夕礼拝

神の言葉が蒔かれる

「神の言葉が蒔かれる」 副牧師 川嶋章弘

・ 旧約聖書:イザヤ書 第44章24-28節
・ 新約聖書:ルカによる福音書 第8章4-15節
・ 讃美歌:195、78

「種を蒔く人」のたとえ
 主イエスのもとに大勢の群衆が集まり、あちらこちらの町から人々がやって来ました。そこで主イエスはたとえを用いてお話しになりました。本日の箇所で主イエスが話されたのはいわゆる「『種を蒔く人』のたとえ」です。主イエスは地上の歩みにおいて多くのたとえを用いて教えられましたが、この箇所では、4-8節で主イエスがたとえを話され、11-15節で主イエスご自身がそのたとえを説き明かしてくださっています。言わばたとえを用いた主イエスの説教が語られているのです。それだけではなく、たとえとその説き明かしに挟まれた9-10節では、たとえを用いて話す理由が語られています。「『種を蒔く人』のたとえ」とその説き明かしを見ていく前に、まず主イエスがたとえを用いて話す理由に目を向けていきたいと思います。

弟子たちと「他の人々」
 主イエスがたとえを話し終えると、弟子たちは「このたとえはどんな意味かと尋ね」ました。10節で主イエスはこのように言われています。「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ」。ここで主イエスはご自分の弟子たちと「他の人々」、つまり群衆とを区別して語っています。ただこの主イエスの言葉は分かりづらいと思います。この訳だと、主イエスは弟子たちにはたとえを用いないで直接「神の国の秘密」を話すけれど、ほかの人たちにはたとえを用いて話す、と読めます。しかしそれは事実に合っていません。主イエスは群衆にだけたとえで話されたのではなく弟子たちにもたとえで話されたからです。この主イエスの言葉は原文を直訳するとこのようになります。「あなたがたは神の国の秘密を知ることが許されているが、ほかの人たちはたとえの中に…」。つまり後半は「ほかの人たちはたとえの中に…」で途切れていて、新共同訳聖書の「他の人々にはたとえを用いて話すのだ」の「用いて話すのだ」は意味を補った訳なのです。しかし主イエスが群衆だけでなく弟子たちにもたとえを用いて話したことを踏まえるならば、「取り残される」あるいは「置き去りにされる」という意味を補って訳すこともできます。「ほかの人たちはたとえの中に取り残されている」あるいは「ほかの人たちはたとえの中に置き去りにされている」と訳すのです。弟子たちがたとえを聞いて「神の国の秘密」を知ることが許されているのに対して、群衆はたとえを聞いても、そのたとえの中に取り残されてしまう。たとえを聞いても群衆にはその意味が、つまり「神の国の秘密」がぼんやりしたまま、謎のまま、不思議なままなのです。

見ても見えず、聞いても理解できず
 それならばなぜ、主イエスはたとえで語る必要があったのでしょうか。私たちがたとえを用いるのは、なにかを説明するときに分かりやすくするためです。たとえを用いても、ぼんやりしたまま、謎のまま、不思議なままならば、そのたとえは良いたとえではありません。ところが主イエスは10節の後半で「それは、『彼らが見ても見えず、聞いても理解できない』ようになるためである」と言われています。この「彼らが見ても見えず、聞いても理解できない」は、旧約聖書イザヤ書6章9節の引用ですが、そこでは「主は言われた。『行け、この民に言うがよい、よく聞け、しかし理解するな よく見よ、しかし悟るな、と。この民の心をかたくなにし 耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく その心で理解することなく 悔い改めていやされることのないために』」(9-10節)とあります。これは神さまが預言者イザヤを遣わす際にイザヤに語った言葉です。遣わされた先で、イザヤの預言が聞かれても理解されない、心に留められないと告げているのです。主イエスが10節後半で語っているのはこの預言の実現です。ですから「『彼らが見ても見えず、聞いても理解できない』ようになるため」とは、そのようになるために主イエスがたとえを用いて話したというより、主イエスがたとえを用いて話すことにおいてそのようになった、つまりイザヤ書6章9-10節で告げられている預言が実現したということなのです。
 主イエスは神の国を宣べ伝え、福音を告げ知らせました。また主イエスは多くのみ業を行い、病を抱えている方々や身体の不自由な方々を癒やされました。しかし神の国が宣べ伝えられ、福音が告げ知らされているのを聞いても理解しない者がいたのです。主イエスがみ業を行っているのを見ても悟らない者がいたのです。心がかたくななために、耳で聞いても目で見ても理解できないのです。主イエスが来てくださり、地上における神の国はすでに始まっています。しかしそれを受け入れ主イエスに従う弟子たちと、それを拒む「ほかの人たち」とがいたのです。このことを明らかにするのが、主イエスがたとえを用いて語る理由です。ですから主イエスのたとえにおいて、主イエスに従う人たちと、そうでない「ほかの人たち」の姿が明らかにされていきます。神の国の秘密を知ることが許されている者たちと、イザヤの預言の通り「見ても見えず、聞いても理解できない」者たちの姿が明らかにされていくのです。

主イエスが神の言葉を蒔く
 主イエスのたとえは5節でこのように始まります。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った」。11節には「このたとえの意味はこうである。種は神の言葉である」とありますから、「種を蒔く人」とは主イエスのことであり、主イエスが神の言葉を蒔かれるために出て行った、と言われているのです。このことが8章1節で「イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた」と語られていました。主イエスはガリラヤの町々村々を巡って神の言葉を蒔かれたのです。その主イエスが蒔かれた神の言葉がどのようなところに落ちたのかがたとえを用いて語られています。

道端
 まず5節で「ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった」と言われています。道端にも種は落ちました。でも芽を出す前に、その種は人に踏みつけられ、鳥に食べられてしまったのです。12節では、道端のものとはどのような人のたとえなのかが説き明かされています。「道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである」。この訳も分かりにくいと思います。「道端のものとは…御言葉を奪い去る人たちである」と読めてしまうからです。しかし聖書協会共同訳では、「道端のものとは、御言葉を聞くが、後から悪魔が来て、御言葉を心から奪い去るので、信じて救われることのない人たちである」と訳されています。つまり道端のものとは、み言葉を聞いたけれど、そのみ言葉を信じなかった人たちのことなのです。種は蒔かれた。神の言葉は蒔かれた。でもそのみ言葉を聞いても信じませんでした。み言葉を聞いた後に、悪魔がやって来て、彼らの心からみ言葉を奪い去ってしまったからです。

悪魔はみ言葉の種蒔きを妨げられない
 悪魔がやって来るなどというのは、今を生きる私たちには実感がわかない、荒唐無稽なことのように思えます。しかしここで言われている悪魔とは、絵で見るような恐ろしい姿をしている得体が知れない何かではなく、み言葉を信じるのを妨げる力のことです。その力によって、語られたみ言葉が聞かれても信じられることなく奪い去られることがあるのです。けれども間違えてはならないのは、このたとえにおいて悪魔は種蒔きを妨げているのではないということです。悪魔によってみ言葉を信じることが妨げられることはあったとしても、み言葉が蒔かれることが妨げられることはありません。この世のいかなる力も、み言葉の種蒔きを、神の言葉が語られるのを妨げることはできないのです。まさに主の日ごとに私たちがおささげしている礼拝において、神の言葉が蒔かれ続けています。そのみ言葉を聞いても信じない人はいるかもしれません。でも神の言葉が途絶えることはないのです。主イエスがガリラヤを巡って神の言葉を蒔き続けたように、教会も神の言葉を蒔き続けるのです。

石地
 次に6節で「ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった」と言われています。石地にも種が落ちました。芽を出しましたが、水気がなかったのでその芽は枯れてしまったのです。13節では、石地のものとはどのような人のたとえなのかこのように説き明かされています。「石地のものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである」。「試練に遭うと身を引いてしまう人たち」と訳されていますが、口語訳聖書では「試練の時が来ると、信仰を捨てる人たち」と訳されていました。石地のものとは、み言葉を聞いて信じるけれど、しばらくは信じても試練に直面すると信仰を捨ててしまう人たちのことなのです。

信仰において根がない
 たとえでは「(芽は)水気がないので枯れてしまった」と言われていますが、信仰も「根がない」とたちまち枯れてしまいます。信仰において「根がない」とは、聖書の知識が足りないというようなことではありません。そうではなく、信仰において「しっかり立っていない」ということです。自分にとって心地の良いみ言葉を聞くと喜んで受け入れるけれど、耳障りなみ言葉を聞くと拒んでしまう。自分が順調なときは神さまを信じるけれど、逆境のときには神さまを信じることをやめてしまう。自分の願いが聞き入れられるときは神さまを信じるけれど、願いが聞き入れられないと神さまを信じなくなってしまう。信仰において「根がない」とは、「しっかり立っていない」とは、こういうことです。「なんでこんな苦しみや悲しみを味わわなければいけないのか」と叫ばずにはいられないような試練に直面するとき、神さまを信じることをやめてしまうのです。

茨の中
 さらに7節で「ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった」と言われています。茨の中にも種は落ちました。芽が出て伸びていきましたが、茨も一緒に伸びてその芽を塞いでしまい、実を結べなかったのです。14節では、茨の中に落ちたのはどのような人のたとえなのかこのように言われています。「茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである」。「実が熟するまでに至らない人たち」と訳されているので、この人たちは実を結んだけれどその実が熟さなかったと読めます。しかし聖書協会共同訳で「実を結ぶことのない人たちである」と訳されている通り、この人たちも実を結んだわけではありません。茨の中のものとは、み言葉を聞いて信じても、人生の色々な思い煩いによって、あるいは富や快楽を追い求めることによって、み言葉が覆われ、塞がれてしまう人たちのことなのです。

み言葉よりも心を奪われるもの
 この人たちは神の言葉を信じていないわけではないかもしれません。しかし神の言葉よりも心を奪われるものがあるのです。それは必ずしも魅力的なものとは限りません。むしろそうでないもの、ネガティブなものに心を奪われることがあります。私たちの人生には色々な思い煩いがつきまとい、悩みや不安や心配が尽きることはありません。それらによって心が占領されてしまい、み言葉が心の端に追いやられてしまうのです。神の言葉が蒔かれたのに、いつのまにかみ言葉ではなく、人生の色々な思い煩いで心がいっぱいになってしまっているのです。み言葉より魅力的に思えるものに心を奪われることもあります。たとえばみ言葉よりも富や快楽を追い求めてしまうのです。そうであるならば、神の言葉を聞いて信じていたとしても、み言葉は人生の中心にありません。むしろ人生の中心には、富を追い求めることや快楽を追い求めることがあり、み言葉は自分の人生や日々の歩みとは関係ないものとなってしまっているのです。このように人生の思い煩いであれ、富や快楽であれ、ほかのものに心を奪われることによって、み言葉が覆われ、塞がれてしまいます。そのとき信仰は窒息してしまうのです。神の言葉を信じていないわけではないかもしれない、と申しました。でもみ言葉よりもほかのものによって心が占領されているならば、本当の意味で神の言葉を信じ、神の言葉により頼んでいるのではないのです。

良い土地
 最後に8節で「ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ」と言われています。種は良い土地にも落ちました。そして芽が生え出て、実を結んだのです。15節では良い土地に落ちたのはどのような人たちのたとえなのかこのように言われています。「良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである」。道端に蒔かれた種も、石地に蒔かれた種も、そして茨の中に落ちた種も実を結ぶことはありませんでした。ただ良い土地に蒔かれた種だけが実を結んだのです。

あなたがたは良い土地である
 このたとえを読むとき、私たちはしばしば自分は道端だろうか、石地だろうか、それとも茨の中だろうかと考えます。なにより、今、自分は良い土地ではないと思わずにはいられません。なんとか頑張って、努力して実を結ぶ良い土地になりたいと思います。しかしこのたとえで見つめられているのは、私たちが実を結ばない土地から実を結ぶ土地へ変わりなさい、ということなのでしょうか。そうでありません。すでに見てきたように9-10節では、主イエスの弟子たちとそのほかの人たちが区別されて語られていました。そしてこのたとえの目的は、主イエスの弟子たちと、そうでないほかの人たちの姿を明らかにすることにありました。ですからこのたとえにおいて、実を結ぶ良い土地は主イエスの弟子たちであり、実を結ばないそのほかの土地は、そうでないほかの人たちなのです。主イエスの弟子たちとそのほかの人たちが区別されて見つめられているのです。そうであるならば、主イエスの弟子とされた私たちは、実を結ばないそのほかの土地ではなくて、実を結ぶ良い土地です。そんなことはあり得ないと思うかもしれません。確かに自分自身を振り返るならば、私たちは神の言葉を聞いても神さまに背いてばかりいる罪人です。あるいは神の言葉を聞いて信じても、そのみ言葉にしっかり立つことができず、外からの試練に遭うと神さまから離れてしまう者です。不条理な現実に直面して、もう神さまを信じられないと思うことすらあります。また神の言葉を聞いて信じても、自分の内からわき上がってくる日々の悩みや不安や心配や恐れに圧倒されて、神さまを見失ったり、自分が求めるものに夢中になって、神さまを脇に追いやってしまう者です。けれども主イエスが弟子たちに「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されている」と言われたのは、弟子たちが主イエスを疑うことなく信じ、日々の思い煩いや人間の欲に惑わされない立派な人だったからではありません。彼らは主イエスを信じることができず繰り返し疑いました。主イエスを信頼するより、自分の不安や心配や恐れによって心が占領されることがありました。弟子たちの中で一番偉くなることを求めることもありました。なによりも彼らは主イエスの十字架の死を前にして逃げ出してしまったのです。それにもかかわらず、主イエスは彼らを、そして私たちをご自分の弟子としてくださり、「あなたがたには神の国の秘密を知ることが許されている」、「あなたがたは良い土地である」と言ってくださるのです。
 主イエスの弟子とされて生きるとは、主イエスに従って生きるとは、十二人の弟子たちや多くの女性たちがそうであったように、神の国を宣べ伝え、福音を告げ知らせる主イエスと共に歩むということです。それは疑うことや迷うことなく、不安になることや恐れることなく主イエスに従っていくことではありません。そうではなく、疑いや迷いの中にあっても、不安や恐れの中にあっても、神の言葉を聞き続けていくことなのです。主の日ごとの礼拝で神の言葉が蒔かれ続けます。そのみ言葉を聞き続けていくことこそ、主イエスの弟子として、主イエスに従って生きることにほかならないのです。

神の言葉が信仰という実を結ぶ
 そのように神の言葉を聞き続けることによって、私たちは信仰という実を結んでいきます。私たちが自分の力で実を結ぶのではありません。私たちに蒔かれた神の言葉によって信仰という実が結ばれていくのです。私たちに力があるのではなく神の言葉にこそ力があります。蒔かれた種が実を結ぶために畑を耕すように、私たちも蒔かれた神の言葉を聞き続けます。しかし畑を耕すことによって実が結ばれるのではなく、種そのものの力によって実が結ばれるのです。同じように信仰という実も神の言葉の力によって結ばれます。主イエス・キリストによる救いを告げ知らせる神の言葉こそ、私たちに信仰という実を結ばせる力にほかならないのです。「良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである」と言われていました。「立派な善い心で御言葉を聞き」というのは、私たちが自分の力で「立派な善い心」を持ち、み言葉を聞くということではないでしょう。自分の力によってではなく、神の言葉によって信仰という実が結ぶように、神の言葉によって私たちに「立派な善い心」が与えられていくのです。み言葉を「よく守り」とも言われています。み言葉を「よく守る」とは、いいつけをしっかり守るというようなことではありません。み言葉をチェックリストにして、そのチェックリストを守ることがみ言葉を「よく守る」ことではないのです。そうではなく、み言葉を覚え続け、み言葉を保ち続けることこそが、み言葉を「よく守る」ことです。私たちはみ言葉を聞き続け、そのみ言葉をしっかり握りしめ続けます。そこには忍耐が伴うに違いありません。私たちは絶えず内と外からの試練にさらされているからです。しかし忍耐してみ言葉をしっかり保ち続け、握りしめ続けている私たちに、神の言葉の力によって、信仰という実が確かに結ばれていくのです。

神の言葉に与る聖餐
 本日はこれから聖餐に与ります。聖餐は「見える神の言葉」であり、聖餐においても、信仰という実を結ぶ神の言葉が私たちに与えられています。疑いと迷い、不安と恐れに覆われている日々にあって、私たちは礼拝において蒔かれる主イエスの十字架と復活による救いを告げる神の言葉を聞き続け、その救いの恵みを体全体で味わう聖餐に与り、繰り返し信仰を新たにされ、主イエスに従って歩んでいくのです。

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