夕礼拝

伝道の旅は続く

「伝道の旅は続く」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:イザヤ書 第55章1-13節
・ 新約聖書:使徒言行録 第28章30-31節
・ 讃美歌:2、405

<中途半端な結末?>
約二年間、夕礼拝で御言葉を聞いてきました使徒言行録が、いよいよ、本日で最後になりました。神さまが導いて下さり、皆さんと共に御言葉を聞き続けることが出来たことを、本当に心から感謝いたします。
さて、本日の二節が、使徒言行録の最後の場面です。パウロが嵐の船旅を乗り越えて、とうとうやってきたローマです。それは、一体どのような結末なのでしょうか。

最後の二節は、こうです。「パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。」
この結末、とても明るい終わり方だと思いますが、なんだか少し物足りないような、急に終わってしまったような、中途半端な感じがしないでしょうか。
ここまでのパウロの山あり谷ありの歩みを知っている方は、パウロの裁判は一体この後どうなるのか。ローマの人々にどれくらい福音が伝わったのか。最後にパウロはどうやって死んだのか…。そういったことを、知りたくなると思います。
しかし、この使徒言行録の著者であるルカは、そのことには全く触れていないのです。

<パウロの歩み>
ここで、これまでの経過と、パウロのローマでの状況を、ご説明しておきたいと思います。
キリストを宣べ伝えている伝道者パウロは、エルサレムでユダヤ人の反感を買い、騒動を起こされました。それで、ローマ帝国の兵士に保護される形で捕えられて、囚人になったのです。ユダヤ人はパウロを裁判で訴えましたが、ローマ市民権を持つパウロは、ローマ皇帝に上訴することが出来ました。それで、法廷に出頭するため、囚人としてローマまでやって来たのです。ここまでやって来るための船旅は、途中で嵐に遭い、難破したりして、本当に困難な、命がけの旅でした。
到着すると、右のページの16節にあるように、「わたしたちがローマに入ったとき、パウロは番兵を一人つけられたが、自分だけで住むことを許された」とあります。パウロは囚人ですから、ゆるやかな軟禁状態に置かれたのです。

そうして過ごした「丸二年間」です。この30節の「丸二年間」の月日というのは、ローマでの裁判に関係している期間だと考えられています。ローマでは、裁判で18か月の間に訴えた人が出頭しなければ、その裁判は無効になるという決まりがあったそうです。ですから、この二年間の内に、訴えていたエルサレムのユダヤ人の指導者たちは、結局ローマまで出頭しなかったのでしょう。そうして手続も経て、パウロはやっと二年後に自由の身になったのではないかと考えられています。
しかし、最後にパウロが殉教したのは間違いないようです。皇帝ネロの時代の迫害で殉教した、というのが有力な説です。この丸二年間の後すぐだったのか、一度自由になって、他の地で伝道してからだったのか、それは様々な説があり、よく分かっていません。
私なんかも、ついついそのようなパウロの生涯についてのことを知りたくなってしまいます。しかし、使徒言行録は、そのことには一切関心を注ぎません。それは、使徒言行録の主題が、使徒たちや、パウロの生涯を残すための「伝記」ではないからです。

<聖霊言行録、神の国の広がり>
最初の説教でもお伝えしたことですが、この「使徒言行録」は「聖霊言行録」と呼ばれることがあります。この書物には、「神の国」が宣べ伝えられ、人々をキリストの救いに与らせる、聖霊のお働きが、一貫して語られているからです。

この主題は、「使徒言行録」の初めと最後を見れば明らかです。最後の31節には、「全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。」とあります。
そして、最初の部分、1:3を見てみて下さい。(213頁)「イエスは苦難を受けた後(のち)、ご自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。」とあります。

つまり「使徒言行録」は、復活の主イエスがエルサレムで使徒たちに「神の国」を教えられたところから始まり、最後はパウロがローマで異邦人に「神の国」を教え続けるというところで終わっているのです。
エルサレムで、主イエスによって実現した「神の国」が世界に広がっていく。キリストの救いの恵みが人々に、世界に満ちていく。それが、「使徒言行録」の主題です。そして、この「神の国」、救いが広く宣べ伝えられていくことこそ、主イエスが天に昇った後に遣わして下さった、聖霊なる神の御業なのです。

「神の国」というのは、神がまことの王となって治めて下さる、ということであり、「神のご支配」と言い換えることができます。
それは、神の御子である主イエス・キリストが教え、ご自身が救いの御業によって実現して下さったことです。主イエスは、神から離れ、滅びに向かっているわたしたちのために、ご自分の十字架の死によって罪を赦してくださいました。そして復活し、死にも悪にも勝利され、全てを支配する方となって、まことの王として天に座しておられるのです。この方は、ご自分の命を与えて、わたしたちを愛の内に守り、養い、支配して下さる王です。
もう罪は主イエスの十字架によって赦されたのだから、その救いを信じ、神の許に立ち帰り、このまことの王のご支配のもと、神の恵みのもとで生きる者となるようにと、神は人々を招いておられるのです。

主イエスは天に昇られた後、2章でペンテコステの出来事が語られていたように、約束されていた聖霊を弟子たちに遣わして下さいました。そして、神が選び、招かれた群れである「教会」が誕生したのです。そして、聖霊を受けた者たちによって、この「神の国」、主イエス・キリストの福音が宣べ伝えられていきました。
主イエスが救いのみ業を成し遂げられて天に昇られた後、聖霊によって、今度はその救いを宣べ伝える「教会」の歩みが始まっていったのです。

その中で、パウロも、主イエスと出会い、罪の支配の中から救われ、また神に選ばれて、キリストを伝道する者となりました。その伝道の歩みには、いつも主イエスが共におられ、聖霊なる神の導きがあったことが、使徒言行録では語られてきました。
ですから、パウロがローマで異邦人の人々に「神の国を教え続けた」という結末は、パウロが成し遂げた功績として語られているのではありません。復活の主イエスが聖霊にあっていつもパウロと共にいて下さり、さらに多くの人々を救いへ招くために、パウロを通して神御自身がなさって下さった御業として、語られているのです。

<約束の成就>
 そのように、使徒言行録を、神のご計画が、神御自身によって力強く進められていった、という視点で見る時、この最後の一節で「神の言葉」が見事に実現していることを知ることが出来ます。

 それは、1:8で、復活した主イエスが使徒たちに「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリヤの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」と言われたことです。

 主イエスの約束の通り、聖霊が降り、エルサレムで「教会」が誕生しました。
そこで使徒たちは、主イエスは救い主であると告げ知らせ、多くのキリスト者が起こされました。しかし、同胞のユダヤ人からは迫害され、エルサレムから逃れる者も多くおりました。しかしまた逃亡先で、キリスト者が福音を語り、ユダヤとサマリヤの全土に福音は広がっていきました。さらに福音は異邦人にも語られ、各地に異邦人の教会が誕生しました。

この救いの広がりは、地理的な広がりだけではありません。これは、救いが旧約聖書の神の民であるユダヤ人だけに与えられるのではなく、他の国の人々、異邦人にも、主イエスを信じる者には皆、分け隔てなく与えられるということです。これはつまり、人の正しさとか、条件や資格、良い業などによらず、ただ信仰によって、ただ神の恵みによって救われる、という福音の真理を示しました。

しかし、異邦人が神の救いに与るということは、ユダヤ人にとっては、全く考えられないことでした。ユダヤ人は、自分たちだけが神に救われるべき神の民だと自負していたからです。ですから、誰でもキリストを信じる信仰によって救いが与えられる、他の条件は何もいらない、と教えるキリスト教会は、ユダヤ人にとって面白くない存在だったのです。

しかし、神の御心は、この旧約聖書の神の民ユダヤ人を用いて、救いのみ業を実現し、地の果ての、すべての国の人々を祝福する、ということでした。ですから、神は御子主イエスを救い主としてこのユダヤ人の中に遣わし、十字架による罪の赦しのみ業を成し遂げられたのです。そして、この方を信じる者すべてを「新しい神の民」として、召し集められるのです。それが、教会です。

そして今回、パウロによって、当時の人々からしたらまことに「地の果て」であるローマの異邦人にまで、主イエスは救い主である、ということが証しされていったのです。
主イエスのご命令、また約束でもあるこの言葉が、確かに実現し、神の御心が成就しているのです。

 また、教会の祈りが聞かれたことも、最後の31節で明らかです。
 31節に「全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教えた」とあります。ここで「自由に」と訳されている言葉は、他の箇所では「大胆に」とか「勇敢に」と訳されている言葉と同じです。
 4:29を見てみますと、ペトロとヨハネがキリストの復活を宣べ伝えているという理由で、捕えられて牢に入れられたことがありました。そして釈放された後、教会の人々が皆で心を一つにして神に祈った祈りが書かれていました。
その中の4:29にはこのようにありました。「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕(しもべ)たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。」

そうしてこの後も「教会」は、どんな迫害や困難に遭っても、大胆に神の御言葉、つまり、神の国、主イエスの救いの恵みを語ってきました。
教会が、聖霊によって、大胆に、勇敢に御言葉を語り続けることによって、多くの人々が神の救いへの招きの声を聞き、今も生きて働いておられるキリストと出会い、信仰へと導かれていったのです。
そうして、使徒言行録の結末で、パウロもまた、「地の果て」であるローマで、大胆に御言葉を語る者とされています。ここに確かに、教会の祈りが実ったことが示されているのです。

<神の言葉はつながれていません>
 さて、もう一度31節に注目すると「全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。」とありました。パウロが軟禁状態にあり、最後には殉教の死を遂げたことは、お話した通りです。それは、何の妨げもなかったと言えるのでしょうか。実際には不自由だらけで、多くの制限もあったと思うのです。

 しかし、これがパウロの伝記ではなく、聖霊のお働きを記すものだということをわたしたちは見てきました。何にも妨げられなかったのは、パウロというより、むしろ「神の言葉」だったと言えるでしょう。
キリストに反発する人々が、神の国、キリストの福音を語ろうとするパウロを、どれだけ閉じ込めても、鎖で繋いでも、口を封じようと脅しても、それは神の御言葉にとって、何の妨げにもなりませんでした。神の御言葉は、人の策略や妨害などによって決して妨げられることなく、着実に、人々に告げ知らされ続けたのです。

 テモテへの手紙二2:9で、パウロが書いたこととして、このような言葉が残されています。「この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません。」

 生きておられる神の御言葉は、必ず実現します。神の御言葉は、鎖に繋がれることも、妨害されることもありません。
 人の目から見て、福音が宣べ伝えられるのに困難な状況や、不可能だと思われるような状態であっても、すべてをお造りになり、すべてを支配しておられる神の御言葉は、決して妨げられることはないのです。

 しかしこのことを聞くと、もしかするとある人は、必ず御言葉が実現するのであれば、パウロは苦しんだり死んだりしなくても良かったのではないか、また多くの殉教者たちの血は、無駄であったのだろうか、と思ってしまうかも知れません。
しかし、そうではありません。神は、使い捨てのコマのように、パウロをお用いになったのではありません。またパウロも、神の御言葉は必ず実現するから、自分は何もしなくて良い、とは考えなかったのです。

 それは、何より一番に血を流し、最も深い苦しみを受け、人の罪を赦すために死なれたのは、神の御子主イエスご自身であったからです。御自分に敵対する者をも赦し、救い、愛するために、主イエス・キリストは、ご自分の命を与えて下さいました。
パウロも、また私たちも皆、この主イエスの命をいただいて救われたのです。これほどの神の愛に、生かされているのです。
この神の愛にあずかったからこそ、この救いにあずかったからこそ、パウロは、出会った人々に、また自分に敵対する人々にも、このキリストの救いの恵みを受けなさい、この神の愛に生きなさいと、告げずにはおれなかったのだと思います。いただいた恵みの大きさの故に、その福音の故に、神を愛し、人を愛し、喜んで自分自身を献げていく、主イエスの十字架の苦しみに従っていく、そのような生き方を与えられたのです。
 どのような苦しみの中でも、困難の中でも、命の危機にあっても、パウロのために命を捨て、そして死に勝利された復活の主が、いつも共におられるからです。

<福音はわたしたちに>
 そんなパウロが殉教した後も、教会は、聖霊に力を与えられて、祈りつつ、大胆に神の言葉を宣べ伝え続けました。歴史の中で、何度も迫害や、戦争や、分裂がありました。しかし、神の愛の御心、つまり、地の果てまですべての人々に、神の国、主イエスの福音を告げ知らせ、救いへと招いて下さるご計画は、妨げられることなく、力強く前進していったのです。
 そうして、今、日本に生きるわたしたちにも、神の言葉、救いの招きが語られ、天におられるキリストとの出会いが与えられ、教会の群れに、新しい神の民に加えられているのです。

 そうすると私たちは、この使徒言行録がまだ続いていることに気付くのではないでしょうか。確かに「神の言葉」が、使徒言行録の記述の中で成就したことが語られていますが、しかしまだ現在進行中でもあるのです。

 1:8で主イエスは「あなたがたは…地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」と言われました。確かに、パウロの時代の当時の「地の果て」を意味するローマに、福音は伝えられました。
しかしわたしたちは、まだ主イエスの福音を知らない人が多くいることを知っています。この主イエスのご命令は、まだ今のわたしたちに有効であり、また今のわたしたちにこそ、与えられている使命です。

 また、1:11には主イエスが天に昇られた後、天使が弟子たちにこのように語りました。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」
 ここには、天に上げられらた主イエスが再び来られる約束が示されています。それは終末の日、神の国の完成の時です。
 主イエスは、まだ再臨しておられません。わたしたちは、未だに、主イエスが来られる終わりの日、神の国の完成の時を、天を見上げつつ待っているのです。  

 教会の歩みは、まだ続いていきます。聖霊のお働きは、天におられる主イエスの救いのみ業は、終りの日まで、まだこれからも続いていくのです。

<遣わされる>
 ある人は、この使徒言行録の結末を「プロローグのためのエピローグ」と言いました。「はじまりのための終わり」ということです。この結末は、わたしたちの旅の始まりを告げるものです。
 主イエスが教えてくださった神の国は、聖霊によって誕生した教会の時から、ずっと語られ続け、今現代のわたしたちにも届きました。この横浜の地でも、聖霊によって教会が誕生し、また神の国を教え続けています。
復活の主イエスの「神の国」です。次は、わたしたちの教会が、未来に向けて、さらなる地の果てに向けて、この神の国、キリストの福音を語り繋いでいくのです。

 主イエスは、今ここにいるわたしたちに命じられます。「わたしがあなたを遣わす。」「地の果てに至るまで、わたしの証人となれ。」
 これは聖霊言行録です。わたしたちは、聖霊の力に満たされて、力を受けて、聖霊のお働きのもとに、神の国、主イエス・キリストの福音を、大胆に語る者とされるのです。
 初代教会の人々が、迫害の中で心を一つにして「あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください」との祈りに、わたしたちもまた心を合わせて、「大胆に御言葉を語らせて下さい」と、この祈りを重ねていくのです。

 今の日本の教会は閉塞感に包まれていると、口々に言われます。伝道が進まない。教会の人数が増えない。人々に福音が受け入れられない。信仰者であることを社会で公にしにくい。さまざまな困難や妨げに覆われているように感じます。
しかし、使徒言行録が示していることは、神の言葉は必ず実現するということです。神の御心、神の救いのご計画は、必ず実現するということです。
 わたしたちは、その確信に立って、聖霊の力を受けて、恐れず大胆に、神の国、キリストの救いの恵みを、語っていきたいのです。  

 イザヤ書55章は、旧約聖書に語られた預言ですが、この御言葉は確かに使徒言行録において実現しているし、またわたしたちにおいても、これから実現していくでしょう。
 後半の8~13節を、もう一度お読みしたいと思います。(イザヤ書55章8~13節)

 使徒言行録の後、伝道の旅を続けていくのは、わたしたちです。
 聖霊の力を受けて、すべてに勝利しておられる復活の主イエスと共に、神の国の完成の日まで、「大胆に、何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて」、語り続けてまいりましょう。

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