主日礼拝

幸いな者

「幸いな者」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書; マラキ書 第3章6-12節
・ 新約聖書; ルカによる福音書 第1章26-56節
・ 讃美歌; 230、175、510

 
マリアの賛歌
 アドベント(待降節)の第3週を迎えました。先週までの二回の礼拝では、コリントの信徒への手紙一の第13章、「愛の賛歌」と呼ばれる箇所を読みました。アドベントも後半に入り、本日と、来週のクリスマス礼拝においては、ルカによる福音書の第1章から、クリスマスにまつわる二つの賛美の歌を味わいたいと思います。26節から56節までを朗読していただきましたが、本日の中心となるのは、47~56節です。ここは小見出しにあるように「マリアの賛歌」と呼ばれており、主イエスを身ごもったことを告げられた母マリアが、神様をほめたたえて歌ったものです。「マリアの賛歌」は様々な形で音楽になってきました。先ほど歌った讃美歌175番もこれをもとにしたものです。「マニフィカート」というラテン語の題で知っている方もおられるでしょう。「マニフィカート」とは、この歌の最初の言葉、「わたしの魂は主をあがめ」の「あがめる」という言葉です。「マリアの賛歌」はこの言葉から始まっているのです。

喜びたたえる
 「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」とマリアは歌いました。この47節は、以前の口語訳聖書と比べてよくなったところの一つです。口語訳では2行目は「わたしの霊は救主なる神をたたえます」となっていました。新共同訳はそこに「喜び」という言葉を加えたのです。原文に使われている言葉は、「喜びをもってたたえる」という意味です。「喜びたたえる」と訳したことによって、それがよりはっきりと表現されました。マリアは、神様を喜びたたえたのです。自分に起った神様の御業を喜び、それをほめたたえたのです。このマリアの喜びに、クリスマスの喜びの原点があります。マリアは、クリスマスを喜び祝う私たちの先頭に立っているのです。

マリアの置かれた状況
 けれども私たちはここで、この歌を歌ったマリアの置かれた状況を改めて見つめなければなりません。そのために26節から読んでいただいたのです。26節以下には、マリアのもとに天使ガブリエルが現れて、彼女がもうじき男の子を生むこと、その子は聖なる者、神の子と呼ばれるようになることを告げた、いわゆる受胎告知の出来事が記されています。この天使のお告げを聞いたマリアは、39節以下で、そのお告げの中にも名前が出てきた親類のエリサベトのところを訪ねたのです。彼女は子どもがないままに年をとっていたのに、先ごろやはり神様のお告げを受けてみごもっていました。このエリサベトとの出会いの中で、「マリアの賛歌」は歌われたのです。
 子供が与えられずに年をとってしまっていたエリサベトがついに身ごもった、それは喜ばしいこと、感謝すべきこと、祝うべきことだと言えるでしょう。37節で天使ガブリエルは「神にできないことは何一つない」と言っていますが、ザカリアとエリサベト夫妻は、まさにこの神様の力によって大きな恵みを与えられたのです。しかしマリアにとってはどうなのでしょうか。「あなたは身ごもって男の子を産む」という天使のお告げは、マリアにとって、「赤ちゃんができましたよ、おめでとう」というようなことでは決してないのです。その事情は27節からわかります。彼女はヨセフのいいなずけだった。つまり婚約をしていたのです。しかしまだ結婚して共に暮らしていたのではありません。34節でマリアは「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と言っています。いわゆる嫁入り前のおとめだったのです。そのマリアがみごもって子供を生む、それはあり得ないこと、あってはならないことです。それが聖霊の力によることだという話は世間には通用しません。人間の常識からすれば、マリアは結婚前にいいなずけを裏切って他の男と関係を持った、ということになるのです。二千年前のユダヤの社会では、これは姦淫の罪として死刑に当たる大問題でした。マタイによる福音書によれば、マリアの妊娠を知ったヨセフは、ひそかにマリアと縁を切ろうとした、とあります。ひそかに、というのは、彼が世間体を気にしたということではありません。事が公になれば、マリアは死刑になってしまう、そのことを避けようとしたのです。つまりそこにはヨセフの人間としての精一杯のやさしさがあります。しかし、やはり縁は切らなければならない、もう結婚はできない、そういう事態なのです。ですからマリアは、この妊娠によって、婚約者に捨てられ、下手をすれば死刑になってしまうかもしれないという境遇に突き落されるのです。ですからこれは喜びどころではありません。むしろ、貧しいながらも平凡な幸せな家庭を夢見ていた一人のおとめから、その喜びを奪い、苦しみ、絶望の淵に突き落すような出来事なのです。そのような事態の中でマリアは、「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」と歌ったのです。

クリスマスの喜びとは
 このことは、クリスマスを喜び祝うとはどういうことかを考える上でとても大事なことです。クリスマスの喜び祝いは、私たちが自分の中に何か喜ばしいこと、喜びの根拠を持っているからなされることではないのです。私たちの中の喜びが根拠であるなら、自分はクリスマスの喜び祝いとは無縁だ、という人も出てくるでしょう。私は今喜びを感じていない、クリスマスが来たからといって楽しいことなどない、私は今苦しみ、悲しみのどん底にいる、あるいは怨み、怒り、悔しさの中にいる。そういう自分には、人々が華やかに喜び祝うクリスマスはかえって苦痛でしかない、という人もいるでしょう。現に私たちの群れにおいても、このアドベントに入る前後に、子供を病で失ったという悲しみの中にある方々がいます。そのような悲しみの中では、とうていクリスマスを祝う気になどなれない、と感じるかもしれません。けれどもそのような方々も、クリスマスの喜びと無縁ではないのです。なぜなら主イエスの母マリアが、まさにそのような方々の先頭に立って、クリスマスを喜び祝っているからです。マリアの置かれた人間としての事情や立場の中には、喜びのかけらもありません。彼女は喜びの根拠など持っていないのです。しかし彼女はその中で、神様を喜びたたえました。それがクリスマスです。マリアはいったい何を喜び祝ったのでしょうか。

主に用いられる喜び
 彼女が喜びたたえたのは、神様が自分に対して、偉大なみ業を行って下さったことです。48節にこう語られています。「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです」。神様が自分に目を留めて下さった、彼女は自分に起っている出来事をそのように受け止めているのです。ここも、新共同訳になってよくなった所の一つです。口語訳では「この卑しい女をさえ、心にかけてくださいました」となっていました。「心にかける」が「目を留める」に変わったのです。原文の言葉は、目を留める、見つめるという意味です。つまり神様が自分を見つめて下さった、自分の方にみ顔を向けて下さったのです。その自分とは、「身分の低い、この主のはしため」です。口語訳で「卑しい女」となっていたのがこのように訳し変えられたのです。原文には確かに「はしため」という言葉があります。それは「仕える女」という言葉です。そしてその言葉は、受胎告知の場面において、天使のお告げを受けたマリアが、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と言ったところにも出てきています。つまりマリアはここで、自分が身分の低い、卑しい、とるに足りない者であると言っているだけではなくて、自分は主のはしため、主に仕える女であると言っているのです。その、主に仕える女の一人である取るに足りない自分を、主が特別に顧み、見つめ、そして御業のために用いて下さる、彼女はそのことを喜びたたえているのです。つまりマリアの喜びは、自分に何か嬉しいことがあるという喜びではなくて、神様に仕える者としての喜び、神様に見つめられ、そのご用のために用いられる喜びなのです。そのことは自分の生活においては苦しみや悲しみ、あるいは喜びの喪失をもたらすかもしれません。人並みの幸福を奪われるようなことかもしれません。それでも、神様が自分に目を留め、用いて下さることに喜びがある、それがマリアの、クリスマスの喜びだったのです。

主を大きくする
 そのことは、「わたしの魂は主をあがめ」という言葉からも知ることができます。この「あがめ」は「大きくする」という意味の言葉です。主なる神様を大きくする、それが主をあがめ、喜びたたえることなのです。神様を大きくすると言っても、私たちが神様の大きさをどうこうすることができるはずはありません。これは、私たちの心と生活の中で神様の場所をより大きくするということでしょう。そのためには、心と生活の中で自分自身の場所をより小さくしなければなりません。私たちの心はもともと、自分のこと、自分の思いで占められています。神様の場所などない、あってもほんの片隅にちょっとだけ、というのが私たちの通常の姿です。その自分の場所を明け渡し、自分の思いが占有している範囲を小さくして、神様の場所、神様のみ心が支配する範囲をより大きくしていく、それが「わたしの魂は主をあがめ」ということです。それは、自分の喜びを捨てて、神様に仕える者となり、神様が自分に目を留め、用いて下さることをこそ喜びとすることとつながります。自分は小さくなる、自分の喜びは少なくなり、あるいは失われても、神様が大きくなり、そのみ業が実現し、そのために自分が用いられていく、マリアの賛歌はそのことを喜び歌っているのです。

幸いな者
 そしてマリアは、そこにこそ自分の幸いがあると言っています。「今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう」、私は本当に幸いな者です、と言っているのです。その幸いも、自分の中にある喜びや楽しみによる幸いではありません。「力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから」という幸いです。神様の偉大なみ業が自分に行われつつあるのです。その偉大なみ業とは何でしょうか。それは、彼女が男性を知らずに子供を生むことではありません。そうではなくて、神様の独り子が、貧しく弱い一人の女の胎内に宿り、人間の赤ん坊としてこの世にお生まれになる、ということです。限りなく大きい方、天地を造り、支配しておられる神様が、人間となり、一人の小さな赤ん坊としてこの地上にお生まれになるのです。偉大な神様が、マリアの胎内に宿るほどにご自分を小さくして下さったのです。これこそが神様の偉大なみ業です。そのみ業は私たちのためです。弱く貧しく罪深い、取るに足りない私たちのもとに神様が来て下さり、共にいて下さり、そして最後には私たちの罪を全て背負って十字架の死の苦しみを引き受けて下さるのです。神様が私たちのために限りなくご自身を小さく、低くして下さり、苦しみを背負い、死んで下さることによって、私たちの罪を赦し、神様の祝福を受けて新しく生きることができるようにして下さる、それこそが、クリスマスに始まる神様の偉大な救いのみ業です。その偉大なことのために、神様が自分にみ顔を向け、自分を見つめ、おまえをこのことのために用いると言われたのです。マリアはこのみ言葉を受けて、「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」と答えたのです。それは、「わかりました、どうぞ私を用いてください」ということです。そのために、いろいろな苦しみを受けなければならない、喜びを失わなければならない、そういうことを全てひっくるめて、彼女は主なる神様に自分の身を献げたのです。そこにマリアの幸いがありました。私たちにとっての本当の幸いは、神様に信頼して、身を献げることにこそあるのです。本日共に読まれた旧約聖書の箇所は、マラキ書第3章6節以下です。その最後の12節に、「諸国の民は皆、あなたたちを幸せな者と呼ぶ。あなたたちが喜びの国となるからだと万軍の主は言われる」とあります。この幸せ、喜びは何によって得られるのでしょうか。それはその前のところに語られているように、収穫の十分の一の献げ物を主に献げることによってです。それは、献げ物をすればそのご利益として幸せになれるということではなくて、主なる神様に信頼して先ず身を献げる、そこにこそ、神様の祝福が豊かに注がれ、本当の幸せ、喜びが与えられるということです。マリアはまさにそういう幸いを味わっているのです。

主の憐れみのまなざしを見る
 それゆえにこのマリアの賛歌には、「いかなる苦しみを受けようとも、自分は神様に従うのだ」というような悲壮な、英雄的決意はありません。ここにあるのは喜びであり、平安です。それは彼女が、主なる神様が自分に目を留めていて下さる、自分をしっかりと見つめていて下さる、そのことの幸い、そこから与えられるまことの平安を知っているということでしょう。50節に「その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます」とあります。また54節にも「その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません」とあります。彼女は、自分を、また自分がその一員であるイスラエルの民を見つめる主なる神様のまなざしが、限りない憐れみに満ちていることを知っているのです。神様がみ業のために用いて下さることを受け入れ、神様に身を献げた者は、神様のこの憐れみのまなざしを見ることができるのです。私たちは、神様の憐れみのみ心を、マリア以上にはっきりと知らされているはずです。私たちは、神様がその独り子主イエスをこの世に遣わして下さり、ベツレヘムの馬小屋からゴルゴタの十字架への歩みによって、私たちの罪と苦しみとを背負い、赦し、祝福を与えて下さったことを、聖書によって既に知らされています。私たちは、マリアがまだ見ていない救いの出来事を知ることを許されているのです。主イエスを遣わして下さった父なる神様を信じ、この身を献げるなら、私たちもその憐れみ、恵みのまなざしを見ることができます。神様の憐れみ、恵みのまなざしを見つめつつ、その下で生きることが私たちの信仰です。その信仰によって、私たちも、本当に幸いな者となることができるのです。

自分のものから手を離して
 マリアは、この神様の恵みのまなざしの下で生きる者の確信として、51~53節でこのように言います。「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」。思い上がる者、権力ある者、富める者を、神様は打ち散らし、その座から引き降ろし、追い返されるのです。思い上がる者、権力ある者、富める者とは誰でしょうか。それは、神様を大きくするのではなく、自分を大きくしようとする者です。自分の持っているもの、自分の力や富や様々な意味での豊かさをより大きくし、それに依り頼み、それを失ったらもう生きていけないと感じてしまう者です。それは私たち一人一人のことではないでしょうか。私たちは、自分の思い、自分の力、自分の豊かさに頼って、それにしがみついて生きています。そのような者を神様はその座から引き降ろされるのです。それは神様のバチが当たって不幸になる、ということではなくて、マリアに向けて下さったあのみ顔が背けられてしまう、あの憐れみのまなざしを見ることができなくなってしまう、ということです。神様の憐れみのみ顔、まなざしを向けられることなく生きること、それこそが、神様のみ前から引き降ろされること、転落であり、それこそが地獄に落ちることなのです。このことを、カール・バルトという人がこのように語っています。「私は自分の生涯の過程、私の登頂の終わりに、自分のなりたいと思っていた者になった。しかし、それは神なしに達せられた。このことに私たちが気がつくこと、そこで意味されていることは、転落にほかならない。もし私たちの計画が成功し、私たちの目標が達せられるなら、それこそ最も恐ろしい地獄である。しょっちゅう打たれたり、煮たりされる場所のことを、地獄とだけ考えては決してならない。地獄には、きわめて偉大な紳士や親切な人たちが一緒にいるであろう。しかし、偉大な紳士や親切な人たちが神なしにいるのである。そして彼らは、その生の中で欲したこと、達成したことにしがみつくことをゆるされているか、永遠にそれにしがみついていなくてはならない。それが断罪であり、それが地獄である」。神様のみ顔、そのまなざしの下で生きるのではなく、自分の思い、自分の力、自分の持っている豊かさにしがみついて生きることこそが、地獄に落ちることなのです。そこでは、自分の思い、計画、自分が得たもの、自分の豊かさ、自分の喜びから手を離すことができないのです。それしか自分を支えるものがないからです。それこそが地獄の苦しみです。しかし私たちは、主なる神様が、その独り子イエス・キリストをこの世に遣わして下さったことによって、私たちに、恵みのみ顔を向け、憐れみのまなざしを向けていて下さることを知らされています。この神様の恵み、憐れみのまなざしが、下から私たちを支えていて下さるから、私たちは自分の思い、自分の力、自分の富から手を離して、神様の憐れみのみ手に自分を委ね、身を献げることができるのです。そこに、本当の幸い、平安、喜びが与えられる。マリアの歌うクリスマスの喜びとはそれです。その喜びは、私たち全ての者に与えられています。自分の中には喜びのかけらも見当らない、と思っている者であっても、神様の恵みのまなざしの下で生きる喜びを与えられる。クリスマスはそういう喜びの時なのです。

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