夕礼拝

子の賛美

「子の賛美」 副牧師 岩住賢

・ 旧約聖書:詩編第8編1-10節
・ 新約聖書:マタイによる福音書第11章25-27節
・ 讃美歌:17、18

 神様は私たちを、ご自分の「子」としてくださる。神様はわたしたちのすべてを知っていてくださっている。わたしたちを、見捨てられた子のようにはされない。守ってくださっている。教えてくださっている。主イエスを通して、御自身を教えてくださっている。その恵みに、その恵みを賜った神様を、今日、みなで共にほめたたえたい。この場にいるあらゆる心が、天地の主である父をほめたたえますように。今日だけでなく、生涯最後の時まで神をほめたたえ続け、天に入り、永遠の栄光に入るときも、なおも神をほめたたえますように。

 御子は、本日の箇所で、父をほめたたえています。25節「天地の主である父よ、わたしたちをほめたたえます。」。御子の、この讃美からわたしたちが、神様をほめたたえてえるということを、共に、考えてみたい。
 私たちが考えてみたいことは、いかにして神様をほめたたえることができるかということです。いかにして私たちは神様をほめたたえることができるでしょうか?
答えを、先に言えば、私たちは神を賛美し、一切の栄誉を神に与えたいと願い、一切の善を神に帰し、その聖なる御名をあがめることによって、神様をほめるたたえることができる。単純に言い換えるのならば、神様がわたしたちに与えてくださった恵みに感謝し、感謝を伝えること。それが神様をほめたたえることになります。感謝と栄誉をささげること、感謝と栄光をセットにして、主に応答することそれが讃美であります。「主よ、ありがとうございます、わたしたちは偉大であられます。」「主よ、ありがとうございます。わたしたちの憐れみは、地の底よりも深く、天よりも高い」「主よ、ありがとうございます。わたしたちは幼いわたしをお見捨てならず愛してくださいました。」このように、恵みを受けたものが、その恵みを明らかにしつつ、主に感謝を表明する、主に栄光を帰す。それが、わたしたちが、できる神様への讃美であり、主をほめたたえることです。わたしたちが受けている祝福を、主に感謝しながらお返しすることが、主をほめたたえることであるのです。
 私たちは天地の主である神、この天と地を創造された主をほめたたえます。この天と地には、主の創造された、壮大なもの、美しいもの、不思議なもので溢れているでしょうか。その複雑さ、不思議さを、壮大さ、美しさを、主は惜しげもなく私たちの回りにおいてくださり、味あわせてくださる! さらに、私たちは、今も養って下さる天地の主である父をほめたたえます。いかに惜しみなく父なる神様は私たちに収穫と実りの季節を送ってくださることか! 私たちは、私たちを贖い、ご自分の子としてくださった恵みの神をほめたたえます。これこそ私たちの最高の賛美を呼び起こすべきことであります。
 ホセア書11章1節「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。」わたしたちも、古のイスラエルのように、見捨てられた幼子、罪に支配され、奴隷となっていた小さな子どもでありました。そのわたしたちを、主は、ご自分の独り子を十字架につけることで、孤児となり、罪の奴隷となっていたわたしたちを買い取ってくださった。罪の奴隷となっていたわたしたちを、御自身の子とするためには、神の子の命が必要であった。その愛する独り子イエス様の価値と比べることもできないほど、比べること、それをすることすらおこがましい無価値なわたしたちを、無限に価値ある方の命を差し出し、交換してくださった。捨て置かれても誰も悲しみもしないわたしたちを、価値あるものとして、そして自分の子のひとりしてくださった。これにまさる恵み、愛を、わたしは他に知りません。このことに感謝し、このことを歌い、主をほめたたえること、最大の讃美でありましょう。
今日の御言葉の内で、唯一で真の神の子である、主イエスが賛美されています。わたしたちを救うために捨てられた独り子が、父なる神様の何をほめたたえておられたのか。それは父なる神様が、御自身の愛と恵みを、「幼子のような者にお示しに」なったことでありました。「幼子のような者にお示しになった」その父の御心、御業を、御子はほめたたえておられました。捨てられることになる独り子、その方が、御自身が捨てられる原因となったわたしたちのことで、喜ばれた。わたしたちが神様の愛と恵みを知ったことを、喜ばれた。そしてそれをお示しになった父に感謝した。・・・ありえない。これは、本当は、ありえないことです。わたしたちに考えられない。こんなことはできない。わたしならば、「こいつせいで、わたしは死ぬことになるのだ、父よ、どうして、本当の子である私を見捨てて、この子を救うのか」と、言ってしまう。ほめたたえる、どころか、わたしならば、主の御心を疑ってしまう。主の御心を恨んでしまうでありましょう。しかし、イエス様は、「そうです、父よ、これは御心に適うことでした。」と言われる。わたしは、ここから、悲しい調べが聞こえてくるように思えました。わたしの今の心情からこの言葉をいうのならば、「そうです、父よ、これは御心に適うことでした。」というような、ため息と諦めがきこえてくるように思えました。しかし、主イエスのこの言葉は、そうではない、真剣に、真摯に、父の愛を思っている。そのような言葉でしょう。イエス様は、父の愛の深さを知っておられた。父が、哀れな孤児であるわたしたちを、どんなに深く愛しておられたのかを、独り子は知っておられた。父の御心をすべてご存知であられる御子は、父が、自分を捨てるほどに、この無価値な他人であるわたしたちを愛しておられることを知っておられた。それは、なんと、つらい、真実でしょうか。父の深い愛が、違う子に向けられていることを知ること。これほど、むごいことはありません。胸が張り裂けそうになります。そのように、わたしたちは、本当は、御子から、恨まれても仕方がない。呪われても仕方がない。しかし、その御子は、そうはされない。父に感謝しておられた。その幼子たちが、父の愛を知ることを本当に喜ばれていた。それはなぜか、それは御子もわたしたちのこと、父と同じほど、深く愛されておられたからです。だから、自分が死んでくださった。その道を選んで進んでくださった。わたしたちを救うための死の道を歩むために、生まれてくださった。わたしたちは、この御子の愛の深さを、その深い愛を受けていることに、感謝しないことなどできない。その御子を差し出された父をほめたたないことなどできません。
 主イエスは、わたしたちが「幼子」のようであることを、知っておられた。この「幼子たち」はただの幼児というわけではありません。もっと悲惨な幼子であった。わたしたちは、捨てられた幼子のようであった。わたしたちは、両親を失った子ども、保護者のいない孤児のようであった。ひとりぼっちで残されているようなものであった。ひとぼっちになっており、疲れたとき、親の膝の上に座り安心して眠ることもできない。頭をぶつけた時に、なでてもらえる手も、心を傷つけられた時に、飛び込むことのできる腕も胸も、ない。「父さん」、と云うことはできるが、何の声も帰ってこない。「母さん」、と泣くことはできるが、その母からの返事はない。そのように、わたしたちはひとりぼっちであった。今も、そのような、孤独を感じておられる人はここにはおられないだろうか。
 しかし、私たちはもはやそうではない。今や、私たちは孤児ではない。主イエスは共におられる。キリストの霊である、聖霊なる神様が、わたしたちと共にいまおられる。確かにイエス様はからだをもって地上にはおられないけれども、聖霊なる神様を通して、臨在されている。実は、そのほうが、良いのである。そのほうが、すべての人が、主と共にいることできる。もし今主が肉体をもって地上におられるとしたら、世界の人々がこぞってやって来るでありましょう。そうしたら、わたしは、その着物のふさにすら触れることはできないと思います。いずれにしても、そうであるならば、全員が一度に共にあることはできない。全員がイエス様に語りかけることもできない。世界中に、主と話をしようとする者が何千人何万人もが列をなして待つことになります。だが、もし主が、からだをもって地上におられたとしたら、いかにしてその全員が主のもとに行けるでしょうか。わたしたちはみな、主に何かを告げたいと欲しても、だが、からだがあっては、主はわたしたちがたの中のひとりか二人しか一度に受け入れることができないであろう。
 しかし、今、霊にあってイエス様がわたしたちと共にあってくださるなら、わたしたちはこの席から立ち上がる必要すらない。一言も口にする必要すらない。イエス様は、わたしたちの思念、心が語ることを聞き、わたしたちのあらゆる必要に同時に注意を払ってくださる。私たちが主のもとに行こうとして大群衆の中を押し合いへし合いする必要はない。というのも、主は霊において、私たちの間に内の至る所に臨在しておられ、主の愛する者たちはみな主と話ができる。わたしたちは、今この瞬間にも、主に向かって、他の誰にもあえて明かそうとはしないような数々の悲しみを申し上げることができる。わたしたちは、それらを主に打ち明ける中で、こう感じるであろう。『自分はそれらを空中に囁きかけているのではなく。現実に生きておられる「あのお方」が自分の云うことを聞いておられるのだ。』、と。
 わたしたちは生ける救い主の子どもたちです。そのように、父が今も、霊を通して、子を通して、わたしたちと共に下り、わたしたちの言葉を聞いてくださる。そのような父がおられるのです。わたしたちには、近しく、愛するお方がいる。このお方は、真夜中にも寝室の中におり、日中の働きの場でも、その労苦と焼けるような暑さの中にもおられる。だからわたしたちは見捨てられた子どもではない。「力ある神、永遠の父、平和の君」がわたしたちとともにおられる。わたしたちの主はここにおられる。そして、母に慰められる者のように、父なる神はわたしたちを慰めてくださる。

 わたしたちは、かつて、食べ物や着る物があり、食糧を十分に蓄え、家内が快適に保たれるよう常に配慮してくれる親はいない孤児のようでありました。誰がその求めを満たしてくれない。そのような父親はいない、母親もいなくなっている。だれも、この小さなさまよい人であるわたしたちの面倒を見てくれなかった。しかし、私たちは今は、そうではない。主イエスは私たちを孤児にしてはおられない。ご自分の民に対するその配慮は、「イエスが愛しておられた」マリヤや、マルタや、ラザロとともに食卓に着いておられたときとくらべて、今も、少しも少なくなってはいない。五千人の給食に比べても、少しも少なくなってはいない。その供給は、少なくなるどころか、増し加わっていさえします。というのも、聖霊が私たちに与えられている以上、私たちには、より豊富な食べ物があり、より多くの霊的な慰めにふんだんにあずかっているからです。わたしたちの魂は、今晩、飢えているだろうか? イエス様はわたしたちに、天からのパンを与えてくださる。わたしたちは今晩、渇いているだろうか!あの岩からの水は、流れるのをやめていない。今晩の御言葉を通しても、それを受けている聖霊を通して、わたしたちの霊的な飢えと渇きは今満たされています。わたしたちは、自分の必要を、祈りにおいて、知らせるだけで、そのすべてを満たされることができる。主イエスは、この集会の真ん中で、いつでも恵み深くなろうとしておられます。主は、その輝く御手をもってこの場におられ、その御手を開いては、あらゆる生きた魂の求めを、魂の飢え渇きを、満たそうとしておられます。
主はなおもわたしたちの羊飼いであられます。主は、わたしたちを養い続け、ついには死の暗い谷を通ってわたしたちを導き、栄光の丘の頂上で輝く牧草地へと連れ出してくださる。主イエスは決してわたしたちを離れず、また、わたしたちを捨てないからである。だから、わたしたちは今、窮乏してはいないはずです。
 またわたしたちは、かつて、このような孤児でありました。教えられないまま放り出されているこどもでありました。子どもの人格を形成するのに最も重要となるものとして、親にまさる者はいない。しかし、孤児は、それを失っている。地上で過ごす日々に、父か母を失うのは、子どもにとって非常に悲しい喪失である。というのも、いかに優秀な教育者が、力を尽くしたとしても、それは急場しのぎでしかないし、部分的なものである。ある説教者は、親の愛が子どもの精神を形造るべきなのであると言っている。しかし、愛する兄弟姉妹。わたしたちは、孤児ではない。私たち、主イエスを信じる者たちは、教育を受けないまま放置されてはいない。主イエス自らが地上におられないことは真実である。たぶん、わたしたちの中のある人々は、こう願っているであろう。主の日がやって来て、直接、主のことばに耳を傾けたい、と!この講壇を見上げて、あの十字架につけられたお方を直接、目にし、その説教を聞くとしたら、それほどすばらしいことはないでしょう! 
 聖霊が与えられているのは、わたしたちに理解できない真理がないようにするためです。その教えによれば、いかに深い恵みでも理解することができる。これまで困惑させられてきた、神のことばの難解な箇所をも知り、受け止めることができる。へりくだって主イエスを仰ぎ見さえすれば、聖霊なる神様は、なおもわたしたちに教えてくださる。たといわたしたちが貧しく、無知であっても、また、聖書の中のほとんど一言も読めないかもしれなくとも、そうした一切にもかかわらず、わたしたちは、神様のみこころのこと[Iコリ2:11]において、世界のどの神学博士よりも深い手ほどきを受けられる。ただ書物や文字のもとにしか行かない人たちは、神の御前においては愚か者たちとなることがありえます。だが、イエス様のもとに行き、その御足の元に座る者たち、また、その御霊から教えられることを願う者たちは、知恵を与えられ、救いを受けるのです。父なる神様をほめたたえます。わたしたちはそのように孤児にされてはいない。私たちのそばには、今も《教師》がいる。教えて下さる聖霊なる神様がおられます。
 天地の《主》を愛する人たち。わたしたちは、この世においてひとりぼっちではない。たとえ、わたしたちに地上の友がひとりもいなくとも、たとえ自分の思い煩いを相談できる人が誰ひとりなくとも、たとえ本当に誰もいない砂漠の真ん中に置かれて全く孤独であるとしても、それでも、主イエスがともにおられ、本当にわたしたちとともにおられ、実際的にわたしたちとともにおられ、わたしたちを助けることができ、いつでも助けようとしておられるのである。また、わたしたには、本当に善良で親切な守り手、弁護者、慰め主、教師が、そのすべてであられる聖霊なる神様が、いまこの瞬間にも間近に、本当に近く、この内にあるのです。だからわたしたちは、もはや孤児ではないのです。父は、捨てられた孤独な幼子であったわたしたちのことを全部知ってくださっていた。「父のほかに子を知る者はなく」とイエス様が賛美しておられます。父なる神様は、御子のすべてを知っていてくださっていることを、知っておられた。だから、神の子とされたわたしたちのすべてをもご存知であられることも、知っておられた。わたしたちが、見捨てられた孤児のように、愛されることをしらずに、すがるものもなく、食べるのにも飲むのにも困り、教えてくれる人もいない、そのような不安、孤独ゆえの、苦しみ、痛み、孤独ゆえの、愛を知らないゆえの、霊的な飢え渇きに苦しむ、わたしたちを、父は知ってくださっていた。
 そのような孤児であったわたしたちを、父は愛してくださった。愛すために、御子を捨てられた。御子を手放し、わたしたちを子としてくださった。その子たちを、父は今も、孤独にさせられない。御子を甦らせ、わたしたちの本当の主として、本当の兄弟として、本当の友として与えてくださった。さらに、聖霊なる神様をあたえてくださった。聖霊なる神様は、わたしたちを守る者として、教える者として、飢え渇きを満たすものとして、養うものとして、つまり、聖霊なる神様は、もっとも近くにおられる保護者として、父や母のように、わたしたちと今共にいてくださっている。その保護者の愛、父や母の愛を、神様がわたしたちに、示し、与えてくださったのです。幼子のようなわたしたちに、示し、与えてくださったのです。
 その恵みに、その恵みを賜った神様を、今日、みなで共にほめたたえたい。この場にいるあらゆる魂が、天地の主である父をほめたたえますように。今日だけでなく、生涯最後の時まで神をほめたたえ続け、御国に入り、永遠の栄光に入るときも、なおも神をほめたたえますように。

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