夕礼拝

あなたがたの父

「あなたがたの父」  伝道師 宍戸ハンナ

・ 旧約聖書: 詩編 第63編1-11節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第6章5-8節
・ 讃美歌 : 457、441

祈りとは
 本日はマタイによる福音書の第6章5節から8節から御言葉に聞きたいと思います。本日の箇所は主イエスが祈りについて教えておられる箇所です。祈りとは何でしょうか。信仰をもって生きることの基本であると言うことができます。信仰をもって生きるとは、聖書の語ることについて、神様について、人間の救いについてたくさんの知識を持つということではありません。私たちの信仰が本当の信仰になるのは、祈りにおいてです。それでは、祈りとは何でしょうか。主イエスは具体的にそのことについてお語りになります。
 5節にこうあります。「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。」とあります。ユダヤ教徒は1日3回決まった時間に祈ることが義務づけられています。午前9時、正午、午後3時です。1日の内に決まった時間に祈りを捧げることは決して悪いことではありません。良い習慣であります。けれども主イエスはこの熱心なユダヤ教徒の祈りの姿勢について指摘をされました。その問題性をここで「偽善者」という言葉で指摘しています。「偽善者の祈り」とはどのような祈りなのでしょうか。「偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる」とあります。人が沢山集まる所で、人に見られながら祈ろうとする、それが偽善者の祈りです。当時の社会において、祈ることは立派な行い、義なる行為、信心深さの現れとして尊敬されていました。主イエスはそのように熱心に祈る人々を「偽善者」と指摘されました。どういうことなのでしょうか。どんなに聖書や信仰についての知識があっても、祈りがないのであれば信仰とは言えません。そのように祈りとは重要なものであるのです。祈りが大事であるのであれば、なぜ熱心に祈る人を偽善者と指摘したのでしょうか。祈りは人間を超えた神様との関わりを示す事柄なのです。ところが表面的にはとても熱心に祈っているかのような仕草をしながら、実は神ではなく、その祈る姿を見せることによって、人間の評価を気にするのであれば、それは祈りの姿勢とは言えないのです。祈りがただの仕草、ポーズになってしまうのであって、心を神様に向けていないのであれば祈りではないでしょう。心を神様に向けているような振りをして、実は人の評価を気にしているのであれば、それは「偽善者」にほかならないのです。「偽善」という言葉は元の意味では、役者、演技をするという意味です。主イエスはそのようにいかにも心を神様に向けているように演技をしているという意味で「偽善者」と言われたのです。神様に心を向けているふりをしながら、実は人から立派な人、義しい人、信心深い人と思われるような人の評判ばかりを気にしているのであれば偽善者なのです。偽善者は「人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。」とあります。そのようにして人からの良い評判、人々の賞賛を得るのであれば、既に人からの報いを受けるのであれば神様からの報いは得ることはないと主イエスは言われます。「彼らは既に報いを受けている」の「既に受けている」とは、領収書を書いてしまったという意味であります。お代はもう十分いただきました。もうこれ以上は請求しません、ということです。人間の目の前で生きている者は、人間の評価、評判つまり人間の与える報いが得られれば、それでもう十分なのです。それ以上の報い、神様が与えて下さる報いは必要がないのです。必要がないと言うよりも、そもそもその報いを与えて下さる神様の前で生きていないのです。お祈りをしながら、神様の前で生きていない、神様を見つめていない、自分をも含めた人間のことだけを見つめ、人間の間での比べ合いの中で生きている、それがここに描かれている偽善者の姿です。それに対して主イエスは、あなたがたは、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる、と言われたのです。それは、ただ誰もいない部屋で人目を避けて祈れというだけのことではなくて、人間の目を意識するのではなく、神様の目の前で、神様との交わりにこそ生きよということです。祈るというのはそういうことなのです。

施し、祈り、断食
 この箇所は最初に「祈るときにも」とあるのは、その前に語られていたこととのつながりがあります。マタイによる福音書の第6章1-18節は主の祈りを中心にした箇所です。1~4節では、「施しをするときには」ということが教えられていました。「施し」に続いて、主イエスは「祈り」そして「断食」について教えられます。そしてこの3つをまとめて6章1節の「善行」という言葉になっております。「善行」とは「義」という言葉です。義なること、正しいこと、その代表として、施しがあり、祈り、断食があります。本来は正しいこと、大切な事柄が、偽善になってしまうことがあります。主イエスは「熱心に施しをせよ」「絶えず祈れ」と教える前にこのことについて警告を語っています。どれについても、人の前にあらわすことをせず、隠すように、ということを強調しているのです。

あなたの神
 主イエスは6節で「祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」と言われました。「自分の部屋」とは当時の農家などによくあった、納屋や物置などに用いられた部屋であったようです。その部屋は窓が全く無く、内側から扉を閉じると真っ暗になる部屋であります。中は真っ暗です。そのような真っ暗の中で祈ると言うのは何を意味するのでしょうか。一つには外の世界の光を遮ることになり、外から見られないということです。人の評価を断ち切ることができるのです人から「あの人は祈っている」と言われて、自分が「ああ自分は祈っているのだ」と安心する、そのような心を断ち切るのです。ただ、密室に入ることが意味するのではありません。人々のいるところで、これから自分は密室に入って祈りをすると部屋に入るのであれば意味がないのです。人に明らかに見えるように自分の密室を確保することもまた偽善の道になってしまうのです。祈りとはそのように他人の存在が間に入ることを許さない、神様と自分との一対一の人格的な交わりの世界に他ならないのです。そこでは、人の目、人の評判は問題にならないのです。人間からの報いはないかもしれません。けれども、まさしくそこでこそ「隠れたところにおられる」神の報いがあるのです。この6節から、主イエスの呼びかけが「あなたがた」ではなく、「あなた」に変わっています。「部屋」「戸」そして「神」という言葉にもそれぞれ「あなたの」という言葉がついております。ですから、「あなたの部屋」「あなたの戸」「あなたの神」にだけ心を向けるようにと主イエスは言われます。

異邦人の祈り
 そして7節では「また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。」と言われます。主イエスは偽善的な祈りに対して、まことの祈りを弟子たちに説かれました。そして主イエスは異邦人の祈りに対して、まことに祈りの在り方を懇切に説いておられます。異邦人の祈りは言葉数の多い祈り、言葉数さえ多ければ聞き届けられると考える祈りであると主は言われます。8節では「彼らのまねをしてはならない。」とあります。異邦人は同じ言葉を繰り返し、多くの神々の名前を羅列して祈っておりました。色々な神々の名を呼ぶことによって、その神の力を自分の願いの実現のために利用しようしていました。祈りを聞き入れてもらうために、くどくどと述べるのです。そのような祈りは自分の願いをかなえてもらうための祈りです。自分の願いが根底にあります。そこでの祈りは、神様を自分のために動かす手段です。そのような祈りを主イエスはまねしてはならないと言われます。

願う前から
 主イエスは言われます。「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」とあります。天の父、私たちをお造りになった神は私たち以上に私たちのことを知っておられます。私たちが祈る前から、私たちが何を必要としているのかをすべてご存知なのです。だから、異邦人のように言葉数さえ多ければ祈りは聞き届けられるなどと考える必要はないのです。主イエスは私たちに、私たちが祈る相手である神様とはどのような方であるかを示しております。その神様と私たちとの関係はどのような関係であるのかを教えて下さっているのです。「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」と主イエスは言われます。私たちの祈りは何に向かっている祈りでしょうか。私たちに本当に必要なものとは何でしょうか。
 神は私たちにイエス・キリストをこの地上にお与え下さいました。そして主イエス・キリストの十字架の出来事によって人間を罪の中から救い出して下さいました。私たちに本当に必要な救いの御業を神はこのようにご存じであります。私たちが願う前に、お与え下さったのです。主イエスはご自分の父なる神様を、ここで繰り返し、「あなたがたの父」と呼んで下さっています。神は独り子の命をも与えて、私たちを愛して下さった。それは、私たちの父となり、私たちを子として愛して下さっています。この主イエスの父であり、私たちの父となって下さった神の愛の中で生かされています。この天の父のまなざしを覚え、その中で、神様の子として、父との交わりに生きることが私たちの祈りなのです。私たちは、祈ることを許されています。祈りにおいて、私たちは必要なものを全てご存じであり、恵みをもって与えて下さる天の父なる神様との交わりに生きることができるのです。宗教改革者のルターはこう言いました。「祈りは神にとって必要なのではなく、われわれにとって必要なのである。」天の父なる神は願う前から、必要なものすべてをご存知であります。神様の方から人間を愛し、独り子の十字架によって、私たちを子どもされました。神様は私たちのために必要なすべてのこと与えて下さり、して下さいます。それでは私たちは神様に何かをできるのでしょうか。神様のために何かをする力もありません。ただ神を愛するだけです。何か良い業を、良い行いをすることでしょうか。私たちにできることは、祈りによって神様を愛するだけであります。祈りによって神に近づき、神様と交わり、父と子としてのまことの関係をいつも正しく持っていることであります。神様に感謝し、すべてをご存知である神に信頼をするのです。詩編63編5節は「命のある限り、あなたをたたえ 手を高く上げ、御名によって祈ります。」私たちもまたそのように祈る者となりましょう。父なる神様の恵みは、主イエスを通して、私たちが願う前から、確かに私たちに注がれています。そのことを私たちはみ言葉によって知らされます。しかしその神様の恵みが私たちの現実となり、私たちがその恵みの中で喜んで感謝しつつ父なる神様の子どもとして生きることは、祈りによって実現するのです。信仰が知識の域を脱皮して生ける神様との交わりとなるというのはそういうことです。上野さんが、「祈らないとみ言葉を聞くには聞くが深く根をはったものにはならない」と言われたのもそういうことでしょう。祈りは、信仰が本当に信仰になるためになくてはならない大切なものです。祈ることをしない者は信仰者ではないのです。しかしそれは、「信仰者たる者、祈らなければならない」というようなことではなく、私たちは、祈ることを許されているのです。祈りにおいて、私たちに必要なものを全てご存じであり、恵みをもって与えて下さる天の父なる神様との交わりに生きることができるのです。

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