガリラヤにおける自分の支配が揺らがないよう細心の注意を払っていたヘロデ・アンティパスは、心穏やかではいられなかったのではないでしょうか。自分の領土で、自分の支配の及ばないことが起こっている。ヘロデはそのことへの不安と恐れを感じずにはいられなかったのです。自分の領土で、自分の支配が脅かされることへの不安や恐れが彼の戸惑いを引き起こしたのです。

自分の人生という領土
 ここまで父であるヘロデ大王を含め、ヘロデ・アンティパスについて少し詳しく見てきました。ヘロデ大王はもちろんですが、ヘロデ・アンティパスも興味深い人物であることが分かります。しかし私たちは新約聖書の歴史に登場する人物の一人としてヘロデ・アンティパスの姿を見るだけであってはなりません。私たちは彼の姿に自分自身の姿を見るのです。確かに私たちは王でもなければ領主でもありません。彼が支配したガリラヤのような領土を持っているわけでもありません。けれども私たちはそれぞれ自分の領土と呼べるものを持っているのではないでしょうか。言い換えるならば自分の支配の及ぶ範囲を持っているのです。そしてそこにおいて自分の支配を確立させようと強く望むのです。職場や学校や家庭において、あるいは教会においても、自分の領土を持っているように思えるということが起こるのです。しかしなによりも私たちが自分の領土のように思っているのは、自分自身の人生ではないでしょうか。私たちは自分の人生を自分自身が支配していると思い、その支配を確立したいと望んでいるのです。だからヘロデ・アンティパスが自分の領土で細心の注意を払っていたように、私たちも自分の人生において、コントロールできないことが起こることを警戒するし、そのようなことを避けたいと思います。私たちの誰もが自分の人生という領土の「領主」であろうとし、アンティパスと同じような不安や恐れを抱えているのです。そして思いもよらないことや、思い通りにいかないことが起こったとき、自分の人生が脅かされるのではないか、と戸惑うのです。

神様によって引き起こされる「戸惑い」
 けれどもそのような戸惑いは、しばしば神様が私たちの人生に関わってくださるときに引き起こされる戸惑いです。「領主ヘロデは、これらの出来事をすべて聞いて戸惑った」の「戸惑った」と訳されている言葉は、新約聖書でこの箇所と使徒言行録でしか使われていない珍しい言葉であり、また特徴的な使われ方をしている言葉でもあります。使徒言行録10章17節には「ペトロが、今見た幻はいったい何だろうかと、ひとりで思案に暮れていると」とあります。「思案に暮れている」が、「戸惑った」と同じ言葉です。ペトロは幻の中で、律法によれば汚れた物であり、決して食べてはいけない生き物を「屠って食べなさい」という声を聞きます。それに対してペトロが「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません」と言うと、「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」という声を聞いたのです。こういうことが三度あった後で、「ペトロが、今見た幻はいったい何だろうと、ひとりで思案に暮れていると」と語られています。この箇所における「戸惑い」という言葉の使われ方から分かることは、この「戸惑い」が、神様によって思いもよらないことが人生に起こったときに生じる「戸惑い」であるということです。ペトロに起こったことは、今まで食べたことがないものを初めて食べて驚いたというような出来事ではなく、今までの人生がひっくり返り、今までの自分が打ち砕かれる出来事でした。この幻において示されていたのは、神様の救いがユダヤ人だけでなく異邦人にも及ぶということです。それは、ユダヤ人であるペトロにとってまったく思いもよらないことでした。同じように私たちも、神様が私たちの人生に介入することによって、「戸惑い」を感じずにはいられないのです。なぜならそのとき、私たちの人生に自分のコントロールの及ばないことが起こるからです。神様の介入によって、自分の人生という領土の支配が揺さぶられ、脅かされるのです。

ヘロデの戸惑いと反応
 7節後半から、「イエスは何者なのか」について、人々の間で三つの噂があったことがこのように言われています。「というのは、イエスについて、『ヨハネが死者の中から生き返ったのだ』と言う人もいれば、『エリヤが現れたのだ』と言う人もいて、更に、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいたからである」。それに対してヘロデが、「ヨハネなら、わたしが首をはねた」と言った、と語られています。ここでヨハネとは洗礼者ヨハネのことです。ルカによる福音書3章19-20節では、ヘロデと洗礼者ヨハネについてこのように記されていました。「ところで、領主ヘロデは、自分の兄弟の妻ヘロディアとのことについて、また、自分の行ったあらゆる悪事について、ヨハネに責められたので、ヨハネを牢に閉じ込めた」。ヘロデ・アンティパスは自分の兄弟の妻と結婚しましたが、それは律法で禁じられていることでした。そのことをヨハネから非難されたので、ヘロデはヨハネを捕らえ牢に閉じ込めたのです。ヨハネのその後については、7章18節以下で、牢の中にいるヨハネが主イエスのもとに弟子を送ったことが語られていました。そして本日の箇所で、実はすでにヨハネがヘロデによって処刑されていたことが語られているのです。このヨハネ処刑の経緯については、マルコ福音書やマタイ福音書が詳しく記しています。ヘロデの妻ヘロディアの娘がヘロデの誕生日を祝う宴で踊って皆を喜ばせたので、ヘロデが褒美を与えようとすると、母に唆された娘がヨハネの首を求め、その結果、ヨハネは牢の中で首をはねられた、という経緯です。ところがルカ福音書は、私たちにも馴染みのある、よく知られたこの出来事をまったく記していません。それは、当時もこの話は人々の間でよく知られていたので、わざわざ記す必要がなかったからかもしれません。しかしそれ以上に、この出来事を省くことによって、この箇所を読む私たちに7節で語られているヘロデの戸惑いが、9節後半のヘロデの反応を直ちに引き起こしたことを示そうとしているのではないでしょうか。神様がヘロデの人生に介入し、そのことによって引き起こされたヘロデの戸惑いと、それに対する彼の反応の結びつきを私たちに示そうとしているのです。

主イエスに会って確認したい
 そのヘロデの反応が、9節後半にこのようにあります。「『…いったい、何者だろう。耳に入ってくるこんなうわさの主は。』」そして、ヘロデは「イエスに会ってみたいと思った」と記されているのです。ヘロデの戸惑いは、噂になっている主イエスとは何者なのか、という問いを引き起こしました。そして彼は主イエスに会いたいと思ったのです。これだけ読むと、神様がヘロデの人生に介入して戸惑いを引き起こし、そのことによって主イエスに会いたいと思うようになったということになります。戸惑いを与えられることによってヘロデが主イエスに導かれたのなら、むしろ良かったのではないかと思えなくもないのです。しかしヘロデという人物を考えてみると、彼が「主イエスとは何者なのか」と問い、主イエスに会いたいと思ったのは、主イエスが自分の支配を本当に脅かす存在なのかどうかを確認したかったからではないでしょうか。好奇心から会いたいのではなく、自分の支配を揺るがす可能性を取り除くために、主イエスにあって確認したかったのです。

主イエスを嘲り、侮辱する
 ヘロデが主イエスに会えたのは、主イエスが十字架に架けられる直前でした。ルカによる福音書23章8節でこのように言われています。「彼(=ヘロデ)はイエスを見ると、非常に喜んだ。というのは、イエスのうわさを聞いて、ずっと以前から会いたいと思っていたし、イエスが何かしるしを行うのを見たいと望んでいたからである」。ヘロデはずっと主イエスに会って、主イエスが行う「しるし」を確認したいと思い続けていたのです。その「しるし」によって、主イエスが自分の支配を本当に脅かす存在なのかを確かめようとしたのです。しかし主イエスは「しるし」を行いませんでしたし、何も話しませんでした。ヘロデは、そのように何もせず、何も話さない主イエスを見ると、「自分の兵士たちと一緒にイエスをあざけり、侮辱した」のです。この嘲り、侮辱は、「しるし」を行わないイエスを、自分の支配に何の影響も及ぼさない存在だと見下した嘲り、侮辱ではないでしょうか。主イエスによって自分の領土の支配が脅かされるのを恐れていたけれど、実際、会ってみたら大したことはない。これなら自分の野望が妨げられることはない、という傲慢が引き起こす嘲り、侮辱なのです。なんとしても自分の領土を支配し続けようとするヘロデの思いが、主イエスに対する嘲りや侮辱となって現れたのです。

自分の人生を支配することへの執着
 その嘲りと侮辱が主イエスを十字架に架けます。自分の領土を支配し続けたいという思いが主イエスを十字架に追いやるのです。ヘロデだけではありません。自分の人生という領土を支配し続けたいという私たちの思いが、主イエスを十字架に架けたのです。神様が人生に介入してくださり、働きかけてくださっても、神様のご支配を拒もうとするヘロデの姿は私たちの姿です。自分の人生を支配することに執着し、神様に自分の人生を明け渡すことができない、私たち罪人の姿なのです。人生の中で思ってもみないことや、思い通りにいかないことが起こったとしても、私たちはなお自分の力にしがみつき、自分の人生を支配し続けようとします。そのような神様に対する私たちの傲慢さが、神様のご支配に対する私たちの嘲りが、主イエスを十字架に架けて殺したのです。

神様のご支配の下にある戸惑い
 そのようにして私たちが主イエスを十字架に架けて殺したにもかかわらず、その十字架の死において私たちの赦しが実現しました。その赦しは、私たちが自分の人生を支配することからの解放でもあります。本当は、自分の人生を自分の力で支配し続けるのはとても苦しいことです。思ってもみないことや思い通りにいかないことに直面する度に、自分の力でなんとかしようとすることは大きな苦しみであり、絶望ですらあります。なにより自分の支配が脅かされないことを求め続けている限り、神様から与えられる「戸惑い」は打ち消すべきものであり、乗り越えるべきものでしかありません。しかしキリストの十字架は、もうそうやって苦しみ続けなくて良い、と告げています。自分の人生を、自分の領土を神様に明け渡して、神様のご支配に委ねなさい、と告げているのです。そうすることによって、私たちの人生に確かな支えと守りが与えられ、慰めと平安が与えられるのです。それは、神様に委ねれば思ってもみないことや思い通りにいかないことがなくなるということではないし、戸惑うことなく生きていけるということでもありません。しかし人生の中で戸惑うことがあったとしても、その「戸惑い」も神様のご支配の下にあり、神様の導きの下にある、と受けとめられるよう導かれるのです。主イエス・キリストによる赦しの恵みの内に生かされるとき、私たちは日々の歩みの中で感じる「戸惑い」の中に、なお神様の愛によるご支配を見つめ続けるのです。

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