主日礼拝

世の憎しみの中で

「世の憎しみの中で」  副牧師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書: 詩編 第35編17-28節
・ 新約聖書: ヨハネによる福音書 第15章18-27節
・ 讃美歌: 16、535、564

はじめに
 本日朗読された聖書は、主イエスの訣別説教と言われている箇所です。主イエスが世を去る前に弟子たちに語った最後の説教です。この説教の中で主イエスは、御自身をぶどうの木に、信仰者たちをその枝にたとえました。15章の5節には次のようにあります。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」。ぶどうの枝が木につながっていることによって水や養分を得て実を実らせるように、信仰者は主イエスとつながることによって実を結ぶことが出来るのです。主イエスにつながっているとは、15章の9節で「わたしの愛にとどまりなさい」とあるように、キリストの愛にとどまるということです。そして、キリストの愛にとどまる者は、15章の12節に「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」とあるように、キリストの愛に生かされつつ、自らもその愛に生きて行く者とされるのです。そうなることこそ、ヨハネによる福音書が見つめる信仰の実りに他なりません。主イエスは、もうすぐ世を去って行きます。しかし、キリストと結ばれた信仰者たちが、世にあって、キリストの愛によって結ばれる交わりという実りを実らせることによってキリストを証しして行くのです。このようなぶどうの木のたとえに続いて語られているのは、愛の交わりとは一転して、憎しみについてです。18節には「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい」とあります。キリスト者が、愛に生かされ、キリストを証しする時、世から憎しみを受けるというのです。キリストの愛に生きると言うと、誰からも好意的に取られるに違いないと思うでしょう。果たして愛に生きる者が憎まれる等ということがあるのだろうかと思わされます。しかし、キリスト者の証しは、人間が思い描く人類愛に生きることによってなされるのではありません。人間の愛とは全く異なる神の愛に生かされるのです。ですから、そこには世の憎しみが生まれます。本日は、憎しみの中での証しについて示されて行きたいと思います。

ヨハネの背景
 ここで、世から憎まれるというのは、具体的には、20節の後半で、「あなたがたをも迫害するだろう」とあるように、迫害されるということに他なりません。このようなことが見つめられているのは、ヨハネによる福音書が記された時の時代背景が関係しています。この福音書が書かれたのは、他の福音書よりも遅く、紀元90年以降だと言われています。当時、それまでユダヤ教の一分派のように考えられていたキリスト者たちの教会が、ユダヤ教社会から明確に区別されるようになって行ったのです。そして、イエスを神の子と告白する者たちはユダヤ人の信仰の中心である会堂から追い出される、即ち、村八分になるという状況にありました。福音書記者は、教会が置かれている状況を、主イエスの物語の中に反映させつつ福音書を記しているのです。教会が直面しているユダヤ人社会との対立を、キリスト者とこの世の対立として、福音書の中に記しているのです。このような説を、二陣営仮説と言われたりします。教会と教会が置かれている世という二つの陣営の対立をはっきりと描いているのです。当時、キリストの救いを知らされているのにもかかわらず、それを受け入れる者と受け入れない者がいました。そして、受け入れない者が受け入れた者を憎み、迫害していたのです。何も悪いことをしていないのに、信仰によって、ユダヤの同胞の交わりから排除されるのは、信仰者の間に激しい苦痛を生みます。何故、信仰によって、こんな憎しみを受けるのだろうとの思いも生まれます。そのような中では、当然、信仰がぐらつくということも起こったのでしょう。福音書記者は、そのような中で、主イエスを神の子であるとの信仰を与えられて歩むことの恵みを示そうとしているのです。その上で、世の憎しみ、迫害の理由をはっきりと示しているのです。

日本の状況
 日本に生きるキリスト者たちは、世の憎しみというものを経験するのでしょうか。少なくとも、日本国憲法によって信教の自由が保障されている戦後の日本においては、信仰によって社会から追放されるというような迫害に合うことは無いでしょう。しかし、歴史を振り返ってみると、日本においても、キリスト者たちが激しい迫害に合った時代がありました。日本のいくつかの地域で、隠れキリシタンの信仰の遺跡を見ることが出来ます。又、プロテスタントの伝道が始まってからも、戦時中は、キリスト教は敵国宗教と見なされましたし、教会は国家の統制の下に置かれました。そのような中で、日本の教会は宮城遙拝、神社参拝を認めざるを得なかったのです。このように、世の迫害が、激しい時代も、それ程でもない時代もあるのです。しかし、目に見える迫害の激しさは様々であっても、私たちは信仰生活を送る中で、キリスト者が少数である日本社会にあって、世の憎しみ、反キリストとでも言うべき力が働いていることを感じているのではないでしょうか。実際に、信仰生活を送る中で、自分が置かれている社会との緊張を感じない訳にはいかないという方もいるでしょう。職場や学校では、信仰の話しはしないという方もいるかもしれません。又、日曜日に礼拝を守るということも、日本社会では異質なことです。その生活を守り通すことには困難も伴います。信仰をもっているということだけで怪しい目で見られたり、敬遠されたりするということもあります。日本社会で信仰を持つことは、一般的な生活を送る人とは異なった価値観を持って歩むことになるのです。自分が置かれている社会とは異なる価値観、異質性を持って歩むことは、日本のような島国であり閉鎖的な国家が形成され、出る杭は打たれるというような環境にあっては極力避けたいという思いが働きます。キリスト教教育や文化事業等には好感を抱きながらも、洗礼を受けることをためらうことの理由に、そのような異質性を持って歩むことへの抵抗があるようにも思えます。そのような日本の中で、ヨハネによる福音書が語る御言葉は、力強い、励ましの言葉として、聞くことが出来るに違いないでしょう。

主イエスに対する憎しみ
 主イエスは、18節で、世が信仰者を憎むなら、信仰者よりも先に、キリストを憎んでいたことを覚えるようにと言っています。私たちが世の憎しみに合う時、主イエス・キリスト御自身が人々に憎まれたことを思い起こすようにと言うのです。主イエス・キリストは人々から憎まれ、十字架で殺されました。そして、キリストが憎まれたのであれば、キリストに従う者たちも又、世の憎しみを受けることを驚き怪しむ必要はありません。20節に「僕は主人にまさりはしない」とあるように、僕であるキリスト者は、主人であるキリストにまさる者ではないのです。それ故、主人であるキリストが迫害されたのであれば、僕であるキリスト者も迫害を受けるのは当然のことなのです。それは、キリストの後について行く者は、キリストの道連れになるのだというようなことではありません。ここには、キリストとキリスト者のもっと深い密接な結びつきが示されています。ぶどうの木と枝が結びついているように、キリスト者はキリストと結びつけられています。キリストが神の愛に生きたのであれば、キリスト者もキリストと共にその愛に生き、キリストを証しするのです。それ故に、世の迫害に合うのは当然なのです。逆に言えば、もし信仰を持ちながら歩んでいる時、世の憎しみ、迫害がなかったとしたら、それは、本当に証しをしているとは言えません。事実、歴史の中で教会が、世の憎しみを経験しなくなってしまうこともあるのです。数年前に、あるアメリカの神学者が著した、『旅する神の民』と言う本が出版されました。英文の題名を直訳すると、「寄留する外国人」となります。アメリカにおいては、世と教会が一体化し、アメリカを愛することとキリスト教信仰が同じことであるかのような状況があります。そこではナショナリズムと信仰が結びつき、世の憎しみを経験することはありません。世にありながら世に属さないという信仰者のリアリティはなくなってしまっています。そこで、キリスト者の信仰の実質もなくなってしまったということでしょう。19節には次のようにあります。「あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである」。ここから分かるのは、キリスト者とはキリストによって選ばれ、それ故に、世にいながら世に属していない者だと言うことです。この本は、キリスト者が、世にあって神の愛を証しする者であることを思い起こさせようとしています。主イエスが憎まれたのにもかかわらず、キリスト者が憎まれないということはないのです。

世に属していない
 キリスト者が証しする時、必然的に世と対立することを見つめて来ました。それは、キリストに結ばれ、キリストの愛に生かされることによって世にありながら世に属さない者とされているからです。ここで、この世に属さないということを聞いて、私たちの中に生じやすい誤解があることに注目したいと思います。ヨハネ福音書は両者の対立を鮮明に描くに際して、キリストの陣営を光、世の陣営を「闇」としました。闇の世という言葉を聞くと、私たちがイメージするのは、人間の行う悪や、倫理的に好ましく無い行い、人間のよこしまさ等ではないでしょうか。そのようなイメージで世を捉えると、ここで語られていることは、次のような教えになります。すなわち、キリスト者は、この世的に見て好ましくないことから離れて、周囲の人々から堅物だと思われようとも、立派な行いに励み、清く正しく生きなければならないという教えです。このようなイメージは、もしかすると、多くの人が、キリスト教信仰についてもっているものかもしれません。信仰者であっても例外ではありません。家族の中で、自分だけがキリスト者である場合に、家族をなんとかして信仰に導きたいと思いがつのります。そのような中で、必ずしも生活の中で人々に誉められるような振る舞いをしていない自らのことを顧みて、これでは証しにならないと嘆くこともあるのではないでしょうか。このような嘆きには、信仰こそは、信仰を持たない場合よりも自分を立派に生きさせるものであるとのイメージがあるからではないでしょうか。確かに、信仰によって、歩みが整えられて行くということはありますし、それは大切なことです。しかし、私たちは自分が世にある人々よりも、秀でた道徳的な行いをすることによって、世に属していないことを主張するとしたら、それは間違った律法主義的信仰の姿です。そのような立場を突き詰めて行けば、偽善的な、自惚れた、自己に栄光を帰して行く信仰に生きることにもなりかねません。もしくは、それとは反対に信仰における自己満足に閉じこもり、世と隔絶された場所で隠遁生活を送るような信仰生活になるかもしれません。それは、キリストの愛に生かされた者の証しの姿ではないでしょう。

救いの恵みの下での悔い改め
 では、キリスト者と世の違いはどのような点にあるのでしょうか。22節には「わたしが来て、彼らに話さなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが、今は、彼らは自分の罪について弁解の余地がない」とあります。更に、24節には「だれも行ったことのない業を、わたしが彼らの間で行わなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが今は、その業を見たうえで、わたしとわたしの父を憎んでいる」とあります。ここで業とは、主イエス・キリストによる十字架と復活による救いの御業です。キリストの救いを知らされていながら、尚、キリストを憎み続けることが見つめられているのです。キリストの十字架とは、人間の罪、即ち、自らを神であるかのように自己中心的に歩むことによって引き起こされました。しかし、この罪によって引き起こされた十字架こそ、人間の罪の赦しになったのです。ここに神の愛が現されています。そして、この愛を受け入れる時、私たちは、自分の罪が赦されているということを知らされますし、その赦しの中で心からの悔い改めに導かれます。罪によって歩む自らを方向転換し、キリストを主として歩むようになるのです。しかし、世の力は、キリストの愛を愛に留まらずに、自らの罪を悔い改めて、キリストの愛に生かされて行くことを拒み続けるのです。それは、罪の赦しという恵みが差し出されているのにもかかわらず、その恵みの大きさが分からずに、恵みを受け取らずに、悔い改めることを拒み続けていることに他なりません。人間の罪の結果として引き起こされたキリストの十字架が、神の御業であり、人間の罪の赦しのための救いの出来事であることを受け入れることこそが、キリスト者と世の決定的な違いといって良いでしょう。

世の力の中での証し
 真の悔い改めを与えられていない人間は、自分がまるで神であるかのように、隣人を裁き、自分の神を証しし始めます。神の子であるキリストが憎まれたのも、世にあってこの自らを主として歩む人間の罪によってでした。世は、真の悔い改めから人々を引き離すという形で、真の神を神としなくなるのです。ですから、時代がどのような状況であるかということに関わらず、世で信仰を与えられて生きる時、必ずそこには、世の憎しみが生まれます。特定の人々や国家等の迫害ということに限られません。イエスを主とする者たちは、イエスを主とする時、真の神以外のものを主として歩む者たちに憎まれるのです。そして、人々に悔い改めを迫るキリストの救いの恵みを証しする時、やはり、世の対立、世の憎しみが生じます。しかし、その憎しみの中で尚、証しし続けなくてはなりません。なぜなら。私たちが証しするのは、迫害する人々のために命を投げ出して下さる救い主、主イエス・キリストだからです。

世に属する者になってしまう人間
 私たちは自分が、信仰者だからと言って、自分たちは、この世のキリストに対する憎しみから無縁だと言ってはならないでしょう。信仰者たちも世にあって、絶えず世と同化する危険にさらされています。世に属して、世の身内となって歩もうとすることがあるのです。キリストの十字架の前で悔い改めることを拒んでしまうのです。そして、真の神を神とせず、その他のものが神となり、人間自らが主人となっている所では、キリストではなく人々による自らの証しが語られるようになります。表面的には、キリストについて語られていても、真の罪の赦しと悔い改めが証しされないということがあります。迫害の中で、真のキリストを語ることを止めてしまうということが起こることがあります。戦時下の日本がそうでした。国家の中でキリストを神とすることを曖昧にしたのです。又、一方では、戦後の社会においては、反権力を掲げることが、教会の証しであるとの主張が強くなされました。ただ反権力を叫ぶことが教会の証しそのものであるかのようにとらえられてしまったら、そこでは、キリストは証しされて行かないでしょう。それらの主張は、世に支配された人間の自己主張が、あたかもキリスト者の全うな証しであるかのようにして語られてしまうのです。そして、人間が、真の神を主としていない時、そこにはキリストにある愛の交わりは生まれて行きません。人間が罪を認めつつ、真に悔い改めることがない所では、人々がお互いに自分を正当化し、神のようになってお互いに裁き合うことになるからです。キリストにある交わりとは、自らを主として歩む人間が共に神の前で悔い改め、キリストに結びつきつつ、キリストの愛に生きるところに生まれて行くのです。

聖霊による証し
 世にあって、私たちは絶えず、世の力に翻弄されています。真の神を神とすることを曖昧にしてしまうことがあります。自分の思い描く偶像を神とし、自己主張を信仰の証しとし、自己を正当化しつつ、周囲の人々を裁きながら歩んでいるのです。私たちが、ただキリストの愛に留まる時、自らを悔い改めつつ、真の証しをなす者とされます。その証しは、私たち人間の力によってなされるものではありません。私たちの証しが真の証しであるためには、それが聖霊の働きによってなされる証しでなければなりません。26節「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである」。聖霊とは、私たちの傍にいて、キリストの救いを示して下さる方です。私たちが、聖霊の証しによらずして証しをしようとする時、一方では、世と同化しながら、キリストを語るという誤りを犯しています。又、もう一方では、自己主張にすぎない信仰の信念を語ることによって、信仰によって誤った対立を生むことがあります。ただ、聖霊が、私たちにキリストを示して下さる時にのみ、私たちは、全ての人を主なる神の前での真の悔い改めに導くキリストの赦しの恵みを証しするのです。この恵みが証しされることの中でのみ、この世にあって、この世とは異なるキリストの愛の掟によって生かされている群れが生まれます。それは、私たちが絶えず、自分を主として歩むことを悔い改めるということに他なりません。その時、神の赦しの恵み中で明らかになる自らの罪を悔い改めつつ、同じ恵みの中に置かれている他者を見出して行くことなるでしょう。そこで生まれる交わりこそが真の愛の証しとなるのです。共に、聖霊の働きの中で自らを悔い改めつつ、キリストを証しする群れとして歩んで行きたいと思います。

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