夕礼拝

あなたのために祈った

「あなたのために祈った」 副牧師 川嶋章弘

・ 旧約聖書:アモス書 第9章7-10節
・ 新約聖書:ルカによる福音書 第22章31-34節
・ 讃美歌:

夕礼拝の再開
 2020年の2月末から日本でも新型コロナウイルスの感染が始まり、ちょうど二年前の4月第一週から横浜指路教会では集まっての主日礼拝と夕礼拝を休止することにしました。その後、その年の6月半ばに主日礼拝を感染対策のために三回に分けて再開しました。三回に分かれての主日礼拝は、翌年2021年11月末まで約一年半にわたって続きましたが、2021年12月からは二回に変更し、今に至るまで二回に分かれての主日礼拝を行っています。主日礼拝を三回行っている間は夕礼拝の再開は難しかったのですが、二回になったのでその再開を模索できるようになり、そして新年度2022年の4月から夕礼拝を再開することになりました。本日、実に二年ぶりに、主の日の夕礼拝を行うことができています。コロナ禍にある教会を導き支え守ってくださり、今、このようにして夕礼拝を再開させてくださった主なる神さまに心より感謝し、御名をほめたたえます。礼拝のプログラムを見ると分かるように、讃美歌を歌うことができなかったり、なお制約された形での礼拝ではありますが、主の日の夕べに御前に進み出て神さまを礼拝し、み言葉の恵みに与ることができる幸いに感謝し、またその幸いを噛み締めていきたいと思います。

教会暦に沿って
 二年前の4月第一週は教会の暦では棕櫚の主日でした。主イエスがエルサレムに入場されたのを記念する日です。棕櫚の主日から始まる一週間は主イエスの十字架の死に至る一週間、いわゆる「受難週」であり、その金曜日に主イエスは十字架に架けられ死なれたのです。今年の棕櫚の主日は来週10日になります。二年前、夕礼拝を休止した時とほぼ同じ教会の暦にあって、今、主イエスの十字架の苦しみと死を覚えつつ夕礼拝を再開することができています。休止する前、私は夕礼拝でルカによる福音書の連続講解説教をしていましたが、その続きは来月5月からにして、本日と来週の棕櫚の主日、そしてその翌週に迎えるイースターの夕礼拝においては、教会の暦に沿った聖書箇所からみ言葉に聴いていきたいと思います。

シモン・ペトロだけに語りかける
 さて、この夕べに私たちに与えられている聖書箇所は、主イエスと十二人の弟子たちがいわゆる「最後の晩餐」の食卓を囲む中での出来事です。エルサレムの町に入り十字架の死へと至る一週間を歩まれていた主イエスは、22章14節から語られているように十二人の弟子たちと過越祭の食事をとられ、そこで聖餐をお定めになりました。その後も、主イエスと弟子たちはその食卓を囲みつつ対話を続けていますが、その一連の対話の中に本日の箇所があるのです。直前の24節以下では、弟子たちの間に「自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか」(24節)という議論が起こり、それに対して主イエスは弟子たちに「あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい」(26節)と言われました。この直前の箇所においても、また直後の35節以下においても主イエスは弟子たち皆に語りかけています。それに対して本日の箇所では、シモン・ペトロだけに語りかけているのが特徴的です。

愛に満ちた眼差しで
 主イエスはペトロに「シモン、シモン」と呼びかけられます。ペトロという名は主イエスがシモンに与えたものです。シモンはかつて漁師をしていましたが、主イエスと出会いすべてを捨てて主イエスに従いました。彼は十二弟子の一人であり、一番弟子でもありました。6章12節以下で、主イエスが弟子たちの中から十二人を選び使徒と名付けられたことが語られていますが、その十二人の弟子たちの名前の筆頭に「イエスがペトロと名付けられたシモン」(6:14)とあります。主イエスは二度繰り返して「シモン、シモン」と呼びかけられます。10章38節以下のいわゆる「マルタとマリアの物語」でも、主イエスは同じようにマルタに「マルタ、マルタ」(10:41)と呼びかけられました。二度繰り返される呼びかけは、主イエスが親しみと愛情を持って語りかけていることを示しています。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」(41-42節)。主イエスはマルタを叱りつけているのではありません。彼女に気づきを与え、導いてくださっているのです。その言葉には、マルタを見つめる主イエスの愛の眼差しが感じられます。同じようにシモン・ペトロに注がれる主イエスの眼差しも愛に満ちていたのではないでしょうか。

信仰がふるいにかけられる
 とはいえ、主イエスはシモン・ペトロにまずこのように言われました。「サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。」サタンとは、荒れ野で四十日間主イエスを誘惑した「悪魔」と同じであると考えて良いと思います。主イエスが荒れ野で悪魔の誘惑に打ち勝つと、悪魔は「時が来るまでイエスを離れた」(4:13)と語られていました。今まさにその「時」が来たのです。22章3節では、過越祭が近づくと「イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った」と語られています。そのサタンがシモン・ペトロを始めとする弟子たちを「小麦のようにふるいにかける」のです。脱穀した小麦をふるいにかけることによって小麦の殻や混ざった石など余計なものが取り除かれて本当の小麦の実だけを集めることができます。本当の小麦の実とそうでないものを選り分けるのがふるいにかける作業です。ですからここで、弟子たちを「小麦のようにふるいにかける」とは、弟子たちの信仰をふるいにかけて、彼らの信仰が本物なのかそうでないのかを選り分けるということです。弟子たちの信仰をテストして合格か不合格かを判定しようとしていると言うこともできるかもしれません。本物の信仰であれば合格、そうでなければ不合格なのです。そのように信仰がふるいにかけられるのは試練を通してです。弟子たちにとってその試練とは、主イエスが弟子のユダに裏切られ、祭司長たちに引き渡され、総督ピラトによって死刑の判決を受け十字架刑で殺されることにほかなりません。主イエスの十字架の死に直面して、それでもなお主イエスを信じ、主イエスに従い続けることができるのか、彼らの信仰が試みられたのです。

試練の中にある私たちの信仰
 私たちの信仰も、今、コロナ禍という試練の中にあって試されています。サタンは新型コロナウイルスを用いて私たちの信仰をふるいにかけているのです。主日礼拝に集えていない方が多くあり、また集えたとしても礼拝が二回に分かれているために、別の時間の礼拝に出席している方とは長く会えていない方がいます。今なお対面での集会はほとんど行えていません。教会の営みが制約され、特に教会における交わりが著しく妨げられることによって、信仰が揺さぶられ、弱っているように感じることがあります。また、この夕礼拝には、休止する前、色々な事情によって夕礼拝ならば出席できるという方がおられました。その方々にとって、この二年間は少なくとも指路教会の夕礼拝でみ言葉の恵みに与ることが妨げられていたのです。そのことによってみ言葉から離れ、神さまから離れてしまった方があるかもしれません。夕礼拝にしか出席できない方々に、さらに言えばコロナ禍にあって本当の救いを求めている方々に、夕礼拝においてみ言葉を届け、キリストの十字架による救いの良い知らせを告げ知らせることが妨げられていたことは、私たちの教会にとっても本当に厳しい試練であったというほかありません。先行きが見えない中で、私たちは忍耐して夕礼拝の再開を持ち望まなくてはならなかったのです。

神に願って聞き入れられた
 サタンは、主イエスの十字架の死という試練を通して、シモン・ペトロを始めとする弟子たちの信仰をふるいにかけました。しかしそのようにふるいにかけることを、「サタンは…神に願って聞き入れられた」と31節で言われていることに注目しなくてはなりません。この「サタンは…神に願って聞き入れられた」というのは言葉を補った訳で、原文では「サタンは…求めた」あるいは「サタンは…要求した」となっています。ここで疑問が生じます。サタンは誰に弟子たちをふるいにかけることを求め、要求したのでしょうか。それは、新共同訳が補っているように神に求め、神に要求したのではないでしょうか。つまりサタンは神に要求して聞き入れられたから試練によって弟子たちの信仰を試みた、と言われているのです。しかしこのことを、弟子たちが試練によって苦しむことを神が望まれた、と受けとめるべきではないと思います。私たちも人生の中で度々試練に直面しますが、自分ではどうにもならない不条理な現実に直面し深い苦しみを味わうことも少なくありません。サタンが「神に願って聞き入れられた」とは、神がそのような不条理な現実を望んでいるということを意味しているのではありません。そうではなく私たちが直面するどんな不条理な現実も神のご支配の外にはないことを意味しているのです。確かに私たちの人生には試練があり、苦しみや嘆きや悲しみが絶えません。病があり、老いがあり、死があります。災害があり、戦争があります。ですからサタンによる試練を侮ることは決してできません。しかしそれにもかかわらずそのような試練もまた神のご支配の及ばないところにあるのではないのです。サタンが神のご支配の外で好き勝手に力を奮っているのではありません。サタンが「神に願って聞き入れられた」とは、私たちが不条理な現実がもたらす試練の中にあっても、なお神の御手の内に置かれていることをこそ見つめているのです。私たちは目に見える不条理な現実にばかり心を奪われ、目に見えない神のご支配に心を向けることがなかなかできません。サタンが「神に願って聞き入れられた」という主イエスのお言葉は、そのような私たちに目に見えない神のご支配を告げる恵みのみ言葉なのです。

神のご支配の下にある
 このことを告げ知らされるとき、私たちはこの二年間味わってきたコロナ禍という試練もまた神のご支配の下にあったと信じることへと導かれます。繰り返しになりますが、新型コロナウイルスそのものがサタンなのではないし、あるいはサタンの力なのでもありません。そうではなくサタンは、新型コロナウイルスを「用いて」私たちの信仰を揺さぶっているのです。礼拝に集えなくすることによって、み言葉から引き離すことによって、交わりを妨げることによってです。また突然に命が奪われ、仕事が奪われ、当たり前の日常が奪われる現実によって、私たちを神への信頼から引き離そうとしているのです。しかしそれでもなお私たちは神のご支配の下にあります。目に見えるコロナ禍がもたらしている厳しい現実の中にあっても、目に見えない神のご支配の下で私たちは、そして教会は導かれ支えられ守られてきました。目に見えない神のご支配の下でこそ、このように夕礼拝を再開することができているのです。

自分の覚悟や決意による信仰
 主イエスはシモン・ペトロがこれから直面する試練に耐えられないことをご存知でした。ペトロだけでなく弟子たちの誰もが、十字架に至る歩みの中で主イエスを見捨てて逃げ出します。ペトロ自身は、自分が主イエスの十字架を前にしても逃げ出さない強い信仰を持っていると思っていました。彼は33節で「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言っています。ただ、この訳は誤解を生みかねません。主イエスが一緒なら投獄されても死んでもよいけれど一緒でないなら難しい、とペトロが言っているように読めるからです。しかし原文に従って訳すならば「主よ、ご一緒に牢にも死にも行く覚悟です」となります。つまり「主イエスが一緒なら」ではなく、「主イエスと一緒に」牢に入れられ死ぬ覚悟ができていると言っているのです。その覚悟をペトロは主イエスにはっきり伝えました。私たちはこの後、ペトロが主イエスを裏切ることを知っています。34節で主イエスが「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた通りに、主イエスが逮捕されるとペトロは、「わたしはあの人を知らない」(22:57)、主イエスを知らないと三度言ったのです。「三度わたしを知らないと言うだろう」と訳されていますが、直訳すれば、「わたしを知っていることを否認するだろう」あるいは「わたしを知っていることを否定するだろう」という強い言葉になります。主イエスを知っていることを否認し否定することは、主イエスとの関係をなかったものにすることであり、関係を断ち切ることにほかなりません。「三度」というのは、「何度も何度も」という意味であり、「完全に」という意味でもあります。ペトロは繰り返し主イエスを知っていることを否定し、そのことによって主イエスとの関係を完全に断ち切ったのです。このペトロの裏切り、ペトロの否認を知っている私たちは、「主イエスと一緒に牢に入れられ死ぬ覚悟ができている」という彼の言葉を、「ずいぶん勇ましいことを言っている」と滑稽にすら思うかもしれません。しかしペトロの覚悟は口先だけであったのではないと思います。本気で主イエスと一緒に死のうと思っていたのです。あるいは死ねると思っていたのです。なぜなら主イエスに従うことは、自分の覚悟や決意によるものだと思っていたからです。自分の覚悟や決意さえしっかりしていれば、信仰を持ち続けることができると思っていたからです。けれどもその覚悟や決意による信仰はあっという間に崩れ去りました。彼は一緒に死ぬどころか主イエスとの関係を完全に断ち切ろうとすらしたのです。私たちはペトロのことを他人事だと思うわけにはいきません。私たちもしばしば信仰をそのように考えてしまうからです。自分の覚悟や決意が揺らがないことが、しっかりした信仰、強い信仰、熱心な信仰を持つことだと思ってしまうのです。しかしそのような自分の覚悟や決意による信仰は、試練を通して試みられることによってたちまち揺らいでしまいます。ペトロと同じように私たちも日々「主イエスを信じて生きていこう」と思って歩んでいます。でも試練に襲われると私たちはたちまち主イエスを拒み、自分の心から主イエスを追い出し、自分自身の苦しみや悲しみで心をいっぱいにしてしまうのです。そのとき私たちはペトロと同じように、主イエスを知っていることを否認し否定し、主イエスとの関係を断ち切ろうとすらしているのです。

主イエスから与えられる信仰
 けれども主イエスを信じる信仰は、本当は私たちが持っているものでも、持つことができるものでもありません。私たちの信仰は主イエスから与えられるものだからです。32節で主イエスは「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った」と言われています。その主イエスの祈りは、サタンによる試練に真っ向から立ち向かうものです。「しかし、わたしはあなたのために」は、原文では「わたし」が強調されていて、「しかし、ほかならぬこのわたしが、あなたのために」と訳すことができます。試練によって私たちの自分の覚悟や決意による信仰は本物でないと示され、不合格と判定され、完全に砕かれてしまうに違いありません。私たちは主イエスを知っていることを否定し、主イエスとの関係を断ち切ろうとすらするのです。けれどもそのような私たちに、「しかし、ほかならぬこのわたしが、あなたのために」祈っていると主イエスは言われます。「信仰が無くならないように」とは、ペトロや私たちの覚悟や決意による信仰が無くならないように、ということではありません。試練によって打ち砕かれたとしても、なんとか僅かでもそのような信仰が残るようにと祈ってくださっているのではないのです。私たちの覚悟や決意による信仰はたちまち失われてしまう、まことに不確かなものです。しかし主イエスが与えてくださる信仰は揺らぐことも失われることもありません。「信仰が無くならないように祈った」とは、その主イエスが与えてくださる信仰に、私たちが与り続けることができるよう祈ってくださったということです。ペトロはこのとき主イエスがなにを祈ってくださったのか分からなかったに違いありません。自分の裏切り、主イエスの十字架の死と復活、そしてその昇天と聖霊の注ぎを通して、主イエスが与えてくださる信仰に与り続け、その信仰に生きることができるよう主イエスが祈っていてくださったことに気づかされるのです。そのことを通してペトロは立ち直っていきます。主イエスはペトロに「あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と言われました。主イエスの与える信仰をペトロが受け続けることができるように、という主イエスの執り成しの祈りによって、ペトロは立ち直りを与えられ、兄弟たちを力づける者とされていったのです。

あなたのために祈った
 私たちは今、主イエスの十字架の苦しみと死を覚えつつ歩んでいます。私たちが試練の中にあって、主イエスを知っていることを否定しても、主イエスは私たちを知っていてくださり、愛の眼差しを注いで執り成し祈っていてくださいます。私たちが主イエスとの関係を断ち切ってしまっても、その関係を取り戻し回復するために、主イエスは十字架へと歩んでくださり、十字架に架かって死んでくださったのです。夕礼拝を行えなかったこの二年間も、主イエスは私たちの「信仰が無くならないように」祈り続けてくださいました。自分の力による信仰に拠り頼むのではなく、主イエスが与える信仰を受け取り続けることができるよう祈り続けてくださったのです。すべてをご支配していてくださる神さまが、今、夕礼拝を再開させてくださいました。この夕礼拝で神さまが与えてくださるみ言葉を通して、コロナ禍によって、また様々な苦難によって疲れ、傷つき、弱っている私たち一人ひとりが癒しと回復を与えられ、立ち直りを与えられていきます。そして立ち直った私たちが、なお苦しみや悲しみの中にある方々に、救いを求めている方々に主イエス・キリストの十字架と復活による救いを、その良い知らせを証ししていくのです。そのことを通して、希望を持てずにいる方々に再び立ち上がる力が与えられていきます。もちろん私たちの力によってではありません。キリストの十字架による救いの力によって力づけられていくのです。
 これまでもこれからも、私たちがどのような試練の中にあるときも、主イエスは絶えず私たち一人ひとりのために執り成し祈り続けてくださっています。私たちが試練によって打ちのめされそうになるとき、その力に真っ向から立ち向かって、主イエスは言われるのです。「しかし、ほかならぬこのわたしが、あなたのために、信仰が無くならにように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

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