主日礼拝

主の食卓に着く

「主の食卓に着く」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編 第23編1-6節
・ 新約聖書:ルカによる福音書 第22章14-30節
・ 讃美歌:

最後の晩餐
 本日は「棕櫚の主日」、今週は「受難週」です。主イエス・キリストが人々の歓呼の声に迎えられてエルサレムに入ったが、その週の内に捕えられ、裁かれ、死刑の判決を受けて十字架につけられて死なれた、そのことが起った一週間を覚えて歩むのが受難週です。今週の金曜日が主イエスの十字架の死の日、いわゆる「受難日」です。そして来週の日曜日が、主イエスの復活の日、イースターです。これまで私たちは主の十字架の苦しみと死を覚えるレント、受難節を歩んできましたが、今週はさらに、主イエスの最後の一週間の歩みを覚えつつ、その十字架の苦しみと死に思いを集めていきたいのです。そのために本日の礼拝においては、いつもの使徒信条に基づく説教からは離れて、主イエスの受難週の歩みの中から一つの場面を取り上げたいと思います。ルカによる福音書第22章14節以下です。これは、主イエスが十字架につけられる前の晩、私たちの感覚で言うと木曜日の晩のことです。ユダヤの暦では日没から一日が始まりますから、既に金曜日、受難日が始まっているのですが、この晩に、主イエスは弟子たちと共に「過越の食事」をなさいました。15節に「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた」という主イエスのお言葉があります。この食事が、苦しみを受ける、つまり捕えられて十字架につけられる前の最後の食事、弟子たちとのいわゆる「最後の晩餐」となったのです。

聖餐が定められた
 この最後の晩餐において、主イエスが先ず杯を取り上げて「これを取り、互いに回して飲みなさい」とおっしゃったこと、それからパンを取り、感謝の祈りを唱えてそれを裂き、弟子たちに与えて食べさせたこと、さらに食事を終えてから、杯をも弟子たちに回して飲ませたことがここに語られています。杯、パン、杯という順で主イエスが弟子たちに与えていかれたのです。「過越の食事」は決められた作法に従ってなされます。パンとぶどう酒の杯の他にもいくつか用意されるべきものが決まっており、それを食べる順序も決まっており、家の主人、家長が、その意味を確かめながら家族にそれを分け与えていくのです。その食事全体を通して、昔イスラエルの民がエジプトで奴隷とされていたところから、主なる神が救い出して下さったこと、その時に過越の小羊が殺され、その犠牲によって救いが実現したことを覚え、記念していくのです。主イエスはこの過越の食事を弟子たちと共に取りつつ、その中のパンとその後の杯に特別な意味を持たせて弟子たちに分け与えました。パンについては「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われ、杯については「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」と言われたのです。これはつまり、主イエスこそ過越の小羊だということです。過越の小羊の死によって奴隷とされていたイスラエルの民の解放が実現したように、主イエスがこの後十字架につけられて殺されることによって、罪の奴隷となっている人々の解放、救いが実現するのです。過越の小羊である主イエスの死によるこの救いに弟子たちがあずかるために、主イエスはパンをご自分の体として、杯をご自分の血として与えて下さったのです。このことが、教会の礼拝において行われている聖餐の起源となりました。教会は、「わたしの記念としてこのように行いなさい」という主イエスのご命令に従って、聖餐を行っているのです。聖餐において、主イエスが最後の晩餐で弟子たちに分け与えて下さったパンと杯に私たちもあずかり、主イエスの体と血とをいただいて、主イエスの十字架の死による救いにあずかるのです。最後の晩餐においてその聖餐が定められたことを、本日は見つめたいのです。

聖餐への備えのために
 「コロナ禍」になって二年、私たちの教会は、この聖餐を行うことがほとんど出来ませんでした。昨年度はクリスマス礼拝において一度だけあずかることができました。今年度はその回数をできるだけ増やしていきたいと願っています。来週のイースターの礼拝において聖餐を行う予定です。そして今週の木曜日の受難週祈祷会においても、聖餐にあずかる予定です。まさに聖餐が定められた最後の晩餐の日である受難週の木曜日に、それを行おうとしているのです。またこの受難週祈祷会での聖餐は、川嶋副牧師の司式による最初の聖餐となることも覚えていただきたいと思います。本日は聖餐が定められたことを語っているこの箇所からみ言葉に聞くことによって、まもなくひさしぶりに聖餐にあずかることへの備えをしたいのです。

主イエスの体をいただく
 主イエスはパンを分け与えるに際して「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である」とおっしゃいました。「私の体をあなたがたに与える」とおっしゃったのです。それが聖餐の意味です。聖餐において、主イエスが、ご自分の体を、私たちに与えて下さるのです。このことに先ず私たちは驚かなければなりません。主イエスによる救いは、主イエスがご自分の体を私たちに与えて下さることによって実現するのです。つまり主イエスは私たちに、「こうしたら救われる」という「方法」を教えて下さったのではありません。神の救いの恵みを感じ取るためにはこういうものの考え方をしたらよい、という「考え方」を教えてくれたのでもありません。ご自分の体を与えて下さったのです。私たちは、主イエスが教えてくれた方法や考え方を用いて自分で救いを得るのではなくて、主イエスがご自分の体を与えて下さる、その体をいただくことによって救われるのです。

神がご自身を与えて下さった
 主イエスがご自分の体を私たちに与えて下さったことは、この最後の晩餐、そして聖餐において始まったのではありません。その救いのみ業は、主イエスが人間となってこの世に生まれて下さったことから始まっています。神の独り子であり、ご自身がまことの神である主イエスが、私たちと同じ人間となってこの世に生まれ、肉体をもって生きて下さった。それは、神がその独り子をお与えになったほどに、世を、私たちを、愛して下さったということであり、主イエスがその父なる神のみ心を受け止めて、ご自分の体を私たち人間に与えて下さったということです。聖書が告げている救いは、神が私たちと同じ肉体を持つ人間となってこの世を生きて下さったことによる救いです。それは、神がご自身の体を私たちに与えて下さったという驚くべき出来事なのです。

主イエスの十字架による救いを体験する
 そして主イエスは、人間となってこの世を生きて下さっただけでなく、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さいました。造り主である神に背き逆らい、神ではなく自分を中心として生きており、そのために隣人を愛するよりもむしろ傷つけてばかりいる私たちは、その罪のゆえに神に裁かれ、滅ぼされて当然です。しかし主イエスは、その私たちの罪を全て背負って、私たちに代って、十字架にかかって死んでくださったのです。それはまさに主イエスがご自分の体を私たちの救いのために与えて下さったということです。十字架の死の前の晩に「あなたがたのために与えられるわたしの体」とおっしゃったのは、私はあなたがたの罪を全て背負って十字架にかかって死ぬ、そのようにして私の体をあなたがたに与える、ということです。聖餐のパンにあずかることは、十字架にかかって死ぬことによって与えて下さった主イエスの体をいただくことであり、それによって私たちは主イエスの十字架の死による救いにあずかるのです。「わたしの記念としてこのように行いなさい」と主イエスはおっしゃいました。記念として、というのは私たちの感覚では、過去にあったことを忘れないで覚えておくため、ということです。しかしこの言葉の意味は、ただ忘れないで記憶に留めておく、ということではありません。文字通りには「思い起こす」という言葉ですが、それによってその過去の出来事が現在の自分の現実となるのです。過去の出来事を今自分も生きる、それがこの「記念する」の意味です。「このように行いなさい」とあるのは、パンを裂いて共に食べることによって主イエスを記念することをこれからも続けなさい、ということです。主イエスはこうして聖餐を教会の行うべき聖なる礼典としてお定めになったのですが、その聖餐にあずかることによって私たちは、主イエスの十字架の死による救いを、ただ思い出し、記憶に留めるのではなくて、その救いに今この時、新たにあずかり、主イエスの体をいただいて、その救いによって生かされるのです。しかもそのことを、ただ心の中で思うのではなくて、パンを食べるという具体的な行為によって、体で体験するのです。私たちの体が、主イエスの体を食べて、主イエスと一つとされるのです。

主イエスの血による新しい契約を体験する
 主イエスはぶどう酒の杯をも弟子たちに回して与えるのに際してこう言われました。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」。ぶどう酒の杯は、主イエスの血を表しています。それが「あなたがたのために流される」、それは主イエスが十字架にかけられて死ぬことにおいて血を流すということです。血は旧約聖書以来、命の宿るものとされています。血を流すとは、命を注ぎ与えることです。主イエスは十字架にかかって血を流して死んで下さることによって、ご自分の命を私たち罪人の救いのために注ぎ与えて下さったのです。聖餐の杯にあずかることによって私たちは主イエスの命をいただき、その救いにあずかるのです。
 そしてこの杯は、「わたしの血による新しい契約である」と言われています。この「契約」は、人間どうしの取引における契約とは違います。これは神と人間との契約であり、それによって神がその人々の神となり、その人々は神の民となる、そういう神と人間との特別な関係が結ばれる契約です。旧約聖書の時代に、神はイスラエルの民とこの契約を結んで下さいました。それによってイスラエルは神の民とされたのです。その契約が結ばれる時には、動物の血が注がれました。犠牲の動物の命である血が注がれることによって、神と人間との間の契約が結ばれたのです。それはこの契約がまさに命がけのものであることを示しています。神と人間の関係は、一旦契約を結んだけれど都合が悪くなったらやめる、というようなものではないのです。
 主イエス・キリストは、十字架にかかって血を流して死ぬことによって、新しい契約を実現して下さいました。神と人間との関係を新しく結び直して下さったのです。私たちは、神に背き逆らう罪によって神との関係を壊してしまっています。神との繋がりを失っているのです。しかし神の独り子である主イエスが、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったことによって、神は私たちの罪を赦して下さり、その赦しに基づく新しい関係を結んで下さったのです。主イエスが十字架にかかって血を流して死んで下さったことによって、私たちは罪を赦されて、神の民として新しく生きることができるのです。その主イエスの血による新しい契約にあずかるために、主イエスは聖餐の杯を弟子たちに、そして私たちに与えて下さるのです。聖餐の杯にあずかることによって私たちは、主イエスが十字架の死によって実現して下さった罪の赦しにあずかり、神が新しい契約を結んで築いて下さった新しい神の民の一員とされて生き始めるのです。しかもその契約をただ心の中で思うのではなくて、杯を飲むという具体的な行為によって、体で体験するのです。

罪と弱さの中にある弟子たち
 このように主イエスは最後の晩餐において弟子たちにパンと杯を与えて、十字架にかかって死のうとしているご自分の体と血とにあずからせて下さいました。しかし21節以下を読むと、このパンと杯をいただいた者の中には、主イエスを裏切る者もいたことが分かります。主イエスはそのことを知っておられ、「人の子を裏切るその者は不幸だ」とおっしゃったのです。弟子たちは、自分たちのうち、いったい誰がそんなことをしようとしているのかと互いに議論をし始めたと23節にあります。その議論はいつしか、「自分たちのうちでだれがいちばん偉いのだろうか」という議論になったと24節にあります。主イエスが与えて下さる体であるパンを食べ、主イエスの血による新しい契約にあずかる杯を飲んだその弟子たちの中には、裏切る者がおり、誰が一番偉いか、という議論というか対立が生じる。まことに罪深く情けない姿です。その弟子たちに主イエスは言われました。「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい」。主イエスが語られたのは単なる謙遜の勧めではありません。次の27節にこう言われています。「食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である」。主イエスは、「あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい」というお言葉の通りに自らしておられるのです。そして私がしているようにあなたがたもしなさいと言っておられるのです。

給仕して下さる主イエス
 ここで主イエスが、私は食事の席に着く者ではなく、給仕する者のようにしている、と言っておられることに注目したいのです。「食事の席に着く」との関係で「給仕する」と訳されていますが、これは元々は「奉仕する、仕える」という言葉であり、「執事」の語源となった言葉です。主イエスが奉仕して下さって、弟子たちは食事の席に着いている、それは主イエスがご自分の体であるパンと、ご自分の血である杯を弟子たちに与えて下さったことを指しています。つまりここにも、聖餐のことが見つめられているのです。聖餐は、主イエス・キリストが私たちに奉仕して下さり、備え与えて下さる食事です。聖餐において、主イエスが給仕する者となって私たちに、ご自分の体であるパンと、ご自分の血である杯とをふるまい、与えて下さるのです。それによって、主イエスの十字架の死による救いに私たちをあずからせて下さるのです。私たちは主イエスによる給仕を受けて聖餐の席に着きます。その私たちの中には、主イエスを裏切ってしまう者もいるし、自分たちのうちで誰が一番偉いか、などという愚かな争いを繰り広げてしまう、まことに罪深く情けない者たちです。しかし主イエスはそのような私たちに仕えて下さり、給仕する者となって下さり、ご自分の体を私たちに与え、ご自分の血を流して新しい契約を打ち立て、私たちを神の民として新しく生かして下さるのです。

聖餐への備えとして求められていること
 従って、聖餐にあずかる私たちにその備えとして求められていることは、清く正しく立派な人であることではありません。どんなことがあっても主イエスに従っていくという強い信仰を持っていることでもありません。主イエスの弟子であること、主イエスに従って歩み出していること、それのみが聖餐にあずかる備えとして求められていることです。それはつまり洗礼を受けているということです。洗礼を受けるとは、主イエスの弟子となり、主イエスに従って歩み出すことです。そのように歩み出しても私たちは弱く罪深い者ですから、裏切ってしまうこともあります。それはユダだけではありません。ペトロはこの後三度主イエスを「知らない」と言ってしまうのだし、他の弟子たちも皆、主イエスの十字架の時には逃げ去ってしまうのです。つまり最後まで従い通すことができた者は一人もいなかったのです。また、洗礼を受けた信仰者の間にも、「誰が一番偉いか」という争いが起ったりもします。そのようにまことに弱く罪深く不信仰な私たちですが、しかし洗礼を受けて弟子となり、主イエスに従って歩み出している、その私たちを、主イエスは聖餐の食卓に招き、給仕をして下さり、ご自分の体と血とにあずからせて、養い導いて下さるのです。

主の食卓に着く
 28節以下には「あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。だから、わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる」とあります。主イエスが試練に遭った時、最後まで一緒に踏みとどまることが弟子たちは出来なかったのです。だからこれは何のことか、と思います。しかしその弟子たちのために、主イエスは十字架にかかって死んで下さり、彼らの罪を赦して新しい契約を打ち立て、そして復活して、彼らを再びご自分のもとに招いて下さいました。復活した主イエスのもとに立ち帰った弟子たちは、罪の赦しと新しい命を与えられて、主イエスによって使徒として遣わされていったのです。その使徒たちに約束されている救いの完成のことがこの28節以下に語られているのだと言えるでしょう。そして彼らがこの救いの完成に向かって、種々の試練の中で主イエスと一緒に踏みとどまって歩んでいく、その信仰の歩みを支えるために、主イエスは聖餐を教会に与えて下さったのです。同じ恵みが私たちにも与えられています。まことに弱く罪深く不信仰な私たちに、主イエスが聖餐の食卓を備えて下さり、ご自分の体であるパンを食べさせ、ご自分の血による新しい契約のしるしである杯を飲ませて下さるのです。私たちは、主が整えて下さるこの聖餐の食卓に着き、主イエスの体と血とにあずかり、主の恵みに養われ、育まれ、慰めと励ましを与えられることによって、この世の厳しい試練の中で、主イエスのもとに忍耐して踏みとどまり、神の国で主イエスの食事の席に共に着く日を待ち望みつつ歩んでいくのです。

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