夕礼拝

神の国は近づいた

「神の国は近づいた」 伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書; 詩編 第96編1-13節
・ 新約聖書; マルコによる福音書 第1章14―15節
・ 讃美歌 ; 16、494、77(聖餐式)

 
はじめに

私たちは、時間の中を歩んでいます。時間は、私たちの周りを、大河の流れのように流れています。私たちはこの流れの中で、時に流れに身を任せて歩み、又、時に、日々漫然と繰り返される日常に倦み疲れつつ歩みます。自分がこの大きな流れの中に埋もれたほんの小さな存在であることを感じ、虚無感に捕らわれながら歩むこともあるでしょう。しかし、そのような、私たちの歩みの中に、私たちの時間を中断するかのような一つの声が響きます。主イエス・キリストの声です。

主イエスの第一声

「時は満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。
これは、主イエスが宣教を始めるにあたって最初に語られた言葉です。マルコによる福音書において、ここで、主イエスは、初めて口を開かれるのです。この言葉は、まさに、主イエスが語られたこと、なされたことを要約したような御言葉だと言われることがあります。この言葉は、ただ最初に語られたという形式的な意味だけでなく、主の福音の中心が語られているという実質的な意味において大切な言葉なのです。この言葉が記される直前に、「神の福音を宣べ伝えて」とあります。まさに、神の福音が、この言葉によって示されているのです。そして、この福音とは、イエス・キリストの福音です。この福音書の最初には「神の子イエス・キリストの福音の初め」と書かれていました。主イエスが語られた、「神の福音」とは、「神の子イエス・キリストの福音」なのです。福音とは、私たちの下を訪れて下さっている主イエスの存在そのものです。主イエスはここで、ご自身について語られたのです。神の一人子であるイエス・キリストが、この世に来て下さったということ、この世で語って下さったこと、この世でなして下さったこと、それらを通して示されていることこそ、ここで語られている、「時は満ち、神の国は近づいた、悔い改めて福音を信じなさい。」ということなのです。

時は満ちた。

「時は満ち、神の国は近づいた」。ここで言われている「時」とは、私たちの日常を目的なく流れていく「時間」とは異なります。そのような時間はギリシャ語でクロノスと言われています。しかし、ここでは、カイロスという別の言葉が用いられています。ここで言われているのは無目的に流れていく時間でありません。質的に意味を持つ「時」であります。そのような時がきたのです。しかも、ここで、「満ちる」という表現が使われています。水が滴り、たまって行き、満ちあふれるように、時が満ちるのです。ここには、一つの約束が成就が語られています。長いこと待っていた時、神との契約の成就の時がやってくるのです。旧約聖書、新約聖書の「約」という言葉は契約の「約」を示しています。旧約の時代、神の民イスラエルは、神との契約を信じて異邦人による支配の苦しみに耐えつつ、その支配から解放するメシアの到来を待っていました。
私たちの過ごす時間を本当の意味で意味のあるものにするのはなんでしょうか。それは「約束」であると言っていいのではないでしょうか。私たちは大切な人を待つ時、その人と待ち合わせたという「約束」があるから、その人を待つ時間に意味が生まれます。もしも、約束がなされておらず、その人が来なかったとしたら、無駄に時間を過ごしたことになるでしょう。しかし、約束があるならば、その人が遅れたとしても、その時間は、決して意味のないものではないでしょう。約束があるというのは、その約束が成就する「時」があるということです。ですから、それが成就する「時」を待ちつつ過ごす待望の時があるのです。約束が与えられて、それが成就する時を待ち望むことにおいて、時間は本当の意味をもちます。神の民イスラエルの歩みは、まさに神との契約の成就を待望する歩みなのです。
先ほどお読みした、詩編96編の最後には次のように歌われています。
「主は来られる、地を裁くために来られる。主は世界を正しく裁き 真実をもって諸国の民を裁かれる」。
ここで言われている、「主の裁き」、世界を正しく裁く裁きとは、「主の支配」であると言って良いでしょう。主の支配がこの世に来ることを望んでいるのです。待ち望む時を過ごしているのです。そして、主イエスは、時が満ちて、旧い契約が成就したというのです。この主イエスの到来において、長いこと望んでいた神の支配が世に来たということが言われているのです。「神の国は近づいた」。ここで、「神の国」と言われているのは、まさに、「神の支配」ということです。主イエスにおいて、神の国が来ている。神の支配が世に来ているのです。

人間が支配の中に近づく神の支配

 私たちはここで告げられていることを、自分自身の事として聞かなくてはなりません。神の支配は、他でもなく私たちの下に来ているのです。しかし、私たちは、このことを現実のこととして信じることが出来ない時があります。信じることは出来ないどころか、最初から、相手にしないで一笑に付してしまうことがあるかもしれません。私たちが歩む世は、この事実を信じることをためらわせる程に、人間の支配に満ちているからです。世はどこまでも人間の国であり、そこに、神の支配があるとは思えないのです。一体、どこに神の支配が来ているのかとの思いがする。そのような人間の支配が覆っている世にあって、いつしか、「時は満ち、神の国は近づいた」との福音のメッセージが現実味を帯びたものではなくなってしまうのです。あまりに現実離れしているためにか、又、「神の国」という言葉が人間の支配の正当化のために用いられやすいためか、この世で「神の国」について語ることが危ないことであるかのように思われることすらあるのです。そのような中で、この主イエスの言葉を、私たちに語られている言葉として聞けなくなってしまうということが起こりうるのです。
しかし、私たちは、主イエスがこの言葉を語って、宣教を始めた時はどのような時であったのかに注目したいと思います。そのことを、聖書は、「ヨハネが捕らえられた後」という言葉によって記しています。洗礼者ヨハネとは、主の道を備えた人でした。主イエスに先だって、罪の赦しを得させるために、悔い改めの洗礼を宣べ伝えた人でした。そのヨハネが捕らえられたのです。ここで、「捕らえられる」という言葉は、主イエスの受難を記す時に用いられる言葉です。「渡される」とも訳すことが出来る言葉です。ヨハネはまさに、受難としか言えないような死に方をするのです。マルコによる福音書の6章には、ヨハネの死について記されています。当時のユダヤの王ヘロデは、自らの兄弟の妻ヘロディアと結婚していました。ヨハネは、そのことが律法違反であると非難して牢につながれていたのです。ヘロディアはヨハネを恨み殺そうとたくらんでいましたが、それが出来なかったのです。なぜなら、ヘロデが、ヨハネが正しい人であることを知っていて、彼を保護し、彼の言葉を聞くことを喜んでいたからです。しかし、ヘロデの誕生日に、祝いの席で、ヘロディアの娘が踊って客を喜ばせたことの褒美に何でもやるとヘロデが誓う。それに対して、ヘロディアは娘に洗礼者ヨハネの首を求めるように言うのです。ヘロデは、心を痛めつつも、客の手前、誓ったことを破ることが出来ず、ヨハネの首をはねさせるのです。ここには、神を恐れずに、人を恐れる、人間の罪があるのです。
ヘロデは、まさに、自分の国、自分の支配をほしいままにした人でした。そのようなヘロデの自分勝手な権力の行使によって、主イエスの道を備えたヨハネが死に渡されるのです。この時も又、世には、人間の支配が厳然と存在しているのです。ここで聖書は、主イエスが、ヨハネに変わって活動を始め、悔い改めを宣べ伝えたということを言おうとしているのではありません。人間の支配の中で苦しみを受けて死んだヨハネに変わって、主イエスが正義の見方のように登場して、ヨハネのなしていた宣教を引き継いだというのではないのです。まさに、人間が支配する世のただ中にイエス・キリストが来られ、そこで、神の国、神の支配が来ているということが宣言されているということなのです。

人間の支配の中で貫かれた神の支配

 人間の国、人間の支配、それはあまりにも、人間の自分勝手な思いにしばらた不確実な支配です。神を恐れないで、人間のみを恐れて行われる支配です。しかし、そのような人間の支配の中で、神の支配が貫かれるのです。
洗礼者ヨハネがどのように死に渡されたのかを知らされる時、主イエスが死に渡された時のことを思い起こさせられます。主イエスは、この後、ガリラヤで多くの業を行いました。しかし、そこにとどまられなかった、エルサレムに赴かれたのです。十字架に向かって歩まれるのです。エルサレムとは、時の権力が集中する場所、人間の支配の中心です。そして、まさに主イエスは人間の支配によって、十字架の死に「渡される」のです。主が死に渡される時の経過が、ヨハネが首をはねられるに至るまでの経過と似ているところがあるのです。人々は、主イエスを、ローマ総督ポンテオ・ピラトに渡すのです。ピラトは「祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かって」いました。そして、「いったいどんな悪事をはたらいたというのか」と言うのです。しかし、群衆の「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫ぶ声を恐れて、結局、「十字架につけるために引き渡した」のです。ここにも、神ではなく人を恐れる人間の支配があります。そのような中で主が十字架につけられるのです。主ご自身が、エルサレムにおもむき、死に渡されたのです。
何故主は、死に渡されたのか。そこで、神の正しい裁きが実現するからです。しかし、この主イエスの十字架こそ、本来、私たちが受けるべき、神の裁きなのです。神の正しい裁きを、主イエスが受けておられるのです。ここで、真に神の支配が、この世に来ているのです。人間の支配の中で、神の支配を打ち立てておられるのです。
私たちの世は、人間の支配に満ちています。私たち自身もそのような支配者として歩んでしまうことがあります。確かに、ヘロデのように、実際に国を統治することはないかもしれない。しかし、私たちは自分を顧みる時に、自分の願望を果たすために、人々を支配しようとする思いや、神よりも人を恐れる思いから自由ではないことを知らされます。その意味で、主イエスを十字架につけろと叫んだ群衆、やイエスを死に渡したピラト、ヨハネを死に渡したヘロデの姿は私たちの姿でもあるのです。ですから、私たちの誰一人として、神の正しい裁きの前で、立ち続けることが出来るものはいないのです。しかし、私たちの支配の中で起こったかに見える十字架において、主イエスご自身が、私たちの受けるべき裁きを受けて下さっている。そして、そのことを通して神の支配が実現しているのです。それは、神の恵みとしか言いようのない支配なのです。

悔い改める

 このようにして、主イエスが、神の支配を実現される方であるからこそ、主イエスは続けて、「悔い改めて、福音を信じなさい」と言われるのです。神の国、神の支配が、世に及んでいることを、知らされる時に、私たちの内に、真の悔い改めが起こります。主イエスが来て初めて、私たちに真の悔い改めが起こるのです。私たちが悔い改める時に、神の支配が来るのではないのです。神の支配が来ている時に、私たちは悔い改めるのです。「悔い改め」と聞いて私たちは、私たちが日々なしている、単純な反省の念や、後悔を思い浮かべるかもしれません。しかし、ここで言われている、「悔い改め」はそれとは異なります。「悔い改め」という言葉は、「思いを変える」という意味の言葉です。私たちの歩みが180度転換することです。それは、「福音を信じる」歩みです。悔い改めることには「福音を信じる」ということが続いているのです。悔い改めと、福音を信じるという二つは主イエスにとっては不可分なことなのです。主イエスの福音を信じる歩みへと変えられるのです。私たち自身が捕らわれている人間の支配から自由にされて、主イエスによって実現している神の支配の中で生かされる歩みへと変えられるのです。

「近づいた」

 私たちは、この悔い改めの中で、新しい歩みを始めます。しかし、この歩みは無目的に時間の中を歩む歩みではありません。神の国は「近づいた」と言われていることに注意したいと思います。キリストが世に来られたということは、確かに、一つの約束が成就したということです。しかし、ここで「近づいた」というのは、神の国が、「未だ来ていない」ということをも意味します。神の国とは既に来たものであると同時に未だ来ていないという側面があるのです。神の国、神の支配は既に、私たちの内に来ているものであると同時に未だ終わりを見ていないのです。
主イエスが訪れる前、人々は主イエスの到来を待ちつつ時間を過ごして来ました。そして、主イエスの到来は、一つの約束の成就であると同時に、新しい約束がなされたということでもあります。私たちは、既に訪れた神の支配、イエス・キリストによる命に生かされて、悔い改め、まだ来ていない神の支配を待ちつつ歩むのです。ブルームハルトという牧師はこのようにして歩む歩みを「待ちつつ、急ぎつつ」という言葉で表しました。神の支配を待ちつつ、それが近づいていることを信じて急ぐのです。それが、私たちの世での歩みです。それは、イエス・キリストによってなされた約束の故に、慰めと希望に満ちた歩です。死に渡されることで、神の支配を示して下さった、主がなして下さった約束が私たちの歩みを支えているからです。

おわりに

私たちは世にあって時間の中を歩みます。しかし、それは目的のないものではありません。主の支配を待望する歩みです。私たちの歩みの中に、神の福音が語られている。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と語られているのです。私たちは、悔い改めて、主イエスによって始まっている神の支配の中でこれから来る主の支配を求めつつ歩み出すのです。

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